身命剣 蛍火
稽古を終えた家延帯一を呼びに来たのは、弟弟子の穴金平太だった。
道場を通る風はすでに冬の訪れを感じさせる、冷たいものに変わっている。庭に植えられた木々もその多くは葉を落とし、来る季節への備えを見せはじめている。
この頃の汗はそのままにしておくと毒である。長年の剣術修行でそのことを身をもって知っている帯一は、汗を落とし、身支度を整えてから師範の部屋へ向かった。
「帯一でございます」
部屋の前で訪いを告げると、入れ、と返事があった。
作法どおりに障子を開け、入室する。道場主の依田岸之丞が泰然と座っていた。
「お呼びでございますか」
うむ、と短い返事をして、依田が座りなおす。剣術遣いとは思えぬ、小さな身体をしている。だが、その矮躯が驚くほど俊敏に動くことを、帯一は知っている。
依田は、齢六十ほどに見える、皺だらけの顔をしている。実際の年が幾つか帯一は知らぬし、また出入りしている者たちの中にも、知っている者はいないようだった。もしや異国の人間ではないか、と帯一は思うことがある。確かに目も、髪も、日のもとの者であるような色はしている。だが、それはもしやつくられたものではないのか。何か証があるわけではないが、ときに帯一は、そう感じることがある。
とにかく、何を考えているかよくわからぬし、掴みどころがない。そんな道場主ではあった。
「昨日、奉行所の方から話があった。近頃世を騒がせておる、辻斬りのことは知っておろうな」
「噂話を聞くほどには」
ここ三月ほどの間に、城下では辻斬りが横行していた。黒い頭巾で顔を隠し、月のない夜、闇に乗じて凶刃を振るうのだ。狙われるのは、侍ばかり。それも、市中でも腕が立つと評判の剣客ばかりである、という噂だった。
「当道場で修業に励む者たちも、夜歩きには気をつけよ、というお達しであった」
そこまで言ってから、依田は大げさに顔をしかめてみせた。
「だが、それは表向きよ。その実はな、疑っておるのだ。この道場の者を」
帯一は一つ頷いた。
「なるほど。道理ですな」
「お主はいつもそうじゃな。己が疑われている、とは考えぬのか」
今度は、帯一が顔をしかめる番であった。
「拙者ではありませんぞ」
「わかっておる。そんなことは」
帯一は、ものごとを深く考えるのが苦手だった。頭の廻りが悪いとか、鈍いというわけではない。ただ、ものごとの裏を読むといったことや、腹芸をしてみせる、ということが、すこぶる苦手だったのだ。そのおかげでこれまでに多くの損をしたような気もするが、それもまあ仕方あるまい、と、そのことですら深くは考えなかった。つまりは、そのような男なのである。依田が帯一を疑いもしなかったのは、然るべきことであった。
「だがしかし、この凶賊、腕は立つ。それは、疑いない」
依田が目を細める。密やかな殺気を感じて、帯一は居住まいを正した。
「我らが狙われるやもしれぬ、というのも、また道理よ。だからの」
お主に秘伝を伝える、と依田はこともなげに言った。
「拙者にですか」
「お主によ」
「では桑井殿は」
「あやつでは無理よ。あと一年か二年で、お主に抜かれる。お主も、わかっておろう」
この依田道場での、帯一の席次は三番目になっている。帯一の上、二番目の席次にいるのが桑井巌次郎だ。この冬を越せば齢三十になる帯一より十ほど年かさで、剣の修行も七年ほど長く積んでいる。だが、今が伸び盛りの帯一と違い、桑井の腕が今より上がることは、最早ないと帯一は見ていた。
「今宵より一人、道場に忍んで参れ。よいな」
依田が重々しく告げた。
呼び出しがあった日から、十日ほどが過ぎた。
門人たちが残らず稽古を終ったのを認めてから、帯一は帰り支度を始めた。帯一の住む長屋は、道場より一里と離れていない近場である。狭い上に壁も戸もあちこち破れ、大雨の日には雨漏りがする酷い借家だが、便のよさに負け、住み着いてからもう五年ほどになっている。
依田に挨拶をし、道場を辞すと、門から少し離れたところで穴金平太が待っていた。
「師範代」
「平太か。どうした」
「ご相談があり、待っておりました」
帯一は歩き出した。
「道々聞こう。平太は屋敷町の方であったな。送ってやろう」
「いえ、そんな」
「近頃は物騒だ。遠慮するな。それに、おれも聞きたいことがある」
平太が後を追ってきた。その姿をちらりと見る。帯一の着ているものが、それ一枚で十枚ほどは賄えそうな綿入れを着ている。ものには頓着しない質なのでそれほど気にするわけではないが、腰のものだけは、いつも羨ましいと思った。
道場では師範代だ何だと慕ってもらえるが、一歩外に出れば、たいていの者が、帯一よりよいものを着、よい刀を提げている。帯一が、できる限り他の者と同じ時刻に帰路に就かぬよう気を配るのは、そういったことで双方が気まずい思いをせぬように、と考えてのことである。だがそういう気持ちは、どうやらなかなか伝わらぬものであるらしかった。
「腕は大丈夫か」
「まだ痛みます。明日には、腫れが引いておるといいのですが」
今日の稽古で、平太は桑井巌次郎に手酷く打ち据えられていた。一徹者ではあるが、決して無茶な稽古はつけない桑井にしては、常にない厳しさであったので、帯一も気にはなっていたのだった。
「桑井殿は、わけもなくあのような稽古をつけられる方ではない。平太。お主、何をやった」
「わたくしは何も」
「ならば別のことを聞こう。お主、他の流派も学んでおるな」
平太の足が止まった。帯一はゆっくりと振り返った。
「やはりそうか。この前立ち合ったとき、構えがおかしいと思っていたのだ」
俯いたまま無言の平太に近付き、肩に手を置いた。
「なぜだ」
顔を真っ赤にした平太が、帯一を見据えてきた。
「それぞれの流派の、それぞれのよいところを学ぼうと思うのは、いけないでしょうか」
帯一は肩から手を離すと、その手を己の頭にやり、短い毛が覆いつつある月代を掻いた。
「いかんことはないな。だが、いかんと考えるものは、多かろう」
「では」
「だがおれも、どちらかといえば、そういうことはせぬのがよいような気はする」
「なぜですか」
月代を掻きつつ、帯一は答えた。
「それぞれの流派には、それぞれの型というものがある。それらの一つを思い極めていくというのが、剣の道というものではないか。と、おれはまあ、そう考えるのでな」
背中を向け、歩き始める。平太がついてくる気配があった。
「まずは一つを極めてからにせよ、平太。それからでも、遅くはないぞ」
聞いた平太がどのような顔をしたのか。前を行く帯一にはわからなかった。
そのままに平太と別れる。ひとりになった帯一は、今しがた平太に対して語ったことを考える。
何ごとにも順序というものがある、と思う。学ぶというのは、一つ一つ、石垣に石を積み上げてゆくようなものだ。もしも下に積んだものに、例えば隙間が空いていたならば。その上に積み上げたものは、下の石もろとも崩れてしまうやもしれぬ。また積み方がまっすぐでなかったならば、どちらかに反った石壁は、どこかの時点で倒れてしまうだろう。
平太はまだ、石をじっくりと積む必要がある。それが帯一たち上位のものの見立てであった。
長屋に帰りつくと、戸の前に見知った顔が待っていた。
「お網か。いかがした」
「これ、お父っつぁんから」
向かいの長屋に住むお網が、そう言って藁で縛った竹を差し出した。
「いつも、かたじけない」
竹の束を受け取り、軽く頭を下げる。お網の父親は植木職人で、時折間引いた竹を、こうして帯一に分けてくれる。幼少の頃より小刀の扱いが上手かった帯一は、その竹で水筒などをつくっては小間物屋や損料屋に持ち込み、僅かな銭を得ていた。
お網の家の軒先に、竹が立て掛けてあったのがきっかけだった。その頃、ちょうど小銭稼ぎの伝を探していた帯一は、それを見て、竹内職を思いついた。
思い切ってお網の家を訪い、父親にわけを話すと、快く、竹を譲ってくれた。
「あっしは植木職人でね。庭をつくらせてもらうときに、時たまこうやって間引く竹が出るんでさ。こいつはちょっと、新しい籠でもつくろうと持ち帰ったんで。もしもお侍さんがつくっていただけるってんなら、残りはそっくり譲りまさあ」
半月ほどして、帯一はお網の家に大ぶりの籠を一つ届けた。できばえは、職人であるお網の父も驚くほどのものであった。
「お侍にしとくのは惜しい腕だ。いっそのこと、笊や水筒もつくっちゃくれやしませんか。材料の方は、あっしが整えやしょう」
こうして、帯一は元手をかけずに竹を手に入れることができ、お網の家とも親しく付き合っているのだった。
「そろそろ髪結いにいきなよ、帯一さま。みっともないことになってるよ」
下げた頭を見咎めて、お網が言う。はじめのころは、帯一が侍ということでろくに口も利かなかったが、今ではもう勝手放題、言いたい放題である。もとより、思ったことを口に出してしまう性なのだろう。
「銭がないのだ。水筒の一つでも、つくって売らねばならん」
お網が大きく溜め息をついた。
「そういうときは、暇がないからとか、そういうふうにいうものだよ。お侍なら」
「腹芸は苦手なのだ」
網が笑った。
「本当に、お侍らしくないお人だなあ、帯一さまは。でもわかるよ。あたしもそうだから」
じゃあ、と言って背を向けたお網の背中に、声を掛けた。
「親父殿にもよろしく伝えてくれ」
手をひらひらと振って、お網の姿は小さくなっていった。
翌日、稽古のあとに、依田から重ねての談合があり、帰りは図らずも桑井巌次郎と一緒になった。
桑井の行き足は速い。どちらかといえばゆったりと歩く帯一は、いつもより少し歩調を速め、桑井の後ろについた。
「相変わらず、苦労しておるようだな、家延。まあ、道場からの手当てだけでは、無理もないが」
「近頃は、内職をはじめ申した。今宵もこれから、その材料を受け取りに参るつもりでござる」
帯一の苦しい懐の内を慮ったお網が、もう少し竹を回してくれるよう父親に頼んだ。お網の父親は職人仲間に声を掛け、何とか余った竹をかき集めてくれたのだった。
「そのようなことがあるのか。なるほど。長屋の暮らしというのも、よいことがある」
「人が人として生きていく。そのことを、教えられるような気がいたします」
「お主の練達のもとは、それよの。剣とこころは、切り離せるものではない。少々、羨ましく思うぞ」
「何を申されます」
「大事なことなのだ、家延。こころを失った辻斬りを相手にせねばならぬときには、特にな」
依田からしつこく念を押されたことだった。依田自身は、ほとんど道場から動くことがない。桑井か帯一。依田道場から狙われるとすれば、まずどちらかに違いない、というのが依田の読みだった。
こころの持ちようが剣に宿る、と道場主の依田は説く。これがいまだに、帯一にはわかり兼ねる。剣を構えて相対する際に、強い、動じぬ胆を持つことが肝要であることはわかる。だが、依田の言葉は、どうやらそれとは違ったもののように、帯一には聞こえる。
常日頃の振る舞い、ありようのことであるのか。ならば、今帯一たちが悩まされている辻斬りなどは、こころが疎かである、ということになりはしないか。
ならば。そういうものに、多くのこころある剣士が、すでに斬り伏せられている、ということになる。
考えがここに至ると、帯一はいつも、わけがわからなくなる。
こころが剣に、まことにあらわれる。そのようなことが、あるものであろうか。
橋を渡り、屋敷町と長屋町の境に来た。一礼をし、顔を上げると、桑井はもう、屋敷町へと足を向けていた。
帯一はまた、ゆっくりと歩みはじめた。それが幸いであったのか。それとも。
耳に届いたのは、違いない剣戟の音であった。
来た道を振り返った。桑井の姿は、すでにない。だが、もしや、と感づいた。
小走りで道を戻り、滅多に足を踏み入れぬ屋敷町へと向かった。
生憎の曇り空で、月は出ていない。だが、闇夜になるには、まだ僅かにときがあった。道の先。朧に人影を認めて、帯一は鯉口を切った。
一人が地に伏している。その奥に、黒い頭巾で顔を覆った影が一つ、刀を提げた姿で立っている。倒れている侍の着物に、見覚えがあった。
「桑井殿」
何があったのか。想像するまでもなかった。
一間ほどの間合いで足を止め、鞘を払った。そのまま正眼につけると、相手は八双に構えた。
「お主、噂の辻斬りだな」
答えはない。返ってくるとは思っていなかった。間合いを計り、ゆっくり呼吸を整えた。
鋭い打ち込みが来た。帯一は受けずに、横へ逃れた。そのまま円を描き、体を入れ替える。足元に、桑井の身体が来た。息はない。そう感じた。
剣を握る両手に、力を込めた。
頭巾の男が、八双から正眼に移る。その動きと、先ほどの打ち込みに、覚えがあった。
「お主。まさか、穴金平太か」
男の肩が、微かに上がった。一瞬の動揺。だが、それで充分だった。
「闇に堕ちたか。馬鹿者め」
男の顔は見えない。だがその相貌を、帯一は睨みつけた。
「剣客とは、そのようなものでしょう。師範代」
男がはじめて、口を開いた。紛れもなく、平太であった。
「戦国の世なら、そうであったろうな。だが、時代は変わった。変わったのだ、平太」
「わかりません。わたくしには」
生まれてくる時代を間違えたのか。そうかもしれぬ。だがそれ以上に、穴金平太は大事なことを、学ぶのを忘れた。要の石を積むことを、忘れた。きっと、そうなのだ。
日が落ちた。辺りが瞬く間に、闇に覆われていく。夜闇に目を慣らしつつ、帯一はゆっくりと回る。合わせて、平太の方も動いているようだった。
刃が閃いた。先ほど以上の鋭い打ち込みが、帯一を襲った。
刀の根で受ける。乾いた音がして、柄が軽くなった。
そのまますれ違った帯一の傍で、金物が地べたを転がる音がした。刀が、折れたのだ。
ようやく慣れてきた目で鍔元を見る。見事に、折れていた。代々伝わった刀であったとはいえ、貧乏侍の持つに相応しいなまくらである。名刀と打ち合わせれば、折れるのは必定であった。
じわりと、平太が寄ってくる気配がある。まだ脇差があるが、果たしてそれで五分に斬り合えるか。答えは否、であった。
秘剣を遣うしかない。そう、覚悟を決めた。
夜毎に依田より教授されている秘剣は、まだ会得半ばであり、身に着けたとは程遠い。だが、今ここで生き延びるためには、それを完成させるしか、手はなかった。
軽くなった柄を握りなおす。それから、静かに目を閉じた。
己の気配を殺し、全身で平太の気配を掴む。闇に囚われた者に勝つには、技ではない。未だ掴めぬこころの力が、必要だった。
平太が動いた。帯一は、まだ目を開かなかった。
不意に、依田の言葉が響いた。
「こころあれ」
見開いた。失われたはずの刀身が確かに、蛍火のように輝いていた。
光の筋が、闇を薙いだ。
輝く刀身は、平太の刀もろとも、その身体を容易く断ち割った。
倒れ伏す音がした。顎から首にかけて、何やらぬるついている。浅く、斬られたようであった。
光は消えていた。柄しかない得物を帯に挟むと、もと来た道を戻り始めた。
道場へ行かねばならぬ。依田に、顛末のすべてを伝えねばならなかった。そして何より、聞かねばならぬことが、山ほどあった。
雲隠れしていた月がようやく顔を出し、行く道を照らし出した。帯一はそれを見上げ、呟いた。
剣の道は、まだまだ奥深いようだぞ。平太。
(完)