359:荒れる海
「……荒れ始めたのう」
薄暗くなりかけた洋上で、俺は銃座のミルリルさんを仰ぎ見る。
空は曇り、粉雪が舞って、来たときより明らかに波が高い。風も出ているので、浮航しているホバークラフトでは、少し流される感じがある。
「もうすぐ着くから大丈夫だって。なかに入った方が良いよ」
「わかっておるが、おかしな気配がしよるんじゃ」
ちょっと、やめてそういうフラグ……と思ったら周囲の海面が泡立ち魚が跳ね始めた。
「まさか、シーサーペントじゃないだろね」
「あんな化け物は、そうそう出るもんではなかろう。古老でも見たのは初めてというておったからのう」
だと良いんだけどね。絵に描いたような荒れ模様で、どうにも嫌な予感が消えない。
「ヨシュア、少し右じゃ」
「了解」
そのまま岸を目指すが、五キロも離れていないはずのラファンが一向に現れてこない。
「船でも輪形彷徨とか、あるのかね」
吹雪とか霧で視界が悪いなかを進むうちに、いつの間にやら気付かないうちに大きく旋回して循環している現象だが、雪国で暮らしたことのない俺には経験がない。ましてミルリルさんがナビゲーションを誤るというのはあまり考えられない。
どうにも気持ち悪い感じで航行しているうちに日は陰ってきた。澱んだ海の色が恐ろしいものに感じられ始める。
「見えたぞ、ヨシュア。あれがラファンの灯じゃ」
「良かった」
洋上飛行をしているわけではないので、多少迷ったところで死にはしないんだろうけど。不安になってきた頃だったので俺はホッと息を吐く。
「いま、どの辺かな」
「ラファンの港は……おそらく、少し左じゃな。ほれ、あそこに岩が見えておる」
左舷の水平線近くに、ラファンの港近くにあった岩肌だろう、海から突き出した影が……見えているようないないような。まあ、とりあえず目的地は港ではなくサルズで知り合った元冒険者、カルモンの実家だ。カルモンはそこで、お父さんのケイソンさんから漁師として鍛え直されている。冒険者だけあって体力はあるけど、漁師としてはブランクが長いからな。
「ケイソンさん家は、このまま直進で良いのかな」
「そうじゃな。この角度じゃ」
操縦席に降りてきたミルリルが俺に腕で方向を示す。
「おかしな気配というのは?」
「消えよった。何だったのかのう?」
「さあ」
あなたにわからんものは、俺にもわかりません。俺の感覚器は、たぶんミルリルやこの世界のひとたちの三割前後しか機能していない。視力とか聴力とかはもちろん、気配察知やら第六感なんて全然だ。前いた世界で話には聞いてた“マサイ族の驚異的身体能力”とかが、ミルリルと同じくらいじゃないのかと思う。このひと、ライオンと槍で闘えますな。
「なんじゃ、その“うへぁー”という顔は」
「俺はミルリルに守られてるな、って思ってたんだよ。もっと頑張って強くならないとね」
「無理をするでない。望むと望まざるとに関わらず、翼がなければひとは飛べん」
「へ?」
「ひとには向き不向きもあるし、それぞれに役割というものがある、という意味じゃ。おぬしの代わりは誰にもできん」
岸辺に沿って北上すると、カルモンのお父さん、ケイソンさんの家の桟橋が見えてきた。海が荒れるのが予想されていたからだろうか、買ったばかりの漁船はスロープの上まで陸揚げされていた。
「カルモンは、家に居るかの?」
「たぶんね。吶喊の連中は家を買ったとかいってたけど、カルモンは漁師になったんだから実家暮らしのままだと思うよ」
ホバークラフトの爆音を聞きつけたのか、カルモンとケイソンさんが桟橋まで下りてきてくれた。カルモンの娘さんのノーラちゃんもだ。
「いらっしゃい、ターキフさん」
「おじちゃーん♪ ミルねえちゃーん♪」
「ノーラちゃん……あ」
「そうじゃの。忘れておったわ。次に来るときはモフも一緒だといってしもうたが」
これは事情があって、と謝るしかない。お土産は色々あるので、ちゃんと説明してご機嫌を直してもらおう。ノーラちゃん、あんまり文句いうタイプじゃなさそうだけどな。
「久しぶり、ターキフ。ミルも元気そうだな」
「うむ、皆も変わりないか?」
桟橋でホバークラフトを降りて、収納する。ケイソンさんの家まで案内される途中で、風が強まり本格的に吹雪き始めた。
「そうだな。変わりはない。俺のうちも吶喊の連中も、相変わらず達者でやってる」
だがな、と続きそうな感じで苦笑するカルモンに並んで歩きながら、俺はミルリルを振り返る。彼女は足を止めて、荒れた海を眺めていた。
「……なんじゃ、あれは」
遥か彼方の海面には、うねるような長いものがいくつも突き出して暴れていた。
「領主さまがいなくなったせいだって、いわれてるけどね。そんなわけはないんだが……」
「そうか、あれ」
「そうだよ。ターキフたちは見るの初めてか? あれが、南領が誇る海の怪異……」
カルモンは笑う。
「海妖大蛸だ」




