294:魔王轟沈
最初は、すぐに対処するつもりだったのだ。
聖女の使徒だか暴徒だか知らんけど、国を裏切り民を虐げて、叛乱を起こしながら最後まで戦わず、負けた責任も取らずサッサと逃げた挙句にどこぞの女の子を神輿に乗せて砦に立て籠ってる腰抜けどもが、よりにもよって“悔い改めよ”とか抜かしてやがると聞いたときには、全員並べて生まれてきたことを後悔するような目に遭わせてやろうと、思ったのだ。
……思っては、いたのだよ。
「……あぅ」
話は、例によって半日ほど遡るのである。
襲撃を受けた夜営地点から首都ハーグワイまでは、だいたい百五十キロといったところだった。ミルリルさんの読みは大体合ってたわけだけれど、その行程の七割ほど行ったところで、ミルリルさんが俺の頬をペタリと両手で包んだのだ。
「ひゃ、つめたいって」
何をするんだと笑顔で振り返った俺は、鋭い目で見つめるミルリルの真剣な表情に怯む。
「え?」
「わらわの手が冷たいのではない。おぬしの顔が熱いのじゃ。ヨシュア、身体の調子はおかしくないか?」
「眠いのと、頭がボーッとするのと……あと、少し寒い」
ミルリルはエクラさんを呼んで、鑑定かなんか知らんけど体調を診断してもらった。
「おや、風邪だね。気付いてやれなくて済まない、けど……まさか魔王が風邪を引くなんて思わないからさ」
「誰だって、風邪くらい、引くでしょう」
そのときには、わりと熱が上がっていたようなのだが、俺に自覚はなかった。早く首都まで行かなければと、それだけを気にしていた。幸い、首都から最も近い市街地は抜けていたから、残るは平地の移動だけだ。数キロ先に見える小高い丘の向こうが、たぶん首都のある盆地。もうすぐだ。
「いいや、エルフじゃ聞かないねえ」
なんだか、少しエクラさんの声が遠い。
「魔導師なら簡単な呪いや病くらいは操るし、たいがい薬草学の初期に毒や病への耐性を身に付けるからねえ」
どんな生き様だそれ。中国武術の鍛錬みたいだ。
「ミルリルは?」
「ドワーフや獣人は、魔力で身体を保つのが習い性になっておる。魔力の流れに濁りや澱みがあれば、身体を動かして治すのじゃ」
体育会系でよく聞く“走れば治る”的なタイプか。それはそれで、わかりやすく合理的だな。羨ましいが、俺はそのどちらでもない。休めなかった社畜時代はともかく、基本的には薬を飲んで寝て治すという標準的日本人だ。
「治癒魔法で治らないもんですかね」
「死に至る病なら治癒も行うが、風邪くらいなら勧めないね。病の元まで強めてしまうんだよ」
それは、元いた世界でいう耐性菌みたいな話かな。まあ、わからんでもない。風邪だし。いや、異世界でも風邪は風邪なのか。頭が回らない。ミルリルが心配そうに額に手を当てる。ひんやりして、気持ちいい。なんか柔らかくて暖かいピンクの波動みたいなものが伝わってくる、気がした。なんだろな、これ。愛かな、うん。きっと、そうだ。
「そういや……郡山の婆ちゃんは、風邪引くと桃缶を食わせてくれたっけなあ……」
「ヨシュア、もう限界じゃ。ぐりふぉんを停めよ!」
いわれるがままスロットルを抜き、エンジンを切ったところで、俺の記憶は途切れた。
◇ ◇
目覚めると、日が陰っていた。俺はお上品な部屋で、キングサイズとでもいうのか巨大なベッドに寝かされていた。枕元では、ミルリルが穏やかな表情でこちらを見ていた。
「おお、目が覚めたかヨシュア。気分は悪くないかの」
「ここ、は」
「ハーグワイの、中心部じゃな。評議会の連中が手配した宿じゃ」
宿、というか高級ホテルですな。
「ぐりふぉんは、馬で引っ張って運んでおいたぞ。いまはローリンゲン殿が商業ギルドで預かってくれておる」
「ああ……ごめん」
「なに、謝ることなどないのじゃ。今度のは、ただの風邪じゃ。寝ておれば治るしの」
濡れタオルを絞って、額に乗せてくれた。ひんやりして、気持ちいい。薬草なのか、少しミントのような香りがした。
「……聖女の、使徒は」
「さあのう。軍議のようなものが開かれたようじゃが、出てはおらんのでわからん。さすがに誰も、わらわたちにそんな話を押し付けはせんじゃろ」
「そうね。病人の魔王だしね。……病人と魔王って、ちょっとミスマッチ感あるよね」
「みすまっち、が何かは知らんが、おぬしは働き過ぎなんじゃ。何でもかんでも引き受けておっては、疲れも溜まるし病にもなろう。ゆっくりして、それから考えるがよいのじゃ」
「あう」
ミルリルの指輪から、淡い桃色の光が俺の指輪に注がれているのが見えた。
「……奇跡だか祝福だかは、……風邪には、効かないのかな」
青かった俺の指輪も、いまは曇天の空に似た暗い灰色にくすんでいる。
「空も晴れてばかりではない。ときには曇り、雨が降る。そうあるべきなんじゃと、わらわは思うがの」
「たまには風邪くらい引くべきだ、てこと?」
「こんな機会でもなければ、おぬしはまた他人のために駆け回るであろう? 神の意思かどうかは知らんが、少しは休めということじゃな」
「……そう、かもな」
それからまた、少し眠った。目が覚めると部屋のなかは暗くて、枕元にはまだミルリルがいた。ずっと看病してくれていたのだとしたら、さすがに可哀相だ。
「……ミル。ありがとう……もう、いいよ。……自分の部屋で、……寝ときな」
「ここが、わらわの部屋じゃ」
そう、なのか? いまは暗くて見えんし、昼間の光景は朦朧として覚えてない。ダブルなのかツインなのかスイートなのか、日本の小市民には、彼女がどこで寝る想定なのかわからん……が、それ以前にダメだろ。
「いや、でもさ」
「嫌じゃ。どこにも行かぬ。わらわは、ここに居る」
「……ほら、風邪が、……感染るから、ね?」
暗闇のなかで、柔らかくて温かいものが俺の頭を包み込んだ。さらさらと髪が落ちて俺の鼻先をくすぐった。
「かまわん。おぬしの全ては、みーんな、わらわのものじゃ」
クスクスと、耳元で押し殺した笑い声が響く。いや、ワシにとってはアンタが聖女やで。なんだかひどく切なくなって、俺は手を伸ばして届く限りのすべてを丸ごとギュッと抱き締めた。ふわふわして、すべすべして。ミルクのような甘い匂いがして。なんか、こういうのあったなあ。にこにこして、つやつやして。お腹を押すとキューって鳴くんだよな。あれ、なんていったっけ……
俺は雲のように軽く絹のように滑らかで蜜のように甘やかなとろりとした夢に包まれ、深い眠りに落ちていった。
「ヨシュア、“きゅうぴー”とは何じゃ?」
後日、すっかり良くなった俺は完全に忘れていたから、いきなりミルリルに尋ねられて答えに窮する。
「へ?」
「ヨシュアがいうておったんじゃ。“あーこれきゅうぴーだ、きゅうぴーだねえ……”、とな」
熱に浮かされてる間に見た夢の話を、ミルリルさんにするべきかどうか迷う。どこをどう考えてもミルリルさんを撫で回していうたったセリフのようなのですが、それは些か失礼にあたるのではないかと思われなくもない。
「……天使、みたいなものかな。元いたところで、ものすごーく愛されてた人形だよ」
「ほう?」
しばらく経って、サイモンから取り寄せたキューピー人形を見たミルリルさんは、非常に微妙な感じの顔で首を傾げたのである。
「……天使、か?」
ああ、うん。なんか……いろいろと、ごめん。




