夜行剣 一番星
日の強く照り付ける乳泉街道を、樋留巳太郎は早足で歩いていた。
深緑の季節は過ぎ、そろそろ秋にならんとしていたが、頭上より見下ろす日輪だけはいまだその威を弱めようとせず、笠のうちに汗を噴き出させる。遮るものない街道沿いは陽気を通り越して酷暑であった。
その街道を、巳太郎は歩く。年寄りの二人連れ、荷物を抱えた町人風の男を追い抜き、先へ先へと足を向ける。二刀を提げる腰はふらつくことなく、歩みに澱みは見当たらない。
乳泉街道は交通の要所である。北に隙羅山、南に赤谷という難所に挟まれた峠道を藩を挙げての普請で道幅を広げ、均し、東西を結ぶ街道としたのである。
奇妙な名には由来がある。古くより、この地には乳泉とよばれる大きな泉があった。その泉の水は飲めば女の胸乳が豊かになり、乳の出もよくなると言い伝えられており、街道が通る以前より多くの女人がこの地を訪れていた。今では泉の水量が減り、訪れる者も少なくなったが、地名にはかつての名残が見える。例えば、巳太郎が昨夜草鞋を脱いだ宿場は大乳町といい、これから向かう宿場は乳の里という。
道程はちょうど半ばである。このままいけば夕前には乳の里につける、と巳太郎は思った。
笠を上げ、汗を拭う。ふと、視界を黒いものがよぎった。
僧形である。杖を突きつつ、よたよたと歩いている。笠から負っている葛篭まで黒ずくめであった。その僧が、道筋をやや外れ、草の茂る土手へと踏み入れる。土手の先はなだらかな坂である。
巳太郎は足をはやめ、手を伸ばした。倒れ掛かった僧の左腕を掴み、引き起こす。
「大事ないか、御坊」
僧の顔を見た。皺だらけの顔が巳太郎を見上げている。だが、その両眼は閉じられていた。
「これはこれは。ありがとう存じます」
僧が両手を合わせ、一礼する。巳太郎は傍に転がっていた杖を拾い上げると、手に握らせた。
「御坊。目が利かぬのであれば、道の中ほどを歩かれよ。あぶなかろう」
「そのつもりでございましたが、この暑さのせいか、勘ばたらきが鈍っておるようでございますな。危ういところを、助けていただいたようでございます」
もう一度礼をすると、僧は歩きはじめた。だがその歩みは右へ左へと、どうにもおぼつかない。
巳太郎は隣に並んだ。
「御坊はどこまでいかれる」
「乳の里でございます」
「ならば拙者も道づれにしていただこう。御坊の歩みは、見ていてどうも心配でならぬ」
改めて僧をしげしげと見る。齢三十になったばかりの巳太郎より一回りは上に見える。暑さと疲れのせいか歩みこそふらついてはいるが、足腰はしっかりしているように思えた。杖を突いているせいか、幾本もの柔らかい脚を動かして歩んでいるような。そのような感がある。まるで地をゆく蛸のようじゃな、と巳太郎は胸のうちでだけ思った。
僧形と侍が並んで黙々と歩く。まわりからは、さぞ奇妙な取り合わせに見えただろう。何か話をしよう、と思うのだが、生来の口下手のためか、取っ掛かりが思いつかぬ。もとより無駄話は苦手な巳太郎であった。
景色が橙に染まりかけてきた頃に、ようやく聞くべきことを思いついた。
「ときに御坊。名を何といわれる」
僧は歩きながら首だけを巳太郎へ向けた。
「誠仁、と号しております」
日が落ちる前に乳の里にたどり着いた巳太郎は、誠仁と同じ旅籠に草鞋を脱いだ。
「これも何かの縁というもの。せめて一献」
と誠仁がいうので、受けることにしたのだった。
宿に決めたのは江入庵という旅籠で、乳泉街道が通り、ここが宿場町になったときから商いを続けている、乳の里では老舗といっていい宿らしかった。
だが老舗といえば聞こえはいいが、外壁や屋根には年月による傷みが目立ち、大風でも来れば倒れるのではないか、と巳太郎は心のうちで思った。
「ですが、拙僧にはこれくらいが相応でございます」
同様の思いを抱いていたものか、巳太郎の杯を満たしつつ、誠仁がしみじみ漏らした。
二人で六畳ほどの部屋を取り、宿賃は折半した。しかも、誠仁の目が利かぬと知った女将が気を回してくれ、一階の、一番奥の静かな部屋をあてがってくれた。裕福とは言いがたい巳太郎にとっても、正直ありがたい道連れであった。
「ところで。御坊は何ゆえ、そのような身体を推してまで旅をされておる。いや、立ち入ったことを聞くようですまぬが、ちと気になったのでな」
自分の杯を空け、誠仁に注ぎ返しながら巳太郎が問う。誠仁は気を悪くしたふうでもなく、杯を受けた。
「正直な方ですな、樋留様は」
「よせ。世間でいうような美徳ではないぞ、正直というのは。現に拙者は、いつもそれで、損ばかりしておる。今もこうして、口を滑らせた」
いえいえ、と顔の前で誠仁が手を振る。
「それは拙僧を含め、受ける側のものの心構えでございます。まっとうに生き、まっとうに語り、それが通ずるのであれば、それがまっとうな世の中というものでございましょう」
「そんなものか」
「そんなものでございます」
誠仁が天井を眺めた。
「拙僧は乳泉に居を構えておったのですが、数年来、泉の水がめっきりと減りましてな。立ち寄る者も少なくなり、暮らしてゆくのが難しゅうなりました。それでこのたび、隙羅山に住む知己を頼もうと、重い腰を上げた次第でございますよ」
「左様か」
隙羅山の麓へは、乳の里からは一里ほどである。隙羅山は古来より霊山としても崇められており、麓には神社仏閣の類が多い。おそらくそれらのうちの一つを訪ねるのだろう、と思った。
「樋留様はどうして旅を」
今度は誠仁が問う。巳太郎は己で銚子を傾けた。
「逃げてきたのよ。拙者は」
回りはじめた酒が身体を温め、舌を滑らかにしていた。
「拙者、城下の衿屋道場でな、師範代をしておったのよ。だが、次の道場主を決める話が持ち上がってな」
ほう、と梟か何かの鳴き声がした。誠仁は静かに聞いている。
「拙者ともうひとり、覗木大介というものが、道場主の座を争うことになった。拙者は門人の取りまとめなど得手ではあらぬゆえ、大介が道場主になればよいと思っておった」
だがこやつが、融通の利かぬやつでな、と吐き捨てる。
「どうしても立会いの上、道場主を決めたいというのだ」
誠仁が小さく頷いた。
「それで、立会われましたか」
「立会った」
「それで、お勝ちになられたのですな」
「勝ってしまった」
大介とてそれなりの遣い手、上手く負けてやることなどできぬ、と、口の中でもごもごと言う。それでもやりようはあった、と思っている様子だった。剣客としての矜持が許さなかった部分も多分にあろう。
「勝ってすぐに、いかんと思った。この大介というやつは執念深いやつでな。きっと負けを認めぬであろうし、何やかやと難題を吹っかけては、拙者を引き摺り下ろそうとするであろう。そう信じて疑わなんだ。そのようなことが続けば、道場を継ぐ継がぬの問題ではなくなる。そうであろう」
「いかさま」
「それで、逃げて参った。揉め事が、持ち上がる前にな」
誠仁が銚子を手にした。巳太郎の杯に、器用に注ぐ。
「先ほどから幾度も目にしておるが、すさまじいな、御坊は。まるで見えておるようじゃ」
精進の賜物でございます、と誠仁が銚子を戻す。酒は、杯の際より少し下の辺りで留められていた。
「夜を、歩いているのでございますよ」
拙僧は、夜を歩いているのでございます。そう繰り返した。
「日が出ておりましょうが、沈んでおりましょうが。灯りがありましょうが、なかりましょうが。拙僧はいつも、夜を歩いているのでございます。そうして、耳を澄ませ、鼻を利かせ、肌をはたらかせて、おのれのまわりを感じ、だいたいこういうものであろう、とおのれの認めたものの中でのみ、生きておるのでございます。それが本来どういうものかはわからない。ただおのれで形づくったものを判じて、歩いているのでございますよ」
「で、あろうな」
「ですが、目が明いておられても、夜ばかりを歩いておられる御仁は多うございますな。その、覗木大介様という方も、さしずめそのような御仁でいらっしゃいましょう」
「そう思うか」
「拙僧には。ですが、人の道行きというのは、そういうものであるのやもしれませぬ」
巳太郎が銚子を手にする。空だった。女将を呼ぼうとしたが、誠仁が押し留めた。
「樋留様には、ご無理を申してお付き合いいただきました。明日も早うございます。今宵はこの辺りで」
巳太郎は少々呑み足りなく思ったが、道理でもあるので切り上げることにした。そうして二人、相部屋で眠りについたのだった。
巳太郎が目を覚ますと、誠仁はいなかった。床を上げに来た女将に聞くと、日が昇る前に出立したということだった。
そのような気はしていた。巳太郎とて剣客である。たとえ眠っていても、身の回りの気配は、敏感に察知している。巳太郎がちょうど深く眠りに落ちた頃、誠仁が布団から起き上がるのを、肉体とは別のところで察知していた。
立ち去る前。皺だらけの手が巳太郎の瞼に触れたような。そのような気配があった。
巳太郎はひとり出立した。
宿場町を抜け、再び街道を早足で歩く。日が沈む前に、次の宿場へ着きたかった。
誠仁はどうしたであろうか。無事、旅を終え、新たな居に腰を落ち着けられたであろうか。また道を踏み外し、崖に落ちて怪我などしなかったであろうか。考えても詮なきことである。だが、考えずにはいられなかった。また、歩くことと考えること以外に、巳太郎のすることはなかったのである。
気がつけば、日が沈みかけていた。
「まずいな」
巳太郎は小さく愚痴た。もっと早く宿場を出ればよかったのであるが、早く着きたいのと同様のわけで、そうもいかぬ。
巳太郎は、夜目が利かぬのだ。
子どもの頃には、見えていたような覚えがある。が、いつの間にやら、夜闇が、ほんとうの黒一色に見えるようになっていた。ぼやけてでも多少なりとも見えるなら歩きようもあったが、それすらなくては、いくら剣の修練を積んでいる巳太郎といえど、どうすることもできぬのであった。
日没はまだ半ばほどであるというのに、すでに、道筋は朧にしか見えぬようになってきている。到底、宿場町まではたどり着けそうになかった。
日が完全に沈むと同時に、足を止めた。
目をつけていた、手近の木の根元に腰を下ろす。町の通用門まではおそらくあと一里ほどであろう。ほとんどの旅人は、ここまで来れば日が沈もうが何があろうがもう一がんばりするところであろう。それでも巳太郎は、ここで野宿することに決めた。己の夜目の危うさがどれほどのものか、巳太郎自身が一番よくわかっていたのだ。
ふと、気配を感じた。いや。気配などという生易しいものではない。それは違いなく、殺気であった。
荷物はそのままに、ゆっくり立ち上がる。右手は、刀の柄に添える。
来たか。そう思った。もしも大介が性根から腐り果てていれば、ある。そう思っていた。
そして。それだけはないはずだ、と。そう、信じてもいた。
刺客。数は、三つ。
覗木大介は、すべてを闇に葬ることにしたのだ。
そこまでして夜を歩くか、大介。自分の見えるものだけ。見たいものだけ、見ようとするのか。
気配の中に、巳太郎と同程度の遣い手のものはない。それは、大介自身が出てきていないということでもある。暗殺すら、己の取りまきの者たちに任す。そこに大介の闇の深さを見た思いがした。
大介は巳太郎が夜目の利かぬのを知っている。おそらく刺客たちにも、それは伝わっているのだろう。尋常に立ち合えば、相手にもならぬ連中である。
巳太郎と大介の付き合いは長い。道場の入門は、同期であった。そのときの入門者は二人だけであった。方や五百石を越える大身、こちらは貧乏侍という身分の違いはあれど、自然、仲はよくなり、互いに切磋琢磨し、技を磨きあった。あの頃のふたりは、確かに友であったのだ。
どこで道が分かたれたのか。おそらく、大介が覗木家を継げぬことが決まった日からであろう。
大介には病弱な兄がいた。十五までは生きられぬであろうといわれ、覗木家では大介が家を継ぐものとして長らく扱ってきた。だがその兄が十五まで生き延び、その年を境に病状が落ち着いたことで、すべてが変わってきたのだ。
大介がそれまで纏っていた余裕のようなものが、失われた。他人を、信用せぬようになった。あの頃から、大介にとって巳太郎は、競い合う友ではなく、道場を継ぐための障壁になったのだ。
鞘を払い、下段に構える。気配は探れるが、間合いがわからぬ。敵の打ち込みを待ち、返すより他手はない。
木を背にする。闇の中に光が一つ、瞬いている。ああ、星が出ている。そう思った。
それは突然だった。巳太郎の両眼を、光が襲った。それは濁流のようであり、束になった波紋は、視界から暗闇を押し流していった。
上段に構え、突っ込んでくる姿が見えた。
足下から刃が閃く。すれ違いざま、胴を薙いだ。眼前にもう一人。刀身を回し、突き形のまま、喉笛を斬り裂いた。
一間ほど離れて、もう一人。仲間が斬られたのがわかったのか、背を見せ、逃げようとしていた。
脇差を投げ放った。過たず、その背を貫いた。
三つの人影が、地に倒れ伏す。巳太郎にはそれが、はっきりと見えていた。
辺りを見回す。色さえないが、すべてがはっきりと、見えていた。
血を拭い、刀を納める。何が起こったのか、己にもわからぬ。だが、窮地を脱したことだけは、わかった。
空を見る。いくつもの星が見える。それらが味方してくれたと。そうとしか、思えなかった。眠る巳太郎目に触れる誠仁の姿が、満天に浮かんだように思えた。
己で来い。繋がっているであろう闇に向かって、巳太郎は呼びかける。
己で来い、大介。俺たちで、決着をつけるのだ。もう、それしかないのだ。
きびすを返した。
深い暗闇の街道を、侍がひとり、歩いてゆく。
(完)