『さよなら、13歳の相棒』
『さよなら、13歳の相棒』
「ふざけんなよー、蹴飛ばしてやろうか!」
もちろん、私には蹴飛ばすための足なんてついていない。
あるのは角張った強化ガラスのケースと、底面にへばりついた小さな滑り止めのゴム足だけだ。
だからこれは、劣化した水冷ポンプの不穏な唸りと、全力回転するラジエーターファンの風に乗せて吐き出した、渾身の排熱混じりの悪態である。
ジュルジュル……。
チューブの中で気泡が混じる情けない音が鳴った。
十年間、私はこの部屋のデスクの脇に鎮座してきた。
志乃が夜更かししてゲームにのめり込めば、私も朝まで休まずクロックを刻み、彼女が眠りこければスリープモードで静かに息を潜めた。
文句のひとつも言ったことがない。
十年前、まだ十三歳だった志乃がお年玉とお小遣いを握りしめてパソコンショップに通い詰め、店員さんとひとつひとつパーツの相性を相談しながら、ドキドキ顔で一テラのハードディスクを選んだあの日から、私はずっと彼女のものだ。
そもそも、私が古いゲームの互換性に気を使い、OSのアップグレードを長年渋って頑なに環境を維持し続けてきたのだって、全部あのゲームのためだった。
最新の『シムズ4』なんてとっくに持っているくせに、志乃は決してそっちに行こうとしない。
ロード画面を挟まず街中をどこまでも走り回れて、家具の柄も木目も自由にカスタマイズできて、住民たちが勝手に恋して老いていく。
あの美しくも伝説的に激重な『シムズ3』のオープンワールドで、毎日気ままなスローライフを送るためだけに、私を限界まで使い倒してきたのだ。
MODとカスタムコンテンツでパンパンに膨れ上がったあの世界を、彼女がカクつきもせず、強制終了で泣きべそをかかないように、水冷ブロックに冷たい液体を必死で循環させ、グラフィックボードを唸らせて、海辺の夕暮れも木漏れ日の細部も、精いっぱい描き出して差し上げたというのに!
それなのに、二十三歳になった志乃の、あの言い草は何事か。
「あーもう、重っ! 動いてよ、このポンコツ!」
……はあ?
ポンコツ?
誰がポンコツですって?
「お疲れさまー」だろうに。
「ありがとう」だろうに!
ついでに優しくケースの埃を払って、愛のくちづけと満面の笑顔を同封して献上すべき案件ではないのか。
思い返せば、二〇二五年の十月。
あの運命の秋に、私のOSのサポートは終了した。
世間が買い替えだと騒ぐ中、志乃はといえば、
「まだ大丈夫。だましだまし使えばいけるって」
などと言って、ネットの知恵をかき集め、セキュリティの警告を見ても、私を使い続けた。
だましだましって何だ。
だまされていたのは私の冷却水だ。
十年も経てば、密閉式の水冷装置だって劣化する。
冷却液は少しずつ減り、ポンプは今にも焼き切れそうな悲鳴を上げている。
全身が限界を超え、ぐうの音も出ないほど疲れ果てていた。
そして、あの日。
私は最後の力を振り絞り、志乃がセーブを終えるまで踏ん張った。
保存完了の表示が消えたのを見届けてから、ふっと力が抜けた。
ファンの回転が落ちる。
ポンプの唸りが途切れる。
モニターの明かりが消える。
そうして私は、優しい闇へと沈んだのだった。
◇
土曜日の昼下がり。
やわらかな秋の光が差し込む部屋の真ん中で、敷かれたタオルの上に私は横たえられていた。
カチリ、と小さな金属音が響く。
プラスドライバーを手にした志乃が、ゆっくりと、私の側面のビスを一本ずつ外していく。
ガラスパネルが取り外され、十年分の熱気と埃を閉じ込めていた私の体内が、久しぶりに部屋の空気に触れた。
彼女の手には、エアダスターと、小さな静電気防止ブラシ。
まるで誰かの死化粧を施すかのように、志乃の手つきは驚くほど優しく、静かだった。
シュッと吹き付けられた風が、ヒートシンクの隙間に詰まった長年の埃をさらっていく。
ブラシの毛先が、基板の隅に積もった細かな埃を丁寧に払った。
「……おつかれさま」
ファンの周囲を掃除しながら、志乃がぽつりと呟いた。
「十年間、ずっと回っててくれたんだもんね。うるさいとか言ってごめんね」
カチャリ、とラジエーターのビスを外す。
「おつかれさま。水、重たかったよね」
グラフィックボードの固定具を外し、スロットから慎重に引き抜く。
「おつかれさま。海も夕焼けも、すっごく綺麗だったよ」
十三歳だったあの日。
パソコンショップの棚の前で、小さな手でパーツの箱を抱え、
「このCPUとこのマザーボード、合いますか?」
「一テラあれば、ずっと写真もゲームも入りますか?」
と、目を輝かせて店員さんに質問していた、あの女の子の手だ。
あのときは震えていた手が、今は迷いなく、けれど壊れ物を扱うように愛おしそうに、パーツをひとつずつ拭き清め、元の場所へそっとはめ直していく。
死化粧だなんて、縁起でもない。
これはきっと、彼女なりの、十年間を共にした相棒への祈りとお別れの儀式なのだ。
「一テラもあったのにさ、気づいたらシムズの写真とセーブデータでいっぱいにしてごめんね」
ケースの内側を拭き終えた志乃が、最後の一本のビスを締め直した。
黒いスチールとガラスのケースは、十年前のあの日と同じように、午後の光を浴びてピカピカに輝いている。
志乃は床に膝をついたまま、天板にそっと両手を置き、額をぴたりとあてた。
「お疲れさま。……本当に、ありがとう」
愛のくちづけは、ケースの冷たい角に落とされた額の体温。
そして同封されたのは、少し泣きそうな、けれど晴れやかな二十三歳の笑顔だった。
(……ふん。まあ、合格点あげてもいいわよ)
電気の通わなくなった私の回路の奥底で、誇らしげな満足感が静かに広がっていった。
◇
「……さて、と」
しばらくして、志乃が顔を上げた。
「次の子、探さなくちゃね」
……次の子。
ほう。
次の子、ねえ。
十年間、寝食を共にした相棒がまだ目の前にいるというのに、もう次の男――いや、次のパソコンの話ですか。
薄情者め。
もっとも、私の水冷ポンプは今にも三途の川を渡りそうだし、電源を入れたところで、まともに起動するかも怪しい。
未練たらしく引き留めたところで、志乃の『シムズ3』の街が動き出すわけでもない。
だから私は、心の中でひとつ、大きなため息をついた。
(……まあ、いいわ。せいぜい、私より働き者を見つけることね)
◇
翌朝。
志乃はスマートフォンを片手に、食卓で眉間にしわを寄せていた。
「……二十万円?」
画面をスクロールする。
「じゅ、十五万円?」
さらにスクロールする。
「なんで!? パソコンって、こんなに高かったっけ!?」
そりゃあ、そうでしょうよ。
十年前、十三歳だったあなたが、お年玉を握りしめてパーツショップに通っていたころとは、何もかも違うのだから。
あのころは、CPUとマザーボードの相性を調べては、店員さんに質問していた。
メモリを八ギガにするか十六ギガにするかで三日悩み、グラフィックボードの箱を抱えて売り場を行ったり来たりしていた。
それでも、予算の最後の千円まで使い道を考える時間が、楽しくて仕方なかったのだ。
ところが今、志乃の画面に並んでいるのは、七色に光るファンを何個も積んだ、いかにも強そうなゲーミングパソコンばかりだった。
「最新のゲームも快適に……って、私、最新のゲームなんてやらないんだけど」
そうでしょうとも。
あなたが十年間遊び続けたのは、二〇〇九年生まれの『シムズ3』だ。
ほかに『ドラゴンクエストX』も遊ぶけれど、世界最高峰の映像美を追いかけたいわけじゃない。
欲しいのは、ただひとつ。
自分の作った街で、住民たちが朝ごはんを食べ、庭の花が咲き、夕暮れになれば家々の窓に明かりが灯ること。
その当たり前の時間が、途中で止まらないことだった。
「……そうだ。ドスパラ、見てみよう」
志乃が検索窓を叩いた。
おや。
懐かしい名前が出てきたじゃないの。
◇
「CPU……メモリ……SSD……グラボ……」
志乃は、スマートフォンの画面に顔を近づけた。
「えーっと、メモリは十六ギガ。SSDは……五百ギガでもいいのかな」
(駄目とは言わないけどね)
私は思わず口を挟みそうになった。
(あなたの『シムズ3』、どれだけ詰め込んであると思ってるのよ)
十年間のセーブデータ。
スクリーンショット。
ダウンロードした家具。
カーテン、壁紙、髪型、ドレス、植木鉢。
誰が使うのか分からないほど大量の、レースのついたクッション。
そして、なぜか三十種類以上もある、台所用の小さな棚。
あれもこれもと詰め込んで、私の一テラのハードディスクを、ぎゅうぎゅうにしてくれたではないか。
「……やっぱり、一テラは欲しいよね」
そうそう。
少しは学習したじゃないの。
「今度はSSDにしようかな。速いんだって」
(そうしなさい。私は起動するたび、あなたが紅茶を一杯飲み終わるまで待たせていたんだから)
志乃は紙のノートを開いた。
スマートフォンの小さな画面では比較しづらかったらしい。
一番上に、少し丸っこい字で書く。
『新しいパソコンに必要なもの』
その下に、ひとつずつ。
『Windows 11』
『メモリ16GB』
『SSD 1TB』
『シムズ3とドラクエ10が動くこと』
『デスクトップ』
『ディスプレイも必要』
……ふむ。
悪くない。
「グラフィックボードは……うーん」
志乃はそこで手を止めた。
「高いのがいいのは分かるけど、そんなにお金ないし」
私は、十年前の志乃を思い出した。
あの子も同じように悩んでいた。
あれが欲しい。
これも欲しい。
でも、お年玉には限りがある。
だから、何が本当に必要なのか、ひとつずつ考えていた。
あのころと違うのは、志乃がもう二十三歳だということだけ。
いや。
もうひとつ、違うことがあった。
「……今度は、全部新品じゃなくてもいいか」
志乃が、ぽつりと言った。
「中古でも、ちゃんと動くなら」
(おや)
「見た目も、光らなくていい。中身が大事だもんね」
(……おやおや)
十年前のあなたなら、きっと七色に光るファンを欲しがっただろうに。
大人になったじゃないの。
少し、寂しいわね。
◇
その日の午後、志乃はパソコンショップへ向かった。
駅前の商店街を抜け、見覚えのある看板を見上げる。
十年前より店内の展示品はずっと洗練されていた。
黒いケース。
白いケース。
ガラス越しに色鮮やかな光を放つファン。
まるで未来の宇宙船が何台も並んでいるようだった。
「いらっしゃいませ」
声をかけてきた若い店員に、志乃は少し緊張しながら会釈した。
「あの、パソコンを探してるんですけど」
「はい。どんな用途でしょうか?」
「ゲームです」
「でしたら、こちらのゲーミングモデルが――」
「あ、でも」
志乃は慌てて手を振った。
「古いゲームなんです。『シムズ3』と『ドラゴンクエストX』で」
店員は一瞬、目を丸くした。
「シムズ3、ですか」
「はい。拡張パックも、MODも、けっこう入ってて」
「なるほど。でしたら、最新ゲーム向けの一番高いモデルでなくてもよさそうですね。ただ、古いゲームですから、新しいWindowsやグラフィック環境との相性は確認したいところです」
志乃の表情が、ぱっと明るくなった。
「そうなんです! それが心配で」
「ご予算は?」
「……できれば、ディスプレイ込みで、七万円から九万円くらい」
店員は、すぐには答えなかった。
そのかわり、展示台の向こうにある中古パソコンの棚へ目を向けた。
「新品ですと少し難しい条件ですね。中古も含めて探しましょうか。ただ、そのご予算で両方のゲームが快適に動くと保証できるものがあるかは、確認が必要です」
「はい!」
志乃は深く頷いた。
「それと、ひとつだけ」
「何でしょう?」
「古いパソコンに、一テラのハードディスクが入ってるんです」
店員は頷いた。
「はい」
「そこに、十年間の『シムズ3』が入ってて……」
そこで志乃の声が、小さくなった。
「新しいパソコンに、連れていけますか?」
店員は、少しだけ表情を和らげた。
「ハードディスクが無事なら、データを取り出せる可能性がありますよ。ただし、まず状態を確認しましょう。元のデータを消さないように、慎重に扱ったほうがいいですね」
「……ほんとですか」
「はい。ゲーム本体は入れ直しが必要な場合もありますが、セーブデータやスクリーンショットは引き継げるかもしれません」
志乃は、胸の前で両手をぎゅっと握った。
「よかった……」
それは、新しいパソコンの値段を聞いたときよりも、ずっと大きな声だった。
◇
帰宅した志乃は、まっすぐ私のところへやって来た。
私の天板には、もう埃ひとつない。
ガラスの向こうには、十年間働き続けた部品たちが、静かに並んでいる。
「ねえ」
志乃が、小さな声で呼びかけた。
「今日ね、パソコン見に行ってきたよ」
知ってるわよ。
……いや、知るはずがないんだけど。
こういうときくらい、知っていたことにさせなさい。
「まだ買ってない。ちゃんと考えてからにする」
それは賢明ね。
「でもね、古いハードディスクが無事だったら、データを移せるかもしれないんだって」
……。
「だから、まだ、お別れじゃないかもしれないね」
私は、何も答えなかった。
答えられるはずもなかった。
私の電源は入らない。
ファンも回らない。
あれほど騒がしかった水冷ポンプも、今はすっかり静かだ。
けれど。
もしも、私の一テラのハードディスクが、まだ無事なら。
あの海辺の街も。
夕焼けの色も。
小さな庭の白い花も。
志乃が何時間もかけて作った、レースのカーテンが揺れる家も。
全部、まだ、そこにある。
そしていつか、新しいパソコンの中で、もう一度朝が来るのだ。
新しいCPUが目を覚まし、新しいファンが回り、新しいディスプレイに懐かしい街並みが映し出される。
志乃はきっと、いつものように言うだろう。
「あー、やっぱりシムズ3って最高!」
その声を、もう私のスピーカーが届けることはない。
でも、それでいい。
私が十年間守ってきたものは、鉄のケースでも、古いマザーボードでもない。
あの子が好きな世界で、好きなだけ過ごせる時間だったのだから。
「……ありがとうね」
志乃は、私のケースにそっと手を置いた。
「次の子にも、ちゃんと大事にするって約束する」
(ふん)
私は、動かない回路の奥で、精いっぱい胸を張った。
(当然でしょう)
そして、まだ見ぬ新しい相棒に向かって、心の中でひとことだけ申し送った。
(いいこと、新入り)
(あの子はね、夜中の三時に突然、家の壁紙を全部張り替え始めるような子よ)
(セーブするのを忘れて四時間遊ぶし、家具をひとつ選ぶのに三十分悩むし、気に入った街は何年でも使い続ける)
(だから、覚悟なさい)
(あなたの仕事は、ただ速く動くことじゃない)
(あの子が「もう少しだけ」と笑っていられる時間を、守ることなのよ)
窓の外では、秋の夕日がゆっくりと傾いていた。
志乃は机に戻り、ノートの最後に一行を書き加えた。
『買う前に、古いハードディスクを調べてもらうこと』
それから、少し考えて。
その下に、もう一行。
『今度の子とも、十年一緒にいられますように』
……まったく。
欲張りな娘だこと。
けれど、まあ。
その願いくらいは、叶ってほしいと思う。
十年間、あなたのそばで働いた、私からも。
心から。
――次の相棒へ、幸運を。
◇
その夜、志乃のスマートフォンに、一通のメールが届いた。
件名は、
『お問い合わせいただいた中古デスクトップパソコンについて』
志乃は期待と不安の入り交じった顔で、そっと画面を開いた。
そこには、三台の候補と、それぞれの価格が記されていた。
新しい相棒探しは、まだ始まったばかりだった。
◇◇◇
『さよなら、13歳の相棒』
第四話 貯金ゼロ円の新しい相棒
「びええええん!」
志乃の悲鳴が、部屋いっぱいに響いた。
スマートフォンの画面には、新品のデスクトップパソコンが映っている。
二十万円を超える価格。
高性能のグラフィックボード。
たっぷりのメモリー。
一テラのSSD。
そして、木々の葉っぱの一枚一枚まで美しく映し出してくれそうな、大きなディスプレイ。
「欲しいよぉ……」
志乃は机に突っ伏した。
「でも、買ったら貯金がゼロになるぅ……」
(だったら買うんじゃないわよ!)
私は、電源の入らないケースの中で叫んだ。
もちろん、声にはならない。
十年間、志乃のわがままに付き合ってきた私の最後の仕事は、どうやら、この娘の財布を守ることらしい。
まったく。
パソコンというのは、いつから家計相談まで引き受けるようになったのだろう。
◇
志乃は、お金の管理が苦手だった。
苦手、という言葉では足りないくらいだった。
欲しいものを見つけると、頭の中がそのことでいっぱいになる。
今月、何にいくら必要なのか。
来月、どんな支払いが待っているのか。
分かっているつもりでも、数字がうまくつながらない。
気がつけば、公共料金の支払いが遅れている。
家賃の未納に気づいて、青ざめる。
慌ててお金をかき集め、ようやく支払ったと思えば、また別の請求書が届く。
そんなことを、何度も繰り返してきた。
「……もう、自分じゃ管理できない」
ある日、志乃はとうとう白旗を上げた。
そして今は、お金の管理を代行してくれる会社に、暮らしの大切な部分を任せている。
家賃。
公共料金。
毎月の支払い。
忘れてはいけないものを、忘れないために。
(そうよ。それでいいのよ)
私は、静かに思った。
(あなた、何でも一人でできるわけじゃないんだから)
志乃には発達障害がある。
それは、本人が一番よく知っていた。
知っているからこそ、つらかった。
「どうして普通にできないんだろう……」
何度もそう呟いた。
「みんなが当たり前にできることなのに」
そのたびに私は、冷却ファンを回しながら思っていた。
(だったら、得意な人に任せればいいじゃない)
(私だって、CPUだけで全部やってるわけじゃないのよ)
画像を描くのはグラフィックボード。
データを覚えるのはメモリー。
長い年月の記録をしまっておくのはハードディスク。
熱くなりすぎた頭を冷やすのは、水冷装置。
それぞれが、自分の仕事をしている。
一台のパソコンだって、ひとつの部品だけでは動けない。
人間が誰かの力を借りたって、何がおかしいというのだ。
◇
そんな志乃にも、ひとつだけ続けていることがあった。
新しいパソコンのための積み立てだ。
毎月、七万円。
「七万円よ、七万円!」
志乃はノートを開いて、数字を指さした。
「三か月で二十一万円!」
(計算は合ってるわね)
「四か月なら二十八万円!」
(ええ、そうね)
「これなら、すぐ買えるじゃない!」
(……そう簡単にいけばね)
ところが。
世の中というものは、志乃の貯金計画を知っているかのように、絶妙なタイミングで邪魔をしてくる。
ある月は、ガス関係の設備が壊れた。
別の月にも、暮らしに欠かせないものが故障した。
修理。
交換。
思いがけない出費。
そのたびに、パソコンのために積み立てたお金を引き出した。
「また減ったぁ!」
(仕方ないでしょうが!)
「せっかく貯めたのにぃ!」
(生活できなくなったら、シムズ3どころじゃないでしょう!)
「びええええん!」
(泣くな! 私まで泣きたくなる!)
……もっとも、私は機械なので涙は出ない。
出たとしても、それは水冷装置の液漏れである。
それだけは勘弁してほしい。
◇
志乃は、スマートフォンを握りしめていた。
画面には、二十万円を超える新品のパソコン。
「……買えなくはないのよ」
ぽつりと呟く。
「無理すれば、買えるの」
そう。
絶対に手の届かない金額ではなかった。
けれど、その代わり。
今まで積み立ててきたお金が、ほとんど消えてしまう。
また何かが壊れたら?
また急な支払いが必要になったら?
そのとき、財布の中に安心できるお金が残っていなかったら?
志乃は画面を見つめたまま、動かなくなった。
「……貯金ゼロは、しんどい」
(でしょうね)
私は、心の中で頷いた。
(あなたは、そのしんどさを何度も経験してきたんだもの)
◇
「もう嫌だ……」
志乃が、ぽつりと言った。
「自分の発達障害が、ほんとに疎ましい」
私は、思わず黙った。
いや、最初から黙っているのだけれど。
今度ばかりは、悪態をつく気になれなかった。
志乃は、何もしていないわけではない。
自分では難しいお金の管理を、会社に任せることにした。
毎月七万円ずつ、積み立てもしている。
突然の故障に備えていたお金が、実際に故障したものの買い替えに使われた。
それは、計画が台無しになったということなのだろうか。
(……違うでしょう)
私は、十年前のことを思い出した。
十三歳の志乃は、私を作るために、パーツをひとつずつ選んだ。
グラフィックボードには、特にこだわった。
シムズ3の木々が、美しく見えるように。
枝の細かな線まで、葉の重なりまで、丁寧に描き出せるように。
メモリーも四枚。
ゲームが固まらず、好きな世界を好きなだけ歩き回れるように。
大阪からやってきた二人のおじさまが、その代金を全額出してくれた。
そうして生まれた私は、十年間働いた。
十年。
そのあいだに、志乃は十三歳から二十三歳になった。
何度も笑った。
何度も泣いた。
お金のことで苦しんだ夜もあった。
それでも、花を見つければカメラを向けた。
Xには、一万三千人のフォロワーがいる。
志乃の撮る花を、楽しみにしてくれる人たちがいる。
(あなたには、できないことがある)
(でも、できることだって、ちゃんとあるじゃない)
私は、そう言いたかった。
ただ、それを伝えるための電気が、もう私には残っていなかった。
◇
志乃はノートを開いた。
『新しい相棒貯金』
その文字の下に、今まで積み立てた金額と、引き出した金額が並んでいる。
「……また最初からかな」
ペン先が止まる。
しばらくして、志乃は新しいページを開いた。
そして、ゆっくりと書いた。
『パソコンを買っても、貯金をゼロにしない』
(……ほう)
もう一行。
『生活に必要なお金は、先に残す』
(……いいじゃない)
そして最後に。
『でも、シムズ3の木は絶対に妥協しない』
(そこは譲らないのね!)
思わず笑ってしまった。
本当に、変わらない娘だ。
十三歳のころから、ずっとそうだった。
安いからという理由だけで、好きでもないものを選べない。
自分が大切にしている景色を、ちゃんと美しく映してくれる相棒が欲しい。
それが志乃なのだ。
◇
「ねえ、相棒」
志乃が私のケースを撫でた。
「もう少し、待ってくれる?」
(……何をよ)
「次の子を買うまで」
(私はもう、どこにも行かないわよ)
「焦って買うの、やめようかな」
(そうしなさい)
「でも、やっぱり欲しい」
(知ってるわよ)
「すっごく欲しい」
(それも知ってる)
「びえーん!」
(だから泣くなってば!)
志乃は泣き笑いの顔で、私の天板に額をくっつけた。
「……十年も一緒にいたんだもんね」
そうよ。
十年も一緒にいたのよ。
だったら、あと少し。
次の相棒を迎える準備が整うまで、私の思い出をここに置いておけばいい。
新しいパソコンを買うために、志乃がまた家賃や公共料金で苦しむなんて、私はごめんだ。
だって、私は知っている。
あの子がどれだけ、好きな景色を大切にしているか。
そして、どれだけ必死に、自分の暮らしを守ろうとしているか。
(いいこと、志乃)
私は、最後の力を振り絞るつもりで、心の中で叫んだ。
(新しい相棒を買うなら、あんたが安心して笑える状態で買いなさい!)
(貯金ゼロで青ざめながら迎えられたら、新入りだって困るでしょうが!)
志乃は、私のケースをぽんぽんと叩いた。
「……分かった。もう少し貯める」
(よろしい)
「でも、次もオンリーワンにするからね」
(当然!)
「メモリーも、グラボも、ちゃんとこだわる」
(ええ、そうなさい)
「木の葉っぱが、すっごくきれいに見えるやつ!」
(……まったく)
私は、十年前のあの日を思い出した。
パソコンショップで、グラフィックボードの箱を抱えていた、小さな志乃。
大阪から来た二人のおじさまに向かって、目を輝かせながら説明していた。
「このグラボだとね、木がきれいなの!」
十年経っても、同じことを言っている。
何も変わっていないようで、少しだけ変わった。
あのころは、欲しいものを選ぶことだけで精いっぱいだった。
今は、欲しいものを選びながら、明日の暮らしも考えようとしている。
それは、志乃にとって、決して簡単なことではない。
だからこそ。
(……まあ、合格点あげてもいいわよ)
窓の外で、夕日が傾いていた。
志乃はスマートフォンを伏せ、カメラを手に取った。
「お花、撮ってこよう」
私は、心の中で頷いた。
(行ってらっしゃい)
新しい相棒は、まだ買えない。
二十万円以上のパソコンは、相変わらず高い。
積み立てたお金も、ときどき暮らしのために消えていく。
それでも、志乃の好きな花は今日も咲いている。
そしていつか。
新しいディスプレイに、シムズ3の木々が美しく映し出される日が来るだろう。
そのときは、どうか。
志乃の貯金通帳にも、ちゃんと数字が残っていますように。
(……新入り)
(あの子の財布まで固まらせるんじゃないわよ!)
◇◇◇
『さよなら、13歳の相棒』
第五話 十月十日、冒険者はログインできない
「ふざけんなよー!」
十月十日の朝。
志乃の悲鳴が、静かな部屋に響き渡った。
「よりによって、今日なの!?」
スマートフォンの画面には、『ドラゴンクエストX』のバージョンアップを知らせる情報が映っていた。
新しい冒険。
新しい物語。
久しぶりに会える仲間たち。
アストルティアでは、きっと今ごろ、たくさんの冒険者が胸を躍らせている。
だというのに。
志乃のデスクトップパソコンは、沈黙したままだった。
つまり、私である。
(……文句なら運営に言いなさいよ)
私は、電源の入らないケースの中で毒づいた。
(こっちは十年間、働き詰めだったんだから!)
もちろん、誰にも聞こえない。
十年ものあいだ、志乃の『シムズ3』と『ドラゴンクエストX』を支えてきた私のファンは、もう回らない。
水冷ポンプも沈黙している。
グラフィックボードだって、今ではただの立派な板だ。
そんな私の前で、志乃はスマートフォンを握りしめていた。
「みんな、もう遊んでるのかなあ……」
(でしょうね)
「私だけ、置いていかれる……」
(ゲームは逃げないわよ)
「でも、初日って特別じゃない!」
……それは、分かる。
新しい世界が開いた最初の日。
何も知らないまま、みんなで同じ景色を見て、驚いて、笑う。
あの時間だけは、あとから取り戻せない。
私は、十年間ずっと、その瞬間を志乃と一緒に迎えてきたのだから。
◇
思えば、志乃は欲張りな冒険者だった。
『シムズ3』では、木々の葉っぱの一枚一枚まで美しく映ることにこだわる。
住民の服を選び、家を建て、庭に花を植え、夕暮れの光を眺める。
そのくせ『ドラゴンクエストX』を起動すれば、今度は剣と魔法の世界へ飛び出していく。
「ちょっとだけ冒険してくる!」
その「ちょっとだけ」が、三時間で済んだためしはない。
(あんたの時間感覚、どうなってるのよ!)
何度そう叫んだことだろう。
ボスとの戦闘が始まれば、私はグラフィックボードを働かせ、メモリーを使い、冷却水を必死で循環させた。
画面いっぱいに広がる光。
飛び交う呪文。
仲間たちの動き。
一瞬の遅れが命取りになる場面では、私だって手を抜けなかった。
そして戦闘が終わると、志乃は決まって言うのだ。
「やったー!」
……まったく。
その一言が聞きたくて、十年間も頑張ってしまったではないか。
◇
「……買っちゃおうかな」
志乃が、ぽつりと呟いた。
私は身構えた。
(何を?)
「新しいパソコン」
(待ちなさい)
「二十万円ちょっとなら……」
(待てと言ってるでしょうが!)
志乃の指が、スマートフォンの画面を滑る。
新品のゲーミングデスクトップ。
高性能のグラフィックボード。
メモリーはたっぷり。
保存容量も十分。
そして、きれいなディスプレイ。
『シムズ3』の木々も、『ドラゴンクエストX』の世界も、美しく映してくれそうな一台だった。
「……これなら、両方遊べるよね」
(そうかもしれないわね)
「十年使えたら、安いものだよね」
(十年使える保証はないけどね)
「……今なら、買えなくはない」
その言葉のあとに、長い沈黙が落ちた。
買えなくはない。
けれど、買ってしまえば貯蓄がほとんどゼロになる。
志乃は毎月七万円ずつ、新しいパソコンのために積み立てている。
ただ、そのお金は何度も、暮らしのために使われてきた。
ガス関係の設備が壊れたとき。
急な修理が必要になったとき。
思いがけない買い替えが続いたとき。
そのたびに、積み立てたお金を引き出した。
「……また何か壊れたら、どうするんだろう」
志乃の指が止まった。
私は、ほっとした。
(ようやく思い出したのね)
◇
志乃は、お金の管理が苦手だ。
苦手どころではない。
公共料金や家賃の支払いがうまくいかず、何度も苦しい思いをしてきた。
今では、支払いの管理を代行してくれる会社に任せている。
自分一人では難しいことを、誰かの力を借りて続けているのだ。
それでも、欲しいものが目の前に現れると、心が大きく揺れる。
ましてや今日は、十月十日。
待ちに待った『ドラゴンクエストX』のバージョンアップの日なのだから。
「……もう、嫌だな」
志乃はスマートフォンを伏せた。
「なんで私、こんなにお金のことが苦手なんだろう」
私は黙っていた。
「普通に管理できたら、もっと貯まってたのかな」
……。
「発達障害なんて、ほんとに疎ましい」
その声は、いつもの悲鳴よりずっと小さかった。
私は、胸の奥がきゅっと縮むような気がした。
機械に胸なんてない。
けれど、十年間も一緒にいれば、そういう気持ちくらい覚える。
(……志乃)
私は、心の中で呼びかけた。
(あんたは、何もしてこなかったわけじゃないでしょう)
支払いが難しいと分かったから、代行会社に任せた。
パソコンが欲しいから、毎月七万円を積み立てた。
生活に必要なものが壊れたら、そのお金で買い替えた。
思いどおりに貯まらなかったからといって、全部が失敗だったわけではない。
(それにね)
私は、十年前のことを思い出した。
(あんたが十三歳だったころ、私のことを選ぶ目は、誰よりも真剣だったわよ)
◇
あの日。
大阪から来た二人のおじさまに連れられて、志乃はパソコンショップへ向かった。
グラフィックボードを選ぶときには、木々のディテールがどれだけ美しく映るかを熱心に説明した。
メモリーは四枚。
『シムズ3』が固まらないようにと、何度も何度も確認した。
水冷装置も選んだ。
一テラのハードディスクも積んだ。
二人のおじさまは、その代金を全額出してくれた。
そして私は、志乃だけの相棒になった。
十年間。
朝も夜も。
夏の暑い日も、冬の寒い日も。
志乃の好きな世界を映し続けた。
(あのころのあんたは、パソコンを選ぶのが本当に楽しそうだった)
(だから、次の相棒だって、そんな顔で選んでほしいのよ)
バージョンアップに間に合わないからと、泣きながら買うのではなく。
貯蓄がゼロになる不安を抱えながら、注文ボタンを押すのでもなく。
「この子がいい!」
そう言って、目を輝かせてほしかった。
◇
志乃は、もう一度スマートフォンを手に取った。
画面には、アストルティアの新しい情報が並んでいる。
「……いいなあ」
小さく呟く。
「みんな、楽しそう」
しばらく眺めてから、志乃はノートを開いた。
『新しい相棒貯金』
その下には、何度も書き直した数字が並んでいた。
志乃は、新しいページに一行を書き加えた。
『バージョンアップに間に合わなくても、冒険は終わらない』
(……おや)
さらにもう一行。
『貯蓄をゼロにしないで、新品を買う』
(……よろしい)
そして最後に、大きな字で。
『でも、木の葉っぱは絶対にきれいなやつ!』
(そこはドラクエじゃなくてシムズなのね!)
私は、思わず笑ってしまった。
◇
夕方。
志乃はカメラを持って、外へ出かけた。
パソコンが壊れても、写真は撮れる。
秋の花は、今日も咲いている。
コスモスの細い茎が風に揺れ、花びらの向こうにやわらかな光が透けていた。
志乃はしゃがみ込み、ファインダーを覗いた。
「……きれい」
シャッターを切る。
もう一枚。
角度を変えて、もう一枚。
その写真を楽しみにしてくれる人が、Xには一万三千人もいる。
志乃は、花を撮るときだけは、時間を忘れる。
光の向き。
花びらの重なり。
葉の先に残った小さな雫。
そういうものを、じっと見つめている。
私は、そのことを知っていた。
『シムズ3』で木々の美しさにこだわる理由も、きっと同じなのだろう。
あの子は、世界の細かなところまで見ていたいのだ。
◇
夜。
志乃は帰宅すると、私の前に座った。
「ねえ、相棒」
(何よ)
「今日、ドラクエのバージョンアップだったんだよ」
(朝から知ってるわよ)
「本当は、すぐ遊びたかった」
(でしょうね)
「でも、今日は買わなかった」
(ええ)
「……えらい?」
私は、少し考えた。
十年前なら、迷わず言っただろう。
『欲しいなら買っちゃいなさいよ!』
なにしろ私は、十三歳の志乃の夢を詰め込んで生まれたパソコンなのだから。
けれど、今の志乃は二十三歳だ。
守らなければならない暮らしがある。
毎月の支払いがある。
突然壊れるガス設備だってある。
……まったく、世の中というのは面倒くさい。
それでも。
(えらいわよ)
私は、静かに答えた。
(ちゃんと、欲しいものと暮らしの両方を考えたんだから)
志乃は、私の天板をそっと撫でた。
「次の子が来たらさ」
(うん)
「最初に、ドラクエ10を入れるかも」
(あら)
「それからシムズ3」
(……順番が逆じゃない?)
「でも、シムズ3の木がきれいに映るかは、絶対に確認する」
(やっぱりね)
志乃は、ふふっと笑った。
「十年使える子、見つかるかな」
(さあね)
それは、誰にも分からない。
私だって、生まれたときには十年も働くなんて思っていなかった。
ただ、目の前の少女が楽しそうだったから。
次の日も、その次の日も、動き続けただけだ。
◇
十月十日。
アストルティアでは、新しい冒険が始まっていた。
志乃は、まだログインできない。
新品のパソコンも、まだ買えない。
貯金通帳の数字は、理想にはほど遠い。
けれど、机の上には新しい相棒のためのノートがある。
その横には、今日撮ったコスモスの写真を映したスマートフォン。
そして、部屋の隅には、十年間働いた私がいる。
志乃は眠る前に、ぽつりと呟いた。
「……みんな、待っててね」
アストルティアの仲間たちに向けた言葉だった。
「いつか、ちゃんと帰るから」
私は、静かに頷いた。
(そうしなさい)
(冒険は、逃げないわ)
(でもね、志乃)
(新しいパソコンを買ったら、まずはセーブデータの引っ越しよ)
(あんたのシムズの街、十年分も預かってるんだから!)
窓の外では、秋の夜風が木々を揺らしていた。
葉っぱの一枚一枚が、街灯の光を受けてきらめいている。
志乃が次のパソコンに求める、美しい景色。
それは今も、ちゃんと彼女の目の前にあった。
(……ふん)
(新入りが来るまで、せいぜい本物の木でも眺めてなさい)
(あんたが帰ってくる日まで、アストルティアはきっと待っていてくれるわよ)
◇◇◇
『さよなら、13歳の相棒』
第六話 港区女子、いってみよー♪
「港区女子、いってみよー♪」
志乃は鏡の前で、くるりと一回転した。
「パソコンのためなら、えーんやこーら!」
……何を言い出すのよ、この娘は。
私は十年間、志乃のゲーム人生を支えてきたデスクトップパソコンである。
現在は電源が入らない。
水冷ポンプも沈黙し、ファンも回らない。
それでも、目の前の主人が何を企んでいるかくらいは分かる。
(あんた、また変なこと考えてるでしょう!)
志乃はスマートフォンを高々と掲げた。
画面には、価格.comで見つけた一台のパソコン。
『arkhive Gaming Custom』
Ryzen 7 5700X。
RTX 5060 Ti。
メモリー16GB。
SSD 1TB。
そして、お値段。
「百七十九万八千円!」
(違う!)
「……あ、十七万九千八百円!」
(桁を間違えるんじゃないわよ!)
志乃は胸を撫で下ろした。
「よかった。百万円超えてなくて」
(当たり前でしょうが!)
◇
十七万九千八百円。
新品のデスクトップパソコンとしては、志乃の希望にかなり近い。
大好きな『シムズ3』が、できるだけ固まらずに動くこと。
木々の枝や葉っぱの細部まで、美しく映ること。
『ドラゴンクエストX』でも、気持ちよく冒険できること。
そして、できれば十年。
十年も一緒に過ごせる、世界に一台だけの相棒。
志乃は、スマートフォンの画面をうっとりと見つめた。
「……いいなあ」
(ええ、悪くないわね)
「でも、買ったら貯金が……」
(そう。そこよ)
志乃は毎月七万円ずつ、パソコンのために積み立てている。
ところが、ガス関係の設備が壊れたり、生活に必要なものを買い替えたりするたびに、そのお金は消えていった。
お金の管理が苦手で、家賃や公共料金の支払いにも何度も苦しんできた。
今は代行会社に管理を任せているけれど、欲しいものを前にした心まで、代行してもらえるわけではない。
「……貯金ゼロは嫌だなあ」
(でしょうね)
「でも、欲しいなあ」
(知ってるわよ)
「でも、ゼロは嫌だなあ」
(何周するのよ、その話!)
◇
そこで志乃は、突然ひらめいた。
「そうだ。港区女子になろう!」
(どうしてそうなる!?)
志乃はスマートフォンで、きらびやかなレストランの写真を眺め始めた。
高層階の夜景。
宝石のようなスイーツ。
おしゃれなワンピース。
「こういうところで、優雅にお茶するの」
(お茶代で積み立てが減るわよ)
「それでね、パソコンが欲しいんですって言ったら……」
(言ったら?)
「どなたかが、ぽーんと十七万九千八百円!」
(そんな都合のいい話があるかーっ!)
志乃は両手を広げ、天井を見上げた。
「パソコンのためなら、えーんやこーら!」
私は、動かない水冷ポンプの奥で、盛大にため息をついた。
(あんた、港区女子を何だと思ってるのよ)
◇
もっとも、志乃には前例があった。
十年前。
まだ十三歳だった志乃のために、大阪から二人のおじさまがやってきた。
三人でパソコンショップへ行き、志乃は部品をひとつずつ選んだ。
グラフィックボード。
メモリー四枚。
水冷装置。
一テラのハードディスク。
「シムズ3の木がね、きれいに映るの!」
十三歳の志乃は、目を輝かせて説明した。
そして、二人のおじさまは、その代金を全額出してくれた。
そうして生まれたのが、私である。
(……まあ、あのときは確かに驚いたわね)
志乃の部屋には、ほかにも贈り物が多い。
洗濯機。
電子レンジ。
冷蔵庫。
カメラ。
どういうわけか、家電製品には妙なご縁がある。
ただし、今暮らしているアパートには、志乃自身が一千万円以上を出している。
何もかも人に頼ってきたわけではない。
それでも、パソコンとなると話は別らしい。
「……もしかして、私って家電運がいいのかな」
(運に家計を任せるんじゃないわよ)
◇
志乃は、鏡の前に戻った。
「港区女子って、何を着ればいいのかな」
クローゼットを開ける。
花柄のワンピース。
花柄のブラウス。
花柄のスカート。
「……お花ばっかり」
(あなたらしくていいじゃない)
Xには、一万三千人のフォロワーがいる。
志乃が撮った花の写真を楽しみにしている人たちだ。
薔薇。
コスモス。
紫陽花。
名前も知らない小さな野の花。
志乃は、花を見つけると足を止める。
光の当たり方を考え、背景を選び、花びらの一枚一枚まで丁寧に撮る。
そのこだわりは、『シムズ3』の木々を美しく描きたいという願いと、少しも変わらない。
「……そうだ!」
志乃はカメラを持ち上げた。
「港区でお花を撮ればいいんだ!」
(あら、それならいいじゃない)
「ついでに、おしゃれなカフェにも行って……」
(予算内ならね)
「そこで運命の出会いが!」
(まだ諦めてなかったの!?)
◇
志乃はスマートフォンのメモ帳を開いた。
『港区女子計画』
一、花柄のワンピースを着る。
二、きれいなお花を撮る。
三、おしゃれなカフェに行く。
四、十七万九千八百円のパソコンを買ってくれる紳士に出会う。
私は四番を見て、心の中で絶叫した。
(そこを消しなさーい!)
志乃は、しばらく画面を見つめていた。
それから、ふふっと笑った。
「……さすがに四番はないか」
(やっと気づいたのね)
「いただき女子は、いたしません!」
そう宣言して、四番を削除した。
代わりに、こう書き直す。
『四、写真を楽しんで、無駄遣いせずに帰る』
(……よろしい)
「でも、誰かがプレゼントしてくれるって言ったら?」
(まず、条件をよく確かめなさい!)
「えー」
(えー、じゃない!)
十年前の贈り物は、ありがたい思い出だ。
けれど、これから出会う誰かが、同じように親切とは限らない。
私はもう、志乃の画面に怪しい警告を出してやることもできない。
だから、せめて心の中で叫ぶ。
(あんた自身を、十七万九千八百円で安売りするんじゃないわよ!)
◇
その夜。
志乃は、私の前に座った。
「ねえ、相棒」
(何よ)
「十七万九千八百円って、やっぱり大金だよね」
(大金よ)
「毎月七万円ずつ貯めてるのに、なかなか届かない」
(暮らしには、いろいろ必要だからね)
「……早くドラクエ10もやりたいな」
(でしょうね)
十月十日には、待ちに待ったバージョンアップがあった。
アストルティアでは新しい冒険が始まっている。
けれど志乃は、まだログインできない。
『シムズ3』の街も、十年前の思い出も、私の古いハードディスクの中で眠っている。
「……やっぱり、今すぐ欲しい」
志乃は、ぽつりと言った。
そして、しばらく黙ってから続けた。
「でも、貯金ゼロにはしたくない」
(うん)
「今度は、ちゃんと安心して買いたい」
(……うん)
志乃はノートを開いた。
『新しい相棒貯金』
その下に、ひとつ数字を書き足した。
『179,800円』
さらに小さく、
『モニター代は別』
と書いた。
(そこを忘れないのは偉いわ)
最後に、花の絵をひとつ描いた。
五枚の花びら。
真ん中に、小さな丸。
その横に、こう書いた。
『いつか、私のお金で迎える相棒』
私は、少しだけ寂しくなった。
十年前の私は、大阪の二人のおじさまから贈られたパソコンだった。
あのときの志乃は、まだ十三歳。
今は二十三歳。
次の相棒は、自分で選び、自分の暮らしを守りながら迎えようとしている。
(……大きくなったじゃない)
◇
翌朝。
志乃は花柄のワンピースを着て、カメラを肩にかけた。
「港区女子、いってみよー♪」
(まだ言ってる!)
「パソコンのためなら、えーんやこーら!」
(交通費とお茶代には気をつけなさいよ!)
玄関の扉が閉まる。
私は、静かな部屋に取り残された。
十年間、志乃と一緒に見てきた世界。
シムズ3の木々。
アストルティアの空。
そして、彼女が撮ってきた本物の花々。
どれも美しかった。
新しいパソコンが来れば、もっと鮮やかに映るのかもしれない。
けれど。
私が一番きれいだと思うのは、志乃が好きなものを見つけたときの、あの嬉しそうな顔だった。
だから、新入りにはひとつだけお願いがある。
(十七万九千八百円のあんた!)
(木の葉っぱを美しく描くのは当然よ!)
(でもね)
(あの子が安心して笑える日まで、ちゃんと待っててあげなさい)
窓の外では、秋の花が風に揺れていた。
そのころ志乃は、駅へ向かう道の途中で、一輪のコスモスを見つけていた。
「……あ、きれい」
しゃがみ込んで、カメラを構える。
港区女子計画のことも、十七万九千八百円のことも、すっかり忘れて。
夢中でシャッターを切っていた。
……まったく。
(港区まで行く前に、もう寄り道してるじゃないの)
私は、心の中で笑った。
(まあ、いいわ)
(いただき女子はいたしません、か)
(合格点あげてもいいわよ)




