353:天使の降臨
シレッと時間差修正。リンコ&マキのとこも、そのうち調整と思ってそのままっすね……
ケインが死んだ。
その通知を受け取ったわたしは、なぜか何の感情も抱かなかった。悲しみも驚きも痛みも。理由はわからない。ショックが大き過ぎて受け入れられないとか、悲しみが深過ぎておかしくなってしまったとか、そういうのではない。ただ、何も感じなかった。不思議なことに、彼が死んだとき自分にはそれがわかると、きっと何かを察知できると、そう信じていたから。
わたしは医療に従事する身であり、オカルティックなことに関心はない。スピリチュアルなことにもだ。
比較的信心深い家庭に育ち、両親が健在の頃は教会にも通ってきたから神は信じるが……なんというか、“所属する会社の、面識もないCEOに対する敬意”、という程度のものだ。モラルと秩序を保った社会を形成する、“もうひとつのルールブック”に対する敬意、とでもいうべきか。
だから、この感覚は、おそらくただの勘でしかない。
通知書類の送付元は、彼が契約していた民間軍事会社のオフィス。ケインは移動中、所属部隊ごと消息を絶った。失踪地点からほど近い辺りで大規模な空爆が行われ、車輛と装備の一部(と思われる焼け焦げた残骸)が発見された。その残骸に死体は含まれていないが、部隊は十二時間以上の行動を想定しておらず、飲料水も持っていなかった。敵対勢力から犯行声明や身代金要求はなく、現地ネゴシエイター経由でコンタクトを取ったが、関与を否定された。
生存の可能性は、ほぼない。
「まみ、だぃ、どこ?」
よちよち歩きのエリが満面の笑みでわたしにキュッと抱き着いてくる。そうだ。この子を置いては死なないって、ケインは誓ったから。神にではなく、わたしとエリに。だから、彼は死なない。死ぬわけがない。
「まだお仕事よ。もうすぐ、帰ってくる」
絶対に。
「エリ、だぃ、しゅき」
「マミーもダディが好きよ。そして、ふたりとも、エリが世界一大好き」
玄関のベルが鳴ったとき、エリは歓声を上げてわたしを見た。違う。ケインは、いつもベルを鳴らした後でノックをするのだ。指先で、リズミカルに。
訪問者は、予想とは少し違っていた。それは国際貨物郵便の配達員だった。でもそのとき、わたしは何かを感じた。恐ろしいまでにハッキリした予感。わたしが、“勘”と呼んだもの。いまのいままで黙り込んだままだったそれが、わたしの耳元で囁く。ケインは死んでいない。でも。
死ぬより、ひどいことになっていると。
◇ ◇
「まみ?」
エリの声で我に返ったわたしは、薄暗くなったリビングルームでうずくまっていた。届いた小包の空き箱を抱えて。娘が声を掛けてくるまで、日が暮れたことに気付きもせずに。
「まみ、いたいの?」
「だ……大丈夫、よ。エリ、ダディがね。……ダディが、エリのこと、大好きだって」
世界中の誰よりも、愛してるんだって。そんな天使を置いて、アンタはどこに行ったのよ。
泣き笑いの表情で嗚咽を漏らすわたしを、エリは抱き締めてくれた。幼い娘の身体からはふんわりと甘い香りがして、ささくれ立った心に沁みる。止まらず垂れ落ちる涙を、わたしは必死で拭う。彼女の前でだけは、なんとか笑おうとする。でも、ダメだ。彼は……ケインは生きてる。生きているけど。
彼は、もう二度と、わたしたちに会えない。
ふざけた内容の手紙と、くだらない冗談みたいな写真。どう考えてもイカレてるとしか思えないプレゼントと、束になった金貨。どういうことなのかは、わからない。何が起きたのかも知らない。でも、なぜか。今度は。今度だけは。
これが真実だってことだけは、ハッキリと理解できた。
◇ ◇
「エリ」
ご機嫌でネックレスをしゃぶるエリに、なんと話し掛けたらいいか迷う。
ネックレスは、ケインからのプレゼント。繊細なデザインだけど幼児が扱っても壊れないような作りの銀鎖に、不思議な色の輝く石が付いていた。幼い子が呑み込まないようにだろう、石のサイズは大きめで、固定もしっかりしている。全体としてシャープな印象を維持しながらも、エッジは全て丸められているところにデザイナの技術と気遣いが感じられた。シルバーのチェーンは径も曲げ角も磨きの方向も見事に揃っているが、仕上げの感触は明らかに手作業によるものだ。これは工業製品ではない。凄まじい技量を持ったアーティストによる、芸術作品だった。
「なぁに、まみ?」
ケインの手紙に書かれていた内容を、わたしはまだ娘に伝えられずにいる。
ネックレスが“エリの願いを叶える”、だなんて。自分がどれだけ残酷なことをいっているのか、ケインは理解しているのだろうか。ダディが大好きなエリの願いなんて、そんなもの、ひとつしかない。
そして、それが叶えられないとわかったとき。彼女の望みは永遠に消えるのだ。
「……ただで済むと思わないでね、ケイン」
遥か遠い世界のケインに、わたしは呪詛の言葉を呟く。彼が同封したわたしへのプレゼントは、同じく銀製で不思議な石の付いた指輪。こちらは“わたしを守る魔法が掛かっている”のだとか。……自分がどれだけふざけたことをいっているのか、どれほど無神経なことをほざいているのか、本当に、あの馬鹿は、本当に、ほんッとうに、わかっているのだろうか。
おまけに、“新しくわたしを守ってくれる男ができたら、捨ててくれ”だぁ!? あのボケいい加減にしとかねえとそのタマ踵で踏み潰す……
「まみ?」
思わず溢れ出た憤怒の空気に、エリがわたしの顔を覗き込む。いけない。娘の前でだけは、優しいママでいなくちゃ。
「大丈夫よ、エリ。ママは、大丈夫」
ママはね。でも、もし再び会える機会があれば、ダディの身の安全は、その限りじゃないけどね。
「絶対、ぶん殴ってやる」
ボソリと漏れたわたしの声に、エリがクスクスと笑った。
「えりも、ぷんなぅる♪」
◇ ◇
結局、金貨は十八万七千ドルになった。
メディスン通りのカークランドという古物商はケインが軍にいた頃の戦友だったが、海外派遣で重傷を負って除隊したらしい。その怪我の原因になった戦闘で、彼はケインに命を助けられた。銃弾飛び交うなか、ケインは動けないカークランドを背負ったまま数キロを走破したのだとか。
「ケインは、その……」
彼は、ケインが民間軍事会社に入った経緯を知っていた。そこでケインたち戦闘要員の指揮官だった――そして、ケインによれば勇者として魔王に殺されたとかいう――オルランドは軍でふたりのいた部隊の先任下士官だったというから、おそらくは派遣先で消息を絶ったことも伝わっているのだろう。
「大丈夫です、カークランドさん。彼は、遠いところにいます。まあ、元気でやってるみたいですよ」
笑顔で話すわたしを見て、彼は悲しそうな顔で首を振った。わたしが、少し精神的に混乱しているとでも思ったのかもしれない。いや、まず間違いなくそう思ったのだろう。彼は二十万ドルと書かれた小切手を渡してきた。査定の金額より、随分と多い。
「彼のために、そしてあなたたちふたりのために、できることがあれば何でもいってくれ」
カークランドは怪しげな店で怪しげな商品を扱う怪しげな風体の人物だったが、良い人だった。
それはそうよね。ケインの、友だちなんだもの。
結局、二十万ドルの大半が借金の返済に消えた。わたしとケインが大学卒業までに借りた学費と車のローン。そしてケインの妹に掛かった医療費だ。わたしたちふたり(とエリ)にとって唯一の親族である彼女はもう完治し自立して生活できるまでに回復したが、借金は重く圧し掛かって家計を圧迫していた。貧困家庭とまではいかないまでも、暮らしは大変だったから二十万ドルはすごく助かったけど。
ケインと引き換えに、そんなもの欲しくなかった。
おかしな話だが、借金を完済したことで、わたしのなかで何かが崩れた。張り詰めていた糸が、プツリと切れたみたいに。
あの手紙を読んでから、ケインに会ったらぶん殴ってやるんだって、ずっと思ってたけど。三か月近くも経った頃には、きっともう会えないんだって、諦め始めていた。
異世界に飛ばされたとか、エルフの部下として魔法使いの修行してるとか、あまりに馬鹿ばかしくて笑う気にもなれなかったけど、それだけに、却って嘘じゃないように思えた。ケインは、いい加減で不器用でお人好しで、ときどき信じ難いほどに無神経だったけど、家族に対しては誠実だったから。
「……戦場じゃ誠実な奴ほど死ぬって、カークランドさんがいってたっけ」
きっとケインは、エリが生まれて、焦っていたんだと思う。自分がなんとかしなきゃって、意欲と熱意が空回りしてた。傭兵の真似事なんて向いてないから辞めろって、何度も何度もいったのに。今回だけ、半年だけだって約束して、聞いたこともない国の聞いたこともない街に向かって……そのまま、帰らなかった。
何度も何度も謝る、遺書みたいな手紙を思い出して、わたしは信号待ちの車内でハンドルに突っ伏す。
エリがいなかったら、きっとわたしはおかしくなってた。あのひとのいない人生なんて、想像もしていなかったから。
「まみ」
気付けば助手席で、エリがキョロキョロと周囲を見ていた。不思議そうな顔で、どこか遠くに耳を澄ませている。
「なあに、エリ。どうかしたの?」
「だぃ、“しゃーいー”って」
ケインが、わたしを呼んでる? なんで? どこから? どうやって?
ありえない。まだ三歳でなければ、ストレスによる幻聴を疑うところだ。
「……ねえ、エリ。ダディは、ずっとずっと遠いところにいるの。だから声は、届かないと思う……」
「うん、エリも、だぃ、すき♪」
わたしの言葉が理解できたんだかどうだか、どこかから聞こえてきているらしい声にエリは応える。天使のような微笑みを浮かべた彼女を見て、わたしは号泣しそうになるのを堪える。
エリは、良い子だ。わがままもいわない。癇癪も起こさない。好き嫌いもない。身体も丈夫で、夜更かしもせず良く眠る。夜中に起き出してきたのは、わたしが声を殺して泣いていたときだけ。エリはわたしの手を握り、頭を撫でてくれた。大丈夫、大丈夫って、何度も何度も繰り返しながら。
そんな優しいエリが、わたしに向かって首を傾げる。
「エリ、だぃに、あいたいの。まみ、おねがい、いい?」
血の気が引くのが、自分でもわかった。いうべきじゃなかった。そのネックレスには魔法が掛かっているって。パパがエリの願いを叶えてくれるんだって。あの夜、泣いている理由を訊かれたあのとき、そんなことまで打ち明けるべきじゃなかったのだ。
エリは、“お願いをするときは、必ずママと一緒に“という約束を覚えていて、キチンとそれを守ってくれた。だから、わたしに訊いた。無邪気な目で、真っ直ぐに見つめながら。
「だぃ、おねがい、きいてくれる、ね?」
「……あ、あのねエリ」
あれはウソなんだって、パパが最期に遺した、優しくて残酷なウソなんだって、わたしはどうしてもいえなかった。口にしたら、自分のなかの何かが、耐えていた最後の砦が、壊れてしまう気がして。
なのに、わたしは頷いてしまう。わたしがこのまま堕ちてゆくなら、どこかで彼女の手を離さなければいけない。エリを巻き込むことだけは、絶対にできないから。だから。
――お願い、助けて、ケイン。
「だァいいぃーッ!」
そのとき、ネックレスが光った。




