ディフェレンパーク第十五号ベンチ
しぃんと静まり返った夜が過ぎると、青いツナギを着たひげじいさんが、鋼の門扉を開けに来る。オークの落ち葉はわちゃわちゃと、あちらこちらで纏まりながら裸ん坊の樹に戻りたそうにしている。
ぼくは息を吐いた。
みんなが体を擦り合わせる冬空の下でも息が凍ることはなく、ぼくの向こうに広がるコンクリートの家々が、一瞬きばかりだとしても白化粧をすることはなかった。
だって、ぼくの息というのは、真っ平にカットされた樫の木に塗られた緑のペンキが、ほんの少しだけ空に溶けていくだけのものなんだから。
ディフェレンパークの第十五号ベンチ、それがぼくだった。
息切れ寸前のソレイユが街を細々と暖め始める頃になると、いつもと変わらない出で立ちでその男はやってきた。
男はくたびれたトレンチコートのポケットに左手を突っ込み、右手には真鍮のフルートを握っていた。
彼の肌は、煤に塗れててかてかしていた。
フルートは、ソレイユを浴びてぺかぺかしていた。
ぼくの前まで来ると男は落ち葉を蹴散らすのを止めて、くるりとぼくに向き直る。ぴたりと踵が合わせられた直立不動の姿勢で、
「おはよう」
男はぼくに声を掛けた。
「おはようさん」
ぼくもネジをキリキリ回して挨拶する。
「掛けてもいいかな」
「ぼくはベンチだよ。ベンチは座られるのが生きがいだ」
樫の板がほんの少しだけたわむ。ぼくはむぅと力んで、男の細い体を受け止めた。
「もひとつ言わせてもらえればね、ベンチは座ってくれた人がサンドウィッチ食べたり、微睡んだり、おしゃべりするのを見るのが大好きだ」
男はちょっと困ったように考え込んで、ポケットに突っ込んだままの左手を恐々と外に出した。
「ベンチは、歌はお好きかな?」
「大好物だ。けど、しみったれた軍歌は止めてくれよ」
「それじゃ、陽気なのを」
男はフルートの歌口をあごの窪んだところに当てると瞑目し、それから冬を吹き込んだ。
フルートは歌い出す。
最初にひとつの音を響かせ、次に別の音を響かす。
同じだったり違ったり、延ばしたり短く切ったり、力強かったり儚げだったり、ばらばらの音が次から次へとフルートから飛び出してきては冬に溶けていく。
ぼくは一緒に歌い出す。らんらんらららん。
男は肩を揺らして、ぼくはネジをキリキリ回して、陽気に歌った。楽しく歌った。
「あぁ、良い曲だ。誰の曲だい?」
「ジョンを知らないのか? もの知らずなベンチだ、イギリスの歌手だよ」
「イギリスか、大丈夫なのかい、イギリスの音楽なんか歌って」
「良いもんは、良いもんだよ。でも、そうだな、きみが気になるなら別のにしようか。どうだい、これは知ってるかい?」
「バカにするな、ルートヴィヒだ」
ご名答だと男は目配せして、またフルートを吹き始めた。ルートヴィヒも良い曲だった。だけど、ぼくはやっぱりジョンの曲をもっと聴いてみたかったんだ。
陽気な曲から始まった一人と一台の音楽会は荘厳な曲へと続き、もの哀しくなり、艶やかしくなり、がらんどうの怒声によって終わりを迎えた。
無粋な横入りに唖然としてぼくはネジを回すのをやめ、男もフルートから唇を離した。
目をもたげる。そこには、山高帽をかぶり、フルートの男とは格が違う上質なトレンチコートを着込んだ、背高のっぽの男がいた。
背高のっぽの顔はおそろしいほどに特徴と呼べる特徴がなくて、こう、三秒目を瞑ってから、さてどんなだっただろうかと思い返そうとしても、何も浮かんでこないのだ。ただただ、見目を取り繕おうとして付け加えられたうすら笑いだけが浮かんでくるが、それも喉を荒っぽく震わしたあとじゃ台無しだ。
背高のっぽはぼくらをじろりと瞥見すると、鶏みたいによく響く声で告げた。
「今日からベンチに座るのは禁止だ」
あまりに突拍子のないおふれにぼくは思わずペンキを飛ばした。フルートの男は背高のっぽの言葉を聞くや否やしゃんと立ち上がり、トレンチコートの裾でぼくを拭いた。背高のっぽは満足そうに頷くと第十四号ベンチの方へと歩いていくのだった。
「おい、おい、なんだってそんなバカみたいに従うんだ」
「あの方は男爵様だ。あのおふれは男爵様の上の上の、さらに上の、この国を治めておいでになるお方が下されたものだ」
「だからっておかしいじゃないか。ベンチは座るためにあるのに」
「えらいお方がそうしなさいとおっしゃるんだ、きっとそれが正しいんだろう」
その日の音楽会はそれでお開きになった。ぼくは最後までそんなことあるもんかいと漏らしていたが、フルートの男はえらい方がおっしゃるんだからの一点張りだった。
あぁ、こんにゃく問答。
それでも次の日になると、男は古びたトレンチコートを着込んで、ぺかぺかのフルートを持ってぼくの元にやってくる。ぼくに座ることはできないからと、春を迎えれば青々とした芝生になる土の上に腰を下ろしてフルートを吹き始めた。一曲終わって立ち上がると、男のお尻は泥んこのメイクだ。ぼくも男も大笑いしたものだ。
「そこらの落ち葉を敷いてごらんよ」
敷き詰めた落ち葉はふかふかの絨毯だ。どうだい、お貴族様だってこんなに素敵な絨毯は知らないだろう。貧しい人たちだけがやり方を知っている絨毯さ。
ところが、ああ、男爵様はいじわるだ。男爵様の上の上の、さらに上のお方は非情だ。
「芝生の上に座るのは禁止だ」
「男爵様、今は芝生じゃございません。土があるだけでございます」
「その土の中に芝生の種が埋まってるんだ、禁止ったら禁止だ」
せっかくの絨毯は用済みになってしまった。
フルートの男は次の朝もやってきた。今度は裸の樹にひょひょいと登り、枝に腰かけてはフルートを吹き始めた。なんてことだ、そいつも禁止だ。
「樹に登るのは禁止だ」
「砂利道に入るのは禁止だ」
「煉瓦道も禁止だ」
禁止、禁止、禁止。禁止ばかり増えていく。
それでもフルートの男は、えらい方がおっしゃるんだからと従うんだ。
そして、終に、ディフェレンパークは立入禁止になってしまった。もうフルートの男がやってくることはないのだと思うとなかなか起き出す気になれず、ぼくはソレイユが昇っても目を閉じたままだった。
さくりさくりと落ち葉が砕ける音がする。土塊が砂粒に崩れる音がする。ずいぶんと遠くから聞こえてきていた音はだんだんと大きくなり、近づいてきて、ぼくの前でとまった。
「……どうしたんだい、禁止は守らなくていいのかい?」
くたびれたトレンチコートはいつも通り。煤に塗れた手もいつも通り。だけどフルートだけはいつも通りではなかった。ぼくと男の音楽会の立役者だったフルートはなくなっていた。
「そうか、フルートも禁止か」
男はうんとも違うとも判別のつかないくぐもった声で呻く。
「その禁止も従うのかい?」
男の無精髭が動く。何かを一息に吐露してしまいたいようであり、何とか呑み込んでもいるようだったが、男はぐっと息を吸った。
「えらいお方が禁止だって言うんだ。従わなくちゃいけない」
だけど、と続けられる。
「ぼくはやっぱり、フルートを吹きたいよ」
その日の夜のこと。
ディフェレンパークのお空には真っ赤な花が咲いた。そいつはヒガンバナだ。
花は花らしく、重力を下に見ながらふったらふったら落ちてきて、裸んぼうのオークに真っ赤な外套を着せていく。オークは始めこそ暖かそうに目を細めるが、次第に熱い熱いと喘いで、呻いて、終には物言えぬ涅になってしまう。
ヒガンバナは乱暴者だ。
あぁ、違う。ヒガンバナはヒガンバナだ。
彼女を乱暴者に仕立て上げてしまったのは、あの背高のっぽとおんなじ人間だ。
あぁ、そろそろぼくも息苦しくなってきた。ヒガンバナはいつぼくの上に落ちてくるだろうか。芝生の種が混じった土が大きく持ち上がり、ぼくにかぶせられる。視界は遠くなり、ばりばりして、ちかちかして、ヒガンバナも色褪せる。
フルートの男はどうしているだろうか。耳を澄ます。禁止はまだ続いていた。
さて、ヒガンバナの夜が終わってからも、ぼくは変わらずソレイユを浴びていた。周りはみんな涅になったのに、ぼくだけはソレイユの下で欠伸をしていた。
あれから何度かヒガンバナは降ったが、ぼくは相変わらずソレイユを見上げている。第十五号ベンチはディフェレンパーク第一号になっていた。
ジョンを聴きたくなった。
ルートヴィヒを聴きたくなった。だけど相方はいなかった。
禁止はいつ終わるのだろう。
うんと時間が経った。ベンチはカレンダアなんて捲らないからどのくらいかなんてのは分からないけど、それでも、うんと時間が経った。
ううらりうらり、微睡んでいたぼくは、樫の板が急に軋んだことで目を覚ます。
「ベンチは、歌はお好きかな?」
おや、もう、人間というのは時が経つと変わるもんだ。
「掛けていいかって訊かれてないよ」
「それはそれは。お詫びにジョンを弾こうか」
あぁ、フルートは変わらない。
禁止はどんなもんだい?
ありゃあよくないもんだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。