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Bitter Orange, in the Blaze.  作者: 紅崎ナヤ
八.橙色の記憶
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099.Gimnaster-暫しの想い-



 その日は大雨が降っていた。

 まるで世界ごと洗い流してしまうのではないかと思うほどの豪雨だ。

 そんな灰色にけぶる草原では――やはり、いつものように二人の少年と一人の少女が立っていた。

「よくもまあ、懲りずにやるわよねえ……」

 傘を差したフレアが呆れたように呟くが、雨の音にかき消されて二人には届かない。

 彼女自身の服も傘を差しているとはいえ所々濡れていたし、靴は既に泥だらけだった。

 まさかこんな日に練習をしているわけないとは思ったが、あの二人のことだからもしやと思い来てみれば……この状態である。


 剣を振るうごとに水しぶきが舞った。雑に切った蒼い髪からぽたぽたと水が滴る。

 ――キィンッ! キィンッ!

 立て続けに放たれる甲高い音。

 視界が悪く相手を捉えにくいというのに、兄は難なく振り下ろされる剣を止めてみせる。

 雨でぐっしょり濡れた服が重い。しかし構わずにまた剣を振りかぶった。


「――すごい」

 フレアが離れたところでそう呟く。

「スイ、ますます強くなるなあ……」

 無論その声が自分に届くことはなかったが……、彼女は半分無意識にそう言っていた。

 いくら剣を扱っていない彼女であっても、ずっと練習を見ていたからよくわかる。

 その素早さと、剣のさばき方と、的確さと。

 みるみる兄の剣技を吸収しているように見えた。

 もしかしたら、既に技術的には兄と同じくらいの力量を持っているのかもしれない。

「似たもの同士だから、かな」

 足が冷たく濡れるのも構わず、彼女はじっとその場を動こうとはしなかった。

 辺りは雨の匂いが広がっていて、ふんわりとした空気が肌にまとわりつく。

 音も雨にかき消され、視界も狭い。

 ――だからだったのかもしれない。

 フレアは、背後から忍び寄る影に気付くことはなかった。


 ゆらりと影が揺らめく。雨に打たれてさらにその影の形は霞み、よどむ。


 ――最初に気付いたのは兄の方だった。

「――!」

 不意に彼の意識がそれたのに気付いて剣を引く。

 そうして――振り向いて、兄の視線の先を見つめた。

 瞬間、自然に言葉が漏れる。

「……フレア」

「え?」

 突然二人に見つめられたフレアが首を傾げる。

「どうしたの、二人して――」

「フレア、逃げろ……っ!」

 言い出すと共に、二人で走り出していた。

「え――きゃ……っっ!!」

 次の瞬間。

 彼女の小さな体が冗談のように宙を舞う。

 雨に包まれるようにして、その体は――。

 どさり、と鈍い音をたてて落下し、ごろごろと転がった。

「フレアっ!」

 ――魔物だった。

 硬い皮膚に覆われた、背丈は大人の二倍もあるほどの巨体を持つ魔物が、獰猛な唸り声をあげながらこちらを見下ろしている。

「フレア……!」

 慌てて彼女の元まで飛んでいく。兄はそれと同時に魔物に切りかかっていた。

「フレア、大丈夫か……?」

 不幸中の幸いか、彼女はすりむいた腕に血を滲ませていたが、それ以外に目立つ外傷はない。意識も失っていなかったらしく、けほけほとむせながら起き上がった。

 傘を失った彼女の体をみるみる雨が濡らしていく。しかし、無事だったということだけで安心できた。

「ん、平気……」

 もう一度魔物を見上げる。普段見かけない魔物だ。恐らく山の奥深くに住んでいたのだが、雨で匂いが流れて間違えて町の方に出てきてしまったのだろう。

 けぶる視界の奥では、まるで舞うような動きで兄が動いていた。

「ほ……ほらっ、あなたこういうときのために剣を習ったんでしょっ! とっとと行ってきなさいっ」

 魔物を目の前にすることなど初めてなのだろう、すっかり青ざめていたが、それでも気丈に彼女は背中を叩いてきた。

 だが泥にまみれた草を掴んだ手を震わせ、歯をかちかちと鳴らせているところからして――恐怖が隠しきれていない。

「動くんじゃないぞ」

 細い肩を掴んでそれだけ呟くと、剣を握り直して走り出した。

 硬い皮膚に守られた魔物は、剣などの物理的攻撃に強い。普通このような魔物の討伐には魔道師が抜擢される。

 しかし――今いるのは剣でしか戦えない二人。ひたすら敵の隙を伺って急所を狙っていくしかない。

 ただ、いつの間にかどこかで安心している自分がいるのを感じていた。

 何故なら……横に兄がいるのだから。

 どんなことがあっても、兄は負けたことがない。

 その人間離れした強さは、それ以上ない心強い味方であった。

「右から攻めろ」

 ぼそりと兄の声が雨に混じって聞こえる。振り下ろされた右腕をすり抜けて、相手の様子を伺った。

 雨に遮られる視界の奥には不明瞭な部分もある。不意にその場が灰色に塗りつぶされた牢獄のようにすら感じる。

 それでも、その先にはきっと兄がいるから。

 だから、迷うことなく剣が振るえる。

 不意に魔物が嫌な悲鳴をあげて暴れだした。反対側から兄が傷をつけたのだろう。

 こちらも動きが大振りになったところを図って飛び上がり、肩の辺りに飛び乗って腕の付け根に剣を突き刺した。ブシュゥ、と勢い良く体液が噴き出してくる。

 魔物は自分を振り落とすかのように腕を振るった。バランスを崩しそうになるがどうにか持ちこたえ、一度引き抜いてもう一度隣に突き刺す。

 ぐらり、とその巨体が揺らぐ。紫色の体液が頬についたが、雨がすぐに洗い流してくれた。

 激痛に振りあがる腕の力を利用して再び飛び上がり、地面に着地する。

 ギャァァ、と魔物の雄たけびが空気を振るわせた。

 巨大な図体の割に動きが早い。体液をゆるゆると流しながらも逃げる様子を見せない。

 ずどん、と太い腕が地面へと振り下ろされる。飛ぶようにして避け、次の機会をうかがった。

 刹那、兄の剣が魔物の首元へと突き刺さった。この視界の中で恐ろしい的確さだ。

 一寸違わず魔物の喉笛に後ろから突き刺さった剣に、魔物は我を忘れてとり乱しはじめた。

 兄が剣を引き抜くと同時に魔物が悲鳴をあげながら走り出す。

 ――こちらに向かって。

 反射的にその道からそれた。しかし魔物は、それも気付かずに体全体で暴れながら前進を続ける。近くにあった木など、瞬時に折れて消滅してしまうくらいの凶暴さだった。

 だが――次の瞬間、火照った体から全ての体温が抜けていくのを感じていた。

 すっかり失念していたのだ。

 魔物の暴れるその先に。

 へたりこんだまま、恐怖に顔をひきつらせている――少女の、姿。

「……スイ――っ」

 悲鳴さえも喉の奥に消えてしまい、かすれた声は雨に隠されて。

 この雨の中でもわかるくらいに、肩が震えていた。

「フレア!」

 考えるよりも先に足が動く。

 濡れそぼった草原を、飛ぶように走った。

 しかし、どうする?

 魔物を止めるか? それとも彼女を安全な場所に連れて行くか?

 判断が――出来ない。魔物の腕が振りあがる。目に映る全てを破壊しようとする魔物の狂気が宿った瞳が、小さな少女を見つけて――。

 左手を伸ばして、彼女の肩を強く押した。

 走ってきた勢いで彼女はいとも簡単に遠くに飛ばされる。

 しかし自分もまた、その場に倒れこむことになった。

 ――ずっしゃぁぁぁ!!

 勢い良く泥の中を滑る。しかし、剣は離さない。戦いの中で剣を手放すことは……すなわち死を意味するからだ。

 なんとか受身をとって起き上がる。だが、魔物の鋭利な爪が生えた腕がこちらに届くのは残りコンマ5秒もなかったろう。

 ――ギィィィンッッ!!

 反射的に右手を振り上げた。……が、同時に左肩に焼けるような熱さ。

 思わず顔をしかめる。すんでのところで腕を止めたつもりだったのだが、かすってしまったようだった。一気に熱を帯びた肩から、赤いものがゆるゆると流れてくるのを感じる。

「す……スイ……っ!!」

 フレアの悲鳴。

 雨の音。

 雨の匂い。

 血の匂いすら洗い流す。

 構わず両手を使って剣を握り、身を翻して力を横に逸らした。

 こちらに体重をかけていた魔物が一気に体勢を崩す。その瞬間を、逃さない。

 そうして――後ろから兄がとどめをさすのと、こちらが懐に飛び込んで切り込んだのはほぼ同時……。

 本日一番の悲鳴が、雨を零す灰色の空一杯に響き渡った。



 ***



「スイっ!」

 魔物が動かなくなると、まずはじめにフレアがぼろぼろと泣きながら駆け出してくるのが見えた。

 顔が雨に濡れていたから、どのくらい泣いていたかは分からなかったが、既に目は真っ赤であった。それほど怖かったのだろう。

「大丈夫!? ごめんね、私があんなところに――」

「いや、平気だ」

 ぽつりと呟いて、剣を鞘に仕舞う。

「傷……」

 フレアは心配そうに肩の傷を覗き込んで、顔をしかめた。よくよく見れば深いところまで突き刺さっていたようで、ぱっくりと肩が裂けてしまっていた。

 今更になって、やっとじくじくと痛みがこみ上げてくる。思ったよりも出血しているようで、僅かに眩暈を覚えた。

「応急処置をしておけ」

 背後から兄の声。

 こくりと頷いて、自分の服の裾を千切ると肩にまきつけた。フレアも心配そうな顔で手伝ってくれる。

「……痛くない?」

「痛い」

「う……」

 あまりもの正直な答えに、フレアは言葉を詰まらせた。

「これで痛くなかったらかなり大変だぞ」

「そ、そりゃそうだけどっ!」

 軽く布を巻いただけではすぐにまた血が滲んできてしまう。早く家に帰って消毒しないと化膿の危険性もあった。

 彼女もそれは十分理解しているようで、すぐに立ち上がる。単なる擦り傷ではあったが、少女の腕の怪我は自分のものよりもずっと痛々しく見える。

「早く家に戻りましょう! 私も服、着替えなきゃいけないし……」

 すっかり泥まみれになったフレアは目を赤くしたままそう言って……、僅かに俯いた。

「――そ、その、クォーツさん、スイ、ありがとう……」

 兄は普段と変わらぬ姿で小さく頷き、……自分もまた、頷く。

 ただ、そのときに兄が自分とフレアのやりとりを見て……黙ってなにか考え事をしていたことを――結局、自分が知ることはなかった。



 ***



 フレアは自身の傷の消毒だけこちらの家で済ませると、一度家に戻っていった。着替えてからもう一度来ると言ってはいたから、きっとすぐに雨の中を走ってくるのだろう。

 こちらも家に戻るとすぐに一度布をといて傷口を洗い流す。電流が走るような痛みを感じたが、最悪腕が腐る場合もあるので念入りに行う。

 そうして消毒し、綺麗な包帯を手際よく肩にまいた。全て兄譲りのやり方だった。

「大丈夫か?」

 まだしっとりと濡れた髪のままの兄が、二階から降りてくる。

「――ああ」

 頷いて、しっかりと縛った包帯に手を触れた。滲むような痛みを感じるが、我慢できないほどではない。

 雨は暫く止みそうになかった。

「そうか」

 兄は短く切って、反対側のテーブルに腰掛ける。そのまま瞳の色を深くさせて、視線を床の方にやっていた。

 ――考え事をしている。

 長年一緒に暮らしていただけあって、兄の小さな仕草から何をしているかがわかるようになっていた。

 全く普段と表情は変わらないが――何か思い悩んでいるようにその姿は映った。しかし何を言っていいかわからずに、結局お互いに沈黙したままだ。


 すると不意に、その沈黙を明るい声が破った。

「わっ、お葬式みたいな空気っ」

 扉を勢い良く開けたフレアが思わず、げげっと顔をひきつらせる。

 だがそれも束の間、包みを抱えて部屋にあがりこんできた。

「スイ、怪我は?」

「心配ない」

「そ……良かった」

 心底安心したようにふんわりと笑う。背景は質素な部屋だったが、それだけで部屋が明るくなった気がした。

「それでね、二人とも冷えちゃってると思って。スープ作ってきたのよ」

 包みを少々不器用そうな仕草で開いてみせる。

 中からはまだ熱を帯びた鍋がでてきた。

「そのままじゃ風邪ひくでしょ? だからね、野菜スープ! これで体もあったまるわ」

 幸せそうに笑いながら、彼女は勝手に戸棚を物色してカップを取り出し、中身をついでテーブルに並べた。

「はい、どうぞ」

 自分の分もぬかりなくついで、椅子に腰掛ける。

 兄がカップに手を伸ばしたので、こちらももう片方を手にとった。

 中身には様々な野菜が細かく切られて入っている。どこかその形はいびつだったが、……あまり気にせず中身を口に含んだ。


 ……。


 ――沈黙。

 ふと横に視線を流せば、フレアが俯いたまま表情を凍結し、肩を震わせていた。

 目の前に視線を変えると、兄が黙って淡々とスープを食する姿。

「……味見、したか?」

 思ったことを限りなく簡潔に問うと、フレアは顔をひきつらせながらぶるぶると横に振った。

「い、急いでたから……」

「料理、したことあるか?」

「……ないわよ、そんなの」


 ……。


 ――再び、沈黙。

 黙々と兄はスープをすすっている。

 自分は先ほど一口しか飲んでいなかったが……、少なくとも人間の飲むものではないな、と瞬時に悟れるような味がした。

 どうやったらこの味がでるのか、ある意味聞いてみたくもなるような味だった。

 そして、そんなものを何の抵抗もなく食している兄は……またある意味で強いと、どこか遠くで思う。

「……」

 さして時間もかからずにたった一人完食した兄は空になったカップを机の上に置き、「寝る」と言って上にあがっていってしまった。

 二人、残される。

「……クォーツさん、飲んじゃった」

「ああ」

「全部、残さずに」

「そうだな」

「……」

「……」

 フレアはがくりと机に頭をつけてそのままうなだれた。

「うーっ、嬉しいんだか嬉しくないんだかわからないわよーっ!」

 ばたばたと足をばたつかせる。

「だって作り方も知らないんだものっ」

「……」

 まだ鍋の中には半分ほど中身が残ってしまっていた。

 暫くそれをぼんやりと眺めて……ふと立ち上がる。

 そんな自分の行動にフレアが怪訝そうな顔をした。

「どうしたの?」

「……」

 鍋ごと掴んで、調理台の上に乗せる。

 そのままそれを火にかけた。

「な、なにするつもり……?」

「食べれるようにしないと勿体ない」

 言いながらもごそごそと戸棚から調味料を取り出す。

 慌ててついてきたフレアの顔が、呆気にとられたそれに変わった。

「す、スイが料理っ!?」

「毎日やってるぞ」

「嘘ぉっっ!!」

 絶叫のような声をだす。

「……だったら誰がこの家で食事を作るんだ」

「あ……」

 彼女は自身の口元に手をあてて絶句した。

 暫くそのまま動けなかったらしく、たっぷり一分後にやっとのことで次の言葉を紡ぐ。

「そ、そりゃ男二人だからそうよねえ……? でも毎日スイが作ってるの?」

「ああ」

 調味料を再び注ぎながら短く答える。

 フレアは鍋の中を覗きこむようにしてきた。

「クォーツさんは料理しないんだ」

「俺が来る前まではしてたぞ」

「へえ、やっぱり家に入れてもらったから恩返しにってあなたが始めたの?」

「いや……」

 木へらを使って野菜を細かく潰しながら僅かに頷く。

「家に来た最初の内はいつも外食だったんだが……いつかクォーツが夕飯を作った」

 そのときの記憶は鮮烈なものとして残っている。

 きっと忘れようにも忘れられないであろう。

 次の言葉が予想できたのか、フレアの顔が予感でおもしろいくらいにひきつった。

「食べたら次の日、腹を壊した」

 ちなみに補足するなら、全治に3日を要した。

「……」

 眩暈を覚えたのか、フレアは額に手をやる。

「――それからは毎日俺が作ってる」

 これは香料の入れすぎだな、と呟く自分の横で、彼女はひとり頭を抱えていた。

「わからない……あなたたち兄弟、本当にわからないわ……」

「そうか」

 野菜を注ぎ足して、水気が少なくなるまで煮込む。

 その間にやっと復帰したらしい彼女は興味津々といった感じで再び横から鍋を覗き込んできた。

「……ところで一体何作ってるのよ?」

「味が濃かったからディップにでも」

「ディップって……あのパンとかにつけるやつ?」

「そうだ」

 最後に塩で味を調えて、火をとめた。

「……味見してみるか?」

 軽く木へらにつけて差し出すと、彼女は一瞬目を丸くする。

「……大丈夫なの、これ?」

「多分」

 フレアは暫く木へらを前に逡巡すると、……心を決めたのか、意を決したように小指で軽く出来上がったペースト状のものをすくいとった。

 そのまま恐る恐る口まで持っていって……。

「……」

「……」

 彼女の大きな瞳が、数度瞬いた。

 小指の先を口に入れたまま、自分を見上げてくる。

 その視線は一度鍋の中に落ち、そうして再び自分に向けられた。

「……うそ」

 ぽつりと、呟く。


 ――その次の瞬間、家をも揺るがす驚愕の大絶叫が響き渡ったのだった。




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