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引っ越し

作者: マツウラ

 木々に残った雨粒が落ちて、パラパラと音を立てていた。

 車の列はゆっくりと動き出した。それで彼は煙草の火を消して、窓を閉めた。錆びた鉄の門の向こうには、もう収集センターの建物が見えていた。アーチ状の屋根のついた倉庫のような建物が二つ並んでいて、その脇に三階建ての小さなビルが建っていた。市街からも見える巨大な煙突はほとんど霧に隠れていて、赤い警告灯が、空中に浮かんで見えた。

 倉庫のような建物の正面には、象でも通れそうなほどの大きな入り口が設けられていた。列はそこを通ってその先へと続いていた。脇には小窓のついた受付があり、ちょうどそこへ停車していた軽トラックの運転手が車を降りて、係員と何か話していた。

 彼はひとつ前に並んでいたライトバンを見た。後ろの扉の窓ガラスから、運んでいる荷物が見えた。閉じられていないダンボールがいくつかと、折り畳まれた電気じゅうたん、それとあちこち黄ばんだ扇風機が載っていた。列に並んでいたのは廃棄物の専門業者ばかりでなく、彼のようなごくごく一般的な市民も、少なからずいるようだった。彼はそのことを、少しだけ意外に思った。

 引越しはほとんど済んでいた。辞令が出たのは一昨日で、二日間でかたをつけた。できるだけ荷物を少なくしたかったので、手にとって、少しでも不要だと感じたものはすべて捨てることにした。ごみ集積所に山のようにして袋を積んだが、それでも捨てきれなかったものや、捨てられない決まりになっているものもあり、こうしてごみ収集センターまで持ち込みにやってきたのだった。

 着信音が鳴って、電話をとった。もしもし、と彼は言った。受話器を耳に当てたまま、ブレーキを外してゆっくりと前進し、再びブレーキを踏んだ。相手は何も答えなかった。街の雑踏のような音だけが聞こえていて、やがてプツリと音を立てて切れた。かけ直したが、切られてしまった。すぐにもう一度電話が鳴った。マンションの管理会社からの電話だった。予定通り四時頃に、鍵をお預かりに参ります、と男の声が言った。わかりました、と彼は答えた。

 彼の番が来た。プレートの上に停車して、車を降りた。ごうごうと何かの機械が蠢く音が響いていた。係員の指示どおりに用紙に必要事項を記入し、免許証を見せた。

 「捨てにきたものは何ですか」と係員は尋ねた。

 「燃えるごみと、それから木製の家具と、家電製品です」と彼は答えた。「引越しをするんです。荷物になるから、持っていくわけにもいかなくて」

 係員はそれには応じず、建物の奥の方を指差した。「正面で燃えるゴミを、あとは指示に従ってください。次の方!」

 三人の初老の男が、建物の奥の方で手を振っていた。彼はすぐに車に戻り、出発した。建物の内部は蛍光灯で照らされていて、見ていると目がチカチカした。天井を支える鉄骨はむき出しになっていて、壁と同じクリーム色に塗装されていた。初老の男たちは車が停まるなりすぐにその脇へとまわり、スライド式のドアを開けて、後部座席に積まれていたゴミ袋を取り出して床に放っていった。彼は角張ったものをたくさん入れた袋があったことを思い出し、冷や冷やしながら様子を伺っていた。案の上、そのうちの一つは袋が裂けて、中身が飛び出してしまった。半分に折った木製の額を入れていた袋だった。ハワイで買ったマトリョーシカや、馬の置物や引き出しに入っていたプラスチックの時計など、様々な土産物が床に散らばった。彼は車を降りて、片付けるのを手伝ってやった。

 それが済むと、彼らは木製の家具に取り掛かった。二人がかりでテレビ台を取り出し、建物の隅の方へと運んでいった。そこにはマスクをつけた大柄の作業員がいた。大柄の作業員は運ばれてきた家具を分解し、螺子やとめ具などの金属類を取り外して、木製の部品だけを集めて、隅に停めてあった収集車に放り込んでいた。作業員の目の前に、彼が持ってきたテレビ台や本棚やローテーブルが並んで置かれていった。作業員はそれら一つ一つをまじまじと眺め、やがてテレビ台を選んで、収集車の方へと引きずっていった。それから上段の引き出しを床に放って踏みつけ、取っ手のついた板にハンマーを振り下ろした。等間隔で何度も振り上げられ、叩きつけられた。野太い腕が見えた。建物は広くて、その音がよく響いた。彼は軽く歯を噛み合わせ、手で耳を抑えた。うるさくて、胸が痛いくらいだった。何発目かでガン、と音を立てて板が外れ、床に転がった。周囲には細かな破片が散っていた。さらにハンマーが振り上げられた。

 「燃えるゴミはこれで全部かね?」と初老の作業員が聞いた。

 再び大きな音が響いた。それから次の板が床に転がった。はい、と彼は大きな声で答えた。

 「家電はとなりの建物だからね、これは何?ギター?」と別の作業員が聞いた。答える間もなく最後の一人が後部座席のドアを閉め、早く出て、と言った。それで彼は車に乗り込んで発進させ、両開きの大きな扉から外へ出た。

 となりの建物の前には、小太りの男が立っていて、手を上げて彼を呼んでいた。小太りの男は紺色のオーバーオールを着ていて、半そでの白いシャツを肩のところまでまくっていた。彼は車から降りて後部座席のドアを開けた。それから一つ一つ荷物を取り出して男に手渡した。分解したスチールラックや、パソコンのモニターやエレキギター、小太りの男はそれらを簡単にチェックして、すぐ脇にあった大きな青いコンテナに放り込んでいった。

 彼は車のトランクや椅子の下を見て、それからオーブントースターを手に取った。持ってきたゴミはそれで全部だった。振り返ると、小太りの男はエレキギターを手に持って眺めていた。片手でネックを握り、もう片方の手でボディの側面を撫でた。何度かひっくり返して、弦を指で弾いた。チューニングのずれた、ひどい低音が響いた。だんだん指に力を入れていき、音は大きくなっていった。やがて彼の視線に気が付くと、引きつった笑みを浮かべて聞いた。

 「これ、本当に捨てるの?」

 ええ、と彼は答えた。

 「まだ弾けるんじゃないの、これ」

 私のものではないんです、と彼は言おうとして、やめた。「引越しで、あっても荷物になるだけなんですよ」

 小太りの男はふうん、と言って再びギターをひっくり返し、それからコンテナに投げ入れた。ガシャン、と大きな音がした。彼は何か言ってやりたくなってきた。おつかれさん、と小太りの男は言った。彼はため息をついて何度かうなずき、運転席に戻った。

 荷物を捨てたおかげで、車の走り出しは見違えるように軽くなった。あの小太りの男のことを思い出して、その度にイライラさせられた。もうすぐ終わるんだ、と自分に言い聞かせるようにして考えた。少し飛ばして丘を下った。霧がかかった林を抜けると、すぐに町並みが見えてきた。それを見ていると、落ち着いた気持ちになった。

 駅前の大通りへ出て、レンタカー屋に寄った。そこで車とキーを返して、ラーメン屋で蕎麦飯を食った。食後にビールを頼むと、隣に座っていた若い男女がクスクス笑った。マジかよこのオヤジ、平日の昼だぜ、と言っているのが聞こえた。それで一気に飲み干して、店を出た。

 歩いて家に帰る途中、電話があった。同期のサトナカからだった。久しぶりだな、新居は見つかったか、とサトナカは言った。

 ああ、と彼は答えた。「なんとかな」

 サトナカは早口で何か喋った。音が小さくてよく聞こえなかった。独身寮がどうとか言っているのが、辛うじて聞こえた。

 彼はため息をついて、「自分で探すよ」と言った。サトナカはまだ何か言っていたが、電話を切った。

 どこかへ寄ろうかと思ったが、結局マンションに帰った。薄暗い玄関に立って、手探りで電球のスイッチを入れたり消したりした。電力の供給はもう止まっていた。そのことを思いだした。彼は壁伝いにリビングへ歩いていき、テーブルについて、そこへ頭をあずけた。このテーブルも丘の上まで持っていこうかと当初は思っていたが、もうそんな気にはならなかった。少し疲れていて、眠気もあった。レースのカーテンを取り払った窓の向こうには、青空が広がっていた。そこから誰かに覗かれているような気がして、うまく眠れなかった。

 電話が鳴った。今度は誰だ、と彼は呟いた。

 「もしもし」と若い女の声が言った。「アマダさんでしょうか?」

 そうですが、と彼は答えた。

 「市役所の方に電話番号をお聞きしまして」と彼女は言った。「さっきもお電話したんですけど」

 それからしばらくの間、沈黙があった。

 「どちらさまでしょうか」と彼は聞いた。

 「私はトオノって言います。市役所の掲示板を見たんです。インターネットの」

 彼女は混乱しているみたいだった。彼は黙って続きを待った。

 「市民リサイクルの掲示板で、市役所の方に電話番号を聞いて。それで」

 はあ、と彼は言った。「ご用件はなんでしょうか?」

 「ベッドの譲り手をさがしていらっしゃると」

 ああ、と彼は言った。「それならうちのことですよ。もうずいぶん前のことだけど」

 「よかった。間違えたかと思っちゃった」と彼女は言った。「それで、できたら一回見せてもらいたいんです。おうちにお伺いして」

 彼女はまだ何か言っていたが、彼はそれを遮って言った。「言いにくいんですけど、今日引っ越すんですよ、だから」

 「今日?」と彼女は大きな声で聞いた。

 「今日。ベッドはまだあるけど」

 「ベッドを置いていかれるんですか?」

 「いや、そういうわけにはいかないから、廃棄物の業者に取りにきてもらうことになってる」

 「それも今日、ですよね」

 「うん。二時半にくるって言ってたから、あと一時間もないね」

 少しの間、沈黙があった。彼は意を決して何か言おうとしたが、彼女が先に口を開いた。「決まってるわけじゃないんですよね?その、キャンセルっていうか、つまりその、私がもらっても構わないですか?」

 彼は眉をしかめた。「構わないけど、でも」

 「じゃあ今から伺ってもいいですか?」

 でも時間が、と彼は呟いた。

 「見るだけでもいいんです」

 彼はベッドを見た。黒く塗られた金属製の枠の上に、白いマットレスが載っていた。彼の知らない女が、そこへ寝るところを想像した。悪い気はしなかった。というのも、彼はそのベッドを使っていなかったからだ。彼はここ数年間、寝室を物置代わりにして、不用品を溜め込み、ほとんどリビングだけで生活していた。ソファにブランケットと枕を置き、テレビのボリュームを絞り、画面をつけっぱなしにして、それを見ながら寝た。あるとき、その方が寝つきがいいということに気がついた。片付けも終わった今、寝室に残っていたのはそのベッドだけだった。今の彼には、それは他人のものみたいに思えた。

 少し汚れてるけどそれでもいいなら、と彼は言った。はしゃぐ彼女に住所を伝えて、電話を切った。喉が渇いていたが、水道も止まっていた。それにコップもなかった。それでマンションの共有スペースまで行き、自動販売機で何本かお茶を買って、部屋に持って行った。

 お茶を一気に飲み干して、ベランダで煙草を吸った。吸い終わってすぐに、電気が止まっていることを思い出した。それですぐに部屋を出て、階段を降りた。マンションの共用玄関にはオートロック式の鍵がついている。電力が供給されていなかったから、部屋から遠隔操作することはできず、直接開けに行かなければならなかった。

 共用玄関のガラスの壁の向こうに、背の低い女の子が見えた。ブラウスの袖を肘のところまでまくっていて、ベージュのハーフパンツを履いていた。肌には張りがあり、艶のある黒い髪は耳にかかる程度に短く切られていた。彼女は扉の脇に設置された制御盤のボタンを押して、202号室と、つまり彼の部屋と連絡をとろうとしていた。彼は自動ドアの前に立ち、扉を開けた。

 「トオノさんですか?」

 彼女は頷いて、はじめまして、こんにちは、と言った。薄い唇がぎこちなく動き、白い歯が見えた。

 「電気が止まってて、インターホンは使えないんです。どうぞ、入ってください」と彼は言った。 「ずいぶん早かったですね」

 彼女は微笑んで、通りを挟んだ向かいの、小さな路地を指差した。「二つ向こうのブロックなんです。同じ市内だってことはわかってたけど、私もこんなに近所だとは思いませんでした」

 「大学生?」と彼は聞いた。

 「来月から、大学生です」と彼女は答えて、少し笑った。

 まるで親子みたいだな、と彼は思った。外国の人と話しているみたいで、少し緊張した。

 部屋に招きいれて、扉を閉めた。トオノさんが歩くたび、フローリングの上で小さく、鈍い音が鳴った。幼い頃に飼っていたデブ猫のことを思いだした。足音がよく似ていた。彼は腕を上げて、寝室の方を示した。トオノさんはベッドを見つけるなり歓声をあげ、さっそくあちこち弄り始めた。金属の枠を撫で、厚いマットレスをめくり、それからゆっくりと座って、彼の方を見て短く笑ったあと、マットレスの弾力を楽しんだ。

 「これ、本当にもらっていいんですか?」

 「いいよ」と彼は言った。「引き取り手がないなら、捨てるだけだから」

 電話が鳴った。廃棄物の業者だった。インターホンを鳴らしてるんですが、アマダさんはご在宅でしょうか、ということだった。彼は電話越しに説明しながら迎えに行った。黄色のレンズの眼鏡をかけた坊主頭の男と、背の高い若者が共用玄関に立っていた。お揃いの紺色のツナギ服をきていて、若者は同じ色の帽子を被っていた。彼は電話を持った方の手を上げた。坊主頭の男はニッコリ笑って両手をこすり合わせ、顔を上げたまま頭を下げた。

 「サカグチと申します。本日はよろしくお願い致します」とサカグチは言った。

 「アマダです」と彼は言った。

 背の高い若者はまだ制御盤を見ていて、あちこちのボタンを押していた。マコト君、と呼ばれたが返事もしなかった。でもすぐに諦めて、黙ってついてきた。すいませんね、こういう奴なんで、とサカグチは言った。いえいえいいんですよ、と彼は言った。

 部屋に戻って、捨てるものを見せて回った。大きな家具がいくつかあった。サカグチはメモに何か書き込んでいた。トオノさんはすっかり落ち着いて、ベッドに腰掛けて、膝の上で指を弄っていた。

 「どうする?」と彼は聞いた。

 「やめにします」彼女はため息をついて、肩を落とした。「すごく素敵だけど、私の部屋には少し大きすぎるんです。それに、冷静に考えると、お父さんが帰ってこないと、家まで持っていかれないし」

 「じゃあ、このダブルのベッドも」と彼はサカグチに言った。

 ごめんなさい、とトオノさんは小さな声で言った。

 彼は笑顔を作った。「気にしないで。もともと捨てるつもりだったんだから」

 「家電の類はないって話でしたよね?」とサカグチが聞いた。

 はい、と彼は答えた。

 「洗濯機も?」

 彼はうなずいて答えた。

 「このボストンバッグもですか?」とマコト君が聞いた。

 「いえ、それは持っていく荷物です」と彼は答えた。

 見たらわかるでしょ、とサカグチが言った。

 料金を支払うと、二人はさっそく作業に取りかかった。彼も共用玄関までついていき、作業のあいだ自動ドアが閉まらないように、たがをかけて固定した。二人の手際はなかなかのものだった。せっかくだから手伝っていきます、と言っていたトオノさんも、結局何もしなかった。素人が手を出すと、かえって足を引っ張りそうだったからだ。

 サカグチが掛け声をだし、マコト君は短く息を吐いてタイミングを合わせた。人間の背丈ほどもあるタンスを軽々持ち上げ、テーブルを抱えたまま階段の踊り場を回り、ソファや椅子は早歩きでどんどん運んでいった。作業はあっという間に進んでいき、あとにはベッドだけが残った。

 「これ、バラせないな。溶接されてるぞ」とサカグチが言った。

 「どこで買ったんですか?」とマコト君が聞いた。

 「覚えてないんだ。その頃はバタバタしてて」と彼は答えた。

 「いいんですよ。これが仕事ですから。とにかくやってみましょう」とサカグチが言った。

 サカグチはマットレスを外して、壁に預けた。それからマコト君と二人で向かいあって立ち、フレームを持ち上げた。寝室から運び出して一旦床に置き、側面を下にして立たせてから再び持ち上げた。そのまま運び出せそうだったが、すぐに作業は中断した。

 「これ、無理ですよ」と先を持っていたマコト君が言った。

 彼は背伸びして様子を伺った。格子模様のついた仕切りと脚が、玄関にひっかかっていた。後ろを持つサカグチがカウンターキッチンの方へ回り、斜めに出そうとしたが、うまくいかなかった。玄関とベッドの幅を見る限り、そこから出せないことは明白だった。

 マコト君はタオルで汗を拭い、ベッドをあごで示した。「どうやって入れたんですか、これ」

 「覚えてないんだよ。何年も前のことだから」と彼は答えた。

 マコト君はサカグチの方を見た。「サイズを測るべきでしたね」

 サカグチは何度かうなずいて、言った。「切ろうか」

 あの、とトオノさんが言った。みんなそっちを見て、続きを待った。「ベランダから、下ろしたらどうですか?」

 「ちょっと切れば済みますよ」とマコト君が言った。

 「紐でぶら下げればすぐですよ。だって、ここ二階だし」とトオノさんは言った。

 「ぶつけたら困るし」とマコト君は言った。

 サカグチはベランダへ出て、下を見た。「こっちが駐車場だもんな」

 マコト君はまだ不満そうだったが、サカグチになだめられ、納得したようだった。彼もお願いして手伝うことになったが、マコト君もそれについてはもう何も言わなかった。サカグチが車を動かして、ベランダの真下につけた。そこから緑色のロープを放り投げ、ベランダに入れた。彼とマコト君の二人で、それをベッドのそれぞれの脚に巻いて、きつく結んだ。ベッドをベランダまで運び、持ちあげて脚を手すりに引っ掛け、力いっぱい紐を引きながらゆっくりと向こう側へ下ろした。突然紐が手の中を滑り、ガン、と音がして、プラスチック製のベランダの側板に大きなヒビが入った。摩擦熱で右手の平が焼けるように痛んだ。マコト君がチラと彼の方を見た。彼は辛うじて「気にしないで」とだけ言った。

 紐はぴん、と張っていた。ずっしりと重く、指の肉に食い込んだ。サカグチの掛け声とともに、少しずつベッドを下ろしていった。軍手を借りればよかったな、と彼は思った。擦れた部分がじくじくと痛んだ。肉がどんどん硬くなっていくのがわかった。ずっと下の方で、サカグチがベッドに触れた。それが紐の感触を通じてわかった。ゆっくりと慎重に落としこんでいき、最後にはガタン、と床に着いて、ふっと紐の力が抜けた。右手は硬くなって震えていて、紐を持ったまま、指を開くことができなくなっていた。

 ヤバイヤバイ足が、とサカグチが叫んだ。「足が挟まった!」

 上げましょう、とマコト君が言った。すぐに二人で紐を掴み、思い切り引き上げた。ほとんど力が入らず、痛みがあっただけだった。ベッドはちゃんと上に上がらなかった。せーのでいきましょう、とマコト君は言った。彼はマコト君の目を見て、合図と同時に一気に持ち上げた。ベッドはわずかに持ち上がった。それでサカグチはうまく抜け出せたみたいだった。すぐ戻ってきますから、と言って、マコト君は下へ様子を見に行った。

 左手を使ってゆっくりと右手を開いた。どうかしたんですか、とトオノさんが聞いた。彼は黙って首を振った。

 「スッキリしましたね」とトオノさんは言った。

 「そうだね」と彼は答えた。

 それから二人で、駐車場を見下ろした。サカグチとマコト君は、家具が動かないように、荷台にくっついていた太いベルトで固定しようとしていた。彼は自分の手を見た。手の平の中央が赤く腫れて、その下にある血管が見えていた。

 あれは別れた妻が残していったものなんだ、と彼は言おうとした。他にもたくさんの言葉が出てきそうだった。でもそれはもう、声にはならなかった。

 ともかく終わった、と彼は思った。それからよろよろと部屋の中を進み、ついには倒れこんだ。部屋はとうとう空っぽになった。日差しが直接入り込み、フローリングの床を輝かせていた。すっかり物がなくなると、かえって壁の汚れや、フローリングの小さな傷や、角の埃が目についた。掃除しようという気にはもうならなかった。道具だってもう、捨ててしまったのだ。

 トオノさんはこちらに背中を向けていて、懸垂の要領で体を上げ、空中でバタ足していた。トオノさんの横顔は夕日を受けて輝き、霞んで見えた。少し風があった。それが彼女の髪を揺らせていた。

 「次の部屋は、ここより広いですか?」とトオノさんは聞いた。

 部屋の中は静まりかえっていた。それで彼女はベランダに降り立ち、振り返った。何もない部屋の真ん中に、ボストンバッグと、キャリーバッグだけがあった。荷物は、わずかにそれだけだった。その男はすぐ脇で、大きな伸びをした。手足を目いっぱい伸ばして、そのままの体勢で全身を震わせ、大きく息を吐いた。そしてゆっくりと上半身を起こし、肩のあたりをぽりぽり掻き、あくびをしながら周囲を見回した。それから短く笑って、呟いた。「どうだろうな」

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