300:聖女の病理
ハーグワイから北には大きな町はなく、まばらに農家や小集落が点在するだけだ。ほぼフラットな雪原を進むグリフォンを阻む者はいない。現状の敵対勢力は砦や皇都に籠っているし、移動中の部隊も砦を挟んで反対側だ。飛行能力持ちの魔導師でもない限り、そもそも追い付けんしな。
「共和国は、いま皇国に兵を向ける気はないんですか」
「アンタたちにゃ悪いが、しばらくは無理だね。なんとか内乱を収めはしたものの、指揮系統はズタズタ、装備もボロボロ。衛兵部隊も半壊してる。攻め込んできた敵への対処がせいぜいで、皇国まで攻め入るだけの力はないんだよ。“聖女の使徒”を束ねた砦の魔女ビューギーだけは、さすがに放っておけないってことで討伐部隊を出すことに……ちょっと前までは、なってたんだがね」
“聖女の使徒”の二百だけならばともかく、そこに二千からの皇国軍部隊が向かっているとなれば、当初の討伐部隊だけで対処できる話ではないのだろう。堅牢なイルム城砦で二千二百の敵に籠城されてしまえば、一万近い兵力が必要になる。おそらく、いまの共和国でそんな数は揃えられない。
「皇国の二千が援軍ではなく王国聖女の討伐であれば、少しは話が変わってくるがのう。……それはそれで、三勢力での泥仕合じゃな」
その可能性は、そう高くないんじゃないかな。皇帝には屈辱的な和平交渉を受け入れる気はないことがわかった。ということなら、“聖女の使徒”は敵対する隣国に食い込んだ楔だ。可能な限り、利用するだろ。
「どのみち泥試合さ」
エクラさんは首を振って自嘲気味の笑みを浮かべる。
「最初の計画じゃ、討伐部隊は冒険者ギルドからの支援戦力を含めて五百。いま抽出できるのは、それが限界だったんだよ。攻城側が敵の二倍半、となれば無理押しはできない。直接交戦は避けて、砦の補給を遮断する予定だったのさ」
それが対峙直前、敵に十倍の援軍が加わる可能性が出た、と。
「いまから戦力を再編成となると、なんだかんだで長引いて攻勢を掛けるのは春からになっちまうよ」
気の長い話だ。とはいえ、この場合は共和国にとっても時間は有利に働く。
「案外それは良い手かもしれないですね。冬の間は、二千二百を長期籠城させるほどの補給なんて不可能でしょう。地形と状況を考えれば、二百だって難しい。包囲して補給を断って干上がらせるだけで、自滅も時間の問題ですよ」
「厄介なのは、相手が得体の知れないやつだってことだねえ。ターキフは、あっちの聖女とも同郷なんだろ。どうなってんだか教えとくれ。いまの聖女の状態が、もうひとつよくわからないんだよ」
「こちらは魔法に関して素人ですよ。エクラさんがわからないことが、わかるわけないでしょう」
「いや、掛けられた術の概要は把握したのさ。知りたいのは、そこじゃないんだよ」
「え?」
「聖女が持つ聖霊の加護を、北方エルフの精霊魔法で書き換えたんだろ。反射と送還を、本人に向けた。ミル嬢ちゃんからは、そう聞いたがね」
「わたしも彼女からの伝聞ですが、悪意か敵意か殺意を向けてきたところで、それを聖女に返したら動かなくなったとしか」
「ところが、いまの聖女は元気に動いてる。それどころか慈悲に溢れ優しい本物の聖女みたいになってるそうだよ。知りたいのはそこさ。そいつがアンタたちに何をぶつけてきて、何を返されたのかがわからないんだよ」
いや、そんなん俺にもわかりませんが。こっちに向かってこないなら別に放置で良いんじゃないですかね。おかしくなってるとしても俺たちに実害はないし。本物の聖女みたいになったなら、なおさらだ。
それをエクラさんにいうと、えらく渋い顔をされた。これ、問題なのは元聖女の状態ではなく、そこに至った理由と原因か。
「その前に、確認しておきたいんだけどね。王国の元聖女の提唱するあれは、アンタたちのいたところでは受け入れられていたのかい?」
エクラさんの質問に、どう答えるべきか俺は少し迷う。ローリンゲン氏のところでも訊かれたが、適当にごまかしてしまった。
「おお、ローリンゲン殿がいうておったのう。わらわにも、いまひとつ良くわからんかったんじゃ。いや、理屈としてはわかるがの。それを聖女が吹聴する意図が読めん」
イルム城塞を実効支配する聖女ビューギーが広めているのは、“神の下での平等”。
いわんとすることは理解できても、この世界で唱えるお題目としては驚くほどに空虚で、何の意味があるのかとは思う。そんなもん、皇国や王国は当然として、諸部族連合や共和国でも受け入れられるはずがないのだ。賛成・反対以前に、受け入れるメリットがない。
「そうですね……国によりますが、理想論としてならば、それなりに受け入れられていましたかね」
「ターキフのいた国では、どうなんだい」
「宗教と政治は切り離すという原則の国だったので神の名は用いませんが、法の下での平等、ならば国是になっていました」
「へえ? 反対する者は、いなかったのかい?」
「基本的に平民しかいない国でしたからね。そういう社会で、平等というのは表立って反対するほどの問題ではないです」
だから、勘違いしていたのだ。元聖女のお題目で問題があるとしたら、神の下での、の方だと思ってた。どんな神かによる、というか。
「……なるほどね」
「何かわかりましたか」
「ああ、そうだね。アンタのいたところじゃ、無学な連中が極端に少なかったんだってことくらいは思い知らされたよ」
そういわれると、どうかなとは思うけど。ただ、ここと日本では“無学”の意味が違う気はする。識字率が低く義務教育などない近代以前の社会で、庶民が“何も知らない”といった場合、その“何も”は知識やリテラシーの多寡ではなく、文字通り“何も”なのだ。
「共和国でも、評議会は危機感を抱いてはいたがね。主に警戒してたのは自国におかしな武装集団が巣を作ったって方だ。けど、皇国からしたら危険視するべきはお題目の方なんだよ。そんなもん広まったら、無学な連中は“神の御名さえ唱えれば、平民も奴隷も貴族と同じものを得られる”、と思っちまう」
まあ、そうだろな。ローリンゲン氏のいってた“民にまで広がれば国を食い荒らす、死に至る病”というのも、なんとなくだが、わからんでもない。
「エクラさんは、どうするべきだと?」
「共和国理事としての意見なら、アンタと同じだ。放っておけばいいと思うよ。できることもないし、やったところでさしたる意味もない。勝手に潰れて野垂れ死ぬように仕向ければ、後腐れなく片が付くってもんだ。……ただ、どうしたいかっていうんならね」
不思議なことに、エクラさんは俺たちを見て、少しだけ切なそうな顔をした。
「アタシは、魔女ビューギーを、助けてやりたいのさ」




