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路傍剣 狗の骨

 鬱蒼と茂る雑木の中にある消えかけた小路を探るようにして、尾張米吉郎おわりよねきちろうは進んでいた。

 周囲は木々に覆われ、天も隠れんばかりの山道であるが、米吉郎の姿は山に入る猟師や百姓のものではない。袖を絞り、脚を固め、笠を被った旅装のように見せてはいるが、どこか違っている。大小は腰に差したままであるし、大きな行李を背負っているのも妙である。そのような格好で、山へと分け入っている。

 峠道を外れてから半刻ほどは歩いたであろうか。米吉郎の顔はすでに汗にまみれていた。肩と脚に疲れを感じる。だが、米吉郎の聞いたところでは、そろそろ目的の場所へ着くはずであった。

 雑木林を抜けた。視界が開け、起伏のない平地が広がっている。どこから繋がっているのか、ほど近くに細い川のようなものまで見える。

 その奥辺りに、目当てのものを見つけた。

 そちらへ足を向けた。近づくほどにはっきりしてくる。聞いていたとおりの、一軒の庵であった。

 塀や柵のようなものはない。建物の周囲は刈り取ってあるのか草花の類いは生えず、一間ほど離れた場所から、もとのとおりに草が生い茂っている。それが庵と外界との境をつくっているようであった。

 米吉郎は少し迷ってから、戸口まで行って訪いを入れることにした。

 御免、と言い終わらぬかどうかのうちに、戸が開き、米吉郎より頭一つ小さな人影が現れた。かなりの歳を経たと思える僧形だ。

 米吉郎は己の名を告げてから、問うた。

誠仁せいじんどのですな」

「そのように号しております。大場楼堂おおばろうどう様の使いで参られたのですな」

「左様」

 誠仁という名の僧はしばらく思案するふうであったが、米吉郎を庵に招き入れた。

 簡素な庵であった。戸口を入ったところの先が土間になっており、奥に高床になった板張りの部屋が二つ設えてある。

 庵の中は思ったより片付いていた。小坊主の類いは見当たらない。この老僧がひとりで始末をつけているのであろうか、と米吉郎は訝しく思った。

 奥へ通され、対面に座る。埃を払っている間に入れられたものか、茶碗に汲まれた水が傍らに置かれた。米吉郎はありがたくいただくことにした。

「大場様からの書状は改めさせていただきました。山犬について聞きたい、とのことでしたが」

「左様。誠仁どのは、山の獣をよく知っておられるとか」

「さて」

 誠仁が首をひねり、山のある方を見やる。

「拙僧がここに居を設けた頃には、もう棲みついておったようですな。どうも、この山にいる獣どもを、束ねておるようで」

「聞き及んでおります。その群れで、近隣の里を荒らすとか」

 誠仁が頷きを返した。

「この山は獣どもにも厳しい場所であるようでしてな。ときに、食うものが足りなくなることもございます。それでも並の獣は、人の野に降りて作物や牛馬を襲う、ということは滅多にいたしませぬが」

「あの山犬は、違う」

 山犬の害が藩へと報されるようになったのは、今より二年ほど前のことだ。

 当初、藩はそれらを重くは見なかった。獣が里を荒らす、ということは時折あることなので、獣の狩り出しを村々の猟師に任せ、柵を補修させるなどの場当たり的な処置に留めていた。

 だが、その後獣による被害の陳情は増え続ける。郷方の役人たちもこれは何かおかしい、と思いはじめた。

 陳情が隙羅山ひまらやまのふもとにある村に偏っていることに気付いた代官は、ようやくにして役人を派遣し、調べに当たらせた。そこで、被害の多くが山犬の群れであること、その群れの中に、ひと際大きな個体が一頭、紛れていることを知ったのである。

「その一頭が、獣どもを率いて、里を襲わせているのでしょうか」

「拙僧は、そう見ております」

 身体の大きさのほかにもう一つ、全体の毛がやや白いということで、見分けがつきやすいのであるという。いつも群れの中ほどに位置し、その一頭の采配で群れは動いているように見えた、と幾人かの百姓や猟師も証言していた。

「実は拙者が遣わされる前に、二度ほど狩り出しが行われたのでござるが」

「聞き知っております」

 里の猟師たちの助けを受け、郷方を挙げての狩り出しが行われた。だがその間、目当ての山犬もその一団も、まったく姿を見せることはなく、二度に渡る狩り出しは不調に終わった。

「毒を仕込んだ餌はどれも口をつけられることなく、猟師たちが仕掛けた罠はすべて壊されていたということでございます。聡いのですよ、あの犬は」

 だから里を襲うのです、と誠仁は静かにつけ足す。

「それはいかに」

「聡いから、今の山でこの冬が越えられるかどうかが見える。わかってしまうのですな。だから、他の獣はやらなくとも、あの犬はやる。里を襲って餌を集める。それは、そうせねば生きていけぬと、わかっておるからです。今ではなく、先が見えている」

「それではまるで、人のようではなかろうか」

「犬、と思わぬ方がよろしい。犬のかたちをした人であると思いなされ。でなければ、三度目もまた、不調に終わりましょう」

 なるほど、と米吉郎はどうして己がここに遣わされたかを解した。

「何の拍子にか、そういうものがふとしたことで生まれ出でることがある。犬であるのに犬でない。そういうものです。何の因果でそうなるのか、拙僧にはわかりかねますが。ただそういうものは、あるのでございます」

「わかります」

 それは犬に限らぬだろう。米吉郎は思った。たとえば人の中にでも、明らかに才の大きなもの、偏ったものというのが出る。

 尾張の家は剣術道場である。父である先代の尾張兼嵐おわりかねあらしが開いたもので、兼嵐は師である藩の剣術指南、大場楼堂より允可を受けて道場を立ち上げた、とのことであった。

 米吉郎にはまいという名の姉がいる。長じてから縁あって父の師でもある大場の家に嫁いだ。米吉郎とは歳が二つ離れているが、幼い頃には道場で共に稽古をしていた。

 姉には剣の才があった。いまだ幼く、基礎も定まっていない頃のことである。だがそれでも、共に稽古をする米吉郎には、姉と己の間にある才の格差をはっきりと感じ取っていた。

 たとえば、一つ素振りをするのでも、姉はそこから様々なことを学び取る。手足の動き、木刀の構え、そう言った細やかなことから、なぜ剣術を学ぶのか、といった大きなことまで。

 米吉郎が元服を迎えた頃。彼我の差は、もはや覆せぬほど大きく離れていた。

 同じものを見、同じものを聞き、同じ教導を受けている。にもかかわらず、これほどの差ができてしまう。

 あれこそが才というものなのであろう。そう判じ、ある種の諦めを、米吉郎は抱いたのだ。

 それでも。道場を継いだのは米吉郎である。姉は嫁ぎ、児もすでに一人設けている。その児を連れて、姉は今でも時折道場に顔を出す。碌に剣も振れていないはずであるが、腕はさほど落ちていないようであった。

 そういうものを見て育った米吉郎に、誠仁の話は腑に落ちた。そうして、なぜ大場楼堂が己を推挙したのかも、ようやくわかったような気がした。

「実は、その山犬を、斬りに参りました」

 誠仁が驚いたように、米吉郎には見受けられた。

「尾張様お一人ででございますか」

「大挙して山に登れば、かの山犬はまた姿をくらますであろう、と。大場様はどうやら、誠仁どのが今語られたことどもを見通されていたようでござる」



 誠仁に断りを入れて、米吉郎は戦支度を整えた。

 背負っていた行李に収めていた脛当て、皮小手を身につけてゆく。頭にはやはり皮の額鉄を締める。戦装束としてはこころもとないが、山に入るのであればこれくらいが限度であろう、と判じていた。

 最後に襷を掛けて、庵を出た。

 誠仁は、米吉郎に山犬たちが集まる地点を教えてくれた。なぜそれほどに詳しいのか。米吉郎が犬を斬ることをどう思っているのか。老僧のこころうちは判りかねた。

 重い身体に耐えて岩肌を登る。上からは強い日の光が照りつけ、米吉郎の力を奪う。

 岩山を一つ越えた先が、平らな広場になっていた。

 その広場のちょうど真ん中あたり。白っぽい毛並の獣が一頭、丸くうずくまっている。

 件の山犬だと、すぐにわかった。

 お一人で向かわれるなら、あれも一頭で来るでしょう。でなければ兵が従わぬと、知っておりますからな。

 先を見ることが、近くの危うきを呼び寄せることもある。そういうことはありましょう。

 なるほど、どうやらあの僧の見立ては正しいようだ、と米吉郎は笑みを浮かべた。

 山犬が四本の脚で立ちあがる。それに合わせて米吉郎も刀を引き抜いた。

 右足を引き、刀を肩に担ぎあげるようにして構える。山犬は幾度か吠え声を上げた後、低く唸るようにして頭を下げている。すぐさまにでも飛びかかれる態勢だ。

 米吉郎は構えを崩さぬまま、僅かずつ摺り足で動く。遠くを、すべてを見るようにして、山犬と目は合わせない。どちらにせよ、犬の間合いなどわからぬのだ。やはり人でなきものと相対するのは恐ろしい。そう思った。

 飛びかかってきた。米吉郎が測っていたよりも速い。伸ばされた爪をかろうじて小手で受け止めた。

 左側の小手と脛当ては、右よりも厚くつくられている。そのまま横に捌き、追ってくる牙をかわした。

 転がりつつ回り、立ってすぐに同じ構えを取る。これは、父から教えられたことだ。

 疑わしく思っていたことがある。父が教える技が、どうにも剣の本筋から外れている。そのように感じることが時折あった。才がないとはいえ、幼き頃より剣術に親しみ、研鑽を積んできた米吉郎である。技の中に込められた意図が筋に沿ったものであるのか否か。それくらいの判別は、つけられるようになっている。

 そして、父が教える技の中にいくつか、どのように考えても筋から外れているような。そう感じられるものが混ざっていた。

 米吉郎が今構えているのもその一つだ。甲冑をつけた相手を叩き割るための技。そう教えられた。

 だがそうではないのだと、今はわかる。

 先ほどの身かわしの術も。この構えも。

 おそらくは。人でないものを相手にするときのための技であろう。

 山犬は身体を低くし、左右に歩いている。米吉郎は構えを崩さずに待つ。己の力のみで、獣は斬れぬ。

 どうして父がこのような技を伝えているのかは知らぬ。わかっているのは、父の師である大場楼堂も、これを存じているはずだ、ということであった。

 つまりこれらの技は。綿々と密やかに受け継がれているのであろう。

 別のことを思い浮かべる。一度、腑に落ちぬ技の数々を集めて、こころの内で並べ立ててみたことがある。その際に気付いたのは、それらの技はどれも。

 姉の米がおらぬときに伝授されたものだ、ということであった。

 そして今、己は命を受け、こうして山犬の姿をした人と相対している。そういうことなのだ、とわかった。

 左腕が熱を持っている。山犬の爪が皮を貫き、傷つけたのだ。変わらず強く照りつける日は米吉郎の力を奪い続けている。犬はそれらを、冷静に見定めているようであった。

 米吉郎は姉の才を知っている。この山犬も、犬どもの中では才あるものであろう。それらのものどもに比べれば。己など、路傍の石のごときものであろう。

 だがそれでも。父が技を伝えたのは、米吉郎だ。

 米吉郎は踏み出す。小さく丸く、己の身を、礫と化す。

 山犬が跳んだ。それを目がけて。

 縦に回るようにして、刀を振り下ろした。

 刀身に重み。そのまま押し切り、また転がるようにして地面を滑った。

 二度ほど回り、ようやく止まる。土煙が立ち、身体は散々に汚れている。

 その土煙の向こう側。か細い吠え声を上げてのたうつ獣の姿があった。

 痛む身体を押して立ち上がり、近づく。頸を半ば断ち切られた山犬が、それでも死にきれず暴れている。米吉郎の半端な腕前が、そうさせたのだ。

 とどめをを刺してやりたかったが、暴れる獣は危うい。仕方なく、そのままに任せることにした。

 刀身を拭い、鞘に納める。まあ、己の腕ではこのようなものだろう。そう思った。

 いつかこの技を、誰かに伝えることがあるやもしれぬ。きっとその者は、己よりは腕が立つだろう。

 それまではこれを、守ってゆこう。路傍の石とて、それくらいはできよう。

 米吉郎は岩山を下ってゆく。山犬は、ようやくにこと切れていた。



 同じ頃、街では騒ぎが起っていた。

 一頭の山犬が迷い出て、街の者を襲っていたのだ。

「狂い犬だぞ」

 そんな声があちこちから上がる。

 たまたま所用で通りかかっていた米は、児を抱えてそちらへ向かった。

 大きな山犬が一頭、長屋が立ち並ぶ道の中央を駆け、米のいる方へと向かってくる。

 犬は唸りを上げ、大きく跳んだ。

 米が動く。抱えていた児を放り投げ、身を翻した。

 宙を舞う児が回る。その児が小太刀を抱えているのに、気付いたものはいただろうか。

 児の胸元がきらりと光る。米と犬がすれ違い、米は児を柔らかに受け止めた。

「ひええっ」

 町人の一人が腰を抜かす。その目の前には、先ほどの山犬がいる。

 だが町人が驚いたのはその山犬にではなく。その山犬の頸が、見事に切断され、すぐそばに転がっていたためであった。



(完)


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