インキュバス⑩
「そ、そいつ魔界でも稀有な『童貞』での…」
自分を侮蔑するワードに意識を失っていたインキュバスがピクリと身体を震わせた。
「童貞? インキュバスが童貞なわけねーだろ」
「いや、それがの…うん、だから稀有な存在なわけで…たぶんじゃが、そのマリアとかいう女にも手を出していない」
リリスは自分の言葉を否定するように首を振った。
「『手を出せていない』と思う」
「リ、リリス様! それは間違っています!」
ギャグ漫画のように驚異の悪魔的回復力ですっかり顔の腫れが引いたインキュバスはがばっと身体を起こした。
「ボクはただ…純粋で誠実なだけです」
「のくせに実に惚れっぽいやつじゃ」
「インキュバスの仕事できてねーじゃんお前」
インキュバスは忌々しげに顔を歪める。
「そもそも出会ったばかりの女性に性行為を迫るなど言語道断。まずは文通から始めるべきなんです」
「文通ってお前…」
京の言葉を無視してインキュバスは力説する。
「いいですか。いくらボクの種族が淫らな行為を迫る夢魔と呼ばれているからといって皆が一様にそうだと決めつけるのはおかしいと思います! インキュバスの中にだってボクのように純真な者だっている。もちろんそうではないものが過半数ですが…。だから! だからそう、つまり何が言いたいかと言いますとボクが童貞であるかないかなんて大した問題ではないということです! そもそもーー」
「なぁ、マリアは元に戻るのか?」
熱弁を振るうインキュバスは放っておくことにして京はマリアを見ながらリリスに問うた。
「それはもちろん!」
カッカッて高笑いしてリリスは悪戯めいた笑みを浮かべる。
「悪魔や魔女の呪いを解くには相場が決まっておる」
「あー…もしかして…」
「キッスじゃ!!」
漫画ならババーンと効果音が書かれそうにリリスは言い切った。
「ほれ! ほれほれ! キッスをせい! この女を好いておるんじゃろ?」
「う、うぜぇ…」
からかうように脇腹を肘で小突くリリスに京は苦々しく顔を引きつらせつつ、ごちんとげんこつを食らわす。
「な、なにをするんじゃ!」
涙を目に浮かべながら抗議の声を上げるリリスだが、京はそれを無視。
そしてゆっくりとマリアに近づいた。
「カッカッ! やはりキッスをしたいのではないか! いいぞやれ! ヒューヒュー!」
「お前は酔っ払ったセクハラ親父か…」
呆れたように京は大きなため息を吐き、マリアの顔に両手を伸ばす。
そして無表情のマリアの両頬をぎゅ〜っと引っ張りあげた。
「…い……いた…………! 痛たたたたたたたたたたた!!!」
「なんだよ、簡単に戻るじゃねーか」
「お、お前はロマンチックの欠片もないやつじゃのぅ……」
虚ろな目に光が差し、我に帰ったマリアは真っ赤になった頬をさすりながらキッと京を睨みつけた。
「なにすんのよ!!」
「ーーそしてこれがそのマリア様の『パンティー』です」
今の今まで滔々と語り続けていたインキュバスはいつの間にやら接着剤の罠から抜け出してマリアの手にひらりと水色のパンツを手渡す。
「……は? え? ……なに?」
気がついた矢先、どこかの国の貴族のような出で立ちをした金髪の美青年からパンツを手渡され、困惑するマリアはそれが自分のものに間違いないと気づき、見る見るうちに顔をヤカンのように真っ赤にして湯気を吹き出した。
「な、ななな、なななななななななによあんた!! なんであたしのパンツ持ってるのよ!!!!」
悲鳴にも似た怒声をあげるマリアに
「なにって…インキュバスですよ? お忘れですか?」
「イ、インヒュバス!!? 知らないわにょ! 誰よあんた!!」
噛み噛みでマリアは再び絶叫した。
「知らないうちに契約しちゃってたみたいだな」
「大方、奴が誰とも契約してもらえないのに落ち込んで徘徊していたところにたまたま洗濯を干していたあの女が下着を落とし、それを契約の証だと勘違いしたのじゃろ」
「妙に具体的だな…。あいつレイプ魔でもなんでもなく…ただの下着泥棒だったのか…」
哀れむようにインキュバスを眺めた後とりあえず、と京は言い合い(一方的にマリアが喚いてるだけだが)をしている二人を宥め、事の顛末を説明することにした。
最初こそ『はぁ!?』だの『ありえない!!』や『サイッテー!』と一向に怒りを収めようとせず、なかなか本題に入れなかったが、次第に不満そうに目を怒らせながら京の話に耳を傾けてくれた。
「…わかったわ」
全ての説明を受け、マリアは痛そうに頭をぺしぺしと叩いた。
「わかったけどパンツ取られたことは納得できない!!」
「だ、だよな…。でもマリアがパンツを渡したのならインキュバス、お前も何か渡してるはずだよな?」
「えぇ、ボクからは愛に溢れたラブレターを百通ほどお渡ししました」
「そ、そんな覚えないもん…別のならあるけど…」
ちらりとマリアは京を睨みつける。
「な、なんだよ! 俺はなんもしてねーぞ!」
「インキュバスは対象の理想の異性に姿を変えて夢枕に立つ。つまりそういうことじゃ」
リリスはやれやれと首を振った。
「とにかくインキュバス。お前はどうする?」
真剣な眼差しでリリスはインキュバスに曖昧な言葉を投げかける。
「愛しきリリス様のため。ボクはあなたのためならば奴隷にでもなんでもなりましょう」
膝をついてインキュバスは深く頭を下げた。
その姿は女王と家来の構図に似てる。
「お前…こんなやつに惚れるとかないわぁ…」
リリスを熱愛するインキュバスの話を聞いていた京は引きつった笑みを浮かべた。
「ボクが惚れたのはあの大人のリリス様だ! ……だ、だが…こ、この姿はこの姿で…そそりる…」
聞いたマリアが冷ややかな視線をインキュバスに向けた。
さぞ軽蔑した目だった。
「では、カードを渡すのーー」
「うんにゃ、カードはそのまま持っといてくれ」
不意に京はリリスの言葉を遮った。
「現状、カードがなくなるとどうなるかわからないんだろ? なら、一枚のカードにまとめちまうより二枚のカードを持っといたほうがいい。もしも、俺たちがカードを奪われた場合の保険にもなるし、もしもカードがなくなったことでインキュバスが消えちまうのならカードを持ったまま『協力者』として存在を持ち続けていてくれた方が戦力的にいい」
「確かにそうじゃの…」
「まぁ、これはインキュバスが裏切らないってことが絶対条件なんだがよ」
「人間のオス、お前に従うわけではない。ボクはリリス様に従うんだ。それだけは忘れるな」
どうやらインキュバスは人間の男が嫌いらしい。
「はいよ」
苦笑いを浮かべて京は適当に返事をした。
「なにはともあれ、ユダ! 初勝利じゃ! ようやった!」
パートナーを讃えるようにまたは喜びのあまりはしゃぐ子供のようにリリスは小さな身体を跳ねさせて京に抱きついた。