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誘い剣 こぬか雨

 訪うのが遅くなった、と真坂信生郎まさかしんきろうは感じていた。

 朝から小雨が降り続いている。ここ数日はずっとこのような天気だった。信生郎が歩む小径は長い雨でぬかるみ、傍を流れる川もやや水かさを増しているように見える。

 川に沿って伸びるその足場の悪い小道を、信生郎は半刻ほど進んだ。

 梅雨に入る前には訪れるはずだった。だが、様々な雑事で忙しいふうをして、この日まで伸ばしてしまった。それはやはり、信生郎のこころうちで、できるならば訪れることなく済んで欲しい、という思いが強かったためだろう。

 いやそうではない。おれは逃げていたのだ。信生郎は決然と思う。これから訪れる方に会いたくないという気持ちが、信生郎の足を遠ざけていたのだ。

 だから、気概を奮い起こして、ようやく信生郎は訪れることを決めたのだった。

 小径が終わり、竹林になっている小高い丘が見えてきた。丘の奥に、いくつかの家屋が見える。そのうちの一軒が目指す家だった。

 雨は音もなく降っているが、それは周囲の微かな物音を打ち消し、静謐さをつくり出している。外から隔絶されたようなその中を信生郎はやはり静かに進む。

 一軒の前で立ち止まった。

 周りに立ち並ぶ小屋と同じく茅葺きの屋根。だが、その一軒だけはどことなく重みがある拵えになっているように見える。囲いも厳重で、柵柱の間をかなり詰めてつくられており、ところどころに板や蔓草を渡し、容易く中を覗けぬよう設えてある。みすぼらしくとも武家の家であった。

 柵のすぐ外側で訪いを入れる。この雨で声が届かぬと思ったからだ。

 しばらくして、見慣れた姿が戸口より現れた。信生郎は小さく頭を下げる。

「真坂どの。戻られたのですか」

「無沙汰をしております、おげんどの」

 姿を見せたお幻は百姓家の女のような格好をしていた。髪も結わず、まっすぐと伸ばしている。今の暮らしにあわせてそのようにしているのであろうが、どことなくそれが似合っているようでもあった。

 誘われて奥へと入る。やはり百姓家のようなつくりになってはいるが、間口は狭く、小屋の周囲に荷車や俵や桶を積み、四方から攻め込めぬようさりげなく配されている。何ものかに襲われた際にはひと時立て籠れるようになっているのだ、と感じた。

 向かい合って座ると、すぐさま信生郎は話を切り出した。

蔭郎かげろうとは隙羅山ひまらやまを越える先で別れました。その後の行方はわかりませぬ」

「ご覧のとおり、こちらにもいまだ、帰ってはおりませぬ」

 信生郎は肯くに留めた。信生郎も、ここに蔭郎が戻ってくるとは思っていない。戻るならばそれは、すべてに片がついたあとのことだろう。

 臼場蔭郎うすばかげろうが信生郎と連れ立ち、旅立ったのは二十日ほども前のことだ。

 真坂の家は郡方を勤めている。その信生郎のいる郡に蔭郎が配されたのが三年ほど前であった。

 剣をよく遣う、と聞いていた。郡方の役目は、いうなれば百姓から年貢を徴収する役目である、といってよい。百姓らの郷に入って、上から様々な差配や目配りをするのであるから、どれほどこころを尽くそうと百姓との揉め事はなくなることがない。

 そのためか、郡方を勤める役人には、何らかの武芸を修めているものが多い。いざというときには、己で己の身を守らねばならぬからだ。

 信生郎も剣を修めている。そして、腕前にはかなりの自信を持っていた。だから蔭郎の話を聞いたときには、一度手合わせをしてみたいと思っていた。

 あるとき機会があって、稽古に立ち合うことができた。

 蔭郎は信生郎が思っていた以上の手練であった。蔭郎は気配を消すのが上手い。次の打ち込みが、どこから飛んでくるかを容易く思い描かせない、そのような剣であった。

 三本のうち一本を、信生郎が取った。

 信生郎と蔭郎が親交を深めたのは、その後からだ。

 友としての蔭郎は、陰気で口数少ないながらも、誠のある好ましい男であった。が、役人としての蔭郎はどこか奇妙であった。

 屋敷を郷の中に構えている、ということを聞いたときには驚いた。蔭郎には幻という名の妻がいて、その妻は大抵郷の中にいる。つまり臼場の家は、半ば百姓たちと同化して暮らしているのだ。これは代々そうなのだ、ということであった。

 百姓たちも、蔭郎と話をするときには、信生郎などと話すときのような、戸板を一枚隔てたような感じがない。信生郎たちなぞには決してしない細かな陳情なども、蔭郎は聞いてやっているようだった。

 おそらくは、それこそが臼場家の本来のお役目なのであろう、と信生郎は察した。

 その臼場蔭郎からひとつの相談を持ち掛けられたのが、ひと月前のことである。

「強訴の話が持ち上がっている」

 いつもの低く小さな声音で、蔭郎は告げた。

 ある百姓が、世間話の中でつい漏らしたのを聞いたのだという。

「妻の幻からも、何やら郷のものたちがよそよそしくなった、と聞いている。違いないとまではいえぬが、おれは怪しんでいる」

 百姓らが集って年貢の減免を訴える強訴が各地で増えている、ということは聞き知っていた。

 昨年の夏の訪れは遅かった。そのためか凶作とまではいかぬまでも収穫は少なく、この一年、百姓たちは暮らしに喘いでいた。

 今年に入ってからはこれまで、天候に大きな変異はない。今年こそは豊作になる、これで助かる。そう思われていた。

 そこにこの長雨である。百姓たちの不安と不満が、一挙に膨らんだのであろう。

「そういうことは郷頭か代官で伝えた方がよいのではないか」

「郷頭はすでに取り込まれているかもしれん。話せぬ。代官へ話を持ってゆけば、大事になるだろう。それは避けたい」

 訥々と話すが、その一言一言に常にはない熱がこもっていると信生郎には感じられた。

「では、どうするのだ」

「おれの上役に報せを届ける。代官とは別のものだ」

「やはり隠密か、お主」

「そのようなものだ」

 意外ではなかった。おそらくそうではないか、と信生郎も考えていた。だがそれと、そのことを明かすのは別の意味がある。

「なぜ話した」

「どうにも見張られている気配がある。この郷のまとめ役は知恵が回るようだ。おれが旅立てば、きっと気取られる」

 百姓たちに取り囲まれ、打ち殺された隠密は何人もいるのだという。

「お主の腕ならば、切り抜けられるのではないか」

「百姓どもを舐めてはいかん。刀、槍。弓を扱うものとているのだ」

 蔭郎が言うのならばそうなのだろう、と思った。蔭郎ほどに百姓たちを知っている郡方役人を信生郎は知らない。どちらかといえば生真面目な質の信生郎は、役人としては凡庸であった。

「文を二通書く。一通はおれ、もう一つはお主だ。どちらかがたどり着ければいい」

「私に囮をせよというのか」

 いや、と蔭郎が首を振る。顔を上げてこちらを見る蔭郎の眼は、常とは違って見えた。

「もっともよいのは、誘いに乗って襲ってきたまとめ役を、斬ることだ。この強訴は、それで止まる」

 目の前に鬼がいる、と感じた。

「私に百姓を斬れと。そういうのか」

「そうだ」

 無言で睨みあった。雨足が強くなり、屋根を叩くのがわかるほどになった。

「わかった」

 告げて、信生郎は立ち上がった。

「引き受けよう。だが、お役目だからではない。お主の頼みだからだ」

「巻き込んで、すまぬと思っている」

 蔭郎が頭を下げるのを手の平を突き出して拒み、信生郎は辞去した。

 それから蔭郎と共に、山向こうの城下まで旅立ったのだ。

 つけられている、と蔭郎が小声で告げたのは、峠道に差し掛かったときだ。雨が続いているこの時期に、峠道を使う旅人の数は少ない。その日もすれ違ったのは僅かに二組だけであった。

「ここで二手に分かれよう。百姓どもは、おれを追うはずだ。お主は、文を届けてくれ」

 無言で肯いた。そしてお互いに小走りで、蔭郎は東廻りの道を、信生郎は西回りの道を行った。

 道中に立ち塞がられた。三人。一人は鎌、一人は木槌だったが、もう一人は古びた野太刀を帯びていた。

 刀を振り回して、道を開いた。百姓を斬ることは、やはりできなかった。

 蔭郎にはおそらく、見抜かれていただろう。だからこそ、このような手を取ったのだ。

 ひとり、城下へ向かった。蔭郎よりことづけられた場所へ、書状を届けた。

 蔭郎とは、最後まで行き会わなかった。


 気配を感じて、刀を左手に持ち、立ち上がった。旅より帰ってからどうも、感覚が鋭くなっているように思われた。

「来たようです。ここに籠られていれば、大事ないでしょう」

 わたくしも、とお幻が立ちかけるのを手で制した。

 刀を差し、小屋を出る。いつの間にか、雨は上がっていた。

 小屋を離れ、竹林を抜ける。小川の流れる小径まで来る。

 百姓と思しき男どもが五人。前後を塞いでいる。

 鍬や鎌で武装している中に野太刀を担いでいるのが一人。その顔には見覚えがあった。

 こやつらがここに生きて現れたということは。蔭郎は殺されたということだ。

 ゆっくりと鞘を払い、構えた。

 たとえ書状が届けられたとしても、信生郎自身がいなければ、先の追及は難しくなる。

 だから機会を与えれば、百姓たちはきっと、口を封じようとするだろう。

 そう考えた上で、信生郎はひとり、お幻を訪ねたのだ。

 蔭郎が戻っていればよかった。すべてが片付いていればよかった。

 だが、そうではなかった。

 木槌を持った百姓が獲物を振りかぶろうとする先を制して、刀を走らせる。腕を斬られた百姓が悲鳴を上げて槌を取り落とす。

 申し合わせたように、後方から別の百姓が鎌を握って近寄る。振り向きざまに、胴を薙いだ。

 そのまま踏み出し、別の一人を間合いに入れる。首の頸を浅く裂いた。それで十分だった。

 残る二人へ向き直る。野太刀を担いでいるのが一番の手練だと感じた。

 踏み出す。誘われて、一人が飛びだした。すれ違いざまに、袈裟に斬った。

 斬れぬと思っていた。あのときは、そのとおりだった。

 だが今、信生郎の剣に躊躇いはない。

 信生郎のうちにあるのは。百姓たちへの、そして藩への静かな怒りであった。

 立合いをしたあの日より、蔭郎のことは友だと思っていた。だがそれはまだ、蔭郎の誠を知らぬまま友となっていたのだと、今ではわかる。

 述べるのは難しい。ただ、一連のことを通して。蔭郎という男が何に信を置いていたのか。何を大切に思っていたのか。そういったことが、わかりかけていたような気がする。

 そうしてそれが本当に腑に落ちたのは、つい先ほど。お幻とその屋敷とを見たときのことだったのだ。

 蔭郎はおまえらをこそ守ろうとしていたのだぞ。百姓ども。

 妻のお幻は百姓たちの中に居を構えている。百姓たちが暴発すれば、真っ先に危うくなるのは、お幻であったろう。言うならばそれは、繋ぎをつくるために人質を取られているのに等しい。

 私は何もわかっていなかったのだな。蔭郎。

 蔭郎をわかろうとしなかった百姓たち。臼場家にそのような役目を負わせた藩。そして何より、今の今までそのことに気付かなかった己に、信生郎は憤っていた。

 野太刀を抜いた百姓がじりじりと距離を詰めてくる。百姓を舐めるな、といった蔭郎の言葉が思い出される。

 ここで信生郎が倒れれば、次に襲われるのはお幻だろう。負けるわけにはいかなかった。

 信生郎は汗をかいている。久しく見る陽光が地を照りつけている。足元のその小径がゆらゆらと微かに揺らいでいるように、信生郎には感じられた。

 突如、百姓が野太刀を振り下ろした。長さを苦にせぬ速い斬撃。だがその一撃は、明らかに間合いを見失っている。

 瞬きの間。その刃の下に人影が見え、かき消えたような気がした。

 刀を突き込んだ。その先端は、過たず百姓の胸元へと吸い込まれた。鈍い感触が両の手に伝わってきた。

 引き抜くと同時に、百姓は膝を折った。

 倒れ伏した百姓たちを見、刀を納めた。百姓たちに動きはない。五人とも、すでにこと切れているようであった。

 振り返る。竹林の向こう側にひっそりと、臼場の家が見える。

 帰ってきてくれたのか、蔭郎。

 返事はない。だがあの瞬きの間に見えた人影は。そうであったのだとしか、信生郎には思えなかった。

 今ならお主のことがわかるぞ、蔭郎。

 帰ってきたのであれば。そう、告げてやりたかった。

 ぽつり、と手の甲に何か当たる感触があった。

 天を見上げる。日は隠され、再び暗い雲が覆いつつある。

 信生郎は歩き出す。梅雨はまだ、明けそうにない。



(完)


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