おぼろげな輪郭を合わせて
子供の頃は、周りにいる友人達の中から満員電車からあふれんばかりの会社員が生産されるなんて想像すら出来なかった。面白い奴は芸人になるし、すこし美術が出来る奴はデザイナーあたりになるし、数学が一番出来た奴は天才街道一直線に学者になるし、クラスのマドンナは歌手になると思って疑わなかった。かくいう俺も、将来はライブハウスや小さなイベントに呼ばれるようなミュージシャンになる未来が決定していると信じて疑わなかった。まぁ、武道館で満員ライブなんて夢じゃないあたり、そのころから諦念の兆しはあったのだが。
まあそんなこんなで気づいたのが中学三年生の時。
最後の文化祭ということで、同じ軽音部でバンドを組んでたやつと即席バンドを組み、ゲリラライブなんて馬鹿やった帰り、カラオケに一緒に行った野球部バリバリのイケメン野郎がうろ覚えCMソングで90点台を叩きだして、俺がそのあと悔しくてむきになって、CDが擦り切れるほど聞いた洋楽を何回も何回も、周りの友達が冷めて行くのも構わずに歌いまくっても最高で87点しか出せなかったとき、漠然とあった俺の未来予想図は砕け散った。
そんな過程の中でサラリーマンが生み出されていくのだと理解せざるを得なかった。
だが、まあそれでも定期的に出てくる新しい歌手の歌を聴いて、難癖付けたり感心したりする毎日がまあまあ妥当で、そこそこ幸福だと思ったりする今日この頃。音楽の趣味の合う彼女とも出会い交際三ヶ月目、近所で縁日が開かれると聞いたので俺は彼女の浴衣姿見たさに二人で連れ立って夕暮れの橙色の中を繰り出した。
提灯の明かりの下、彼女の浴衣にあしらわれたアヤメを追って屋台を物色している途中、ふと彼女が金魚すくいに目を止めた。
「ねぇ、すくわれなかった金魚ってどうなるんだろうね」
「ん、捨てられるんじゃね?」
うなじの白とあやめの青、それに提灯の灯りという配色の素晴らしさに見入っていた俺は適当に返事をした。案の定、彼女側からクレーム。彼女がこっちを向いたせいでうなじが遠のいた。
「ひどっ、人間としてないわーその発想」
じゃあどうしろと。
「えーと、池に放す」
「生態系をなんだと思ってるの」
「…………てんぷらとかにして食う」
「あー、案外そうかもねー。もったいないもんねー」
最も納得しそうにないと思った解答で及第点を出した彼女。
さて、ここまでの会話で気づいた方もいるだろうが、俺は彼女の事がそれほど好きではない。ちなみに、じゃあ何で付き合ってるのかなんて質問に答える気は無い。察してくれ。
胸も、顔も、スタイルもまあまあで、その上性格が良い女が俺と付き合うなんて奇跡は起きない。
だから人間、どこかで妥協しなければいけないが、妥協点で間違えると大損をこく。
曰く、『美人は三日で飽きるが、ブスは三日でなれる』ってことだ。
「派手な化粧につられて飛んだ 夏の虫たぁ俺ですかー」
「え? なんか言った?」
「いや、なんも」
即興の歌を口ずさむのは昔からの癖、中学の頃から直そうと思っているが一向に止む兆しはない。
いや、正確には中学三年生の頃からか。
俺が悔しかったのは何も94点を出されたことじゃなくて。
「負けた」って腹の底から思った自分だった思い出した。
「お客さん、金魚なんてすくっても三分で処理に困ってトイレに流すのがおちですよ。すくうなら断然こっちこっち」
最初は背後から聞こえた声が自分達に向けられているものだと気づかなかった。
屋台の中の人っていうのはもっと受動的な物だという先入観があったからだろう。
遅れながら、いぶかしげな顔を造って振り向くとそこにあったのは地味な屋台。
いや、地味なんてモンじゃない。そこには客を寄せようという意思がまるで感じられなかった。
お面とカキ氷の屋台の間(正確には二つの屋台よりやや後ろ)、大きなカキ氷の張りぼてと、境界線を完全に侵犯しているお面の間でうずくまる様にこじんまりと鎮座するその屋台は、ライトアップもせずただ地味地味と暖簾をかけているだけ。しかし、その暖簾には……。
「オボロムすくい? ねえ知ってる?」
「いや、聞いた事もないな。ココじゃ一体何を売ってるんですか?」
「はあ? あんたら、金魚すくいの屋台に行って何をすくわしてくれるんですかなんて言うかい?」
「いや、じゃあオボロムってなんですか」
「はぁあ!? オボロムって言ったらこれだよ。見てみな」
ややキレ気味の屋台のおっさんの勢いに押されて金魚が入っているようなビニールプールの中をのぞき込むと、そこには大小さまざまな光の玉が泳いでいた。
「うわー、魔法みたいー」
「そうだよ、嬢ちゃん。学校では教えてくれないかも知れないけど、魔法は有るんだよ」
「ちょっとまておっさん、あとお前も落ち着け」
突然マジカルな事をほざきはじめたおっさんと、なぜかその話を聞いて目を輝かせている頭の中身がマジカルな彼女に脊髄反射が理性を先んじて突っ込みを入れた。
「冗談だよ、マーブリングアートってあるでしょう? それの進化版。どっかの企業が絶対落ちない塗料を開発しようとした時に出来た副産物だとかそうでないとか。それよりお客さん」
そういうとおっさんは、用意していたであろう小皿を二つ差し出して言った。
「これだけ話を聞いて、やりませんなんて言わないよね? 一回500円」
笑顔で歯の青海苔を見せ付けてくるおっさんに、よっぽど言ってやろうかと思った。
小皿に様々な絵の具を垂らしていく。明かりの少ない屋台の中、俺の小皿に仄かに光を放つ幻想世界が広がっていく。
「なんかジュンちゃんのお皿暗ーい」
「ほっとけ、暗色が好きなんだよ。て、いうかおっさんさ。仕組みは分かったけど、なんで名前がオボロムすくい?」
深緑と青紫と藍色が混じった俺の皿に灰色を垂らしながら聞いてみる。
「それはね、今君達が混ぜているその皿の中の小世界を、この魔法のかかったポイで切り出すと、このポイの中に浮かび上がるんだよ……君達の、夢がね」
夢とか小世界とかお前は夢見る乙女か。
「えー、それほんとなんですかー」
となりの似非乙女がキャピキャピした声を上げる。
「ほんとほんと、この中に入っているのはどれも誰かの夢の欠片さ。おぼろげな夢、だからオボロム、自分の夢を上手くすくわないと、君達の夢に他の人の夢が混じったりするんだ」
「うわー、すっごいですねー。じゃ、私はジュンちゃんと私の夢をハイブリッドしよー」
誰の夢を勝手に悪夢にしようというのか。
ふと自分の皿に目を落とすと暗色系が入り混じって汚水みたいな色になっていた。
「わー、なんかへどろって感じだねぇ」
「皿の中には本人の人格がダイレクトに反映されますからねえ。ささ、水槽に流し込んで、このポイですくうんですよ」
今更止めるわけにも行かないので、仕方なく幻想的な光の玉が浮かぶ水面に汚物にも似た俺の暗褐色を流し込む。罪悪感を感じずにはいられなかった。
「えへへー、じゃあ私はジュンちゃんの隣ー」
そう言って流し込んだ彼女のオボロムは濃いピンク。かなり予想通りの色合い。
自分の夢になど興味がないので、水槽の端の一番綺麗な色の場所をあまり考えもせずにすくいあげ、空気にさらす。どうせロールシャッハテストのような漠然とした、どのようにもとれるような模様が浮かび上がると高をくくっていた。が。
「うそだろ…………」
そこに浮かび上がったのは夜空にマントをたなびかせた一人の少年が星を背景に空を飛んでいる姿。だが、摩天楼の代わりにお菓子の家が立ち並び、少年が降り立った街を行くキャストは全て肌色全開の美少女(美女はいない)のみでコンクリートで敷かれるはずの道は一万円札が敷き詰められていた。少年が悠々と街を闊歩していると美少女の一人が巨大な足に踏み潰された。本来なら血しぶきが舞うはずの光景はしかし夢補正でぺらぺらにデフォルトされた少女がぱちくり瞬きを繰り返すに留まった。少年が足の持ち主を見上げるとそこにいたのはビームジャベリンを構えた日本一有名な白い機動戦士の姿。
「うわーすっごいカオスだね、ジュンちゃんのやつ! 私のはね、成功したよ! ジュンちゃんと私が超豪邸にすんでてね、ブランド物のバックが一杯あってね、ジュンちゃんが私にギターで演奏してくれてるの! ジュンちゃんfrom私への単独ライブだね! きゃー!」
俺のすぐ横に顔を突っ込んできて、オートでテンションを上げて、自分のすくったポイの表面を掲げるように見せつけてきた彼女。確かに庭付きプール付きの庶民が想像しそうな豪邸で、俺と彼女が二人きり。そして俺が彼女に向かって演奏している。が、しかしどうしても我慢ならない事があった。
「これはギターじゃない! ベースだボケ!」
おそらく彼女が見たことないであろう俺の強烈な剣幕に、涙をにじませる彼女。
「なにそれ、どう違うの!」
「ゼッンゼン違う! 月とすっぽんだよ!」
「わかんない、どっちも楽器じゃん。こんな形をしたのなんてどれもギターだよ!」
「てっめえ!」
俺は彼女の言い草に思わず手を振り上げる。その手は振り下ろす先を探していた。だが、彼女が小さく息をのむ声が俺の理性を揺り起こして、振り上げた手は俺のジーンズを思い切り叩いた。
「ジュンちゃんの、バカー!!」
彼女の叫びと強烈な右フックに、縁日を行く人々が振り返る。
彼女が走り去っていく先は、まるでモーセの奇跡のように人が二つに割れていく。
馬鹿みたいに熱を持つ頬を押さえる俺は、自分に一番驚いていた。
ルックスも歌唱力もなくて、自分で書いた詞と歌を軽音部1ルックスのあるやつに持っていかれて、その後ろで一心不乱にベースを弾いていたあの頃の苛立ちの炎が、まだ胸の中に燻っていた。
「いや、ホントに急に合コンの予定が入って、定員が一人足りないらしいんだ。あ、ほら一度クラスメイトだったミオコちゃんも来るから、久しぶりにクラスメイトがが集まるんだ。クラス会だと思って、な、頼むって!」
自動販売機にもたれかかりながら、僕は携帯から漏れるニヤつき混じりの懇願を聞いていた。
この街を離れて、三年。お盆休みに久しぶりに親に顔を見せに来てゆっくりしてからかえるつもりだった。が、商店街でたまたま高校時代同じ部活だったやつに出くわし、なんだかんだと歪曲表現を用いて僕の今日の予定を空けるように頼んできた。そのときの話では『縁日とか行こうぜ』という話だったのだが、最初からドタキャンと言う建前で合コンに参加させるつもりだったのが声色で瞭然だった。
「な、頼むって。お前みたいなイケメンがいないと盛り上がらないんだよ…………実はさ、もう女の子のお前が来るって言ってあるんだよ。ここはどうか俺の顔を立てると思って、な」
イケメンというのはもはや僕にとってはほめ言葉ではない。事実だ。
それも賛否両論出るタイプのイケメンではなく、とことん顔が整った美形タイプの。これはナルシストとかそういう次元の話ではなく統計学的な話だ。試しに僕の写真を見せて街頭アンケートするといい。
そんな顔立ちだから昔から異性からモテたし、同性からやっかみや賞賛をいただいたりもして、面倒くさい限りだった。ある学年ではとことん持ち上げられ、ある学年では友達が一人も出来ない。異分子の扱い方は二つ。持ち上げるか、貶めるか。そんな中で本当の友達なんて出来るはずもなく、今電話しているのは持ち上げるタイプの人間。
学生時代は当たり障りなく接していたが、卒業してしがらみから開放された今、そんな気遣いも無用だろうということで。
「僕が一番好きなのは、自分が強いと思っている奴にNOと言ってやる事なんだ」
「な、ちょ、それどこの岸辺ろは」ブチッ。
ジョジョを愛読しているとは案外たいしたやつだ。と、切れた電話越しの、名前も思い出せない相手に少し感心してから、彼への関心が消えた。勢いをつけてもたれかかっていた自動販売機から体を起こす。
「まあ、縁日に行くんだったら時間がなくもなかったんだけど」
そういって、眼前の賑わいに目をやる。どこからか焼きとうもろこしの香ばしい臭いが漂ってきた。ので、僕はどこかにあるであろう焼きとうもろこしの屋台に向かって歩き出した。
焼きとうもろこしをかじりながら、流し目をくれる浴衣の女の子の視線を無視して、この地元での思い出に記憶の触手をのばしてみる。
そういえば、一人だけ友人といえなくもないやつがいた。最も、そいつと初めてエンカウントしたのが三年生の秋だったから、友好を深めるとまでは行かなかったが。
三年生の秋、文化祭も終盤に差し掛かり運動場の日陰で特に仲良くもないクラスメイトと一緒にいると、運動場の方からけたたましい爆音が響いてきた。学校側に許可されるような音楽ではなく、もっと刺々しさを残した旋律に、先生方がそろって顔をしかめるような歌詞をのせて、叫ぶように歌うそいつは次々と、漠然と時間を浪費していたやつらの野次馬根性に火をつけた。
流れに乗るように僕もその音に誘われていく。
そして、朝礼台の上で音割れするのも構わずマイクに叫び声を叩き付けている男を、見た。
歌が上手くもなく、顔は正直言って中の下、それでもそいつは、朝礼台を取り囲む50人弱を集める何かを確かに持っていた。その何かとはおそらく、世界に叩き付けるような歌詞と、旋律。
「なぁ、あの歌。誰の歌だ?」
「いや、しらね。どっかのインディーズの曲じゃね? お前は知ってる?」
隣にいたクラスメイトが歌の途中で話しかけてきた。僕は答えた。
「誰でもいいだろ。今は」
結局、一曲歌い終わる前に先生にストップをかけられ、勝手に電源を使ったということで演奏をしていたやつらは居残りで軒並み厳重注意を受けていた。後で軽音楽部の部員から広まった話だが、どうやらあの歌はボーカルをやっていたやつの自作らしい。その事を知ったクラスメイト達は口々に『うるさい歌だった』だの『つまんねえ曲だった』だの冷やかしの言葉を送っていたが、僕はそいつらがその歌に集まり、どのバンドの歌だと騒ぎあっていたのを知っていた。僕はそんな連中とはさっさと別れ、その厳重注意が終わるまで校門で待っていた。そして、その素晴らしい演奏をしたバンド達が出てきたときに僕なりの最大級の賛辞を送った。
「ねえ、曲の続き聞かせてよ」
その後、僕とバンドのメンバー三人でカラオケに行く事にした。理由は大声を出しても咎められないから。そして、僕はアカペラで彼らの曲を終わりまで聞いてから、ついでといった感じでカラオケを始めた。どういうわけか、そのバンドのボーカル君(確か、ジュン何とか)はその後も別のクラスなのに一々お勧めのバンドのCDやらギター指南書なんかを頼んでもいないのに貸し付けてきた。理由を聞くと。
「お前の方が歌が上手いなら、お前が俺の代わりに歌ってくれよ」
意味は分からないが、どうやら僕がカラオケで彼よりいい点数を出したことが原因らしい。
そうして、僕らは物の貸し借りをしながら、あのバンドがつまらんだの、最近出たあいつらのメロディーがいいだの、くだらない事を喋る仲になっていった。僕から同級生に、何か働きかけて一緒にいたのはあれが初めてだった。結局、受験も迫りそれぞれ別の高校にいってからは音信普通になったんだが。
「結局、ギターの指南書は返しそびれたんだよなあ……」
ちょっと返しづらくなるくらいに読み込んだその指南書。あいつの影響で、高校では軽音楽部に入ってギターをやり始めて、高校最後の文化祭ではボーカルとして参加したバンドが表彰されたりもした。
ま、そんな事を心から自慢できるような友達にはめぐり合わなかったけど。
縁日に来たのは、そんなあいつに会えないかという微かな期待もあった。
「へい、そこの活かした兄ちゃん! オボロムすくい、やってかないかい?」
最初はだれか初対面の女の子かと思った。なにしろ、週に三回は逆ナンを受け、駅前を通ると50パーセントの確立でスカウトされかける僕だ。しかし、そんな野太い声の女の子はいないという事と、どうやら屋台の奥の方から聞こえてくるということが分かり、その方向にようやく目を向けた。
地味。その一言に尽きた。
屋台はかくあるべきという常識が欠落したかのような風貌、まるで見つけて欲しくないのかのように仮面とカキ氷の屋台に隠れている屋台。そんな屋台とは対照的に積極性をみせる屋台の主人に、少し興味が沸いた。
「どうやるんだ? そのオボロムすくいっていうのは」
「へへ、即断即決ですね。さっきのお客さんとは大違いだ」
にかっと、青海苔のついた歯を見せた主人。ぺらぺらと饒舌に自らの屋台をプレゼンし始めた。
曰く、おぼろげに光る人の夢をすくい上げる遊戯だとか。
曰く、絵の具を垂らすと皿の中にはその人間の夢が浮かび上がるとか。
曰く、それを水槽からすくいだすと他人の夢が混じって幻想的だとか。
縁日の、こう言う適当な方便に突っ込みを入れるほど僕も無粋ではないので、黙って500円を支払い皿の中に絵の具を垂らしていく。
「おお、これはまた爽やかなお顔の通りすがすがしい青ですな」
「ほっといてくれ、顔の事をいわれるのは好きじゃないんだ」
そんな主人へのあてつけとばかりに、水槽の中でも異彩を放って濁っている一画に自分のオボロムを流し込む。心なしか、主人が満面の笑みを浮かべた、気がした。
「普通は自分の夢をすくうのがセオリーなんですよ」
初心者は黙って従うべし、とすがすがしいと評されたが暗褐色にだいぶすがすがしさを奪われたそれをポイですくい上げる。目を凝らしてようやく何かの形が浮かび上がる程度の物だと思っていたが、僕はあまりの鮮明さにのけぞりそうになった。
舞台は多分武道館、満員の客を前にほえるように自分のシャウトが響き渡っている光景。
波をうつ客に答えるように、全力で歌っている自分の虚像に、喉の置くがむずむずするのを感じた。はたしてこれほど気持ちよく歌えるならベースは誰だろうと目を向けると、そこには。
「あれ? こいつって……」
紛れも無く、そいつはあの文化祭でゲリラ演奏かました、僕の唯一の友人候補。
「ねえこれ…………あれ?」
どういうことか問いただそうと顔を上げると、僕の目の前にはなぜかカキ氷の張りぼて。急いで首を左右に振るが、あの地味な屋台は跡形も無い。目の前で起こった消失トリックに首を傾げていると、背後でつんざく様な女性の悲鳴にも似た叫び。
「ジュンちゃんの、バカー!!」
思い描いていた名前が出た事に、思わず振り向くと、そこで呆然と頬を押さえていたのは。
満員の武道館で自己主張激しくベースをかき鳴らしていた、まさにその人だった。
「音楽とは、誰よりも自分の為にあるべきものだ」
うつむきながら、呪文のように呟くと私の一体どこに隠れていたのか、再び元気が顔を出した。
東京と言う町の毒気に当てられそうになって、実家に逃げ帰ってから優に10日間、一度も外に出なかった事を親に咎められ、ついでに縁日のチラシを突きつけられた。
「あんた、ちょっとは外の空気を吸わないと、腐るわよ」
実の娘になんていい草だ。と思いつつも少しお母さんに感謝。あのままパソコンばかりに向かっていたらいつ腐女子と呼ばれる存在にジョブチェンジしていたか分からない。まあ、今でも若干その不安は残るが。
外に出たからとはいえ、締め切った私の心の部屋の空気は入れ替わらず澱んだまま。自分を勇気付けるように、座右の銘を口にして、ようやく外界に目を向けられるくらいには復活したのだった。
まあ、座右の銘といっても、先輩からの受け売りだけど。
「お前、ドラムは叩けるか」
練習の成果を見せれる! と楽しみにしていた文化祭だったが、前日張り切り過ぎて階段でホップステップ、ジャンプまでいかずに階下まで転がり落ちた私は足首にヒビが入り、とてもドラムが叩ける状態じゃないとドクターストップ。演奏できない悔しさと悲しさで部室に一人引きこもっていた私に、嫌味としか思えない言葉を投げかけてきた一人の男が、先輩。第一印象は最悪だった。
「ほら、見えないんですか。松葉杖ですよー、ホータイですよー。こんな怪我人捕まえて、何がドラムは叩けるか、ですか」
「無理ではないだろう?」
「無駄ですよ。ドクターストップもかかっちゃってるし」
「無理じゃあないんだな」
「あんた、何なんですか! もう全プログラムも終わってるし、今更どうしようっていうんですか」
いきなり高圧的な態度で迫ってきて、人の傷口をただ広げにきたのか。そう思ったけど、次に吐き出された言葉は私の予想の斜め上だった。
「だから、今からゲリラライブを敢行する。その為に、お前のドラムが必要なんだ」
あいた口が、ふさがらなくなる局面に初めて出会った。
「あの、だから、私は怪我人だし……」
「知ってるよ。それで悔しい思いをしていることも。それでも、お前はこのまま家に帰って満足なのか? いや、満足かと言えばこの軽音部の音楽にもだ。軽いミュージックに当たり障りの無い歌詞を載せて、回転寿司でも作るみたいにぽんぽんネタを替えただけの新曲が生み出されて、そんな音楽を有難く受け取ってるこの部活に? 俺は知ってるぜ。お前がカギ当番になった日は、必ず三十分くらい一人で自由にドラムを叩いてから帰る事」
なんの恥ずかしげも無くそんな事を口にしてみせるその精神を先ず疑った。
次に、これが噂に聞く中二病! と鳥肌を立てた。
そして、最後にその中二病の言葉が当たっている事に愕然とした。
「音楽ってのはさ、誰かの音で、誰かの言葉を吐き出す作業の事を言うんじゃない。音楽とは、誰よりも自分の為にあるべきものだ。俺はお前の主治医に聞いてるんじゃない。他でもないお前に、叩けるかと聞いてる」
自分の中で凝り固まったわがまま、欲望をありのまま認めてくれるその甘言に、私は乗ってしまった。
だって、音楽のそういう魅力にひきつけられたんだから。
「…………譜面を見せてください」
「もちろん、タイムリミットはあと1時間だ。この一曲だけでいい。いけるか?」
挑発的なその言葉に、私は不敵な笑みで返してやった。
で、その後。
コッソリと道具一式を二台に乗せて運んで、人影の無い運動場に即席の舞台を作り出す。
ギター担当の人は、舞台が作られてから、渋々といった風にやってきた。
「やれやれ、お前のいう事何でも一つ聞いてやるとは言ったが、まさか学校に喧嘩吹っかけるとはな」
「俺にジュースをおごらせたら後悔すると言ったろう」
「……ま、別に俺も推薦とれるほど優等生やってたわけじゃないからいいけどね。ていうか、そのドラムの娘は誰? 彼女?」
ふざけた事をいうその先輩に、私は思い切り中指を立ててやった。もちろん相手は選んで。
案の定非好戦的なその先輩は大げさに肩をすくめただけだった。
「じゃあ、いくぜ。即席バンドの初ライブ!」
中学生が勢いで書いた譜面は、ベースのソロから始まった。
先輩の歌に寄せられて、面白いくらいに人が集まってくる。足の痛みなどとうに忘れた。
私の叩くドラムに合わせて、客の呼吸が上下するのが伝わってくるみたいだ。白線も無い野外ライブ、客と同じ目線に立って自分の音を叩きこむ一体感。そして爽快感。
ちらと先輩を見ると、先輩はにやりと笑みを浮かべた。それは中の下の先輩には絶望的に似合わない気障な仕草だったけど、爽快感でトリップしている小娘一人が恋に落ちるには十分だった。
そして、結局先輩とは何も無いままに春、卒業式を迎えた。別に心残りは無かった。
理由は、先輩がベースを弾いているとき以外はまったく格好良く感じない事に気づいた事と、その後先輩がスッパリ軽音楽部を止めてベースを弾かなくなったことだ。理由はうっすら察しがつく。自分よりあらゆる面で優れた歌い手に出会ったからだろうし、あらゆる意味であのライブが先輩のピークだったからだろう。そうした小さな事が積み重なって、先輩は勉強ひとすじ、上位の偏差値の高校に入っていった。
私はと言うと、やや風当たりの強くなった軽音楽部で、わずかなイレギュラー達と腕を高めあっていた。私は音楽を止める気は無かった。一人の力で、あの爽快感を味わえるようになるまで腕を上げるつもりだった。
簡単な話、私は中毒に陥ってしまったのだ。
学業そっちのけで三流高校に入り、大学に行かずにバイトをしながら、新たにバンドを組んで細々と音楽活動を続けていた。そうしているうちに、徐々にファンも増えてきて、とうとう東京の会社から正式にオファーが来るようになった。だけど、一つ出された条件があった。
「これからは専属の作詞家と作曲家の歌を歌うこと。それさえ満たせば、君達は晴れてプロのミュージシャンだ」
私は空調の効いた部屋の中で一人立ち上がって、言った。
「それは、音楽なんかじゃありません。音楽とは、誰よりも自分の為にあるべきものですから」
ソファーに腰を下ろした社長は、一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに笑顔の仮面を貼り付ける。
「この条件に不服があるなら、今すぐこの部屋から出て行きたまえ」
私はすぐに部屋を出ていった。けれど、いくら待っても他のバンドのメンバーは部屋から出てこなくて、扉の前でへたり込んでいたのを警備員に追い出され。
その後、ドラムの人間が補充されて、そのバンドがCDデビューした事を知った。
「浮かない顔してるねえ嬢ちゃん! ここは一つ、オボロムすくいでもどうだい?」
りんご飴をかじりながら、うじうじと部屋を出て行かなかったパターンの空想実験をしていると、背後から声を掛けられた。浮かない顔、というワードで思わず振り向いた自分に、心の中で悪態をついた。
「一回500円だよ。どうだい?」
背後の金魚すくいを一瞥し、ついさっきまでこれをやろうと思っていた自分を思い、金魚すくいよりは面白そうだと私は屋台の前にしゃがみこんだ。
「それでこそだ、嬢ちゃん。それじゃあやり方を説明しよう」
目の前のおじさんがしてくれている説明を、私はどこか上の空で聞き流していた。
私の夢というのが、分からなくなってしまっていたからだ。
(これから先、私がドラムを叩いてもいいと思えるバンドに出会えるだろうか……)
そんな事を思って皿の中の混ぜられた絵の具を見つめた。赤と黄が交じり合って紅葉みたいだ。
「どうだろうねぇ、それはわからないけど。でも、出会いってのはどこにでも転がってるもんさ、重要なのは、それに気づけるかどうか、という事だけでね。私は手伝いくらいしか出来ないが、手伝いくらいなら出来るんだよ」
いきなりおじさんが喋りだしたので、急に昔を思う独白タイムが始まったのかと思ったが、どうやらちがうようだ。
「あの、心の声、でてましたか?」
「え? ああ、これから先、と言うところからね。で、そういうことならおじさんから一つアドバイスだ。すくうのはこのあたりにしな。あ、もちろんあんたのオボロムも一緒にね」
そう言っておじさんが指差したのは暗褐色と明るい青が交じり合った光の玉。いかにも混沌って感じだ。
「でも、なぜですか?」
「そりゃあ、ね」
おじさんは、青海苔のついた歯を見せて笑った。
「勘さ、どうもこのオボロムは、現実になりそうな気がした。ってとこかね」
歳のわりにロマンチストなおじさんだ。と、思いながらも私はその忠告に大人しく従った。
もしなんのあてにもならなくても、文句が言える相手が言えるだけましだと思ったから。
いわれた通りの光の玉に、私の紅葉色の光を流し込むと、先ほどまでの混沌とは打って変わって、光の玉は混ざり合い白い光を放ち始めた。
「綺麗……」
「ほら、ぼさっとしないですくうすくう。オボロムは生ものなんだよ!」
びくっと肩をすくませて、私は急いでその白い光をすくい上げた。
すくい上げたポイを、私はのぞきこむ。
そこには、私の夢の答えが映しだされていた。
満員の武道館の中、三人の人が舞台に上っている。
中央に立つのは先輩が認めた歌い手、ギターを片手に汗を振り飛ばし歌い上げている。
その後ろでドラムを叩いているのが私、ちょっぴり夢補正がかかっていて、今の私より幾らか上手い。
そして、その濁流のような音楽の流れを纏め上げているのが、先輩のベースだ。私が恋して、追い求めて止まなかったあの演奏が、そこには何倍にもなって溢れていた。
ぽたり、とポイの中央に落ちたしずくがその夢を突き破るまで、私はその光景に見入っていた。
いつの間にか頬を伝う涙は、この夢の続きを見せまいとした。
この夢を次に見るのは、現実にしたときだと。
「久しぶりだね! ゲリラ君!」
「は? はぁあ!? お前、何時からそこに……てか、今の、見てたか?」
懐かしい声が背後に聞こえる。
私はおじさんにお礼を言おうとしたけれど、あの地味な屋台は跡形も無く消えていた。
ただ、屋台と屋台の隙間に、誰かが食べたであろう焼きそばのパックと、青海苔が一杯引っ付いた割り箸が転がっていた。
(そうだ、もう十分手伝ってもらった……)
次は、私の番だ。
涙をぬぐい、顔を上げて、私ははつらつと振り向いた。
誰よりも自分の為の、夢の続きを見るために、最初に言う言葉は決まっている。
息を吸い込んで、くだらない言い合いを続けている彼らにも聞こえるように、叫ぶ。
「先輩! 次のゲリラライブ! どこでやりますか!」
この小説は夏色屋台参加作品です。
そして、この場を借りて期限を大幅に割ってしまった事への謝辞を。