インキュバス⑤
京の願いとは裏腹に自宅まで曲がり角一つというところまで来た。
当然のように棒が指し示すのは自宅への道。
「なんじゃ本当に戻って来てしまったようじゃのぅ」
京の自宅、木造二階建てのボロアパートの前まで歩くとリリスは錆びた階段に腰を下ろしつまらなそうにボヤいた。
「いや、この棒がただ迷子を自宅までの届けるってだけの道具なら平和的でいいぐらいだよ」
そう言って、足元に転がった棒を拾う京。
願わくば自分が予感している結果にならなければいい、と確認のためそして淡い期待を持ちながら京は自宅の前で棒を倒す。
夜の静寂の中で乾いた音が響いた。
「…最悪の結果だな…」
誰に言うでもなく、京は呟き、もう一度その指し示された建物まで歩いて棒を倒した。
確定的。
悪魔探知機が指し示した場所は京の幼馴染であり、同級生の久利須マリアとその家族が住む小綺麗な一軒家だった。
「ふむ…確かに最悪じゃな」
焦燥する京に同調するようにリリスは頷いた。
「よもや、お隣さんにライバルがいると言うのに妾は無防備にも寝息を立てておった…寝顔を見られたやもしれぬ」
「そういうことじゃねーし、お前のがぁーがぁーといびきをかいてふざけた寝言を言うような寝顔を誰が見たいと思うんだよ」
「妾はいびきなどかかぬ! 草木のように静かに眠るわ! まぁ、冗談はともかく妾とて不覚じゃったわ、いつ寝首をかかれてもおかしくない状況じゃった。礼を言うぞ」
自分の寝姿を誇張しつつ、リリスはおもむろに人を愛しむような慈愛に満ちた表情で言った。
「感謝するぞ、名もなき棒よ…」
「俺だろ!! 棒を拾ったのも俺! 棒に仕事を与えたのも俺! おい! 棒を優しく撫でてそっと俺のケツポケットに入れんじゃねー!」
京のポケットの中で棒はすーっと静かに元の姿に戻り、役目を終えた。
棒を愛しく見るリリスなど意に介さず、京は無慈悲にそれを道端に放り投げてふぅーとイラつきながら息を吐き出す。
「…幼馴染の家なんだよ…。お前も見てるはずだ。ほら、本屋の前でいた」
「おぉ! あの胸が寂しい感じの女か!」
「胸のことはお前にだけは言われたくないだろうけどな」
「今の妾はこうじゃが、元の姿なら誰にも負けぬ自負がある!」
そう言うリリスは誇らしげに胸を張る。
「さて、行くかの」
話にキリをつけ、トットッと小さな足を走らせ門に手をかけると京の方を振り返る。
ぴったりと足を止めたまま、動こうとしない契約者に気づいたからだった。
「なにをしておる。急げユダ」
「あー…なんつうか幼馴染と戦争するってなるとなぁ。戦いにくいっつーかよ」
言い終わるや否や、京の顔面に何かがピシャリと投げつけられた。
肉まんについていた酢醤油だ。
「お前は遊びで戦争に参加したのではあるまいな。幼馴染が〜とか好きな奴が〜とか抜かし戦いもしない臆病者ならば今すぐ帰れ。面白そうだとかそんな浮ついた気持ちでこの場にいるならば貴様は用済みじゃ」
不愉快極まりない。
侮蔑と軽蔑、呆れ、失望すべての感情が混じったようなリリスの顔に少しだけ悲しさが垣間見えた。
「好きな女ぐらい自分の力で取り返して見せよ」
小さな少女からぽつりと吐き捨てるように言われた小さなその檄に京は自嘲気味に笑った。
「中学の時にフラれたよ」
「そりゃあフラれるじゃろうな。こんな玉無し妾だってお断りじゃ」
「フラれはしたが、確かにそうだな。好きな女にゃかわりねーが…幼馴染としても救ってやらねーとな…悪魔の手からよ」
弱々しく曇らせていた京の顔に自信と憎たらしさが戻る。
頼りないポンコツ悪魔に助けられるとは思わなかったといった感じで前へ歩き出し、苦笑い気味にリリスの頭を乱暴に撫でた。
「今宵は有終の美を飾り、美味なるものを食べようぞ!」
「いや、さっき肉まん食ったし無しな」
冗談はよせいとから笑いをする相棒を無視して、門を開く。
キィっと鉄が擦れる音が暗闇に響いた。
マリアの家は京の住んでいるボロアパートと比べればそれはそれは大層な造りの豪邸である。
庭だけで京の住んでいるアパートがすっぽり入ってしまいそうなほど広く、それもそのはず父親は一級建築士、母親は薬剤師という高収入家族。
マリアが京と同じ公立高校に通っているのが不思議なくらいだ。
「しかし…あれじゃのぅ…庭先に訳のわからぬものが散乱しておってせっかくの広い庭が台無しというか…」
「あぁ、マリアの親父さんが建築技師でな。人がいいもんで現場の資材とか塗料とかもろもろ物置みたいに置かせちまってるみたいなんだよ」
「けんちくぎし…」
歩きながら京は庭先に転がった木材やカラーコーン、ペンキ、接着剤など様々なものを眺める。
確かにリリスの言う通り、台無し感はある。
「なぁ、リリス。相手の契約者の悪魔を殺した場合、その悪魔の契約者はどうなるんだ?」
今回で言うとマリアにあたる。
それだけはしっかり聞いておきたかった。
「記憶と能力が消える、それだけじゃ。特に命に関わるようなことはない」
それを聞いて密かに京は胸をなでおろす。
どんな形、どんな願いがあったにせよ悪魔と契約したのはマリア自身だ。
大人しくカードを渡せてもらえるならば良いが、戦いになった場合マリアを傷つけることは京にはできない。
「ボクを殺す…ですか…」
その会話を遮るように京とリリスの背後から影がさした。
その声と気配から遠ざかるように京とリリスは二人同時に慌てて飛び退いた。