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神鳴剣 道教え

 売樽うるたるでは、猫を殺めてはならぬと触書で定められている。

 隙羅山ひまらやまの裾野より東に広がる土地である。戦国の頃より酒造りの盛んな地で、売樽という名はそれよりつけられたのだといわれている。

 藩内においては、最も他所と隔絶された土地でもある。西側を高き霊峰で遮られており、東側は隣藩との国境いである。そのような地所であるから、常における人の流入が極めて少ない。藩としてもなまなか、目が行き届かぬから、慣習として売樽の代官や奉行は強い権限を持たされている。

 猫殺しを禁ずる法も、そのあらわれの一つである。古くより、蔵の守り神として猫は重宝されており、猫を祀る社や祠も各地に存在する。ときにはゆき過ぎるほどに、住人包みで猫を大事に扱っているようなところもある。売樽もまた、そうしたきらいがあるようであった。

 かような土地柄ゆえか、売樽群内で猫を飼っている家は多い。奈津辺砥平なつへのとへいもその一人であった。

 ひと、と名付けた斑模様の老猫である。五年前に妻と死に別れてから、砥平は己と仁、ただふたつきりで過ごしている。

 もともとは妻が拾ってきて飼いはじめた猫であった。砥平はもともと売樽よりはもう少し南の土地の生まれである。あるとき職を求めてこの地を訪れ、妻を見初めて、定住することになった。外の人がここに馴染むのは難しいから、と言って、妻がどこからか貰ってきたのが仁である。

 砥平にはさほど懐かず、世話もほとんど妻にまかせっきりにしていた。この飼い猫と向き合うことになったのは、妻が死んで後からである。葬儀の翌日から、仁をいかに世話すればよいかと悩み慌て、方々に相談しに方々走ったことは、今でも時折思い出し、嫌な汗をかく。

 だがあれがあったからこそ、妻が去った寂しさをさほどに感じずに済んだのだ、と。砥平はそう思っている。

 己で世話をしはじめてから気付いたことがいくつかある。例えば、仁は極端に、寒いのを嫌がるようである。元来猫というのは寒いのを嫌がるものではあるが、他家の飼い猫と比べても、仁は随分と寒がりのようであった。

 売樽の冬は厳しい。冬のはじめから春の終わりごろまで、おしなべて雪に覆われる。そのような土地である。雪国ほどには厚く積もるわけではないが、それでも藩内においては、随一の積雪地でもあった。

 冬に入ると、仁の奇行がはじまる。砥平が住んでいるのは貧乏長屋である。売樽であるから当然、備えは夫々にしてあるが、それでも寒いものは寒いから、戸や障子はぴったりと締め切っているのが常である。

 だが寒さがいや増すと、どうしてか仁はそれらの戸や障子を開けて回る。そうしてその向こう側を覗き込むと、しばらくしてから中へと戻ってくる。そういうことを幾度も繰り返す。

 何をやっているのか、と当初は思った。開けられると寒いから、何度か叱ったこともある。だがそれでも、仁はその奇行をやめようとはしない。

 そのうちに、思い当たったことがあった。仁は何かを探しているのではなかろうか、と。

 砥平に猫の気持ちがわかるわけもないが、戻ってくるときの仁は、なにやらつまらなそうな表情であるように見える。

 もしや。ここではない、どこかもっと暖かい場所が、障子の向こう側にあるのではないか、と。そういうものを仁は探しているのではないか、とふと思った。

 それから砥平は、老猫が手近な障子を開けはじめると、火鉢の勢いを強めることにしている。そうすると、仁は失せ物が見つかったとでもいうように、部屋の中へと駆け戻ってくるのだった。



 長屋の者たちが砥平を呼びに来たのも、仁が朝から障子を開けて回るような大寒日であった。

「またあのお侍が」

 そう言って真っ先に駆け込んできたのは、知り合いの指物屋だ。

 九折安吾くおりあんごのことだと、すぐにわかった。砥平は仁を捕まえて火鉢の傍へ座らせ、蓑笠を身につけると、やはり無類の猫好きでもある指物屋にあとを頼んで長屋を飛び出した。

 通りには雪が薄く積もっている。その上に常にない数の草鞋や雪駄の跡が乱雑についている。踏み崩され、ぬかるんだ方へと向けて、砥平はまたひとつ雪駄の跡を増やしつつ早足で歩いた。

 騒ぎの場所は、すぐに見つかった。酒屋の前に人だかりができ、内より怒声が漏れている。野次馬たちを散らして踏み込むと、果たして九折安吾が、酒屋の主人を突き倒しているところであった。

「それくらいにしておかぬか、九折」

 背後から声を掛けたが、驚きを見せることなく安吾はゆるりと顔を向ける。齢四十頃の、いつもと同じ、髪も髭も伸び放題のむさくるしい風体だ。

「ふん、奈津辺か」

 砥平より頭半分上からねめつけてくる安吾の目は赤く濁っている。どうやらすでに酔っているようだ。

 銭を持たずに酒を無心しに来て断られ、暴れた。ようようそんなところであろう。

「ご隠居が障子貼りの職を世話したであろう。今頃であれば、仕事に困ることはないはずだが」

「町人の真似事など、できるものかよ」

 酔っているであろうにもかかわらず、安吾の長身はどっしりと地に根を下ろしているように見える。身体の幹を鍛え抜いている証だ。長らく剣の道に打ち込んできたものの佇まいである。

 砥平も間合いを保ったまま、いつでも刀を抜けるよう両手を提げている。

「ふん」

 安吾が傍の腰掛にあった瓢箪を素早く取り上げる。そのまま砥平の脇を抜け、酒屋を出て行った。

「すまんね、奈津辺さま」

「いや」

 着物をはたきながら立ち上がる主人に手を貸しつつ、目は去ってゆく安吾の背を追い続けていた。

 瓢箪と、仁の好物である豆の絞り粕を懐に帰途につく間も、思いを巡らせるのは安吾のことだった。

 九折安吾は、売樽では少ない外からの流れ者だ。聞いた話では、隣藩から追い落されてきたのだという。国境いに在する売樽では時折、そういうものがある。

 余所者が住み着きやすい土地では決してない。隔絶された土地であるということは、他との交わりが乏しいということだ。自然、その土地に住むものは、己とその近しいものたちだけで固まり、その場所においての細々とした決まりごとの中で、日々の生活を営んでいる。それは、法として定められたもの以外にも、誰も口に出さぬ、土地のものどうしでしか伝わらぬ決めごとであったりもする。

 別の土地から移ってきてそれらの中に溶け込んでゆくのは、そうそう容易いことではない。九折安吾の歳であれば尚更であろう、と砥平は思う。

 土地のしきたりがわからぬのだから、孤立する。孤立すれば、誰もそのものを顧みなくなる。顧みぬということは、誰もが皆、そこにはそのものがいないのだ、と、見えておらぬふりをすることだ。

 皆どもがそれらを気にかけるのは、何らかの害を被ったときだけ、ということになる。なれば必定、己の意を通そうとすれば、安吾のように力に頼るか、何らかの悪事に手を染めずばならなくなる。

 売樽にも、そういったことを懸念しているものはいる。長屋のまとめ役であるご隠居がそうであるし、砥平もまたそうだ。砥平とて、もとは売樽に住む妻に惚れてこの土地に居ついた余所者である。それを、妻が年月と手間をかけ、土地へと馴染ませてくれたのだ。

 己が妻にしてもらったようにできぬだろうか、と思う。だが、どれほど手を尽くしても、余所者の多くは、いつしかまた別の土地へ流れてゆくか、安吾のように孤立するかしてしまう。

 人の世とはかくもままならぬものか、と思う。だが小難しく思い悩んだとて、砥平も日々気を回すのはやはり、安吾よりも身近な仁や、己の暮らし向きのことである。もとより人は、己の目と手の届くところにしか、己の腕を伸ばすことはできぬ。

 だから帰り着く頃にはもう、砥平は思案を追い出し、いかに仁の機嫌を取ろうかなどという瑣事に気持ちを移していた。



 それが起こったのは、騒ぎがあってから数日の後のことだった。

 朝から仁の様子が妙であった。近頃動きが緩慢になっていたことには気付いていたが、その日は目を覚ましても、寝床から一度も動こうとしない。ただ目を薄く開けては閉じを繰り返すばかりだ。

 砥平も昔のように慌てたりはしない。仁の全身を布で包んで火鉢の傍に移すと、平皿に水を僅かばかり入れて、顔の前に置いてやる。仁はしばらくそのままでいたが、ようやく身体が少し温まってきたのか、首を伸ばして水を舐めはじめる。

 臨終のときが近付いているのだ。そう判じざるを得なかった。

 仁の確たる齢を砥平は知らぬが、いつ迎えが来てもよいほどの齢であることは疑いない。今日は一日、傍についていてやるか。そう考えていた矢先のことだった。

 先日と同じく、指物屋が駆け込んできた。

「ご隠居が」

 呂律が回らぬ指物屋を落ち着かせて、詳しい話を聞く。九折安吾が、長屋のご隠居と飼い猫を殺めて逃げた、とのことだった。

「どうして、さようなことに」

「ご隠居が今一度、職を世話しようとしとったそうでな」

 その節介に激した安吾が、一刀のもとにご隠居を斬り殺し、主人を守ろうとした猫までをも刃にかけたのだ、ということであった。

 砥平は天を仰いだ。

「九折の行方は、わかっておるのか」

「それが、わかっとらん。ただ、山には逃げとらんらしい」

「すぐに探した方がよい。今の九折は、何をしでかすかわからぬぞ。見つけても、けして近付くな。わしに知らせよ。皆にもそう伝えてくれ」

「わ、わかったわい」

 刀を取ると、指物屋のあとから砥平もすぐに飛び出した。

 今日も今日とて、雪は粛々と降り続いている。今朝の雪はやや重いようで、雪上につけられた足跡が見る間にかき消えて行く。跡を辿るのは難しいであろうと思われた。

 空は一面、灰に覆われている。だがその下層がやや割れはじめ、上層への積乱が見受けられる。雷雲に、変じようとしているのだ。

 袴を引き上げ、脚を飛ばした。

 どちらへ向かったであろうか。山ではなかろう、と指物屋と同じく砥平も思う。この季節に慣れぬものが山へ入るのは、死にに行くようなものだ。安吾が求めているのは死に場所であろうが、望む死に方はそのようなものではないだろう。

 ならば国境いか、と判じた。関を破って死ぬ。そのような事態になれば、中央から多くの役人が売樽を訪れ、しばらくの間、騒動を引き起こすことになるだろう。己をないがしろにした住人たちへの意趣返しとしては、十分である。

 どうせ死ぬならば、と。安吾がそのように考えたとしても不可思議ではない。

 砥平は脚を東へ向ける。だがこれでなかなか、売樽は広い。闇雲に探して、果たして見つけられるのか。

 そう思ったとき。なあ、と風に混じって鳴き声が届いた。

 ふと脚を止めると、辻の石灯篭の上に、猫が乗っている。このような大雪の日には、あまり目にせぬ光景だ。

 雪を被るのを気にした様子もなく、猫は灯篭の上に佇んでいる。そして、なあ、なあと、砥平に向かって鳴いてみせる。

 なあ、と、また別の鳴き声がした。灯篭の奥。川べりの辻に沿って、黒いもの、茶のもの、とりどりの猫が並んでいる。そうして、それらが一斉に、砥平に向けてなあ、なあと鳴くのだ。

 猫が行く先を教えている。そのように、砥平には感じられた。

 意を決し、猫たちが並ぶ方を選んで走り出す。今やこの土地の諸々が、九折安吾という異物を除くために働いている。

 売樽で猫を殺めることは。売樽のすべてを敵に回すことだ。

 目当ての後姿は、すぐに見つかった。

「九折」

 背後から声を掛けると同時に抜刀した。安吾も素早く振り返ると、剣を合わせる。

 打ち合うことなく、互いにすれ違う。辻を塞ぐようにして、砥平は立った。

「奈津辺か。来るならお主と思っておったわ」

「もう逃げられぬ。戻って縛につけ」

「町人どもになぶり殺しにされて、たまるものか」

 安吾が両手で刀を握りなおし、正眼につける。仕方なく、砥平も構えた。

 砥平とて腕に覚えはそれなりにある。売樽に来る前は城下の衿屋えりや道場で、折紙を受けるまでには至っている。

 だが、安吾の腕はおそらく己より一段上であろう、と砥平は判じている。直接剣を交わすのははじめてであるが、そういうものは常よりの立ち居振る舞いでそれとなくわかるものだ。

 欲をいうなれば、はじめの一刀で片付けておきたかった砥平であった。

 安吾の剣はおそらく、侍であることの矜持である。砥平とは違う。まともに打ち合って、勝てる道理はなかった。

 空が鳴き始めた。雷雲が、こちらへと近付いている。

 安吾が踏み込んできた。腕を狙った鋭い一閃をかろうじて避ける。続けざまに、安吾は白刃を疾らせる。蓑が裂け、笠が切れ飛ぶ。肩口と太股から僅かに血がしぶき、雪道に鮮やかな色を咲かせる。

 一段どころではない。これは敵わぬ。

 腕の差をあっさり認めた。だが顔に出すことだけは何とか抑えた。

 肩で息をしながら泥を蹴るようにしてにして距離を取る。安吾の上体も揺れている。雪の上での斬り合いは、己たちが思っているより力を失うものだ。

 次の一刀が勝負か。刃をやや寝かせるように、砥平は構えを移した。

 安吾が突っ込んでくる。砥平もそれにあわせて動く。猫どもが一斉に叫びを上げ、狙い定めたがごとくに雷鳴が轟く。

 斬られた。そう思ったときだった。

 砥平の眼前を葉が過ぎった。

 青い葉だ。新緑の葉が、はらはらと舞っている。耳に響くのは猫との鳴き声と雷ではなく、蝉と蜩、それから蛙のそれだ。

 一面白であった辻が、緑と茶の斑に代わり、肌からはじわりと汗が浮いてくる。

 そして。髭のない、髷を結った安吾が、葉が落ち去った先にいる。

 ああ。これは、夏の売樽か。

 砥平の袈裟懸けが、その安吾を通り過ぎる。

 砥平は雪景色に戻ってきた。刀を振り下ろしたかたちのままで。

 背後を見る。安吾が倒れている。刀を拭き納めてから手を当ててみると、確かに絶命している。

 再び雷鳴が轟き、砥平は耳を押さえた。

 慌てて安吾から離れ、手近な枯れ木に身を寄せた。

 猫どもの姿が消えている。長く降り続いていた雪が、しとり、しとりと雨へと変わってゆく。

 木にもたれながら、砥平は考える。瞬きの間に見えたのは、疑いなく昔の安吾であった。そして、砥平が斬ったのは、今ではなく昔の安吾だ。

 なぜそのようなことが起こったのか。

 砥平にはさっぱりわからぬが。夏を呼んだ、と解するのであればひとつ、思い当たることはあった。

 仁はずっと探し求めていた。誰も助けず、砥平に幾度叱られようとも。ずっとただ一つの道を、探していたのだ。それは、九折安吾の生き様ともどこか重なるものがあったように、砥平には思えた。

 あやつは夏を見つけたのであろうか。きっと見つけたのであろう。何もかもがわからぬ中で、なぜかそのことだけは、砥平にもはっきりとわかっていた。

 その日以来、売樽で仁の姿を見るものは誰ひとりとしてなかった。



(完)


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