インキュバス⑧
「逃げる? 妾が逃げるはずなかろう」
京と並び立つリリスは挑発するように鼻で笑った。
なぜ、このタイミングで姿を再び現した?
インキュバスは訝しむように二人を見つめ、怪しな動きがないか注視する。
見た目は至って普通。
何か魔力を帯びた様子もないし、京に至っては不敵に両手をポケットに突っ込んだまま笑っている。
破れかぶれ、玉砕覚悟か?
それとも何か策を練ってきたか?
リリスたちが姿を隠してからわずか5分ほど。
そんな短い時間で打開策を見つけられるものか?
相手は手ぶら同然。
にも関わらず、インキュバスの額には嫌な汗が浮かんでいた。
「あー…リリス」
「なんじゃ!」
「元気いいなおい…俺の魔力量ならあいつは何発殴れば死ぬんだ?」
その問いにリリスはしばし顎に手を置いて考えーー
「一万発ぐらいかの」
それを聞いた京は一瞬、眉をピクリとさせるがすぐにインキュバスへ向き直って人差し指をその顔に突きつけた。
「よし、お前は一万発殴るぞ」
自信満々に言った京の宣言にインキュバスはしばし唖然とするが、湧き出すように笑い声が漏れ出てくる。
「くっくっく…ボクを? 一万発? 殴る? 無理ですよ! お前は僕に指一本触れることはできない!」
言ってインキュバスはマリアをちらりと見遣った。
「マリア様! やってしまってください」
インキュバスの呼びかけにマリアはゆっくりと無機質に京たちの元へ歩み寄る。
『魅了』の能力は無敵じゃない。
にしてもそう簡単に破ることのできる能力でもない。
発動にはいくつかの条件があるが、京はインキュバスにとって格好の相手でしかなかった。
「さぁ! 人間のオス! 殴ってみろ! ボクを殴ってみろ! クハハハハ! お前がか弱き女性を退けてボクのとこに来れるのならなぁ!!」
その余裕も束の間。
ゆっくりにしろ二人に一歩一歩確かに近づいていたマリアの足が止まった。
まるで地面に吸い付いたかのようにその場に止まっている。
「な、なぜだ!」
「ユダ! なぜじゃ」
便乗して叫ぶリリス。
京はぽりぽりと頬をかいた。
「俺、結構『節約家』なんだわ。つーか、『ケチ』つった方がいいかな」
京は血の固まった鼻を袖でぐいっと拭う。
「ただで血を流すほど太っ腹じゃねーわけ」
鼻血。
それは紛れもなく京の魔力が通った血液に違いない。
地面に散乱した資材や塗料の缶を顎で指した京に促され、インキュバスは気付き目を見開いた。
「接着剤…!!」
「そ! 正確にはセメダインな。それに魔力を通わせて透明化と吸着力を付与して産み出した。初めての割にはうまくいった方だと思う」
謂わば悪魔のためのゴキブリホイホイ。
忌々しげにインキュバスは歯ぎしりをするが、すぐに平静を取り戻す。
「たかが契約者を封じたところでなんだと言うんです! カードはボクが持っている! これを奪わぬ限り勝敗は決していないのですよ!」
「…リリス、頼む」
「う、うむ。本当はかなり魔力を使うからやりたくないんだがの…腹も減るし疲れる」
「終わったらなんか食わせてやるよ」
「本当か! くっくっく、仕方ないのぅ!」
食べ物に釣られ、リリスは俄然やる気が出たようで袖まくりをしてぶんぶんと腕を回した。
そして、あの京と出会った夜のようにモクモクと煙を上げて姿を変えてみせた。
「久しいのぅインキュバス」
美しく透き通った、それだけで人を絶頂させてしまいそうな声が深夜の闇の中、静かに響いた。
黒色の髪、真っ赤な瞳に透けて見えそうなほど白い肌。
胸はすべての男を虜にするように大きく美しく、細い腰から綺麗な曲線を描く尻は極めて淫靡。細すぎず、太りすぎず。男を魅了するがために生まれてきたような姿。
妖艶な声と涼しげな表情で元の姿に戻ったリリスは長い髪をかきあげた。
その姿になるように促した京自身、リリスのその妖艶で危険な美しさから目を離せずにいた。
「リ…リス…様…!!」
それはインキュバスも同じく、その美しさに見惚れ、目に涙を滲ませながら辛うじて彼女の名前を呼ぶことしかできない。
ふらふらと糸を引かれるようにインキュバスは覚束ない足取りでリリスをもっと間近に見たいと言わんばかりに女神を前にした信者の如く歩み寄っていく。
不意に生意気な少女姿のリリスを思い出し、京は意識を戻すとその惑わされたインキュバスの姿を見てニヤリとほくそ笑んだ。
「魅了はお前の専売特許ではないぞ。妾ならばこんなもの素で使える」
リリスにいつもの幼稚さ間抜けさはない。
もしかしたら奪われたのは魔力や肉体の成長だけでなく、その少女化に伴って知能さえもその対象に入っているのかもしれない。
「あぁ…リリス様…リリス様…」
やがてインキュバスはマリアと同じように京のはった罠の上に立つが、尚も進もうとするためバランスを前のめりに崩し両手を地面についた。
「あ〜しんどいのぅ〜」
体調や腹の満たされ具合、やる気によって左右されるが、リリスの変身はもって30秒ほど。
ぽいん、と擬音が似合いそうな煙を上げて、同時にリリスの変身も解けると、顔をしかめて元絶世の美女は床に薄い尻をつけて座り込んでしまった。
「は! こ、これは!」
「さてと有言実行といきますか」
ようやく自分の置かれた状況を理解したインキュバスだが、時すでに遅し。
ちょうど土下座のように両手をついて接着剤の上に座り込んだインキュバスの前に京は指をポキポキと鳴らしながら立ちはだかった。