辺境の密売組織殲滅戦 02
重厚なオーク材の扉が、騎兵の荒々しい蹴撃によって悲鳴のような音を立て、内側へと弾け飛んだ。
蝶番がひしゃげる音と共に、統星と数名の近衛兵が、抜き身の剣を手に部屋の中へと雪崩れ込む。
「動くな! グラン・ヴァルディア軍だ!」
部下の鋭い怒号が室内の空気を切り裂く。だが、それに応える声はなく、返ってきたのは不気味なほどの静寂だけだった。
そこは屋敷の主が使う私室であった。
床には足首まで沈みそうなほど毛足の長い深紅の絨毯が敷き詰められ、壁には悪趣味なほど煌びやかな金細工の調度品が所狭しと飾られている。外で繰り広げられている殺戮と泥濘が嘘のように、そこだけが別世界の優雅さを保っていた。
だが、肝心の主人の姿はどこにもなかった。
「……チッ、逃げられたか」
先頭に立った隊長格の兵士が、悔しげに舌打ちをする。
統星は剣を納めると、部屋の中央に置かれたマホガニーのテーブルへとゆっくり歩み寄った。そこには豪奢な絵付けがされたティーカップが飲みかけのまま置かれており、琥珀色の液体からは、まだ微かに白い湯気が立ち上っている。
暖炉の中では薪がパチパチと爆ぜており、つい先刻まで、ここで誰かが優雅なティータイムを過ごしていたことは明白だった。だが、襲撃の気配を察知した瞬間に、全てを放り出して逃亡したのだろう。
「カップがまだ温かい。遠くへは行っていないはずだ! 手分けして探せ!」
統星の言葉に弾かれたように、部下たちが動き出す。
壁や床を叩き、本棚の裏を探り、隠し扉や抜け穴の類がないか徹底的な捜索が始まった。家具がひっくり返され、高価な陶器が砕ける音が響く。
統星はその騒がしさに僅かに眉を顰めながら、主を失った空っぽの革椅子を冷ややかな瞳で見下ろした。
父王からの命令は、この街の機能を停止させ、国内への薬物流入を止めることだ。黒幕を逃がしたとしても、組織を壊滅させれば父王の命じた最低限の任務は完遂したことになるだろう。
だが、それでは足りない。根を断たねば、雑草はまた別の場所に生えるだけだ。
「……ん? 殿下、あそこを」
ふと、部下の一人が部屋の隅を指差して声を震わせた。
光の届かぬ部屋の死角、巨大な飾り柱の陰に、豪奢な部屋には似つかわしくない異質なものがうずくまっていた。
それは、泥と煤にまみれたボロ布の塊だった。
よく見れば、それは痩せこけた人族の少年であることがわかった。衣服と呼ぶのもおこがましい麻袋のような布を纏い、露出した手足には鞭で打たれたような無数の傷跡が刻まれている。
足首には分厚い鉄鎖が巻かれ、その端は柱の基部に打ち込まれた金具に固定されていた。彼がこの屋敷において、愛玩動物以下の、ただの消耗品として扱われていたことは一目瞭然だった。
「何だこいつは……! 敵の残党か!?」
部下の一人が反射的に剣を抜き、少年の喉元に切っ先を突きつける。
しかし、少年は悲鳴を上げることも、命乞いをすることもない。身じろぎひとつせず、ただ静かに眼前の虚空を見つめていた。
いや、「見ている」という表現は生温かった。
その双眸は、異常な色彩を放っていた。
白目は毛細血管が破裂したかのように赤黒く充血し、血走った眼球がまるで網膜に焼き付いた残像を追うかのように一点を凝視したまま固定されている。
瞬きすらしない。涙が溢れ、乾いた頬に筋を作ってもなお、その眼はカッと見開かれたままだった。
まるで高熱に浮かされた病人のようでありながら、その視線には不気味なほど冷静で、無機質な理性が宿っていた。
「よせ」
統星が短く制し、部下の腕を手で抑える。
「殺気がない。ただの捨て置かれた奴隷だろう」
統星は警戒を解き、興味深そうに少年の異様な瞳を覗き込んだ。
その時、窓際で外の様子を探っていた別の部下が、鋭い声を上げた。
「殿下、痕跡を見つけました! 北の街道に新しい馬車の轍があります!」
部下が窓枠に身を乗り出し、興奮気味に報告する。
「車輪の跡が深く刻まれています。かなりの速度で飛び出したのでしょう。奴らはこのまま、隣国の奥深くへ逃げ込むつもりです!」
「街道を封鎖しろ! 全力で追えばまだ間に合う!」
部下たちは色めき立ち、即座に行動を開始しようとした。
経験則に基づき、整備された街道への追跡を主張するのは軍事的に正しい。馬車で逃走するならば、舗装された道を走るのが最も速く、合理的だからだ。
それが常識だ。
しかし、統星の足はその場を動かなかった。
彼の視線は、鎖に繋がれた少年に釘付けになっていた。
部下たちが北の街道へと殺気立つ中、この異様な少年だけは、全く別の方向を見ていたのだ。
少年は震える手で、ゆっくりと指を伸ばした。
その指先が示したのは、北の街道とは似ても似つかぬ方角――西に広がる「死の荒野」だった。
そこは岩と渇いた砂ばかりが続く不毛の大地であり、道など存在しない。馬車で逃走するには最も不向きな、まさに死地である。
「……おいおい、あっちには何もないぞ」
部下の一人が呆れたように声を上げた。
常識的に考えれば、錯乱した奴隷の妄想に過ぎない。
「荒野に逃げ込む馬鹿がどこにいる。恐怖でおかしくなっているだけでしょう。捨てておきましょう」
部下たちは少年の指差しを一瞥しただけで無視し、再び街道への追跡準備に戻ろうとした。
だが、統星だけはその場にしゃがみ込み、少年の顔を至近距離から覗き込んだ。
腐臭と血の匂いが鼻をつく。だが統星は顔色一つ変えず、その赤黒く充血した狂気の瞳を見つめ返した。
至近距離で見ても、少年の瞳孔は揺らいでいない。恐怖や混乱で焦点が合っていないのではなく、見えている何かを必死に指し示そうとしている、強い意志の光があった。
「……あっちに逃げたと言いたいのか?」
統星の静かな問いかけに、少年はビクリと肩を震わせた。
焦点がゆっくりと動き、目の前の美しい魔族の王子を捉える。
少年は小さく、しかしはっきりと頷いた。
「ほう。貴様、魔族の言葉がわかるのか」
統星が片眉を上げて問うと、少年は統星の目を逸らすことなく、もう一度頷いて肯定した。
「喋れるか?」
今度は、少年は首を横に振った。
「なるほど。言葉は発せなくとも、意思疎通ができるなら話は早い」
統星は満足げに口端を吊り上げ、立ち上がった。
そして、今にも部屋を飛び出しそうな部下たちに背を向け、静かに、しかし淡々と告げた。
「西だ。我々は荒野へ向かう」
その命令に、部下たちの動きがピタリと止まった。
誰もが我が耳を疑い、振り返る。
「で、殿下!? 正気ですか? あそこは道なき道、岩だらけの荒野です。馬車の跡も見つかりませんでした!」
「北へ続く馬車の轍は、これほどはっきりと残っているのです! こんなわけの分からない奴隷を信じるのですか!」
困惑と焦りの色が広がる部下たちに対し、統星は窓の外、西の方角を見据えたまま言った。
「父王の命令は『街の機能を止めろ』だったな」
「は、はい。ですから、拠点の建物を破壊してしまえば、とりあえずの機能停止には……」
「それでは駄目だ」
統星は鋭い言葉で部下の弁明を遮った。
「建物を壊しただけでは、奴らはまた別の場所に根を張る。それでは意味がない。私は完璧な解決を望む。根こそぎだ」
統星は腰の剣を抜き放つと、少年を柱に繋ぎ止めていた分厚い鎖を一閃のもとに断ち切った。
火花と共に鉄の切れる鋭い音が室内に響き、重たい拘束具が床に落ちる。
「常識で考えれば北だ。だからこそ、奴らは我々の裏をかいたつもりなのだろう。『まさかそんな場所へは逃げない』という心理こそが、最大の隠れ蓑になる」
統星は剣を納め、呆然とする少年の細い腕を引いて無理やり立たせた。
少年の体は羽のように軽く、今にも折れそうだったが、その眼だけはまだ西の方角を睨み続けている。
「こいつが『あっちだ』と言っている。私はこいつの指先に賭ける」
その言葉に、部下たちは息を呑んだ。
正規軍の指揮官が、名もなき奴隷の直感に作戦の全てを委ねるなど、狂気の沙汰だ。
だが、統星の瞳には、一切の迷いがなかった。
彼は、父王が重んじる「今の民を守る安寧」ではなく、自らが夢見る「未来永劫の繁栄」を得るために、この博打を選んだのだ。
「……はっ! 全軍、西の荒野へ進路を変更!」
隊長格の兵士が、半ば諦めたように、しかし覚悟を決めて叫んだ。
統星は少年を軽々と抱え上げると、部屋を出て、待たせていた自身の愛馬の元へと向かう。
そして、その鞍の前方に少年を乗せ、自らも軽やかに背後へと飛び乗った。
「しっかり掴まっていろ。舌を噛むぞ」
耳元で囁き、統星は手綱を握った。
精強なる騎兵隊は、痕跡の残る整備された街道を捨て、土煙を上げて何もない西の荒野へと駆け出した。




