「人間、神、妖」
――それは、とある時代の、とある村でのお話。
眩しい――日の光と間違える程に眩しい、満月の夜。
雲ひとつない、月と星の光で満たされた夜の出来事。
「……うぅ…」
微かなうめき声と、土を爪で掻く音が、夜の闇の中に消えていく。
「……ぁ……いた……ぃ…」
たどたどしく言葉を紡いだのは、茶色のぼさぼさの髪と、同じ色の瞳を持つ青年。
彼は地味目な黒の浴衣と茶の帯のみを身につけており、見る限りでは怪我はない。
だが、現に彼は苦しんでいる。
月の光をその身に受ける度、声をあげ、地面を両手で掻き、のたうち回る。
――やがて月が沈み日が昇ると、彼の苦しみは去ったようだ。
ただし青年の姿も無く――代わりにそこにいたのは、一匹の猫。
茶色の毛皮に、琥珀色の瞳。
そして一際目を引くのは、二股に分かれた、そのしなやかな尾。
――「彼」は、人間ではない。
三百年という年月を生き、更に百年の修行を積むことで、けものは「妖」となる。
「彼」の正体は、「猫又」。
「妖」の中でも最高位の――「人妖」。
猫又はむくりと起き上がると、藪の中に分け入り、ねずみを二匹捕らえ、ばりばりと音を立てて喰いちぎった。
妖とは云え、その身体は変わらない。腹は減るし、眠くもなるし、傷つけば痛い。
ただし妖は、どんなに力が弱くとも「死ぬ」ことだけはない。「成長」という生物の理から外れた存在なのだ。
猫又は二匹のねずみを腹に収めると、満足そうにあくびを一つし、ころんと横になった。
――夜。
猫又は人の姿を取ると、自らの住む山を見回り始めた。
基本的に、この山に悪霊はいない。
この山は女神である〈石長比売〉の化身である、大室山。〈石長比売〉の力に守られた山であるからだ。
ただし今日のような、新月の夜はいけない。
清浄な光である月光が最も少なく、悪霊や妖たちの力が最も強くなる夜――すなわち、この猫又の力も。
猫又の力は、妖の中で最も強い。
山の女神〈石長比売〉は、其れ故に、猫又に一つの誓いを立てさせた。
『猫又が山に偲び入る悪霊を滅し、力を抑えているなら、この山に住んでも良い』
猫又はそれを忠実に守り続け、住みかを与えられてきた。〈石長比売〉の気まぐれで、何時失うかも知れない、この居場所を。
「(……それでも、俺にはここしかないから)」
だから、――守る。守り続ける。
誓いと、この居場所を。
「……ん?」
山の頂上付近へ来た猫又は、奇妙なものを見つけた。
細いひもの先に、小さな石がついている。
つまみ上げて見てみると、その石は白っぽい色をしており、先の方が曲がった形をしている。
「(……人間のにおい。……この近くにいる)」
猫又はその石を持ったまま、人間のにおいを辿って走り始めた。
握り締めた手の中――その石が淡く光っていることにも気づかずに。
たどり着いたのは、山の北側の森の中。
そこで、一人の若い男が、何かを必死に捜している。
「……あんた、こんなとこで、何してんの?」
出来るだけ自然に、猫又は男に近づいた。
「っぅわぁ! …お、おどかすなよ~…そっちこそ誰だよ、いきなり声かけやがって」
「ご、ごめん。…だって、こんな時刻に山で一人でいたら、何してんのかって思うよ…」
膝をついていた男は、ぶつくさ言いながら土や枯れ葉を払い、立ち上がると、人好きのする笑みを浮かべて猫又に向き直った。
「俺、この山のふもとにある村に住んでる、多嘉彦ってもんだけどよ。今日の昼過ぎに山菜採りに山に入ったら、道に迷って……頂上にのぼってみたはいいんだけど、うっかり足を滑らせてさぁ。気がついたら夜で、お守りもなくしちまって。…で、捜してたらお前が声をかけてきたんだ。
お前、名前は? お前も道に迷ったのか?」
「…俺……琥珀。…迷ったんじゃない。俺、この山に住んでるから。――なぁ、もしかして、おまもり…って、これか?」
猫又が握っていた石を差し出すと、男――多嘉彦は嬉しそうに顔をほころばせた。
「おおお! そうだよ、これだよ! 良かった~、見つかって! ありがとな、琥珀!」
多嘉彦は石についていたひもを首にかけ、満面の笑みを浮かべた。
「……別に、お礼なんて、いい。…それより、もう山を下りろ。…山に住む妖が、目覚める時刻だ」
「げっ、ほんとか!? 分かった! じゃあな、琥珀! お前も気をつけろよ!」
多嘉彦は言うだけ言うと、どたばたと慌ただしく、山を駆け下りていった。
「……『気をつけろ』だって…。ばかみたい。
――俺も、妖なのに、さ」
その場に残された猫又は、ぽつりとそう呟くと――何事も無かったように、山の見回りを再開した。
――それは、遥か遠い日の記憶。
初めて、〈妖力〉を手に入れた日の記憶。
小さな猫だったはずの自分の身体が、いきなり二股の尾を持つ猫になって。
訳の分からぬままに生き続け、時に力を暴走させ、時に自分を狙う悪霊を消して。
『――猫又よ』
山で〈石長比売〉に捕まって、誓いを立てさせられて。
『そなたは一生、我の飼い猫よ』
あの時の〈石長比売〉の顔は、今思い出してもむかつくけど。
――あんたに言われなくたって、俺はちゃんと分かってるよ。
――強すぎる俺に、「ここ」以外に、帰る場所なんて、どこにもないよ。
だから。
飼い猫のままでいてやるよ。
大っ嫌いな、〈石長比売〉さま。
翌日。
猫又がねぐらで目を覚まし、腹ごしらえにけものを狩ってこようかと思った、その時。
「……ぉーい。琥珀ー…」
遠くの方から、自分の名を呼ぶ、男の声が聞こえる。
「…多嘉彦?」
一体何の用で、わざわざこの山へ――しかも、自分の名を呼んで。
猫又はあくびを噛み殺し、人の姿を取り、声のする方へ足を進めた。
「……あぁ、いたいた。――ほら」
差し出されたのは、黒っぽい色をした布の包み。
そっと開けてみると――中には、山菜や干し肉といった、様々な食料が入っていた。
「……」
猫又がその包みを見つめたままぼうっとしていると、多嘉彦は笑ってその包みを猫又の手に押し付けた。
「昨日の礼だ! ありがたく受け取っとけよ。人の厚意は、無下にするもんじゃねーぞ?」
「……うん…」
猫又は小さな声で「…ありがとう」と呟き、包みを懐に仕舞いこんだ。
「じゃあ俺、もう帰るな。…しっかし、険しい山だなぁ。昨日も思ったけど。…でも、山菜とか木の実がいっぱいあるのは、豊かな証拠だな!」
明るくそう言って、多嘉彦は再び笑顔を見せた。
また遊びに来るぞー、と言いながら、手を振って山を降りていく多嘉彦の姿を、猫又はずっと見つめていた。
その姿が森の木立の中に消え、見えなくなる、その時まで。
その夜。
猫又は人の姿を保ったまま、ねぐらで多嘉彦がくれた干し肉を囓っていた。
「……美味しい」
山では決して食べられない味だった。
「(……また、遊びに来るって、言ってた)」
星と、生まれたばかりの細い細い月を見上げながら、猫又は思った。
「(……早く、来ないか、な)」
あの明るい笑顔を、もう一度見たい。
綺麗で、あたたかい気持ちにさせてくれる、あの表情を。
――以来、猫又のもとには、月に最低でも一度は必ず、多嘉彦が来るようになった。
猫又は、多嘉彦の笑顔に。
多嘉彦は、猫又のどこか浮世離れした様に。
人と妖であるはずの二人は、だが、それでも互いに惹かれあった。
――猫又に近づくたび、淡い光を放つ自らの「お守り」を、いつしか多嘉彦は忘れていた。
「…これは?」
「それはだめ。」
「じゃ、こっちは?」
「それなら食べられる。――よく似た毒入りがあるから気をつけて。葉の形が少し違うから、よく見れば分かる」
猫又と多嘉彦の付き合いが始まって、三ヶ月ほどが過ぎた。
木の実の見分け方を教えている猫又を、愉快そうに眺める、幾つかの影があった。
『――楽しそうだな、猫又』
突然、猫又の耳に届いたその囁き。
しかしそれは、傍にいる多嘉彦には届いていない。
『――〈木霊〉か。邪魔だ。あっちへ行け』
その囁きの主は、木々と共に生まれ、消える精霊――〈木霊〉。
いたずら好きで、妖を――時には人すらをも惑わせる精霊。
『猫又は気づいていない。その胸に芽生え出した感情の名に』
『厄介、実に厄介。――我等が告げるべき言の葉は一つきり』
『〈石長比売〉に悟られぬよう』
『悟られたが最期、猫又と人間の命の灯は、その時に消え失せる』
『ああ恐ろしや、げに恐ろしき――女神の嫉妬』
『――うるさい!!』
猫又が一声、心の内で吼えると――〈木霊〉たちは、一瞬のうちにさわさわという木の葉の音だけを残し、何処へと姿を消した。
「(……なんで、〈石長比売〉に気づかれたらいけないんだ。
俺と多嘉彦の命の灯が消えるって、どういうことだ。
女神の嫉妬――嫉妬?)」
一瞬、猫又は何かを思い出しかけたが――それより早く、猫又の意識は、眠気に捕らわれた。
この時、その「何か」を思い出しておかなかったことを、猫又は後悔することになる。
しかし猫又はあとあとまで、それに気づくことはなかった。
〈木霊〉の言葉を、猫又は彼等のいたずらのひとつとして放置した。
更に月日は流れ、猫又と多嘉彦が出会ってから七ヶ月が過ぎた、ある満月の日の晩――。
多嘉彦は琥珀と、山の開けた草原で、月見をしていた。
山の麓――村の方向からは、賑やかな祭りの楽の音が聞こえてくる。
二人だけの、楽も踊りも何もない月見祭りだが――しかし多嘉彦は、こちらの方が良かった。
村人総出で騒ぐ祭りより、多嘉彦は琥珀と二人だけで、静かに眺める月見が好きになっていた。
近所の人から分けてもらった酒を飲みながら、多嘉彦は時折、琥珀を見つめる。
色の薄いその髪と、同じ色をした、月光を反射し輝く瞳。
ぼうっと月を眺める琥珀を見ながら、多嘉彦は、自分の中にあるもやもやとしたものに、次第に形と名が付けられていくのを感じていた。
「(……あぁ、そうか、)」
この感情は、
「(今、俺が琥珀に抱いてんのは、)」
これの名は、
「(―――『好き』だ)」
……同じ頃。
多嘉彦の隣に座る猫又も、同じことに気づいていた。
そして、彼等の知らないところでは―――…
『〈木霊〉』
『何でしょうか、〈石長比売〉』
『最近、我の飼い猫の様子がちとおかしい。お前、何か知らぬか』
『あぁ、それでしたら――』
翌日、十六夜の晩。
猫又は〈石長比売〉に呼ばれ、山の頂上へ来ていた。
『何の御用ですか、〈石長比売〉』
『いやいや。ちとお前に聞きたい事があっての』
その声や口調――それは、全く何時もどおりの〈石長比売〉のもの。
だが猫又は、何か言い知れぬ――ぞっとするような「何か」を、その声の底に感じていた。
『〈木霊〉から聞いたぞ。――お前、最近、一人の人間とやたら仲が良いそうだな』
『…? はい』
『そして、何か――その若者に、何やら特別な想いを抱いておると?』
――ぴりぴり、と、猫又は肌に何かが触れたような感覚を覚えた。
――そして。
『教えてやろう』
「それ」は、次第に明確な形をとり始める。
『その想いの名は、「好意」。
相手と共に居たい、相手を大切にしたい、と思うこと。
――そして』
はっきりとした、形になって。
猫又に、襲いかかる。
『――我が呪いたいと思うほど、憎き、憎き感情よ!!!』
『!!!』
猫又はこの瞬間になって、やっと思い出した。
「(あぁ、そうだ)」
〈石長比売〉は昔――神代の頃に、御妹君の〈木花開耶比売〉と共に、天孫の〈瓊瓊杵尊〉に嫁いだが、「醜い」という理由で、一人だけ送り返された、と。
それ以来――恋愛や好意という感情を、激しく憎むようになった……。
「(……〈木霊〉の言ってた、女神の嫉妬って、このことだったのか。……確かに、〈石長比売〉の嫉妬ほど、怖いもんは無いや)」
〈石長比売〉の放った〈呪い〉に侵されながら、猫又はそんなことを思った。
――暗い、昏い、闇だ。
何も見えない。聞こえない。そんな闇。
それが、どこまでもどこまでも広がっている。
「(……なんで…おれ…ここにいる)」
何もない。何も触れない。
「(…おれ…の…なまえ、は)」
『――“ ”!』
誰かが、呼んでくれていた、気がするのに。
たいせつな、誰かが。
じぶんの、名前を。
「(………た…)」
――もう、少しで。
そのひとの、
なまえ、が。
「(……か、……ひ………こ)」
――なまえが、
わかった。
「(たかひこ、が)」
よんで、くれていた。
なまえ。
「(……どうし、て)」
おもいだせ、ない。
あんなに。
よんで、くれてた、のに。
「……たか、ひ、こ」
あい、たい。
くらい、ここは、いやだ。
あって。
たかひこの、えがおが、みたい。
「……ぅー?」
…あ。
「…おーい。琥珀ー?」
満月から、十七夜月に変わる日。
いつものように多嘉彦は、琥珀の住む山へと登っていた。
満月の、あの晩に。
はっきりと分かった――自分のこの想いを、琥珀に伝える為に。
――だが。
「…おかしいな…」
いつまで経っても、琥珀が姿を見せる気配はない。
いつもなら、もう出てきてもおかしくない頃なのに。
――琥珀の身に、何かあったのだろうか。
そう思った多嘉彦は、心当たりのある場所を捜してみようと、一歩足を踏み出した。
その、瞬間。
「……タ…カ…ヒコ」
「!?」
真後ろから聞こえたその声に、思わず振り返る。
――そこにいたのは、
「っ……!?」
陽の光の下にありながら、まるで夜の闇のような色をした、巨大な猫。
「タカ……ヒコ……」
「っ!!」
その化け猫は多嘉彦の名を呼びながら、次第に近づいてくる。
とっさに首にかけてあるお守り――勾玉に触れた多嘉彦は、その瞬間、気がついた。
勾玉の発する熱と、その化け猫の持つ瞳に。
「……ぁ……」
その化け猫の瞳は、茶。
愛しい琥珀と同じ――寸分の違いもない、あの瞳だった。
――不意に多嘉彦の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。
『この勾玉が熱くなったら、いいかい、近くに“妖”がいるしるしだよ。だから、すぐに逃げなさい。――いいね?』
村の祈祷師だった、母の言葉。
幼かった自分は、その言葉の意味をよく分かっていなかった。
「…逃げるなんて、出来ないよ。母さん」
だってこいつは――“妖”だろうと、俺が愛する相手だ。
笑って、多嘉彦は激しい熱を発する勾玉を投げ捨てると、縋るように伸ばされた化け猫の――琥珀の手を、強く握った。
離さないと、いうように。
途端。
多嘉彦は、琥珀と手を繋いでいた。
ただし――あの化け猫の姿でも、いつも自分の前に現れていた人間の姿でもなく――頭に猫の耳と、二本の尾を持つ人の姿をしていたが。
「……多嘉彦! 会いたかった……、会いたかったよ…!」
泣きじゃくりながらしがみつく琥珀の頭を優しく撫でてやりながら、多嘉彦は何だか、とても心地のいい眠気を感じた。
「琥珀…、会えて、良かった。…すまん、少し、寝かせてくれ。…何か、眠い」
「…あ、俺…も…」
多嘉彦は琥珀の手を握ったまま――「起きたら、言いたい事があるんだ」と呟き、とうとう眠気に負け――琥珀と同時に眠りについた。
――翌朝。
大室山のふもとで、黒髪の若者と、茶色の毛並みを持つ猫が、まるで恋人同士のように寄り添って死んでいるのが発見された。