成り下がった死
「もう死にたい」
どうして?
「彼女に振られた」
「もう死にそう」
なぜ?
「タワーしたのに同伴断られた」
「死んだー」
死んだ?
「ガチャで欲しかったキャラ来なかった」
死は成り下がってしまった。
「死にたい」
女は言った。
『どうして?』
いつか、人を殺してしまいそうだから……。
あぁ、外の天気が何と良い事か。
ポツリポツリと雨が降っている。
荷物が壊れない程度、バッグの中に水が染み込まない程度。雨が降っている。
髪を濡らし、頬を伝い、顎から滴り、首から鎖骨を通り谷間へと。下着と肌の境界線に染み入って不快で冷たい感触を与える。心底気持ちが悪いが好きな感覚。何かを感じられている正常を心に刻みつけている瞬間。
秒が息吹きを与える前に脳が感覚を伝えた後に。私は誰も殺していないと安心する。
あぁ、なんていい空の色なのだろう。眩しくなく、濁りなく、それでいて明るさを否定する。笑顔だけなんてありえないと告げている。これほどいい天気を私は知らない。
酷過ぎず、明る過ぎず、涙に暮れても咽び泣いても雨音に消えて届かない。全ての感覚が均等に落ちている、真直ぐに受け止められない、そんな天気。
バッグの中にはこの身を濡らさないための道具が、今の空を拒絶するものが入っている。だが、手にはしたくない。正しさが分からなくなってしまいそうだから。この手が他の雨で塗れてしまいそうだから。
周りは皆拒絶している。否定している。正常はこちらだと主張するように一概に同じ行動をとっている。食道から胃までが詰まるような、空気が入り込んで体をおかしくしているような、カラカラだったはずの喉には逆さまにした酸が居座っていた。この感覚は頂けない。込みこんでしまえば、今度は胸につっかえる。酸じゃない、気持ちがだ。
私は自分を信じたい。否定されても構わない。色も形も大きさも違う、とりどりの美しくない花が咲く道を一人、露を受けて歩いた。
急いでいる兎の様に針の方へ手を伸ばす。カチカチと数字が増えていく度に私の歩数も増えていく。時計を見た兎が走って行くように、音が私を急かしていく。
駆け足で朝が昼に交代を合図する時、知らせの鐘が鳴った。
色褪せた日常が始まる音だ。変わらないものを繰り返せば、雨で得た安心をより深められるかもしれない。安易な考えが単調な行動をもたらす。また同じ、だから一緒、されども変わらず。灰色は好きだが、飽きは来る。鮮やかなものに惹かれる。赤に。魅かれる。自分の色には魅かれない。痛みも彩られない。褪せたまま。鉄臭い匂いに独特の味。こちらは私から出たものでも構わない、味わいたい、美味である。
だがそんな事をしてみろ、異質に異常、脳を疑われる。シロップをかけた後のパンケーキみたい、どこまでも味は染み込んでいて甘くないところを探す方が大変で。詰まる所、正常な所を見つけてもらえないという事だ。
口内の傷を舐りながら迷宮を上って行く。螺旋に足を取られながら目的地を探す。踊り場を十回踏むと一歩近づく。重い脚と上がった息で箱を三つ過ぎると目の前だ。ノブを下げて、三列手前一席目。定位置の椅子を引く。バッグから出したパソコンを開くとそこには殺人現場が広がっている。ここはいい、現実ではないから。
一時間もすれば数日が進む。場合によっては何ヶ月も。そうして誰が起こしたかも分からない殺人はあっという間に登場人物によって解決される。だが、犯人が無事だとは限らない。大体の場合は犯人が命を絶ってしまうか、別の誰かに同じ目に合わされるかだ。
もし、誰かが私にそんな風にしてしまうのと言ったなら、こう答えるだろう。
自分が罪を犯した時にそうなる事が正常だと感じているからだと。
終わりを告げる鐘の音と共にパソコンを閉じた。周りに座って同じく授業を受けていた人達が、わらわらと出て行く。もう午後だ。昼食を食べにか、買いにか行ったのだろう。私はと言うと、誰もが荷物を置いて財布にスマホを手にしているというのに、全ての荷物をリュックに詰めた。計ったらきっと四五キロはあるだろう家出でもするのかと聞きたくなるような大袋を両肩に引っかける。重みに耐えるのが嫌だと訴えるように、片方の肩が下がった。筋が悲鳴を上げるようにピリつく。いつか千切れると確信を持っていると、追い打ちをかけるように痛みが首にまでやって来た。まだ何も来ていない左側に無事でいた貰いたいと願いながらドアノブに手をかけた。下へおろし、引くと電撃でも落ちたかのような激痛が一秒前まで無事だった左肩に走った。思わず尻尾を踏まれた猫の様な金切り声を上げた。ぽつぽつと廊下に立っていた案山子が一斉にこちらを向いた。長い脚が何本もかけてくる。すぐに取り囲まれて案山子は汗を垂らしながら、顔を覗き込んでくる。放たれるのは異界の言葉。同じ言語の筈なのにどうしてか意味が分からない。耳に障るような雑音としか思えなかった。
どこかへ行ってはくれまいか。放っておいてくれまいか。そんな気持ちが洪水の様に溢れていた。声は出さない、顔にも出さない。ただ、借金取りに掴まった時の様に赤べこの様に頭を何度も垂れた。すると、すぐに案山子の群れは去って行った。それも笑顔で。一体何がそれほどまでに嬉しかったのだろうか。あぁ、自分を運ばなくていいという安堵か。横目で呆れを現して螺旋を下って行った。踊り場を十回踏んで、数メートル歩いて、外に出る。焼肉とラーメンの良い香りが鼻腔をくすぐる中、パッと頭に浮かんだフランスパンを買おうと駅の方向へ足を進めた。ティッシュ一つで人を篭絡しようとする男を拒絶し、イヤホンを付ける時間分しかないエスカレーターに乗る。ギリギリを攻めて、降りる際に絡まった両足を解きながらゆっくり歩く。すぐ先の柱を避けてみると、改札が姿を現す。
リュックについている定期をかざして、小さな駅中のパン屋へ。扉を開けて直ぐにふわりと香ばしい香りがこの身を包む。誘惑の香りが行動を操り、一つ二つと総菜パンをトレーに運んでいく。会計は思った通り、札が一枚。いつもならおつりがくるが今日は無い。
袋に丁寧にいれる店員さんに、仕事をきっちりやり切れる人は重宝されるだろうなと羨望の眼差しを少々向けた。笑顔を崩さない店員さんに心がキュッと締まってしまった。さっきまで温かさを感じていたはずなのに、急激に無機物の、金属の冷たさを感じてしまったからだ。あぁ、衝動が襲って来る。分かってはいけない、覚えてはいけない感覚がこの身を塗り潰していく。あぁ、あぁ。叫びたくなる心を抑え、店内を出た。
まだ、受けなければならない授業がある。だがこの衝動を抱えたままでは知り合いを傷つけかねない。その場の空気を思い切り肺に入れ込んで、パンパンに膨らんだ頬で階段を上る。途中で喉が絞められている様に思えてきて、出せる息を吐き尽くした。目の奥に圧を感じて、頭には詰まりを感じた。もう息は吸ってはけるのにどうしてか酸素が回っていない気がする。検査されているのかと勘違いするような低い耳鳴りがした。
あっという間だった。停留した電車に飛び乗って、乗り換えて。階段を下りていて。丁度良かった天気も悪くなっていて、どこまでも晴れ渡っていた。キラキラと輝いて見せる水たまりに横を通り過ぎる張り付いた笑顔が何とも気持ちが悪い。
歯を食いしばった。ギリリと、音を鳴らすくらいに。その内にバキリと舌の上に異物が乗った。転がしてみるとどうやら折れてしまったらしい。鋭く口内を傷つける刃と化した歯の欠片を勢いよく発射すると、張り付いた笑顔を見せていた異常人たちが顔を顰めてひそひそと話始めた。これくらい構わない。さっきの表情より遥かにマシだ。ここでやっと私は笑う事が出来た。
「あははは、あはははっ!」
視線は氷河かのように底を知らずに冷えていく。
今朝まで自身に恐怖していたのに、今は全く思っていない。言うならば無だ。犬を連れ去ろうとした女性の様にいつかきっと魔女になる。そうして家に潰されて死ぬのだ。でも、その前に魔女と違う事を一つしたい。いつか犯すと思っている過ちを起こしたい。復讐に燃えた姉妹の様に水に溶けるのは嫌だが、あれくらい派手に事をやらかしたいのだ。
私には恋人がいる知り合いはいないので、シャワールームで殺す事は出来ない。チェーンソーを振り回して人を追いかけるほどの体力もない。勿論毒薬を美しい林檎に纏わせることも糸車で眠らせる事も出来ない。呪術を使って呪う事も、地位をもってして悪だくみをする事も出来ない。学生にはそんな地位すらないのだから。できる事は、新聞に載るような、ニュースになるような、とても簡単で、誰でもまねできるような事件しか起こせない。
嫌駄目だ、そんな事をすれば関わった人全員が傷つく。勿論私だって、ただでは済まない。止めよう。頭では分かっている。体も何とか指令を聞いて、動いている。まだ、まだ、大丈夫。瞼を下して、劇を一度終えた。
すっきりしている頭、さぁ、これから二部が始まる。重苦しい幕が上がり、並ぶキャストを見た時の高揚感がこの身にも灯った。上がった瞼、見開かれた瞳。何を映している? 私はどこにいる?
昼間だからか、平日だからか、ガランとしている店の中。並んでいるのはハンマー、鋸、ビス、針金。少々歩けば、ドライバーに木材を切るための大きな電動鋸。指や人体に反応して、刃が引っ込むと宣伝文句が大きく描かれていた。あぁ、残念。豪くはっきりしている思考が透明度を上げて足を動かす。縦横縦横無尽に並べられている工具の中、ポツリと見合わないとも感じてしまう包丁がニ十本ほど棚に掛かって売られていた。業物ではないからか、値段も安いし売られ方も雑だ。だが、これがいい。きちんとしたものは顔を覚えられてしまうし、それなりの接客も受けることになる。それは避けたい。一人通れるくらいの通路をゆっくり進み、砥石も手に取った。安物の包丁に砥石とくれば、誰もが人殺しを考えているだなんて思わないだろう。鼻歌交じり、レジに待ち構える茶髪の老父に商品を差し出して、お願いしますと今までに発した事のない明るい声で言って見せた。研ぎ方は分かるかと聞いて来る老父に私は口角に頬まで上げて、伝えた。使った事があると。嘘に決まっている。研ぎ方なんて分からない。水をかける事くらいは知っているが、細かい事は応える事すらできない。それでも老父は騙された。私の様子を見て、料理が好きな凝り性だとでも思ったのだろう。わざわざ切れ味が上がる研ぎ方をした方が良いなんてアドバイスを口にしていた。私は右から左で聞きすらしていなかった為、適当に返事を返して店を出た。ニヤつく顔を元に戻す事など出来なかった。普段しもしないスキップまでして、ファストフード店のピエロみたいにウキウキだった。
二十分、高鳴る胸を抑えつつ帰路を辿っていた。元々人が少ない道だ、昼間と夜はすれ違うかも分からない。そんな通りで、目の前からカモがやって来た。頭身六つの身長はどうだろう、一七九だろうか。すらりとした雰囲気の男だった。荷物はポケットから顔を覗かせている財布と手に持つスマホ。モンスターを集めるゲームでもしているのかというくらいスマホに釘付けだった。一方こちらはリュックを背負って、手にはビニール袋。中には砥石と安物の包丁。まだ、パッケージから取り出されてもいない新品だ。すれ違う程距離が近づくと、男が鼻歌を歌っているのが分かった。妙に明るい、ズレた歌。どうしてだろうか、心地が良かった。心地が良すぎてしまって、もう二度と聞きたくないと思ってしまった。器用にも歩きながらパックを剥いで、包丁を出した。
「すいません!」
呼び止めると、男は簡単に振り向いた。
「はい?」
敵に向かって走って行く電気ネズミの様に素早く駆け寄って、抵抗する間もなく魚の様に腹を掻っ捌いた。
当然の様に血が噴き出して、男は自分の体の異変を目にして、青ざめて気を失った。後ろに倒れ込んだ時に頭をぶつけたんだろう、何もしていない筈の頭部に赤い水たまりが出来ていた。口内に合った涎が横を伝って地面に流れた。私は目を見開いて異様に笑った。怪物の様に何度も刃物を振り下ろした。包丁を収納できる肉穴がいくつも開いた。不意に涎が落ちた。男のではない。自分の代わり様に声を上げて蕩けた。恍惚とした己に惚れ惚れした。生暖かい感触に触れたくて、刃物を手放して開いた肉穴にゆっくり腕を入れていった。あぁ、温かい。ぬるっとした臓器がまだ生きていて、触れるだけだなんて、出来なかった。手をもっと奥まで伸ばして、臓器の形を覚えた食指で思いっきり握り潰した。
どこからか聞こえてくる叫び声にサイレンの音がゆっくりとボリュームを上げた。