生理のいたずき
以前、人間は水を飲むだけで一生生きることも可能だというテレビ番組を見た。実際水だけを飲んで暮らしてると主張する、白人系のおじさんがテレビに映って、得意げに水を飲み干しているシーンも、未だにはっきりと覚えている。それが嘘か本当かはさっぱりわからなかったが、それを見たことをきっかけに、わたしはゆっくり変わっていったような気がする。
おえっ、ごほ。トイレの便座のふちをしっかりと掴んで、頭をもたげ、延々と胃液と唾液を吐る。独特のいやな臭いが口臭のようにわたしの口から漂ってきて、またそれに吐き気を覚える。照明が明るすぎて、わずらわしい。ようやく胃の中のものを全部吐り終えると、荒く息をつく。ふと便座の中を覗き込んでみると、水は濁っていて、唾液と思われる小さな泡が浮かんでいた。わたしはレバーに手をかけて、トイレを流す。トイレと隣接している洗面所にふらふらと向かうと、冷たい水でさっと口元を洗って口内をゆすぐ。がんがんと痛んで重かった頭が、自然と軽くなっていくのがわかった。
拒食と過食をここ一年間ずっと繰り返しているわたしを心配した友人が、一度脅しをかけるように、「胃液ばっかり吐いてたら、いつか歯が溶けてぼろぼろになっちゃうからね」と忠告したことがあった。その忠告聞いても、わたしは「ふうん」としか相槌を打てず、実際歯が溶けるということ自体、特別何の抵抗も持ってなかった。ただなんとなく、歯がなくなってしまったら、どうなるのだろう、死んでしまうのかな、などと本気でわたしを心配しているような友人を眺めながらぼんやりと考えていただけだった。
生理は一ヶ月に一度、一週間くらいの長さでやってくる。そして、なぜかその時期に限って、わたしは無性にセックスがしたくなる。もちろん、生理中の女と体を重ねるなんていう変態じみた性癖を持ち合わせてない彼氏の知己は、いくらわたしが誘っても、猫撫で声でわたしを宥めながら、丁重に断るのだが。でも、その生理が、つい二ヶ月ほど前からぱったりと来なくなってしまった。いちいちこまめに手入れをしなくて済むから楽といえば楽なのだが、なんとなく、何か物足りない気がして、毎日むずむずとしている。それをこの前知己に相談してみると、妊娠したんじゃないかと言われ笑われ、あまりの楽観さに逆上して、彼の顔面を思いっきり引っ叩いてしまった。
掃除機の音が部屋中に響く。せっせと、まるで専業主夫のように忙しなく掃除機をかけている知己の姿が、なんだか滑稽に見えて、わたしは思わず笑ってしまった。
「知己」
わたしの呼び声に気付いたのか、掃除機のスウィッチをオフにすると、知己は掃除機を片手に持ったままわたしの方を見た。
「なに」
「わたしが死んだらさあ、知己はどうする」
ソファに深く凭れかかりながら、目の前のテーブルに置かれていた、赤色の鋏を手に取る。刃先は丸く触れても滑らかな曲線を描くだけ。極力けが人を減らそうという魂胆なのだろう。わたしはその鋏に指を掛けて、鋏の刃を開いたり閉じたりしながらそう訊いた。
わたしの突然の問いかけに、ひどく困惑しているようにも見えたが、彼は小さく笑って、「考えられないね」とだけ言ってから、また掃除機をかけ始めた。なによお、それ。と知己の返答に納得いかないわたしは、ぶうぶうと憤りの声を上げる。けれどその声は掃除機の上げる唸り声によって、いとも簡単に掻き消されてしまった。
「ねえねえ」
掃除を一通り終えて、わたしの隣で寛ぐ知己に、寄り掛かりながら、わたしは甘えた声を出す。
「今度はなに」
わずらわしそうにため息をつきながらも、必ず知己はわたしを甘やかすように髪を撫でてくれる。本人も、こうして女の子の髪を触るのは好きらしく、付き合った当初も確か、わたしの髪を撫でながらこの行為が一番好きなのだと教えてくれた。
「こんなわたしのどこが好きなの」
「手のかかるところ」
「何それ。わたし犬みたいじゃん」
「犬っていうよりかは猫だよね、智沙は」
「智沙ちゃんは猫がお嫌いなんですよう」
「知ってるから」
「あ、ひどおい。っていうか真面目に答えてよね」
「真面目だってば」
「ふうん」
唇を突き出してそっぽを向くと、知己は苦笑しながらまたわたしの髪を撫でてきた。
「ねえねえ」
「なに」
「次の生理って、いつくると思う」
「さあ。子供が産まれてから、なんじゃない」
「できるわけないって」
「俺はほしいのに」
妊婦とは程遠い、へこみすぎたわたしの腹に知己の手が触れる。わたしも腹に視線を落とすと、知己の手の上に自分の手を重ねた。息を吸うごとに腹はちょっと膨れるだけで、そこに生命が宿ってるようには到底思えない。それどころか、本当にこのへこんだ腹の中に、生命を宿すための子宮がちゃんと備わってるのかさえ疑わしい。
「でも、もし仮に子供ができたとして」
「うん」
「奇形児とか障害とか持ってたりしたらどうすんの」
「育児放棄」
「それ本気?」
「冗談だよ。だって智沙の子供でしょ。大事にするに決まってるじゃん」
ふと、部屋を見渡してみると、部屋はきちんと片付けられ、先ほどの掃除のお陰もあってか、潔癖症が主の部屋のようにきれいだった。そういえば、知己は暇を理由にわたしの住むアパートに来ては、無駄に部屋を掃除したがる。ついでに体も求めてくるのだが、生理じゃないときはとことん気が向かないし、体自身も濡れてくれないので適当に断る。面倒くさがって簡単な人間関係ですら疎かにする、存在価値すら危ういわたしのどこが彼はいいのだろうかと、たまに本気で考えるときがある。そして、それを本人に訊いてみても、信憑性のある言葉は何一つ返ってこないし、わたし自身もまだ完全に彼を信用していないこともあって、自分の満たされる答えはまだ一度も返ってきたことがない。
「どうして」
「理由なんてないよ。本能的に、そう大事にしたいって思っちゃうんだし。だから、そこは言葉にできないよ」
「だめなやつ」
「うっせえ」わたしの皮肉に知己はわたしの頬を引っ張ってから、「あ」と何か思いついたように声を出した。
「なに、どうしたの」
「お前、もしかしたら本当に妊娠してるかもしんないよ」
「はあ? 普通、妊娠してたらつわりとかくるでしょうが」
わたしはあまりにも突発的な彼の言葉に目を見開く。
「だから、智沙、ここんところずっと拒食して吐いてばっかだろ? そのせいで気付いてないだけかもしんないじゃん」
「ああ、それはないって。セックスするときちゃんと避妊してるじゃん。それにピルもちゃんと飲んでるし」
わたしの言葉に納得したのか、知己は肩を落とすと、段々とフェイドアウトしていく声で「そっか、そうだよね」とだけ言った。
「でも、智沙。もし本当に妊娠してたら、お前、このままじゃ赤ちゃん殺すことになるんだからね。食うもんちゃんと食っとかないと、後々後悔すんの、智沙だから」
「はいはあい」
適当に返事しながら、もし今この体の中に赤ちゃんがいるとしたら、わたしの脂肪も内臓も、胃の中にある微小な栄養すら全部吸収して、わたしはミイラのようにからからに萎んで干からびていいから、腹だけは大きくなって、赤ちゃんもわたしの命を栄養にして大きく育って、産まれてくれればいいのにと思った。
知己がいなくなってからの最初の数時間は、この上なく虚しい空間がわたしを包み込む。明りも何も点けないで、相変わらずソファに座り込んだまま、膝を抱えてぼんやりと視点を定めずに真っ直ぐを見つめる。何も入っていないはずの胃が活発に動き、その不快感がまた喉までこみ上げてきて、わたしは堰を切ったようにトイレへと駆け込んだ。うえっ、げはっ、ごほ。唸り声をあげながら、ひたすらこみ上げてきた液体を吐き出す。そして、ようやく、胃が痛んでるわけではないことに気が付いた。はっとして腹をなでてみると、胃よりも下にある、けれども下腹部より少々上の部分が痛い。この痛みには覚えがあった。もう随分長い間忘れていたから、思い出せなかっただけで。よくよく考えてみれば、今日の朝から腰も痛かった気がする。やっぱり、妊娠はしてなかったのか。心の底ではわたしも何となく期待していた答えが、あっさりと裏切られ、どこか残念がってる自分に気が付いて、ああ、やっぱりな、と意味もなく納得してしまった。死んじゃだめなんだ、ということも、よくわからないが、直感的に感じた。まだいない子どものために。
わたしは口をゆすぐのも忘れて携帯電話を取りに部屋に戻ると、電話帳を開いて知己に電話をかけた。しばらく機械音が鳴ってから、さっきまで聞いていた知己の声が、半ば驚いたような色を含んで、わたしの耳に入ってきた。
「どうしたの。智沙から電話なんて珍しい」
「お粥」
「え?」
「今すぐお粥つくりにきて」
「何、風邪でもひいた?」
「ちがう。なんか、食べたくなって。でも、家になんもないし。ご飯作れないし。買う気もないし。それに最初から重いもん食べたくないから」
「はいはい。んじゃ材料揃えて今からそっち行くよ」
「あとね」
「あと、何」
「セックス」
「はあ?」
「しよう。セックス。それと、子ども作ろう」
わたしはそれだけ言って、乱暴に電話を切った。
へこんだ腹を撫でながら、この皮膚と脂肪の奥にある子宮が妙にいとしくてたまらず、わたしはそのままずっと、腹を撫でつづけた。
ああ、そうだ。
次の生理はあと何日でくるんだろう。
---了