(閑話)ヨシュアと夢の欠片
すべては夢だった。
勇者召喚も、王都からの逃避行も、ケースマイアンでの戦争も、王たちへの報復も。
そして、名も思い出せない少女との日々も。
何もかも、底辺サラリーマンが脳内で捏ね上げた惨めな妄想でしかなかったのだ。
俺は目覚まし時計の音で、今日もどんよりと濁った眠りのなかから浮かび上がる。
砂を噛むようにトーストを咀嚼し、味も香りもしないコーヒーで流し込む。
混み合った電車に揺られて会社に向かい、殺意と憤怒を押し殺しながら仕事をこなす。
「武生さん。最近、何かありました?」
声を掛けてきたのは後輩の山添美智子。彼女が新卒の頃メンターになった縁で、その後もあれこれ相談を受けることがあった。愛嬌のある顔立ちで性格も悪くはないが、恋愛感情はない。きっとそんな感情を持つこともない。向こうもそうだろう。
「何かって、なんだよ」
「それは、わからないですけど。このところボンヤリして溜め息ついてることが多いので」
「いや、変わったことは何もないな。まったくない。それが不満といえば不満かな」
何もない。昨日と同じ今日が来て、今日と変わらぬ明日が来るのだ。社会人になってから十年以上、ずっとそうだった。たぶん、これからも変わらない。
「……それなら、良いんですが」
「検修は済んでるのか」
プレゼン資料のなかに、外注から上がってきたコンセプトアートがあった。森のなかに立つ少女の後姿。ふわふわのクセ毛が特徴的なその絵を見て、なんでか俺は少しだけ胸が疼いた。
「それで良いのか?」
頭に、声が響いた。気付けば俺は、その森に立っていた。木漏れ日を受けて佇む少女は、俺を見上げていった。
「おぬしは、それで幸せか」
少女の表情は、影になって見えない。俺は胸の疼きを持て余し、少女から顔を背ける。
「幸せかどうかなんて関係ない。これが俺の仕事で、これが俺の人生だ」
「そうか」
少女は、静かにいった。
「そこで生きるのが、おぬしの選択なのであれば何もいわぬ。息災であれ」
勝手なことばっかいうな。幻覚のくせに。幸せ? そんなもんはない。どこにもないんだ。西方の遥か彼方にある見果てぬクソみたいな夢の国だ。そんなとこ年に三日の有給休暇じゃ辿り着けねえんだよ。湧いた頭から生み出された幻覚の分際で、何がわかるんだよ。
「武生さん……」
山添美智子の声が聞こえた。
「……武生さん!」
「なんだよ!」
「どうして、泣いてるんですか」
理由もなく涙が出て止まらない。それは鬱の初期症状なのだと、山添美智子はいった。午後に時間を空けるから心療内科に行けと、強い口調で詰め寄る。
「身内をひとり亡くしているんです。ここは、わたしのためだと思って、お願いします」
夕方からはプレゼンがあるものの、クライアントに渡す前の社内共有だ。それは彼女がひとりで行うことになった。
「資料も打ち合わせも万全です。むしろ武生さんには、本チャンでしっかりしてもらわないと困りますから」
客先を回るという口実で外に出された俺は、山添美智子から渡されたメモの心療内科に向かった。アポイントメントは、彼女は取ってくれた。そこまで融通が利く理由には、笑って答えなかったが。
メンタルで医者に掛かるのなど初めてだが、不思議と何の感慨もなかった。全てが他人事のように淡い霧に覆われていた。
「別に悪くない会社だけど、そこでずっと働くのかなって思うと、うーんって」
交差点ではリクルートスーツの女子大生が、友人らしき私服の男たちふたりと笑いながら話しているのが聞こえた。
「なに甘っちょろいこといってんだよ。お前が選り好みできる立場かよ」
「そういう弘樹はOBのコネで、やっと内々定だろ。甘っちょろいのはお前も一緒だ」
「なぁに智則、その余裕。自分は関係ない感じ?」
「俺も就活したかったけどな」
「そしたら実家のお寺、誰が継ぐのよ?」
その声を聞きながら、俺は交差点を渡り始める。
自分にもああいう時代があった気もするし、なかったような気もする。なんにしろ、ブラック企業で社畜になったんだから。
……だから結果は、同じなのだ。
「ねえ」
ぐちゃりと、湿った音がして振り返る。細身の方の男が、膝から下を千切り取られたような姿で這いずっていた。交差点の真ん中で、大腿部の動脈から撒き散らされた血飛沫が狂ったコンパスのように歪んだ縁を描く。見渡す限り、誰もが動きを止めている。
ただひとりを除いて。
「なんで」
長い髪をグシャグシャに乱して、女子大生はこちらを見る。先ほどまでとは打って変わった、血走った目で。内股を擦り合わせるようなギクシャクした動きで。ゆっくりと、こちらに近付いてくる。
地べたで痙攣する“とものり”の手をヒールで踏み躙り、飛び散った血も肉片を気にも留めず。爛々と光る目を見開き、歪んだ笑みを浮かべて俺だけを見る。
「なんで殺したの」
「え?」
「なんで⁉︎ どうしてそこまでしなきゃいけなかったのよ⁉︎ 智則も、弘樹も、みんな! なんで殺したのよ!」
あれ、何だこれ。
交差点の真ん中で、俺は固まっていた。
俺の前では、腕も足もひん曲がったゴリマッチョ“勇者”が。片脚が千切れかけた細マッチョ“賢者”が。腹に風穴開けた王子の死体を抱きかかえたヅラかぶりの“聖女”が。
一斉に怨嗟の声を上げる。
「殺そうとしたからだ」
俺は吐き捨てる。怒りとともに恨み言を振り払う。
「俺を。俺の仲間を。俺の大事なものを。傷付けようとしたからだ。誰が何度攻めてこようと、俺たちに手を掛けようとするなら、俺はそいつらを」
いままで、そうしてきたように。
「殺す」
気付けば、聖女は消えていた。賢者も、勇者も。動きを止めたままの街で、俺は溜息を吐き、色の消えた空を見上げる。
光が瞬き、声が聞こえた。
「のう、ヨシュア」
温かく、懐かしい声。ずっと聞こえていた、忘れるはずのない声が。
「それは、後悔かのう」
「まさか」
俺は笑う。
「お前と会ってからの人生で、悔やむことなど何ひとつない。夢と現実の区別もつかない自分に、少し呆れただけだ」
「わらわも、ときに戸惑い、怖れるのじゃ。おぬしとの日々が夢で、すべてが幻の如く消えてしまうのではないかとな」
見えない柔らかで小さな手が、俺に触れる。しっかりと指を絡め、離さないと誓う。
「俺は、消えたりしない。もう二度と離れない」
眩しい光に呑まれ、街が視界から消えてゆく。心には何も響かない。戻れるのだという安堵だけ。
ここに残したものなど、なにひとつない。
「お前が、側に居てくれる限り、そこが俺の居場所だ」
俺は、光に包まれる。




