インキュバス⑥
「カッカッカッ! 実にチェリー臭いのぅ! なぁユダよ!」
羽のようにふわりと舞い降りた青年を見るや、リリスは挑発めいた笑みを浮かべて言った。
現れたのは金髪碧眼の青年。
フリルのついたシャツに細めの黒のパンツを履いたどこかおとぎ話の王子様を連想させる見た目。だが、しっかりと背には真っ黒なコウモリのような羽をつけていることから、正真正銘、悪魔であることがうかがえる。
そしてなによりも京が気になったのは青年にちょうどお姫様抱っこのような状態で抱えられているマリアの存在だった。
「チェリー臭いですか…どこの悪魔かは知らないが、あまりレディーがそう言う言葉を使うものではありませんよ」
恭しくふわふわとした前髪をはじき、青年は優しくリリスを見つめた。
「き、きも、気持ち悪いのぅ…」
顔を嫌悪に歪めてぶるると身を震わすリリス。
そんなやりとりなど耳に入らず、京はじっと抱きかかえられたマリアを見遣る。
その視線に気付いてか、青年は割れ物でも扱うようにマリアを地面にそっと下ろして小さくお辞儀をした。
「ボクのマスター、マリア様です」
目に光はなく、虚ろ。
魂の抜かれた人形のように立ち尽くすその姿にいつも京へ悪態をつく幼馴染の姿はない。
気付けたはずだった。
マリアから極僅かながらサインは出ていたのだから。
寝不足?
物心ついた頃から共にした彼女が今まで二日連続で寝不足を訴えるようなことがあっただろうか。
誰よりも先輩やチームメイトのために頑張る彼女が大会前にわざわざ夜更かしをするだろうか。
それだけでは悪魔の影を察知するには足りないのかもしれない。
寝不足なんてだれにでもあるし、大会前のプレッシャーから寝られないこともあるかもしれないが、こうなる前に何か気付けたのではないか、京は自身の鈍感さを呪った。
「マリアに何しやがった…」
決して感情に任せて飛び出すようなことはしない。
今にも胸ぐらを掴んで、殴りとばしてやろうと逸る気持ちを抑えて京は静かに怒りを露わにした。
「なにをした…ですか。別に何も。ただ単に契約しただけのこと」
「なわけねーだろ。じゃあ、なんでマリアはそんな人形のようになっちまってるんだよ…」
リリスが京の服の裾をそっと握りしめた。
落ち着けってことか?
こんな状況でか?
京の足に力が入る。
今にも噛みつきにきそうな京を青年は目を細めてじっと見つめた。
「少しばかりボクの愛の奴隷になってもらってるだけですよ。心も…身体も…ね」
ぷつん、と京の頭で何かが切れる音がした。
無意識のうちに目の前の青年へ駆け出し、振り上げた拳に力を込めていた。
「人間のオスはこれだから嫌いだ」
青年が呆れたように首を振ると庇うようにマリアが京の前に立ち塞がる。
「ユダ! 目を見てはならぬ!!」
必死に叫んだリリスの声はむなしくも京の耳には届かなかった。
目が離せない。
幼馴染のマリア。
初恋の人、マリア。
今までずっと想いを寄せてきたマリア。
虚ろで魂のこもっていないはずのマリアの瞳はどうしてか、いつもより魅力的に感じ、いつの間にやら振り上げた拳は力なくだらりと垂れ下がる。
マリアのために生きたい。
マリアのためならなんでもできる。
ーーろーーしてーー。
薄く桃色の唇から声が聞こえたような気がした。
とろりと脳が溶けたように何も考えられない。
マリアが何か言っている。
聞かなきゃ! 聞かなきゃ!
ーー殺して。その横にいる悪魔を殺してーー
直接脳に語りかけるように、はっきりとそして透き通って聞こえた。
「…おう、任せろ」
意識とは無関係に口が動く。
そうだリリスを殺してマリアに喜んでもらおう。それがいい。全部マリアのためだ。
油の切れたカラクリ人形のように京はゆっくりとリリスのいる後方へ振り返った。
その直後ーー
「いっ!!!! てぇ〜!!!!」
京は絶叫した。
鼻の穴に耐え難き、鋭い痛みが走ったからだ。
「…馬鹿者。忠告も聞かずに策にはまりおって…」
冷ややかな目で京を見上げるリリス。
その手にはリリスの愛してやまない悪魔探知機であった棒が握られており、それはまっすぐ京の『鼻の穴』を突き刺していた。
おかげで意識ははっきり取り戻す。
霞みがかっていた頭は晴れ、極めてすっきりとした気分だ。
目に涙を浮かべ、鼻血をぼたぼたと垂らしながら京はリリスにすまん、と短く謝る。
「一旦、距離を取るぞ」
そう言って走るリリスを追いつつ、京は地面に転がった資材を投げ、薬品や塗料の缶を蹴り飛ばして追跡を妨害してその場から逃げる。
広い庭と遮音性の高い家のおかげで大きな音を立ててもマリアの両親が顔を出す気配はなかった。
「リリス! なんだあいつは! なんだあの奇妙な術は!」
草陰に隠れながら京はリリスに詰め寄った。
「奴はインキュバス。魅了の能力を持つ悪魔じゃ」