360:其の者、多幸なりて
「なるほど。それで、海妖大蛸というのは美味いのかの?」
海洋怪異を目の前にしておきながら、ミルリルさんは平常運転である。ワクワク顔の彼女を見て、熟練漁師のケイソンさんが苦笑する。
「残念だけど、肉はあんまり美味くないみたいだねえ」
元いた世界の大王イカとか、深海性のタコイカ類も身にアンモニアが含まれるため臭いがキツく肉質も水っぽく食えたもんじゃないと聞いたことはある。もちろん食ったことはないので情報としてしか知らないけどな。
「それでは、あのデカブツは見なかったことにしておくのじゃ」
途端にテンション下がったミルリルさんに、カルモン父子が頷く。
「まあ、無理に仕留めることはないよ。しばらくしたら、どっか行ってくれるだろ」
「駆除とか、しなくていいんですか?」
「元々は海の底に棲む生き物だからねえ。海面近くに上がってくるのは産卵のためで、用が済んだらまた帰ってくみたいだよ」
「ああ、ミル。その卵は絶品らしいぞ?」
「ああ……うむ」
カルモンの言葉に、のじゃロリ先生は苦悩の表情で首を捻る。その気持ちはなんとなく、わかる。
「怪物退治は良いが、雛やら卵を狙うのは、こう……納得しにくいものがあるのう」
襲ってくるでもなし害があるでもなし、そんな生き物の子をわざわざ殺さんでもよかろうということで、海妖大蛸の討伐、及び卵の奪取は中止。
その日はケイソンさんの家に泊めてもらい、お土産と残った食材をどっさり渡しての宴会となった。収納に残っているのは避難民に分配しきれなかった保存食と日持ちのする穀物や小麦粉なんかだったので、それは後日みなさんで使ってもらうことにして、食材のメインは最後の防楯角鹿肉。後脚の腿肉だ。根菜と香草でボリュームたっぷりの鍋にしてもらって、美味しくいただいた。
「美味しかった……鹿肉、魚醤とすごく合いますね」
「肉の出汁が濃厚だからのう。トリン殿の腕もあるが、これは絶品じゃ」
「ありがと、ターキフさん、ミルちゃん。もらったのが良い肉だったからだよ」
カルモンの娘さんノーラちゃんと、奥さんのルフィアさん、お母さんのトリンさんには別にお土産があった。ルケモン師匠に頼んでおいた、銀の首飾り。
今度は過剰な機能も装飾も付けずに、綺麗なだけの――という表現もおかしい気はするのだが――純粋な宝飾品としてお願いしたものである。とはいえ当の職人さんがそれじゃつまらん、とかいい出して魔力循環と血行促進を助ける小さな魔珠が付いている。アンタ“奇跡”の二つ名が嫌だったんちゃうんかいと思わんでもない。
「わぁ……」
「ターキフさん、ミルさん、いただいて良いんですか?」
「どうぞどうぞ」
「うむ。今度は、盗品の横流しではないのでな」
ミルリルさん、あんま余計なこといわないように。たしかにカルモンやら吶喊の連中には扱いに困った略奪宝飾品を押し付けたけどさ。
「ありがと、おじちゃん、ミルねえちゃん!」
「きれいだねえ……」
妙齢のルフィアさんだけでなく、幼いノーラちゃんも年配のトリンさんも、アクセサリーを見ると目が輝くのね。なるほど、勉強になります。
「でもターキフさん、良いのかい? こんな高価なもの」
「いえ、今回ケースマイアンと、サルズの職人さんとの間で業務提携を考えてまして、これから色々と頼むのに、商品のサンプルを作ってもらったんです。それのひとつですから、お気になさらず」
半分は事実だ。サルズの職人は、高価格高品質はルケモンさん他数人で担えているが、本来もっとも多くいるべき“そこそこ”の層が薄過ぎる。安めのお手頃品で未来の顧客をつかむ流れも考えたし、ルケモンさんが始めた職業訓練施設で、生徒の習作を使って廉価品市場を作れないかという計画もある。売値は素材の金額プラスアルファでも数が揃えばそれなりにバラエティも出るし、宝飾品市場の底上げにもなる。売り手と買い手の双方にメリットはあるのではないかというプランだ。行く行くは、有能そうな職人の青田買いというか、若い才能に対する育成支援者みたいな形にならないかなと思ってる。
「ありがたいんだけど、なあターキフ、なんか飾りのとこが光ってないか?」
光ってますな。魔力光みたいな青白い輝きが舞っているけれども、見なかったことにしよう。うん。ていうかルケモンさん、何してくれてるんですか。
「付けているひとを健康にする、なんていうんですかね。祝福? みたいなものらしいですよ」
「すっごく、キレイ……♪」
ノーラちゃん目がキラキラしてる。小さくても女の子なんだねえ……。
そのまま和やかに夜も更けて、そろそろ床に就こうとした頃、騒ぎが起こった。
「なんだか、変な音が聞こえるね」
トリンさんが怪訝そうな顔で外を見る。カルモンとケイソンさんも耳を澄まして首を傾げる。外は吹雪のようだが、風の音に混じってメキメキと木がへし折れるような音が響く。木柵が倒されているのではないかと思われるのだが、その原因がわからない。
「ヨシュア」
「ちょっと見てきます。みなさんは、ここにいてください」
「ターキフ、俺も手を貸そうか」
「カルモンは、家族を守ってくれ。武器はあるか?」
「剣と槍と弓がある。槍と弓は親父も使える」
「よし、それで十分だ」
「相手が人間の場合は、じゃがの」
ミルリルさんは余裕の表情だが、何か察しているっぽい。
俺たちは素早く防寒衣を身に付けて、玄関から外に出る。明かりもない郊外の夜は、漆黒の闇に覆われている。グリップ付きの大型マグライトを出すが、吹き付ける粉雪が視界を塞いでほとんど何も見えない。
「これは無理だな」
俺たちは、お揃いの暗視ゴーグルを着けた。
「ミルリル、あれが何かわかってる?」
「壁を擦る音がしたんじゃ。あの湿った音、おそらく間違いない」
緑の視界に、音の源が姿を現わす。
「……おい、嘘だろ」
雪に覆われた畑の真ん中で、備蓄用に埋めてあったらしい野菜を海妖大蛸が貪り食っていた。




