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無音剣 細波

 灯火一つない夜道を、須狩棚五郎すかりたなごろうは歩いていた。

 月のない夜である。昼前から空には濁った雲が立ち込め、日の光を遮っていた。すわや、一雨来るか、と思案していたが、空模様はそれ以上崩れる様子を見せず、棚五郎も普段どおり草履履きのまま、帰路に就くことができた。

 空はもちろん、足元も真っ暗闇である。棚五郎は提灯を手にしていない。番所で借りようかと思いはしたが、後で返しに行くのが煩わしく思えたので、そのまま来てしまったのである。

 毎日通う、勝手知ったる道である。目を瞑っていても、無事帰り着く腹積もりはあった。実際ここまで、一度も迷うことなく来ている。それがまた楽しくもあった。

「おや」

 短い疑問の声を上げて、棚五郎は立ち止まった。

 見上げる。先ほどまで黒一色であった空が、赤く輝いている。

「何処か、火事であろうか」

 そう思ったが、火焔の立ち昇り様とは、違うように見える。

 赤い輝きの中心を、白い光の帯が通り、棚五郎から見て左から右へと流れ、消えていった。そうして赤色の空も、僅かずつもとの闇へと戻っていった。

「いったい何だったのだ」

 棚五郎は暫く首を捻っていたが、そのうち、何事もなかったかのように家路を急ぎ始めた。


 翌日、作事組の部屋に出仕した棚五郎は、周囲がやけに慌しいことに気付いた。荷物を胸に抱えて部屋に入ると、やけに閑散としている。いつもなら数人は必ず詰めている同役たちが、一人もいない。代わりに、棚五郎の上役に当たる小頭三人が揃って、何事か話し合っていた。

 その中に沖南宗助おきなむねすけの顔を認めて、声を掛けた。

「小頭」

「おう。今出仕か、棚五郎」

 棚五郎は一礼してから、荷物を空いていた文机に置いた。

「何かございましたか」

 うむ、と重苦しい返事をしてから、宗助は話し出した。

「昨夜のうち、勘定組の組屋敷に、何か落ちたという。それで今、見に行かせている」

「何かとは」

「わからぬ。それを確かめるためにも、見に行かせた」

「屋敷は、酷く壊れたのですか」

「そうだということだ」

 組屋敷が壊れたとなれば、普請方はもちろん、作事方も慌しくなる。一刻も早く被害の度合いを知る必要があった。

「某も見て参ります」

「それがよかろう」

 部屋を出ようとする棚五郎の背中に、声が掛かった。

「千々(ちち)は息災でおるか、棚五郎」

「は」

 二年前に娶った妻女の千々は、宗助の次女だ。棚五郎にとって宗助は義父ということになる。棚五郎の人柄を見込んだ宗助が、娘を棚五郎に娶わせた、ということに世間的にはなっている。だが、婚儀を整えたとき、千々はすでに齢二十五になっていた。嫁き遅れを体よく押し付けられたのだ、などと陰では言うものも おり、棚五郎自身もそうかと思うときもある。癇が強く、気性の荒い女だが、家内の作事は細やかで、行き届いている。何より胸乳が大きいことは、棚五郎も気に入っていた。

「苦労はさせておりますが」

 あやつにはそれくらいがよい、と笑って見せると、宗助は手を振った。

 一礼を返して、棚五郎は部屋を出た。


 勘定組組屋敷には人だかりができていた。棚五郎は声を掛けつつ人を掻き分け、前へと出た。

 長屋のように東西に連なった組屋敷。その中央辺りの屋根に、遠目にもわかるほどの大きな穴が開いている。ただ柱には傷がなかった様子で、屋敷自体はしっかりと立っていた。

 人群れの中に、知った顔を見つけた。

「きつね」

 呼ぶと、紋無しの黒羽織を纏った姿が振り向いた。

「これは須狩殿」

「久しいな、常喜郎。お役目か」

「そんなところでござる」

 盛田常喜郎もるだつねきろうは、棚五郎に軽く頭を下げた。幼少の頃、棚五郎が通っていた衿屋道場で、常喜郎とは一緒だった。入門は棚五郎の方が一年 早く、歳も二つ上だった。棚五郎にとって、常喜郎は弟弟子に当たる。道場では、その名と面長の顔立ちから、きつねと呼ばれていた。

 棚五郎は、勉学の方はからっきしだったが、剣術は性に合った。稽古は面白く、厳しい修行も苦にならなかったので、腕は見る間に上がった。二十のときに父が亡くなり、家と今のお役目を引き継ぐ次第となって、道場を辞したが、そのときには師範代にまで昇っていた。

 常喜郎は、棚五郎より下の世代では最も筋がよく、棚五郎も何くれとなく可愛がっていた。

 特に棚五郎の心に残っているのが、藪稲荷でのやり取りだ。

 常喜郎が入門して、間もない頃のことであった。屋敷町の外れに、竹の生い茂った小山がある。その小山に、神社とも祠ともつかぬ、稲荷を祀った社があった。街の者はその場所を、藪稲荷と呼んでいた。

 道場へ向かう道すがら、その社の前で、常喜郎が何やら慌ただしくしているのを、棚五郎は認めたのだ。

「どうしたのだ」

 竹刀を担いだままの格好で、棚五郎は呼びかけた。常喜郎が振り返り、こちらも竹刀を担ぎ直して、小走りに寄ってきた。

「今、あの稲荷に、白い狐が」

 社を示しながら、そんなことを言った。棚五郎は一笑に付し、竹刀の柄を軽くぶつけた。

「馬鹿を言うな。このような藪に、狐はおらん。出るとすれば、あちらの隙羅山ひまらやまよ。それに、白い狐など、おるものか。あんなのは、黄表紙がつくりあげた化け物じゃ」

「ですが、本当に、見たのです」

 棚五郎は常喜郎の肩を掴んだ。

「盛田。お主、疲れておるのだ」

 常喜郎は、少し高い位置にある、棚五郎の目を見据えてきた。

「須狩殿は、幽霊や、化け物は、この世におらぬとお思いですか」

「それは、まあ、そうだろう」

「己の目で見ても、そう思われますか」

 棚五郎は答えなかった。いや、答えられなかった。常喜郎の背から、何やら妖しげな気配が立ち上っている。そのように、感じた。

「私は、やはりいると思います。きゃつらが我々の前に、姿をあらわさぬだけで。そして、我らが目にしたときには、きっと大変なことが起きましょう」

 参りましょう、と告げて常喜郎は背を向けた。棚五郎も慌ててその背を追った。

「やはり、憑かれておるのだ」

 その日から常喜郎の呼び名は、きつねになった。二人とも、まだ幼い頃のことだった。

 そんな常喜郎であったが、今は町同心の役目に就いている。時折道場にも顔を出していると聞いている。剣の道を断った己よりも、今では腕を上げたかもしれぬ、と棚五郎は思った。

「いったい何があったのだ」

「まだわかりませぬ。空から石のようなものが降ってきた、と言うのですが、肝心の石が、屋敷から見つかっておりませぬので」

「そういえば昨晩、空が赤く光って、白い筋が過ぎ去るのを見た」

「見ましたか、あれを。他にも幾人か、同じように申すものがおります」

 棚五郎は屋根に穴の開いた屋敷に目をやった。

「どこの御仁のお屋敷だ、あそこは」

葛西甚八かせいじんぱち殿のお屋敷でござる。石はちょうど、葛西殿の寝所の真上に落ちてきたということなのですが、その葛西殿に怪我一つないというのが、また妙で」

「面妖なことじゃの」

「まことに」

 下っ引きらしい男が常喜郎に寄ってきて、何やら耳打ちをした。

「では須狩殿、拙者はこれにて」

「うむ。慌しいところを、邪魔をしたな」

 下っ引きについて屋敷へ向かう黒羽織の背中を見送ってから、棚五郎は踵を返した。


 棚五郎の見立てどおり、作事方の勤めが忙しくなった。

「本日も、遅くなられるのですか」

 弁当の入った風呂敷包みを手渡しながら、千々がちくりとやる。帰りの遅い日が続くので、訝しがっているのだ。よもや、外に女ができたかなどと疑っているわけでもあるまいが、棚五郎としては、ただあるがままを弁明するほかはなかった。

 ここ数日、暑い日が続いている。屋敷を出ると、強い日差しが肌を刺し、月代に汗が滲んだ。

 千々にも困ったものだ、と歩きながら棚五郎は考える。とにかく、これはこうと決めてしまうのが好きで、そうした決まりごとを乱されるのを極端に嫌う。武家の女としては正しいのかもしれぬが、棚五郎には少々窮屈に思えるのだった。

 ならばきつく言い聞かせればよい、と思うのだが、上役の娘ということもあって、棚五郎はどこか遠慮してしまうところがある。そしていつものように、やれやれ、やはり某には分不相応な婚姻であったか、といったような思いに、ひとり行き着くのだった。

 そのようなことを考えているうちに、橋を越え、屋敷町へと出た。屋敷町は城のすぐ傍らだ。

 城へ向かう道を一本折れた先に、件の勘定組組屋敷がある。道は真っ直ぐで、顔を向ければ、目の先に組屋敷が見えた。

 人だかりができていた。石が落ちたという騒動からは、すでに十日が経っている。普請も始まったというし、今さら人が集まる理由はないはずだった。

 棚五郎は道を逸れ、人だかりへと近付いていった。

「寄るな。寄ると、斬られるぞ」

 下っ引きや同心たちの張り上げる声が聞こえた。

 人を掻き分け、前へ出た。葛西甚八の屋敷の前を、町同心や捕り手たちが囲んでいる。

 その中に、黒羽織を脱いで襷がけをしている常喜郎の姿を認めた。

「きつね、何があった」

 棚五郎を認めた常喜郎の顔に驚きが浮かんだ。

「須狩殿、どうしてここに」

「出仕する途中に、通りかかったのよ。斬り合いか」

「如何にも。葛西甚八殿が、家中の者を悉く斬殺したとの由。取り押さえようと、捕り手が踏み込んだのですが、皆、斬り伏せられ申した」

 屋敷の周囲に散っている血の跡は、どうやら斬られた捕り手たちのもののようだった。

「葛西甚八とは、それほどの遣い手か」

「剣術修行をしたという話は聞きませぬ。先代からの勘定方。剣よりは、学問に精を出されたのではないかと思われまするが」

「それは解せぬな」

「石が落ちたという件からこちら、おかしなことばかりでござる。ですが、目の前のことに当たらねば、仕方ありますまい」

 襷を掛け終えると、左手に剣を掴んだ。

「お主が行くのか」

「大刀を三本操る、奇妙な剣術を遣うそうな。これ以上、人死にを出すわけには」

「そうは言うがな、きつね」

「これも、お役目でござる。御免」

 それだけ言うと、常喜郎は小走りで、屋敷のうちへと消えた。

 棚五郎は、立ち去ることなく、そのままその場に立っていた。とはいえ、何もできることはない。無事、戻ってくれ。それだけを祈った。

 気詰まりになり、何となく庭を眺めた。作事方の屋敷とは比べ物にならぬ広さがある。庭の木は、桜と松が多いようだった。

どれほど時が過ぎただろう。棚五郎には、二刻ほども過ぎ去ったように感じられた。

 屋敷が騒がしくなった。開いたままの戸から、ひとりが転がり出てきた。

 常喜郎だった。右半身が、朱に染まっていた。

 同心や下っ引きたちを押し退け、走り寄った。

「きつね」

 常喜郎の息は荒かった。顔色が、青白くなっている。

 右肩から、斬り下げられている。深手だった。

「しっかりしろ。きつね」

 気を持たせるように、手を強く握る。目の光が、明らかに弱っていた。

「見ました、拙者は」

 常喜郎が口を開いた。

「あれは、葛西殿ではない。衣の下には、蛸脚の様なものが、蠢いておりました。それで、三本の剣を」

「わかった。もう喋るな」

「須狩殿。あの化け物を、どうか」

 常喜郎の手から、力が失われた。

「きつね。常喜郎。おい」

 いくら話しかけようとも、返事はなかった。常喜郎は、事切れていた。

 ゆっくりと手を離し、立ち上がった。刀の下げ緒を外し、それを使って、素早く襷を掛けた。草鞋を脱ぎ捨てると、戸へ向かい、歩き出した。

 留めるものは、誰もいなかった。

 戸に張り付き、様子を伺う。物音はしない。近くの木立から響く蝉の声が、耳障りだった。常なら蝉の季節も、もう終わりである。気候が不確かであれば、稲の実りにも響く。百姓たちは、今頃頭を抱えているだろう。

 もしや、この異常が化け物なぞを呼び寄せたのであろうか。そんな、詮無きことを考えた。

 中へ、一歩踏み込んだ。血の跡が、奥へと続いている。板間に上がり、摺り足で廊下を進んだ。でき得るならば、不意を打ちたい。そう考えた。

 なぜこのようなことをしているのか、と思った。常喜郎を斬ったほどの手練だ。棚五郎が勝てる目算は低い。真正面から立ち会えば、十中八九、斬られるだろう。

 剣の道は捨てたのではなかったか、と自問する。だが、現実には己はこうして、死地に身を投じている。そうしていながら、胸の内よりふつふつと沸き立ってくるものがあることを、棚五郎は否定し得なかった。

 家のために剣の道を捨て、家のために上役の娘を娶った。そのことに後悔はしていないはずであったし、また、生きていくというのはそういうものだろう、と思っているところもあった。

 だがそれでもやはり、己自身の決めた道を進みたい、という願望が、澱のように溜まっていたのか。そうしてそれは、いつか噴き出す機会を待っていたのか。

 ならば、それを破ったのは常喜郎の死に様であろう。

 棚五郎は足を止めた。肌に殺気が伝わる。襖一枚を挟んで向こう。いる。そう感じた。

 鯉口を切る。だが、抜かずにそのまま留めた。

 勝ち目があるとすれば一つだけ。

 衿屋道場で免許皆伝を受け、師範代まで進んだとき。棚五郎は道場主の衿屋五一郎えりやごいちろうから、秘伝の剣を伝授された。その剣を遣うしかない、と棚五郎は思い定めていた。

 その剣が、秘伝であるのは理由があった。衿屋の流派に居合いの剣はない。だがその剣は、鞘に収めて遣う居合いの術であった。

 そして、何よりのもう一つの理由は、その剣を遣ったが最後。遣い手は、二度と剣を振ることがかなわぬであろう、ということにあった。

 細波。秘剣には、そう名付けられた。

 棚五郎は腰を落とした。柄に右手を添え、まんじりともせず、襖を見つめていた。

 蝉の声が止んだ。

 棚五郎は抜き放った。

 襖が二つに割れ、床に倒れる。その向こう側に、刀を振り上げた、葛西甚八がいた。

 音が戻ってきた。同時に、葛西甚八の腹から、青黒い血が噴き出した。

 ざあああぁ、と細波が、刀を握る右腕に走った。右腕の骨が、粉々に砕けた証だった。

 腕の立つ剣客であればあるほど、相手の気配を読むことに長けている。ならば、気配よりも早く剣を抜き放ち、斬る。音を超える速さの抜刀術。それこそが、細波だった。

 棚五郎の刀が落ちた。痛みを感じ、左手で右腕を押さえる。

 その場に座り込み、柱にもたれた。

 さて、どうしたものか。棚五郎は呟いた。

 剣が遣えなくなったことは、気にならなかった。溜まっていた澱は、秘剣と共に、何処かへ消え去ったようだった。

 頭に浮かんだのは、千々の顔だった。

 すぐに、医者に運ばれることになるだろう。それから、いきさつを細々と尋ねられるはずだ。他にも、数々の面倒が待っているだろう。それを言えば、千々はいったいどのような顔をするであろうか。

 さて、どうしたものか。棚五郎はもう一度、呻くように呟いた。



(完)


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