インキュバス①
京はむくりとベッドから身体を起こす。
そういえば昨日は考えることに必死で夕飯を食べてなかったな、とのそのそとベッドを出て、リビングへ向かう。
木造アパートの二階、1LDKの歩くだけで床が軋むようなぼろ家。
狭いリビングに置かれたソファにはリリスが大の字で今にも転げ落ちそうな体勢でいびきをかいていた。
「本当にこいつがリリスなのかよ…」
最初の女、悪魔を生んだ女、色々と呼び名はあるみたいだが、今自分の家で寝ている無防備な姿を見て改めて京は疑う。
リリスっていうともっと妖艶で見るもの全てを魅了する、そんなイメージがあった。
まぁ、リリス自身が実際の姿と言っているあの姿はたしかに妖艶な見た目ではあるのだが、見た目が良くても中身がこれじゃあなぁと京は呆れたようなため息をついた。
「…むにゃむにゃ…妾を…あがめよぉ…うひひ…むにゃむにゃ」
馬鹿面だ。
どんな夢を見ているのか嬉しそうに顔を綻ばせながら寝ているリリスの顔は心底幸せそうだった。
起こしてもめんどくさそうなのでリリスには触れず、キッチンまで行って冷蔵庫を漁る。
中を見て京はむむむ、と渋い顔をした。
調味料の他にあるのは緑茶の紙パックぐらいでほぼ空と言っても過言じゃない。
水で腹を膨らませるか?
そう一瞬だけ考えるが不意に目をやった時計が指している時間にその考えを捨て去り、そそくさと登校の準備を済ませて足早に家出た。
幸い財布には昨日浮いたエロ本代が残ってる。夢のための金だが、背に腹はかえられぬと行きにコンビニに寄ることにした。
時刻は6時40分。
家から学校までは歩いて20分ほどでついてしまう距離。
ちょうど熱心な部活生たちが朝練のために登校しだす時間でもある。
それはお隣の立派な一軒家に住む幼馴染も例外ではないようで錆びて今にも壊れそうな階段を降りた先でばったりと出くわした。
「おはよ。こんな朝早く珍しいわね」
珍しく口元を隠しながら小さくあくびをしてマリアは言った。
「腹減って起きた。お前こそどうした眠いなら寝てろ」
おどけたように半笑いでいつもの大きな瞳が開ききっていない幼馴染に声をかけるとめんどくさそうにいつもより低い声でそれに答えた。
「あほ。昨日は部活休んだし、朝練はいかないとなの…」
そういえば昨日俺と一緒に帰ってたなぁと思い出す。
「テニス部だっけ?」
マリアの補助バックからぴょこんと出たラケットのグリップを見ながら京は尋ねてみた。
「……あんた何年私と幼馴染やってるわけ?」
「すまん、バドミントンとテニスどっちだっけとわかんなくなった。朝練休んで放課後から出ればいいじゃねーか? 大会前だっけ?」
「ん、大会前よ。寝不足で休んでる暇なんてないのよ…あたしとダブルス組んでる先輩は今年で卒業だし、少しでもたくさん練習して優勝をプレゼントしたいわけ。帰宅部のあんたに言ってもわかんないだろーけど」
「寝不足? 不眠症か?」
何気なく聞くと、マリアは俯きながら少しだけ顔を赤く染めた。
「ど、どうでもいいじゃない!!」
寝不足の割には元気がいい。
しばらくマリアは顔を赤くしながら動揺していた様子だったが、あとは回復し、いつものように他愛もない会話をしながら通学路を並んで歩く。
途中でコンビニに寄って菓子パンを三つ買って食べながら歩こうとするとマリアに怒られたというのも他愛もない会話に含まれる。
「んじゃあ、あたしは部活行くから。またね」
校門の前に着くとマリアは小走りでテニスコートのある部室まで小走りで駆けていくが、途中で不意に振り返ると
「昨日のきんぴらごぼうどうだった?」
少しだけ緊張した面持ちで聞いてきた。
あぁ、あれ全部うちに来たリリスっつうロリっぽい悪魔が食べちゃったよ、なんて当然答えられるはずもなく、
「美味かったよ」
バレないように自然に返してみるが、マリアは京は怪しむようにじ〜っと半目で見る。
「そっか…よかった!」
が、ぱっとその顔に花が咲き、軽い足取りで背中を見せて駆けて行った。
あんなこと聞くということはきっとあのきんぴらごぼうはマリアが作ったものなのだろう。開けた時、マリアの母が作るような綺麗にささがきされたごぼうではなく、どこかゴツゴツしていたのでなんとなく予想できた。
リリスが木の棒と称していたのもなんとなく納得できる。
マリアは不器用だからなぁ…。
ただ見た目が悪いだけで味は問題ない。
それは今まで経験で知っていた。
一人になって寂しく、静まり返った校舎に向かうとその静けさゆえに小さくすすり泣くような声がよく聞こえてきた。