226:サムシング・スウィート
我らが定宿“狼の尻尾亭”にはその日、甘い匂いがいっぱいに広がっていた。小麦粉とクリームとバニラエッセンスとチョコレートとミルクと香しい香り。ではあるのだが、オッサンには嗅いでるだけでお腹いっぱいな感さえある。
「すごいねえ、“べーきんぐぱうだー”って。ターキフさん、これ何でできてるんだい?」
「……あー、すみません。わからないです。発酵を促すための粉だというくらいしか」
菓子作り自体、クッキーとプリンしか経験がないのだ。ベーキングパウダーの組成なんてわかるはずもない。正直、“そういうものだ”ってくらいの知識しかない。ふつう、中年サラリーマンなんてそんなもんだろよ。
「こっちのパンも柔らかくて美味しいじゃないですか。あれは、どうやってるんですか?」
「生地に葡萄酒やエールの発酵途中の酵母を混ぜてるんだよ。こんなに毎回、大きく上手くは膨らまないよ」
なるほど。古代文明でパンだかビールだかができた経緯はそんな感じだった気はする。うろ覚えだが。
酒やらチーズがあるんだから、発酵技術自体は当然あることはわかってた。元いた世界と比較して(経済的・流通的なものを除けば)料理レベルの差異はそれほど大きくない。素材が良いのか魔法的技術発展のせいか、部分的にはこっちの世界の方が美味い物もある。
ともあれ、今回チャレンジしているのは……共和国の伝統的ケーキ。それのベーキングパウダー版だ。当然、パティシエ役は俺ではなく凄腕シェフのサンドラさん。俺とミルはお手伝いだけだ。
「すごく美味しそうじゃないですか。この配分で作ろうと思ったことはないんですか?」
「こりゃ、“べーきんぐぱうだー”と、何より“さとう”あってのもんだからねえ。こんだけ乳脂を含ませたもん、甘くないんじゃクドいだけで美味くないよ。麦芽糖水飴じゃムラができちゃうしさ」
俺にはわからんが、そんなもんか。オリジナルの伝統ケーキは、聞いた限りドイツのクリスマスケーキに似た硬くて日持ちのするものらしい。ドライフルーツとナッツがギッシリで、その時期に各家で手に入るだけの糖蜜を入れてシャリシャリするくらいのが至高の出来なのだとか。うん、こっちのひとは甘さに飢えているのね。
手伝えるところは一段落したので、俺はサイモンから分けてもらったコーヒー豆を、ミルでコリコリと挽き始める。そんなに上質ではないといってたけど、地物の煎り立てらしくなかなか香りは良い。いわれてみれば粒が揃ってなかったり焙煎が雑で砕けていたりというのはあるけれども、久しぶりの濃く甘い香りに胸が高鳴る。
こっちに来てからは美味しい香草茶に慣れてしまったけど、会社員だった頃はコーヒー党だったのだ。
手挽きのクラシックなコーヒーミルはサイモンからもらったが、ポットはサンドラさんから借りた香草茶用のものだ。濾し器はお茶用の小さい網で、フィルターは下ろし立ての麻布巾。あり合わせだけど粗挽きネルドリップ方式で、それっぽい感じにはなった。
「ターキフ、これは何じゃ?」
「コーヒーっていう、炒り豆のお茶だよ。俺のいたところでは、すごく人気があったんだけど……」
ミルリルさんには、苦いんじゃないかな。
「どうしたんじゃ、子犬を見るような顔をしよって」
「いや、慣れないひとは、温めた獣乳と砂糖か甘麦を入れた方が美味しいかもなーって、思っただけだよ」
「ヨシュアは入れんのか?」
「俺はそのまま飲むのが好きなんでね」
「さあ、できたよ〜」
第一弾のケーキが焼けて、ついでに焼いたクッキーと試しに作ってみたクレープも並べて、お茶の時間になった。キッチンが空いているお昼の仕込み前の時間を狙ったので、ちょうど出勤してきたサンドラさんの姉レイラさんと姪っ子マーラさんも一緒だ。
「「「わあ……」」」
女性陣は甘いものに目がないというのは本当なのね。もともと甘味に飢えてる状況もあるんだろうけど、ミルリルさんサンドラさんも含めて、全員が目を輝かせている。
「さ、食べてみておくれ。上手くできたら食堂以外にも手を広げようと思ってるんだよ」
「ちょっと待ったぁ!」
バーンとドアを開けて入ってきたのは、“サルズの魔女”こと冒険者ギルドのギルドマスター、エクラさん。同じくギルドの受付嬢ハルさんと、商業ギルド事務員からサルズの街区長代理に据えられた敏腕お婆ちゃんのケルグさん。
「こんなこったろうと思ったよ」
「商品化の目処が立ったら、すぐに連絡をしてくださるようにお願いしたはずですが?」
「ですから、その商品化のための試作品を作ってみたところなんですよ。ねえ、サンドラさん」
「そうだねえ。味は、まだまだ手探りだけど、せっかく来てもらったんだ、皆さんも席についておくれ。いま、お茶を淹れるからね」
踏み込んできた三人は、誘われていそいそとテーブルに着く。冒険者ギルドのふたりはともかく、ケルグさんは、こんなところにお茶飲みに来ている暇はあるのだろうか。
元・行政区高等政務官……だっけか、なんか公務員上級職っぽいバリバリのキャリアウーマンだったらしいので、量的問題を除けば仕事はこなせるようだけどね。
「魔王陛下、これは?」
そのケルグさんの目は、甘味だけではなく俺の前にあったコーヒーにも向けられている。この辺りがベテランの審美眼である。
「炒り豆のお茶です。癖が強いので、飲まれるのでしたらそちらの獣乳と、お好みで甘味料を入れてみてください」
「ターキフ、これ苦いのじゃ……」
コーヒーをブラックで飲んだらしいミルリルさんが渋い顔で舌を出している。俺の真似をしたかったようだが、子供舌にはハードルが高かろう。
「だから、いったでしょ。獣乳を入れなさいな」
そういやミルリルさん、前に携行糧食に入ってたのを飲んだはずだけど、覚えてないか。ミルクと砂糖を入れてたし、インスタントで香りもほとんどしなかったしな。
「あら、良い香りですね」
ポットから入れたコーヒーを少しテイスティングして、ケルグさんは笑顔になる。こちらはイケる口のようだ。
「これは、王国南部で飲まれていた薬茶に似てます。赤くて甘い小さな果実の種子を焙煎したものと聞きましたが」
「もしかして、眠気が覚めて元気が出る?」
「はい。飲み過ぎると眠れなくなります。それと、かなり強い利尿効果が」
あれ、それ当たりっぽいな。こっちにもコーヒーあんのか。後でエルケル侯爵家に聞いてみようかな。
「美味ッ!」
「美味しいです、このトローッとした白いのが口の中で溶けて」
女性陣はケーキやクッキーを取り分けて食べ始めている。クレープもナイフで切ってそれぞれの皿に盛られていた。コーヒーに集中して出遅れたケルグさんが少し慌て出した。
「あ、私にも、いただけますか」
「ちょっと待ってくださいね。いま取り分けますから」
「ほわぁ……」
「ミルリルさん、どしたの」
「これは、素晴らしく甘いのじゃ……」
生クリームを作ってみたのは正解だったようだ。クレープにもケーキにもたっぷりとトッピングしたのが女性陣の舌とハートをガッチリとつかんでいる。
「う〜ん。ターキフさん、やっぱりこれは甘麦や虫蜜じゃ難しいねえ」
地産地消がベストなんだけどな。サルズ産の甘味料では、調理に向いてないようだ。そのあたりは、いま決定する必要もないので追々考えていこう。
「この甘さは、魔王領から持ち込んだ、あの白い粉かい?」
「ええ、砂糖ですね。ケースマイアンで産出するものではなく輸入品なんで、安定供給は保証できませんが」
「値段は?」
「甘麦よりは高価ですが、虫蜜よりは安いですね。価格はこれから交渉してみます」
「こないだ回してもらった分くらいを二期に一回くらい仕入れてもらえれば、流通に回せるんだけどねえ?」
サイモンから手に入れた砂糖百キロは、商業ギルドに持ってかれてしまったのだ。まあ奪ったわけじゃなく、ちゃんと買ってくれたんだけど。最終的にはニトン頼んであったんで、年二百キロくらいサルズに回すことは可能だ。虫蜜業者との利益調整もやってくれるというし、こちらとしては構わないかな。
「前向きに検討しましょう。サンドラさん、喫茶と菓子の方はいけそうですか」
「何人かひとを増やせば、すぐにでも」
「それは商業ギルドから斡旋しましょう」
サンドラさんの発言に、ケルグさんがすぐ応える。用意していたみたいなコメントだな、と思ったらその通りだったらしい。
「実は“狼の尻尾亭”で働きたいという方は十や二十では済まないくらいに殺到しているんです。直接押し掛けるのは厳禁ということで止めていますが」
「それじゃ、決まりだね。営業時間が決まったら、すぐに知らせておくれ」
なんか職務上は無関係なはずのエクラさんが最も気合い入ってるのが、よくわからないんですけど。
まあ、いいか。甘いものというのは、わかりやすい幸せの記号なのだろうと思う。いままで積み重ねてきた死と恐怖と殺戮の代わりに、この世界を甘いもので埋められたら。それは、おかしな表現ではあるが俺にとってひとつの贖罪になるような気がしているのだ。
空の皿を前に物足りなさそうな顔でモジモジしている女性陣のために、俺はデッドストックになっていた既成品のアメリカ菓子をあれこれと取り出し始めた。




