インキュバス⑦
「インキュバス…? インキュバスっつうとあの女に夜な夜なエロいことをする…『レイプ魔』!」
背の高い草陰に隠れ、相手方が追ってこないのを確認しつつ、二人は息を潜めて勝つための算段を立てる。
相手の正体を知った京はぐっと噛み締め、奥歯を鳴らした。
女の子にエロいことをするのが仕事だと?
なんて羨ましい仕事なんだ!
「…お前が何を考えているかは顔を見ればわかるが…あのお前が恋慕しとる女もその被害にあっているということを忘れるな」
冷めた目で京を見ていたリリスはふぅと小さく息をつく。
誰だって好きな異性が別の男に手を出されていたとなれば憤りを感じるものだろう、それは京もまた同じ。
幼い頃から一緒でずっと想いを寄せてきた相手とくれば殊更にインキュバスへのヘイトが高まる。
「あぁ、ボコボコにしてやる。あの甘いマスクがもう元に戻らないぐらいボコボコに…!」
静かなる狂気を帯びた京の顔にリリスは呆れたようにまた息を吐く。
「たわけ…お前のようなちっぽけな魔力を持った人間が殴ったとしても赤子に平手をくらうぐらいのダメージしか与えられんわ」
「そこらへんは任せろ。もう種はまいた」
得意げに京は笑った。
「それよりもだ…ちと聞いておきたい」
「…なんじゃ?」
「悪魔は自身の契約者に危害を与えることはできない、だよな?」
「…も、もう忘れたのか?! 鳥かお前は! ルールぐらいしっかり頭に入れておけぃ!」
「違ぇよ。忘れてはない。確認だ。間違ってないよな?」
リリスは意味のわからないといった感じに狼狽えながらこくりと頷く。
「じゃあ、なんでマリアに『魅了』がかかってるんだ? 直接的な危害を与えることがないならセーフっていうルールの抜け道みたいなものがあるのか?」
「あぁ、それはのぅ…」
少しだけ言葉をためてからリリスは言う。
「あれは能力ではない。恐らくだがの。じゃが、あの女にお前が『魅了』をかけられたことから奴と契約していることは確実」
「なんだそれ?」
「『悪魔に魂を抜かれる』という表現があるじゃろ? まさにあの女はその状態にある」
リリスは時折、後方を確認しつつ話を続けた。
「謂わば『精神力」じゃ」
「精神力?」
「うむ。精神力が弱いものが悪魔と契約すればそれこそ身も心も悪魔のものとなる。あの女はまさに今、奴の生き人形と成り果てておるということじゃ」
マリアの精神力が弱かったから。
いつも気丈に振る舞っているマリアからは想像もつかない言葉だったが、普通の女子高生なんてそんなものか、と京は一人納得する。
部活の大会前に妙に気負ったり、恋い焦がれに一喜一憂したり、テスト前に憂鬱になったりそんな生活上の小さなことで精神面に不安定が生じるそんな存在。
悪魔と契約して平然としている自分こそ異質なんだと。
「ユダ、いいことを教えてやろう」
キシシとリリス悪戯な笑みを浮かべた。
「悪魔と契約して意識を保っとるような奴は大体『性格の悪い』やつじゃ」
「うるせぇよ」
ぴしっと京はリリスにデコピンをくらわせて言葉通り性格の悪そうな笑みを浮かべる。
「さて、ユダ。どう出る?」
赤くなったおでこを不満気にリリスはさすりながら尋ねるがーー
「どう出る? どうやって戦うかってことか?」
さも不思議そうに京はリリスを見つめた。
「八割方俺らの勝ちだよ」
「逃げましたか…」
リリスたちが背を向け、その場を離れてから数刻。
インキュバスは夜の静寂に包まれた庭先でマリアと二人立ち尽くしていた。
別に闇に紛れたリリスたちを見失ったからではなく、敢えて追わなかったが正しい。
理由は二つ。
一つに人間の男といた悪魔の少女。
次にその悪魔の能力が未知ということ。
能力については大体は察しがついていたが、踏み切るには早すぎる気がした。
生身で殴りかかってくるような者が攻撃型とは思えない。それも感情的になったあのような場合、無意識に能力を使ってしまうものだ。
恐らくカウンター型か防御型だろう。
可能性として高いのは前者のカウンター型かそれに準ずる何か。わざわざ相手の懐に飛び込んでやる必要もない。
インキュバスは地面に転がった資材や塗料、建設用具を眺めながら唇を撫でる。
しかし、あの可憐な少女に見覚えはない。魔界広しと言えどもあのような美少女を自分が知らないはずがない。
だが、どこか既視感のある見た目をしている。
どこかで会っただろうか…。
「可愛い…」
自分に悪態をついた小さな少女にときめいてしまった、それがもう一つの理由だった。
あんなにも愛らしい少女を傷つけることなんてできない。ましてや、ディアボロスカードを奪った相手がどうなるかもわからない状況だ。無闇に手を出すのは得策ではない気がした。
いかにして少女を傷つけず、自分の虜にするかインキュバスは本気で悩んでいた。
「マリア様はどう思いますか?」
「………………………」
インキュバスの苦肉の問いかけにもマリアは虚ろな目を宙に定めて返事をよこさない。
水色のパジャマ姿のマリアを眺めてインキュバスは頬を染めた。
「マリア様もマリア様で可愛い…」
そんなこんなで誰と会話をするでもなく、インキュバスは一人、煩悶としていると、暗闇の奥からさっさっと草を踏む音がした。
「おや? 逃げたのではなかったのですか?」