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1979年~1980年

前夜


 この町にひとつだけある中学校から北に向かい、小さなダムに到着する手前に廃工場がある。その繊維工場は戦後間もなく建てられ、20年ほどで閉鎖された。

 工場が建てられる以前、そこは一面の菜の花畑だった。毎年春になると老いも若きも、町中の人がそこを訪れた。

 父は、今はもう見る影もないその場所の、かつての賑わいに想いを馳せ、一人娘に花菜と名付けた。


 父親は、花菜が小学校四年の晩秋、交通事故で他界した。

 学校から帰り、部屋にいた午後五時頃、電話が鳴った。母が出た気配を感じた。

「ええ!」

狭い家中に響き渡る位の大声に驚き、部屋を出てみると、床に座り込んだ母の姿が目に入った。既に蒼白に見えた母の表情が、さらに変化していく様子を見て、まだ子供だった花菜にも、ただならぬ内容の電話だという事が予想出来た。

 鮮明な記憶として残っているのは、そこまでだった。

 母と一緒に救急病院へ駆けつけた場面、母の号泣する姿、知らない大人たちが数人立ち話をしている光景、アルバムを見ているような断片的な記憶があるだけだ。

 母の涙は、救急病院で見たそれが最後だった。

 近所の人達や、花菜の同級生のお母さんが大勢やって来たお通夜、親戚と言われても知らない顔ばかり並んでいた葬式。女性は殆どが赤い目をしていた。何人かは花菜に話しかけようとした途端、大粒の涙をこぼした。

 その横で母は凛とした顔で、身じろぎもせず座っていた。もう、あの電話の時のような崩れ方は、誰にも、花菜にも見せない。そんな覚悟をしていたと思う。花菜はただ、怖いくらい真剣な横顔と、白いハンカチをぎゅっと握り締め小刻みに震えている母の左手を交互に見つめ、経験したことの無い空気の中で悲しさと寂しさと緊張感に耐えていた。


父の死から後、花菜は学校で目立つ事を避けるようになった。授業にもついていけるし、スポーツも平均以上出来る。だが友達との距離を一定に保つ事に神経を使った。幸い田舎の学校だったため、おとなしい態度を理由に苛められる事は殆ど無かった。

父親がいないという境遇は、花菜の田舎では特別だった。そんな子が目立ってしまうと、特別な部分にも注目が集まってしまう。蔑視でも憐憫でもなく、ただ注目される事が嫌だった。

もうひとつ、殻を被った理由がある。父の死の直前、花菜は父と喧嘩をしていた。というより花菜が一方的に拗ねていた。父と会話を絶ったまま、永遠の別れを迎えてしまった。花菜は拗ねていた自分を責めた。罪の意識が花菜を縛った。罪を犯した自分が幸せな学校生活を送る事は出来ない。そうやって罪を償おうとした。


周囲に勧められるまま、花菜はこの地方では進学校と呼ばれる高校に入学した。

高校にはバス、電車、徒歩を合わせ、通学に約1時間掛かった。その遠距離を理由に部活動を避けた。完璧な文系で、英語と国語は優秀な部類に入るが、数学に三角関数が登場すると、その時点で全ての理系教科を諦めた。

 唯一、花菜が熱中するものは漫画だった。

 中学生の時、別冊マーガレットに登場したくらもちふさこの漫画を見て、それ以前の少女漫画とは一線を画す線描に感激し、暇を見ては模写をするようになった。花菜の画力はみるみる上達した。

「お父さんは手先が器用だったのよ。」

母からそう言われた事がある。漫画は誰にも迷惑を掛けず一人で楽しめるから。好きになった一番の理由だった。


くらもちふさこの『おしゃべり階段』が連載開始された高校3年の夏休みを境に、花菜は大学進学を強く意識するようになった。

7月に同級生が高校を中退した。父親が病気で亡くなり、兄弟が多かった家の家計を助けるため、長女だったその子は自ら進んで退学した。花菜とは中学校から同じ学校に通っていた。明るく、活発で人気があり、頭も良かった。花菜の憧れだった。大学も国立一期校が確実と言われていた。そんな子が進学も高校も諦めた事実はショックだった。父親を亡くしたのは花菜も同じだ。それでも当たり前に高校に通っている。一生懸命頑張っていた同級生が諦め、努力をしていない自分が平穏な生活を続けられる。このまま甘えた生活を続けていく自分が許せなくなった。高校生なら勉強でも精一杯頑張ってみればいい。頑張るための目標が必要なら、大学進学を考えればいい。泣く泣く人生の目標を閉ざされたその子に、恥ずかしくない生き方をしたい。そう考えるようになった。

 進路相談でもそれまでは曖昧に希望を濁すだけだった花菜だが、夏休み明け、学校に提出する進路調査表に、初めて自分の意思で大学名を記入した。

「掛井、本気か?」

「はい、一応・・」

担任の山並先生が問い正した言葉が、高望み過ぎる、という意味なのか、本気で大学を目指す気になったのか、という確認なのか分からなかったので、返事も頼りなくなった。

 母と相談はしていなかった。過去に何回も行われた三者面談でも、母は本人の意思に任せるの一点張りだった。家でも花菜の進路について、一切口を出さなかった。

 

 父の死から数か月経ったある朝、母はグレーのツーピースを着て、

「今日から社会人だから。」

と一言残し、花菜より早く家を出ていった。

 母は花菜に対する時、父の生前と変わらぬ態度を貫いていた。変わった事といえば、夜や休日、近所の用事で出掛ける回数と、作る食事の量だった。生来の屈託の無い性格は、花菜には受け継げられなかったもので、何事も後ろ向きには考えない。花菜が父親を失った寂しさを、人生を左右するほど深刻に受け止めなくて済んだのは、そんな母の性格と努力によるものだった。

 この日から母は保険のセールスを仕事とした。


 志望大学を高校に提出してから1週間ほど経った日の夜、いいかな、と母が花菜の部屋に入ってきた。

「花菜、これを見て。」

手にした預金通帳を開き、スタンドの下に持ってきた。覗いてみると、上の方の欄に大きな数字が打ち込まれていた。

「お母さん、これ・・・」

「お父さんが残してくれたもの。これがあるから、心配しないで、大学に行きなさい。」

交通事故の賠償金、生命保険。振り込まれたまま引き出された跡が無いのは、その後の生活費は母が働いたお金で賄われていたのだ。バスと電車の通学定期代も、参考書代も、たまに学校帰りに寄り道して食べる鯛焼き代も。もちろん花菜の漫画代も。

「いいの?」

「いいも悪いも、そう決めたんでしょ。」

母に感謝の気持ちが溢れたが、同じくらい嬉しくて、きっとくしゃくしゃの顔をしていたと思う。

「ありがとう。」

「お母さんじゃなくて、お父さんにお礼を言いなさい。」


 1979年2月4日。初めて一人で東京の地に降り立った。方向音痴なのは自覚していた。新宿駅に着いた時、自分がどこにいて、どこに向かっているのか、ついに分からなくなった。何回も路線図を確認したり、勇気を振り絞って駅員さんに尋ねたり。最後は早稲田駅から半ば投げやりな気分で、受験生ぽい人を探して跡を付け、やっとW大の試験会場に辿り着いた時は、完全に泣き出していた。自分の席を見つけ、腰を下ろした途端疲労感が圧し掛かり、これからが今日の本番だというのに、気持ちは既に萎えていた。ため息をつきながら腫れが残る目を凝らし、周りを見渡した途端に、緊張感が全身を包んだ。周りの受験生が大人に見え、自分1人が子供に思えて、怖気づいた。

 人生初の大学受験は、あっけなく幕を閉じた。

 残る2大学も、W大学に比べたら落ち着いて受験する事が出来たが、花菜には結果が見えていた。最後のH大を受験し、早々に戻ってきてすぐ、専門学校のパンフレットを取り寄せた。専門学校だったらデザインの勉強をしてみたい、と考えた。端から美大を受けようとは思わなかった。美大の授業料の高さが大きな壁となっていた。

大学受験の結果が出る前から一人で諦め、行きたい専門学校を2校に絞ったある日、H大学文学部から吉報が届いた。その後に色々とあった手配は全て母がしてくれた。

 一番難航すると思われた下宿先は、案外あっさりと決まった。母の高校の同級生が東京に嫁ぎ、紹介された物件が気に入った。ただこの下宿にはお風呂が無い。すぐ近くに大きな銭湯があって、毎晩ここに通うつもりだった。母は風呂付、少なくともシャワーの付いた部屋にしたら、としつこく言っていたが、風呂付のアパートは月5万円以上が相場だった。東京の物価高に母子で驚いた。

渋谷区笹塚、ここが花菜の新しい住所になった。




1979年  漫研


 今日も国鉄総武線の市ヶ谷駅は春の光に満ちている。改札を通って駅舎を出ると、東に向かって延びている靖国通りがまず目に飛び込んでくる。ビルの外壁やガラスに跳ね返る春の陽光のせいだけではなく、行き交う人たちの服装も、表情も、明るく輝いている。

外堀通りを歩き出し、前を行く女子学生のブルーのボーダーニットをぼんやり追いかけている花菜を、次から次へと何人もの学生が追い越していく。慌てて時計を見ると、まだ8時15分。1時間目には充分間に合う時間だ。

 東京生活を始めて1ヶ月の花菜は、まだ歩くペースが掴めない。今朝のように、どこを歩いていても追い越されてばかりいる。後ろから来る人の邪魔にならないように、後ろ側に注意を向けていると、前から来る人とぶつかりそうになる。ラッシュアワーの電車の乗り降りは、半ば運を天に任せるしかなかった。おかげで水道橋まで連れていかれた事が三回あった。

 一人暮らしはそれほど戸惑う事が無く、新入生のカリキュラムを無難にこなせている。それはやりたい事が見つからない裏返しでもある。何となく生活している。希望に溢れるはずの新生活なのに、花菜は自分だけ春陽の中に踏み込めず、味気ない生活に呑み込まれようとしていた。


 イギリス文学史①の授業は、出席がカウントされる。といっても総勢300人が受講するこの301中講堂で一人一人名前を読み上げられる訳はなく、出席カードが授業の最初に配られ、終了時に回収される事で確認を取る。カードの配られ方も前の席から後ろへ、自分の分を取って回すだけなので、何枚取っても分からない。つまり、代返が可能という事だ。大学生活が始まってすぐ、この授業で男子学生から声を掛けられた。

「掛井さんってさ、真面目だよね。」

「・・は?」

その男子学生が隣に座った時点から、花菜は緊張していた。

「俺、鈴村っての。よろしく。でさ、掛井さんはこの授業最後まで出てるの?」

「・・あ、うん。そのつもりだけど・・・」

つい敬語で答えてしまいそうで、緊張の上慎重になってしまう。

「じゃ、お願い。俺今日バイトが急に入っちゃって。この授業、カード出すだけでOKだから、俺の名前書いて出しといてくれないかな。あ、お礼はするから。ね、助けると思って。」

鈴村輝樹。そう渡されたメモに書いてあった。頭頂部だけ短く立って、ストレートの髪が真っ直ぐ伸びたスタイルを、サーファーカットと言うらしい。田舎では目にしなかった人種だ。

「じゃ、頼んだから。」

と言い残して、サーファーは教室から出て行った。

 その光景をクラスの殆どが見ていたようで、程なく鈴村以外にも花菜に代返を頼んでくるクラスメイトが増えていった。


「ありがと、掛井さん、これ食べて。」

 男子だけでなく、女子学生からも頼まれるようになったのが本当は気に入らない。封が開けられた『きのこの山』を花菜に手渡し、この日で通算3回目の代返を押し付けてきた福島出身の山下博美は出口に向かった。代返を引き受けた訳じゃないと言い返せずに、花菜はひきつった笑顔で後姿を追った。

「由美、お待たせ。いこーか。」

「遅いよ博美。間に合わないよ。」

廊下で待っていたのは知らない顔の女の子だ。待っていた方も待たせた方も、よく似たハマトラで着飾っている。そろそろ苗字のさんづけより、名前で呼び合う同級生同士が増えてきた。花菜は相変わらず苗字のまま、用事がある時だけ話し掛けられる。スタートラインは一緒だったのに、少しずつ差が開いてきている。

 今日はお弁当を作って来た。同じ高校から社会学部に進学した同級生の新貝沙織と、昼食を一緒に食べる約束だった。

 校舎から外に出、回りを見渡すと、新勧の出店がまだ目についた。初登校の日には校門から校舎に続く庭いっぱいにクラブやらサークルやらの勧誘がずらっと並び、賑やかな声が飛び交っていたが、もうこの頃は出店数がかなり減っていた。花菜も音楽系か美術系のサークルが頭に浮かんでいたが、勧誘の声に立ち止って話を聞く事が恥ずかしく、うまくコミュニケーションを取る自信がなくて、いつも出店から遠回りをしていた。

「掛井さん、ごめん。」

新貝の甲高い声が後ろから聞こえ、少しほっとして振り返った。

「ほんとごめん。今から私、サークルの昼食会になっちゃって。新入生だから必ず出席してって言われて。行かなくちゃいけないの。」

「・・サークルって、新貝さん、何か入ったの。」

「あれ、言ってなかったっけ。テニステニス。運動部みたいなハードなのは難しいけど、テニスは続けたいなって思ってたから、思い切ってサークルに入っちゃった。」

そういえば新貝は高校の時にテニス部だったという記憶がある。親しい友達ではなかった。大学に入学して早々、多分心細さもあってだろう、新貝から声を掛けられ、日程の合う火曜日と金曜日に一緒に昼食を食べようという約束が取り交わされた。

「あと5分しかない。行かなくちゃ。じゃ掛井さん、またね。」

「あ・・うん、じゃ。」

高校生さながら、全力ダッシュの後ろ姿にきらきら降り注ぐ陽光を見て、今更ながら孤独感が襲ってきた。孤独な生活を続けていくにはこれからの4年間は長すぎる。状況を好転させるには、人の助けを待っていてもどうにもならない事は分かっている。大学生なのだから、自分から動かなければ何も始まらない。でも勇気が出ない。早起きして作ってきた弁当を食べる食欲も失っていた。


「あ、おーい。早いね。」

40分くらい1人教室であれこれ考えていたら、そろそろ午後の授業に出席する学生が増えてきた。結局昼食は抜いてしまった。声を掛けてきたのは同じクラスの女子学生3人組。花菜も振り向き、ペコリと頭を下げた。

「・・・で、成美、マンケンって面白いの?」

3人組は花菜の通路を挟んで斜め後ろの席に座り、それまで話していた会話の続きを始めていた。

「うーん。まだよく分からないんだけど、面白そうだよ。」

マンケンという単語が耳に入ってきた時、花菜の中で何かが弾けた。

「あっ、あの!」

声を掛けた自分に立ち上がってから驚いた。話し掛けられた方の3人も、驚いた顔をして花菜を見ている。

「あの、マ、マンケンって、ま、漫画研究会のこと、なの?」

また敬語を使ってしまいそうになった。

「そうだよ。その漫研。」

「あ、あの、入会ってまだ出来るかな。」

「いつでもいいみたいよ。掛井さんも漫画が好きなの?」

笑顔で答えてくれていたのは東京出身の岸田成美だった。

「はい!入会するには、ど、どうしたらいいの?」

「もう外で勧誘してないから、直接部室に行ってみればいいよ。学生会館の6階の9号室。BOX609って呼ばれてるの。」

「・・・・」

「大丈夫よ。みんないい人たちだから。おいでよ、おいでよ。」

不安そうな顔をしていた花菜の気持を察してだろう、成美は優しく誘ってくれた。

勇気を振り絞って話しかけたという感じではなかった。気が付いたら『マンケン』に身体が反応していた。藁にもすがる、というのはこんな事をいうのだろうか。でも花菜にとって漫画は『藁』ではない。一番の宝物だった。

 

 BOX609。そう表示してあるドアの前に佇み、身動き出来ずにいた。

 学生会館自体どんな建物かあやふやだった花菜は、6階の9号室、このBOX609に辿り着くまで小1時間掛かってしまった。中からは会話と笑い声が漏れ聞こえてくる。

 緊張が花菜を金縛りにしている。古びた鉄の扉がとてつもなく頑丈なものに見えてくる。かれこれ20分はドアの前で躊躇しっ放しだ。いつまで経ってもドアを開ける勇気は出てこない。自分の不甲斐なさに失望し、泣き出しそうな気分で、諦めて帰ろうかと思い始めた時、後ろのエレベーターが突然開いた。

「!」

「あれれれー。ひょっとして新入生?漫研入部希望者かな?」

「・・・・!」

「違った?」

「・・・・!」

「そう。ごめんね。」

話そうとしても声が出てこない。何か言わなきゃとは思ったが、何も思いつかず、何もしゃべれない。ただ相手の男を見つめるばかり。肩まで伸びた髪と赤みを帯びた白い頬、程よく垂れ気味の大きな目、そして尖った顎。ハーフのような顔に、余計に緊張してしまう。

「あ、あ、あたし、漫研に、は、入りたいんですけど。」

やっと声を振り絞った。途中2回声が裏返った。

「ああ、やっぱり。んじゃ入んなよ。」

苦笑を返したその顔は、ロックンローラーにも見えた。

「おーい海原、入部希望者だぞ。」

「へーい。お、女の子。今年は女子が多いね。」

ドアの向こうに広がる細長い20畳ほどの部屋は、殆どがタバコの、そしてほんの少しコーヒーの匂いで充ちていた。

「内田さーん、どこでこんな可愛い子引っ掛けて来たんすか。」

「ばぁかやろう。今そこの廊下で偶然一緒になったんだよ。その偶然に、オレは運命を感じるけどな。」

耳の先が真っ赤になっているのが分かる。手の甲まで赤くなっているから。可愛いなんて、小学校2年生以来言われた事が無い。冗談って分かっていても恥ずかしい。

「じゃ,とりあえずこれに名前と連絡先、書いてくれる。形だけだけど入部申込書。そこ、座って書いて。」

手渡された申込書に名前を書き込んでいたら、少し落ち着いてきた。周りを見渡す余裕も出てきた。あのハーフっぽいロックンローラーが内田。申込書を渡してくれたのは海原。海原は何年生だろう。黒縁の眼鏡に、面長で髭が濃い。窓際でしきりに何か書いている男が1人。ちょっと離れて江口寿史の『すすめパイレーツ』を読んでいる男の人。この部屋に女1人だと気が付いて、再び緊張感が高まってきた時、またドアが開いた。

「こんにちはー。」

女性の声に思わず助けを求めるように振り返った。タイプの違う女の子が2人立っていた。

「ああ、ちょうどよかった。この子新入部員。」

「へー、そうですか。よろしくっ。」

「あーよかった。また仲間が増えたねー。」

「ど、ど、ども。よろしく、お願いします。」

最初に声を掛けてくれた方は、スタイルが良く大きな目と艶々の髪がきれいな女の子。意思が強そうで、いかにも花菜の目には都会的に映る。続けて話し掛けてくれた女の子は、声も笑顔もふんわり包んでくれるような、優しい印象。

「ねぇ、何学部なの?」

「はい、ぶ、文学部です。」

ふんわりした感じの女の子の方が話し掛けてくれた。

「そんな敬語じゃなくていいよ。あたしたちも1年生だから。」

都会の子も笑顔で教えてくれた。とても同い年には見えないけれど。

「私も文学部。日本文学科。」

「あ、あたしは英文。」

「じゃあ授業一緒になる事あるかもね。」

このふんわりした方の人は、話しやすい。

「じゃあ掛井さん、入会金と月会費、払える時にちょうだいね。」

記入し終えた申込書を取り上げ、海原が横から割って入ってきた。

「あれぇ、掛井さんも静岡出身?ねえウッチー。」

「おぅ?よくやった、掛井。どこの高校?」

「か、掛川北です。」

「頭いいじゃねぇか。オレ清水中央。よろしくな。そこに居るマツなんとかも、どこだっけ静岡の。」

「三島です。あと、松田由紀子です。」

「わりいわりい。すぐ忘れちゃうよ。海原それ見せて。」

ウッチーこと内田が海原から花菜の申込書を受け取った。

「昭和35年生まれ。名前が、かけいはなな、さん?」

「そ、そ、そんな名前じゃ、ありません。」

「分かってるよ。はいはい。カケイカナ、さんね。なんかカクカクした名前。」

「カナちゃんか。いいじゃないすか。可愛くて。」

また海原が口を挟む。

「ち、違います・・。」

「えっ!?」

内田と海原と松田と都会っ子、ついでに窓際の2人も花菜を見た。

「は、花に菜、と書いて、ハナ、です。ふ、二文字でハナ。カケイハナです。カクカクしてません。よろしくお願いします。」

滞りなく、自己紹介は完了した。1ヶ月遅れで、花菜の大学生活が始まった。



「ハナちゃん、パネル展の作品はもう描いた?」

 花菜の呼び方は、ハナあるいはハナちゃん、がスタンダードになった。初対面の男の部員からもそう呼ばれるのがくすぐったい。

「パ、パネル展って、なに?」

「え、パネル展の事、山形さんか海原さんから聞いてない?」

山形は漫研の会長だ。

「聞いてない。何も。」

「ああそうか。あたしたち入部したばかりの時に聞いたからだよ。」

川西麗子はそう言って松田の二の腕を引いた。都会っ子は川西麗子という名前だった。高崎の出身で、兄さんと2人で暮らしている。

「イラストとかひとコマ漫画とかパネルに描くの。それの展示会が来週学館であるのね。」

松田がそう教えてくれた。

「何描いてもいいの?課題みたいのは、無いの?」

「あれ、そんなに驚いてないね。あと1週間も無いんだよ。あたしなんかどんなの描いていいか、悩んじゃって悩んじゃって。」

描く事に抵抗は無い。東京に来てから、夜下宿でやる事も無いのでイラストを描いていた。抵抗があるとしたら、他人に見られる事だ。

 翌日、花奈は1人でBOXに向かった。最近やっと一人でBOXのドアを開けられるようになった。それでもまだかなり緊張する。

「こ、こんにちは・・。」

「よっ。」

「あ、あなたが掛井ハナちゃん?私2年の増井紗季子。よろしく。」

最初に軽く声を返してくれたのは、同じ1年の中山尊だ。東京出身の彼は、新入生なのに随分前から漫研に居座っているような風格がある。自己紹介されたのは、今日初めて会う女性部員。上品なワンピースに化粧気の無い、ゆで卵のようにつるつるの笑顔。

「は、初めまして。掛井花菜といいます。よろしくお願いします。」

「私たちそろそろお茶して帰ろうと思ってるんだけど、ハナちゃんも一緒に行く?」

 漫研のメンバーは、授業が終わると三々五々BOXに集まり、喫茶店に連れだって移動してそれから帰宅する、といったパターンが多い。その移動先はいつも飯田橋界隈で、定期券を新宿・市ヶ谷区間で買っていた花菜は、まだその移動に2回しか参加した事がない。

「はい。じゃお願いします・・・。」

「あは。緊張してる?行きましょ。」

 神楽坂を登り始めて数分の所にその店はあった。重そうな木製ドアは格子に高価なガラスがはめ込まれ、古びた鈴の音とともに開かれると、その向こうにいびつな間取りの店内が現れた。山小屋のようにも見えるし、フランス映画に出てくる古い洋装店の雰囲気もある。店内に入ってすぐ目につくテーブルに足踏みミシンが置いてある。その他の調度も雑然としているが不思議な統一感があり、独特の雰囲気を醸し出している。この日初めて連れて行かれたパウワウという名前のこの喫茶店を、花菜はいっぺんに好きになった。

「ああ。こっちこっち。」

声がするテーブルに、先発組の漫研メンバーがいた。こういう時の席取りも花菜は苦手だ。話しやすい人の近くとか、女性の隣とか、どうでもいい事で迷ってしまう。

「ハナちゃん、ここ座れば。」

結局増井に促されて一番端の席に座った。花菜を含め合計6人の部員が揃った。全員の顔は覚えていたが、名前と一致するのはそのうち3人。福山と中山と増井で、あとは話したことが無い男性2人だった。福山悟は増井と同じ2年生。横浜の自宅から通学している経営学部の学生で、花菜の目にはいいとこのおぼっちゃま風に見えたが、頭の切れる秀才タイプで、弁も立つ。

「ハナちゃん、何頼む?」

隣に座った増井がメニューを寄せてきたので、一緒に覗き込む格好になった。メニューはA5ほどの木の板に、トールペイント風に着色された手作りのものだった。まず目についたのはコーヒーの銘柄。ブルーマウンテン、モカ、キリマンジャロ、グァテマラ、マンデリン、初めて目にする単語が並んでいる。その意味を誰かに聞く勇気がない花菜は、無難にアイスミルクティーにした。

「オレはアイスコーヒーとクロックムッシュ2分の1で。」

また知らない単語を耳にした。頼んだのは中山だった。増井はホットレモンティ。イメージにぴったりだ。

「ハナちゃん。」

突然遠くの席から声を掛けられ、驚いてすぐに返事が出来ない。

「ハナちゃん笹塚に住んでんだって?俺たちのすぐ近くだね。」

「は、はぁ。」

声を掛けてきたのは、長めのストレートの髪でアイボリーのカットソーを着た先輩だ。結構美形だったりする。

「俺たち2人、幡ヶ谷だから。」

その美形が前に座った華奢な男子を指さした。さされた方は何も言わず、花菜の方を向いて右手を挙げた。2人とも名前が分からない。向こうが花菜の名前を知っている分、聞く訳にもいかない。

「あ、はい、宜しくお願いします。」

どうにか返事をしたところに頼んだ品が運ばれてきた。手際よく飲み物がテーブルに並べられ、最後にサーベルのミニチュアのような串に刺さった小ぶりのサンドイッチが中山の前に置かれた。こんがりと狐色に表面が色付き、バターのいい香りがする。食パンの耳を切り落とし、チーズとハムを挟んで、内側にたっぷりとバターが塗られた専用の型で焼くサンドイッチ。クロックムッシュ。

 話題は来週のパネル展に移っていった。受付当番の確認や既に提出された部員の作品についてなど、結構熱が入った会話で盛り上がり、思ったより大掛かりだという事が伺えた。その間花菜は相槌を打つ位でほとんど会話に参加せず、注意深く全員の発言を聞いていた。美形の幡ヶ谷在住は中島卓也、2年生。華奢な幡ヶ谷在住は倉本重之、2年生。これで花菜の方からも話し掛けられる。

「ハナちゃんは何か作品描いた?」

昨日、松田から聞かれた内容と同じ質問を、増井にされた。

「はい。まだ描いてないけど、描きたいです。」

「そっか。ハナちゃんが描いてくれたとして、これで30作品か。もうちょっと欲しいところだね。」

福山が革張りの手帳にメモを取っている。

「・・あの、中山くん、はもう出したの?」

目の前にいる中山に花菜は恐る恐る質問してみた。

「オレ?いや、まだ出してない。でも出すよ。ぎりぎりだろうけど。」

「あの、パネルってどういうものに描けばいいか、知らなくて。」

「そうか。ハナちゃんオレたちがパネルの作り方教えてもらった時、まだ入部してなかったんだよな。」

「福山くーん。余ってるパネルなーい?ハナちゃん用に。」

「わりい。もう無いんだよ。増井。」

「ごめん。ハナちゃん。買ってもらうしかない。」

「い、いえ、買います。どこで、売っているんですか。」

「ハナ。じゃ今日帰りに新宿で買って帰ろうか。パネルの作り方も教えてやるよ。」

倉本がそう声を掛けてくれた。

 新宿のイズミヤは花菜には天国だった。高価なシルバーのように輝くペン先、グラデーションに置かれている何十色もの絵の具。女の子がブティックで洋服を選ぶ時の気分はこんな感じなのだろうか。

 花菜は洋服にあまり興味が無い。今日もGパンとTシャツ、その上に紺色のパーカーを羽織っているだけだ。スカートなど高校の制服以外持っていない。小柄な花菜は小学生に見られる事がある。絵を描く事は得意でも化粧は苦手で、リップ位しか普段は付けない。大きな瞳に掛かる長い睫毛と、つやつやで小ぶりの唇が、かろうじて年頃の女の子と主張している。少しはおしゃれを、と大学生になってから考えないでもなかったが、大切な仕送りを洋服につぎ込むなんて、もったいなくて出来なかった。

「ハナ、あったぞ。こっち。」

いつの間にか中島と倉本からは呼び捨てで呼ばれている。

「はーい。」

「どれくらいの大きさのヤツにする?普通はB3位のに描くけど、もう少し小さいサイズのがいいか。」

「いえ、これ・・。」

手にしたのはB2サイズ。

「えっ。」

「あ、やっぱりこっちにします。」

結局B3サイズのパネルにした。B2サイズを手に取ってみて止めたのは、帰りの電車で持って帰る自信が無かったからだ。



 5月28日金曜日から9日間、学生会館1階ホールでH大学漫画研究会1979年度パネル展が開催された。作品点数36点、1年生から4年生、学年を問わずいずれも力作揃いだ。女子学生のメルヘンチックなイラストから旬の話題のパロディまで、様々なジャンルのパネルが展示されている。

 花菜は授業が終わるとこの会場に毎日足を運んでいる。作者のイメージとぴったり一致する作品、あの人がこんな絵をとびっくりするような作品、様々なタッチ、様々な道具、様々な色使い、輪郭線を一本一本追いかけていくだけでも楽しくて仕方がない。ひとつの作品の前で30分以上は立ち止ってじっと見入ってしまう。昨日は自宅通学で同学年の山本一男の作品を見ていたら、本人に怒られてしまった。

「やめてくれー。俺の絵に文句あるのかよー。勘弁してくれよー。」

「ご、ごめんなさい。面白い絵だな、と思ったから。」

一般の観覧者は知り合いの作品でない限りゆっくりと歩きながら全体を見渡し、そして退場していくが、かなりの確率で必ず立ち止っていく一角があった。花菜の作品の前だ。


 花菜が描いたのは父と母のイラストだった。

花菜の父は紳士服の仕立てを職業としていた。母はそれの助手を務めていた。仕事場を覗く度にそこは笑顔に溢れ、活き活きと仕事に精を出す両親を見て、いつも安心するのだった。

 花菜には記憶に残る1枚の写真がある。母がミシンの前に座り、父は後ろから寄り添うように見守っている。白黒写真、母がかなり若く見える事、服装などから考えると、花菜が生まれる前の写真だと思う。2人の優しい表情に触れる度、仕事場を覗いた時と同じような、ほっとした気持ちになれるのだ。パウワウのミシンを見た時、実家の箪笥の中にしまってあるその写真を思い出した。


「これ何使って描いてんの?ハナちゃん。」

 三年生の本間千沙が描いた点描画に見入っていた時、後ろから声を掛けられた。3年生の男の人が2人立っていた。

「はい、水彩と、アクリルと、パステルです。」

慌てて小走りに2人の前まで行き、答えた。背が高く、無造作に髪を伸ばして黙っている方が河合広和、いつもアイビー調の服装でおしゃべりな方が萩原巧。

「すげーなぁこの描き込み、どのくらい掛かったの?」

「あ、パネルとケント紙と、そ、装丁テープしか買ってないので、千円も掛かってません。」

「じゃねーよ。時間だよ。」

「あっ、す、すみません。5日、掛かりました。1日2~3時間で。」

「10時間ちょっとで描けたの、早いなそれ。これ背景はパウワウだろ。パウワウでスケッチしたんだ。」

「はい。あ、いえ、思い出して、描きました。」

「じゃ、これは?これ誰?」

萩原早口で、ついつい花菜もそのペースにつられてしまう。

「父と母です。」

「へぇ、本人かと思った。似てるな。」

河合の声は低く、それでいてよく聞き取れる。

 背景をついつい描き込んでしまうのは花菜の癖だ。背景を埋めようとするあまり、パウワウのインテリアからその素材を取り込んだせいで、パウワウが舞台だと思われても仕方なかった。

「パウワウに許可取ったの?」

「えっ、許可って、ど、どういう事ですか。」

「許可って許可だよ。パウワウを描くって了解取んなきゃ、見つかったらやばいでしょ。怒られるよ。」

「そ、そ、そうなんですか?」

「許可貰ってないんなら、今からでも行って謝って来た方がいいんじゃないの?パウワウのマスター怖いからなー。」

そんな事、微塵も思わなかった。問題があるんだったら、展示する前に誰か教えてくれてもよかったのにと恨めしく思ってしまう。

「いっ行ってきます。謝ってきます。あぁ、その前にパネル、外さなきゃいけないですか。ですよね。」

「嘘だよ嘘。そんなの嘘に決まってんじゃん。パウワウに怒られるわけないじゃん。」

クールな河合にまで、思い切り笑われた。

「ごめんごめん。じゃお詫びにこれやるよ。はい。」

といって萩原から手渡された雑誌。『すうりいる』12号。

「新しいやつ出たから。読んでみな。次は原稿描いて持ってきなよ。」

H大学漫画研究会が年3回発行している漫画同人誌のタイトルが『すうりいる』だった。萩原はそれの本年度編集長。編集長直々に手渡された真新しい本の表紙を見た途端、今からかわれたことなどすっかり忘れてしまった。




 夏休みの直前まで花菜は悩んでいた。漫研の夏合宿への参加不参加の返事をしなければいけなかった。同学年の川西と松田が参加しない事と、3万円掛かる合宿費がネックだった。BOXに着くと部員が結構大勢いて、座るスペースも無さそうだったので、出直そうと空けたドアを閉めかけた。

「ああ、待って。ハナちゃん。入ってきて。」

中から呼び止められ、急いでドアを開け直した。

「ちょっと、ちょっと。こっち来て。」

3年の女性の副会長、永田麻衣だった。他に萩原、河合、中島、倉本がこっちを見ている。

「ハナ、ここちょっと座って。中山、ちょっとずれてくれ。」

倉本が促した。何事か、緊張してそっと着席したところに画用紙とサインペンが渡された。

「ハナちゃん、あたしの似顔絵、描いてみて。」

永田に言われたその瞬間、花菜は固まった。

「かっ、かっ、描けないです。かっ、描いた事ない。」

「描けるよ。ハナちゃんなら。」

萩原が根拠の無い理由で花菜を後押しした。

「いいから。思ったまま描けばいいから。はい、よーい、始め!」

時計を見ながら倉本が言い放った。時間をカウントされている。もう一度永田の顔を見た。

「ハナちゃんは、描けると思うよ。」

さっき萩原から言われた時より素直に耳に入ってきた。花菜はその笑顔に促されるように右手を動かし始めた。

「7分28秒。ま、合格ですね。」

「だはははは。あたしやっぱり可愛いわ。ハナちゃんありがとう。こんなそっくりに描いてくれて。」

「いや、可愛いとこ除けば似てるな。」

「どういう意味?中島君。可愛いところ除いちゃったら、あたしじゃなくなっちゃうでしょうが。」

「いいんじゃない。初めてでこれだけ描けたら。」

河合にそう言われても、逃げ出したい気分は変わらなかった。

「ハナちゃん、うちの漫研はかなり頻繁に似顔絵の需要があってね、大学内だけじゃなくて、一般の企業とかイベントから声が掛かるんだよ。今年の1年にもそろそろ似顔絵描けるようになってもらわないと困る。んでハナちゃんにやってもらいたい。」

萩原が説得を始めた。似顔絵を描けるようになれ。花菜はとても難しい宿題を抱えた事で夏合宿を諦めた。




「お母さん、じっとしてて。」

「だって花菜、そろそろ晩ごはんの支度しなきゃ。」

「いいよ、ちょっとくらい遅くなっても。夏休みなんだから。」

「お母さんは関係ないよ。明日も仕事だよ。」

「あーもう、もうちょっとじっとしててよ。描けないじゃん。」

 7月の後半、花菜は帰省していた。今、台所のテーブルに母と向き合って座り、母の顔を凝視している。手元にスケッチブックを置き、何枚もの破り捨てた画用紙が散らかっている。

「やっぱりムリ。あたしには似顔絵なんてムリ!」

「じゃ、もうごはんの支度してもいいね。」

 やはり自宅に帰って来ると落ち着いてしまう。まだ時間はたっぷりある。夏休み中に似顔絵にじっくり取り組もう。夕飯時、素麺をすくいながら、夜もう一度スケッチブックに向かおうと考えた。

「漫研に入ったのはいいけど、勉強の方はちゃんとやってるの。そっちが本分なんだから。」

「大丈夫。まだ一般教養が主体だから、高校の延長みたい。数学が無い分、却って楽。」

代返もこの頃は花菜に頼んでくるケースが少なくなってきた。何故だろうと思ったが、どうして頼まなくなったの?とも聞きにくい。

「花菜、山並先生には合格の報告したの?今さらだけど。」

「あっ、してなかった。」

「そういうの、結構大事よ。ちゃんとお礼しておきなさい。」

「うん。そうする。」


 8月1日、花菜は懐かしい路線を辿っていた。半年前まで毎日通っていた高校までの行程。バスに揺られ、東海道線に乗り換える。

 2月に卒業した一学生を歓迎してくれるかどうか、正直少し不安だった。半年前の花菜ならば途中で引き返していたかもしれない。

 校舎の向こう側のグラウンドから、野球部の元気な声がする。遠くで体操服姿の在校生が見え隠れする。ついこの間まで当たり前だったそんな光景を横目で見、耳を澄ませながら、花菜は通い慣れた下駄箱までの道ではなく事務室へ歩を進めた。

「突然すみません。今年の春卒業した掛井といいます。お約束はいただいてないのですが、山並先生にお会いしたくて伺いました。」

昨日の夜、今日もここに着くまで何十回も繰り返し、練習した挨拶。

「あら、掛井さん。お久しぶり。元気そうね。」

記憶にある丸顔と丸メガネの金田が、記憶そのままの顔で応対に出てくれた。花菜の顔を覚えていてくれた事が嬉しい。

「山並先生ね。今ね、ちょうど夏季補講の途中なの。あと30分位で終わると思うけど、どうする?中で待ってくれてもいいわよ。」

「あ。ありがとうございます。」

ちょっと迷ったが事務室で待たせてもらう事にした。

 山並は現国の先生だ。進学校の掛川北高にあって決して受験一本の先生ではなかった。二言目には本を読めと勧めてくる、本好きの先生という記憶が一番大きい。

「外は暑かったでしょう。今年は暑くなるのが遅かったから、却って体調崩しちゃいそうよね。よかったらどうぞ。」

「すみません。お仕事中にご迷惑お掛けしてしまって。」

金田が冷たい麦茶を出してくれた。冷房の程よく効いた事務室の中で待たせてもらうだけでも恐縮する。一口、すーっと気持ちいい香りが喉から鼻に抜ける。これ以上金田の仕事を邪魔してはいけない。そう思いバッグの中から手帳とペンを取り出し、落書きを始めた。

 落書きを続けているうちに、ふと思い立って新しいページを開いた。まず半円を描く。半円に収まるように円をふたつ横に並べる。申し訳なかったが、金田を描いてみようと思った。金田は花菜に背中を向けているので、直接顔を見て描く事が出来ない。記憶にある金田の顔を思い出し、頭の中に一度イメージして、それを基に描き進めていった。丸顔、丸メガネの他に覚えている金田の特徴は、眉上に揃えられた前髪、ぷくっと膨れ、それでいて小っちゃな唇、笑うと限りなく細くなる目だった。鼻と眉の形は思い出せない。それでも描けるところまで描いていったら、記憶そのものの金田が出来上がった。

「うふ。」

その愛らしい顔を眺め、思わず小さな笑い声が漏れてしまった。

「なぁに。思い出し笑い?」

花菜にそう話し掛け、金田がこちらを振り向いた瞬間、足りなかったパーツが埋まった。

「あ、いえ、あ、そうです。ちょっと高校の頃思い出しちゃって。」

慌てて左手で手帳を隠した。金田の顔を見たらもう一度吹き出しそうになったが、右手で太腿を思い切りつねり、何とか堪えた。

「楽しい思い出があって良かったわね。いい高校生活だったわね。」

そう言って金田はまた背を向けた。

 もう1人描いてみたくなった。金田よりずっと記憶の量が多い人。四角い顔、つるっとした額、七福神のような耳、ぶっとい眉。すらすらと描ける自分に気分が高揚する。申し訳程度の目、真ん中にどでんと座った鼻、そして真一文字に結んだ口。ついでにトレードマークのジャージとレジメンタルタイを描き加えた。

「金田さん、これ・・・」

「あーっはははははは!」

金田さん、これ誰に見えます?と聞く前に、事務室に大声が響いた。

「あっははは、掛井さん、そっくり!あは、山並先生、下駄にダンゴがくっついてるみたいな顔だものねぇ。この絵そのもの。絵が上手ね。」

「ありがとうございます。」

「ねぇねぇ、じゃあ私の顔も描けるかしら。描いてもらえない?」

「あっ、いえ、あの、それは・・・・。」

もう出来ています、とは言えなかった。

「よぉ!掛井よく来た。懐かしいな。元気か?」

勢いよく事務室のドアが開き、下駄ダンゴが顔を出した。




 残暑はそれほどきつくなく、それでも電車には冷房がまだ効いているので、通学は楽だった。この頃耳に小型のヘッドフォンをしている人がやたらと多い。ロゴが靴を履いて歩き出すこの商品のCMを見た時、花菜も欲しくなったが、価格が3万3千円と知って諦めた。それよりも画材の方が欲しい。少しは秋冬の洋服も買いたい。

「ハナちゃん、お母さんにしっかり甘えて来た?」

BOXには川西が先に来ていた。

「甘えてないよ。ひどいな麗ちゃん。毎日しっかりお手伝いもしてきました。」

「えらいねー。大人になったねー。」

川西からはどうも年下扱いを受けている節がある。川西の前に出ると緊張してしまう。当初は気になったが、この頃は慣れてきた。

「また似顔絵の依頼が来たけど。」

 山形がBOXに入って来るなり河合にそう告げた。

「どこから?」

「日本複写科学。」

「いつ?」

「10月の12日から14日の3日間、金土日だね。12日と13日は2人ずつ、14日だけ3人で頼むって。河合、行く?」

「3日は疲れるよ。俺は14日だけでいいな。」

「タクと倉本は?」

「オレ日曜日はだめです。金曜と土曜行っていいですか。」

「僕は3日とも行けますけど。」

「じゃ、金曜と土曜がタクと倉本、日曜が河合と倉本ね。あと日曜日が1人足りないな。」

「いるじゃん、そこに。」

河合が1年生の方を向いた。

「お、俺出来ませんよ。」

中山が慌てている。

「いや、悪い中山、お前じゃなくて、ハナ。」

「!!!」

「やってみたそうな顔してんじゃん。」

「そんな、そんな事、無いです。」

「複写科学だからそんなに緊張しなくて大丈夫だよ。かなり楽して1万円貰えるぜ。」

中島が言った1万円という言葉を聞いて、花菜の頭の中で秋物のニットがチラついた。

「じゃ山形、そのメンバーでOK出しといてくれる?」

「分かった。大丈夫か、ハナちゃん。」

山形が労わるようにハナを見た。

「大丈夫さ。」「大丈夫ですよ。」

河合と倉本の声が重なった。


「ハナちゃん、すごいよ。ハナちゃん、似顔絵も描けるようになったの。私は似顔絵だめだなー。練習させられたけど。諦めた。」

「夏休みに練習して、少し上手くなったかな、って思ったけど、知らない人を描けるかどうか分からないの。怖い。あと河合さんと倉本さんと一緒、っていうのも、怖いの。」

「河合さんは怖そうだよね。倉本さんはそうでもないと思うけど。」

 学校帰り、今日はBOXには寄らず、花菜は松田と夕食の約束をしていた。飯田橋を靖国神社方面に向かって、少し歩いたところにある洋食店。女性客が圧倒的に多いこの店で、2人ともトマトソースのスパゲティを注文した。

「でもハナちゃんは大丈夫だよ。可愛がられてるから。」

「どういう事?」

「ハナちゃん、普通の女の子とちょっと違うでしょ、いい意味で言ってるんだよ。なんかほっとけなくなっちゃうんだよ。うーん、何て言うか、可愛いおもちゃみたいな。」

「ひどい。」

「あはは、ごめんごめん。でも見た目と違って、って言うのも変だけど絵がすごく上手いじゃない。パネル展のイラストは衝撃だったのね。そのギャップが魅力なんだと思う。」

「魅力なんて、無いわ。」

「でも最近変わったよね。」

「え?」

「最初会った時の印象はもっとおどおどしてたの。でも会う度に変わってきた。何かあったのかな、って思った。」

「ああ。何かあったとしたら、きっと漫研に入れた事だと思う。」

「それだけ?」

「うん。それだけの事。だけどあたしにはとても大きな事。」




 山並先生とは、結局2時間近く話し込んでしまった。似顔絵は隠し通せなかった。機嫌を損ねると思ったけれど、大喜びしてくれた。

「手帳もらう訳にはいかないから、これに描いてくれ。」

と言われ、美術室から持ってきた美術部の備品のスケッチブックを手渡された。

「あとで美術の杉山先生には、買って返しておくから。」

言い訳しなくてもいいのにと思いながら、清書に取り掛かった。

「大学はどうだ。」

 お決まりの質問を切り出され、どう答えていいのか迷ったが、下宿の事、講義の事、東京の事、そして漫研の事を話し始めたら止まらなくなった。山並はたまに短い質問を挟むが、それ以外はずっと笑いながら頷くだけで、花菜にしゃべらせた。

「掛井、いいスタートが切れてよかったな。」

一通り花菜が話し終えると、少し間をおいて山並が言った。

「はい。そう思います。」

「そうか。しっかりものが言えるようになった。成長したな。」

「ありがとうございます。」

「あと、魅力的になった。怒るなよ、変な意味じゃないぞ。」

「怒りませんけど。そこは変わってないと思います。」

「掛井のお母さんとは面談で何回か会った事があるよな。立派な人だと思った。女性としても、社会人としても、お母さんとしてもな。自分の生き方に自信と信念を持っている人だと感じたんだ。そういう人は、何というか、輝いている。その輝きが、回りから見たら魅力的に映る。掛井、そんなお母さんにお前は似てきたよ。」

パネル展で河合に言われたことを思い出した。母の若い頃を描いたつもりが、花菜本人を描いたと思われた。山並にも母に似てきたと言われ、素直に嬉しかった。声に出して言った事は無いが、花菜にとっては自慢の母だから。

「また来てくれよ。もっと成長した姿を見せてくれ。」

「はい。お邪魔じゃなければ。」

「そうだ。学校じゃなくて、今度は先生の家に遊びに来い。家族全員で歓迎する。ご馳走するぞ。」

「いいんですか。」

「そのついでと言っちゃ何だが、うちの息子の似顔絵を描いてくれんかな。だめか?」

晩婚だった山並は、一昨年待望の子供を授かった。38歳にして父親になった。




 日本複写科学はコピー機の大手メーカーだ。全国各都道府県に販社を持ち、それぞれ営業展開を行っている。H大漫研に似顔絵の依頼をしてきたのは日本複写科学東京㈱という事になる。この会社が年数回行っている商品展示会のイベントコーナーで、似顔絵を出店している。数年前、当時のH大漫研部員が呼ばれた時、顧客に似顔絵の評判がとても良かったそうで、それ以来ずっとオファーをくれる。似顔絵の時間は1日6時間程度。枚数は多くて1人で20枚前後。これだけで1日1万円のアルバイト料が貰える。

 展示会場は品川にあり、朝9時に品川駅中央改札のみどりの窓口前で河合と倉本と待ち合わせた。10分ほど早く着いた花菜は、場所を間違えてないかずっと不安に思いながら、倉本と河合を待った。9時ぴったりに、耳に小型のヘッドフォンをした倉本が現れた。

「あ、ウォークマン。」

ヘッドフォンを肩耳ずらして倉本が返す。

「そうだよ。ハナは持ってるの?」

「いえ、高くて買えないです。」

「だよな。でも3日間似顔絵のバイトすれば買えちゃうぜ。」

「あ、そうですね。」

 15分遅れて河合が到着した。

「昨日まで、どうだった。忙しかった?」

「いや、いつもと同じ位ですよ。混む時間帯はありますけど、暇な時間はする事なくて、他のブース覗いたりしてました。」

「ふーん。」

「あと志垣課長がしきりに気を使ってくれて。いつもそうですけど、恐縮しちゃいますね。」

「近くに昼食べるとこあったっけ。」

「それですけど、今回は弁当用意してくれてるんですよ。」

「お、そりゃラッキーだな。」

「でも混む時間帯がちょうど昼に重なっちゃいますから。時間ずらさないとまずいです。」

「おい、ハナ、ずっと黙ってるけど、緊張してんだろ。」

 河合と倉本の会話の間に挟まれ、花菜は身動き取れずにいた。現役漫研部員の中で、似顔絵が上手いトップ3を挙げたら、この2人は必ず入る。という事を中山から聞いていた花菜は、今朝ここに来るのを本気で止めようと思った。その上展示会場に着いた途端、3人掛けのテーブルの中央に座らされた。一応初心者ということで微かな抵抗を試みたが、

「初心者だから真ん中に座れ。女子が真ん中の方が見栄えもいい。」

という倉本の一言で片付けられた。

「今日が最終日なので、最後まで宜しくお願いします。」

 紺色のセットアップ、オックスシャンブレーのボタンダウン、赤とベージュのドットタイ、焦茶のタッセル。志垣課長は意外とおしゃれだった。セル眼鏡の奥で聡明そうな目が笑っている。

「よろしくお願いします。」

「倉本さん、久しぶりの女性部員ですね。女性がいてくれるとブースも華やぐからいいですね。あっ、決して男性ばかりがダメって言ってる訳じゃないですよ。」

「すみません。挨拶が遅れました。うちの新入部員です。」

「初めまして、日本複写科学東京の東東京販売部、志垣です。宜しくお願い致します。」

立場上こちらから先に名乗るべきだった。両手で差し出された名刺をこちらも両手で受け取り、恐縮しながら挨拶を返した。

「初めまして。H大学漫画研究会一年、掛井花菜と申します。こちらこそ、今日は宜しくお願い致します。」

「ほう。しっかりした挨拶が出来ますね。お客様に対してもそんな調子で頼みますよ。」

 夏休み、高校へ山並先生を訪ねる前に、図書館で『あいさつのマナー』を借りて良かった。意外と面白くて、貸し出し期間中何回も読み返していた。

「そろそろ、お客様がみえると思います。」

 複写機を主力商品に、周辺機器を全て含めて、新機種の展示説明をする事で販売促進に繋げていく。それがこの展示会の目的だった。来客者も大手販売店の仕入れ担当や個人商店の経営者、法人・個人で使用するユーザーなど様々だ。客層は中年の男性が圧倒的に多い。

「だから描きやすいんだよ。」

「中年男性が、ですか。」

花菜は少し会話に参加できる余裕が出てきた。

「ハナ、似顔絵が描きにくい人ってどういう人か分かるか?」

「えー、と、特徴が無い人だと、思うんですけど。」

「そう。正解。赤ちゃんだよ。」

「赤ちゃん。」

「赤ちゃん、幼児は特徴が少ない。想像してみ。」

確かに。赤ちゃんや幼児は可愛いが故、決定的な特徴は少ない。

「中高年の男は、経験や境遇がモロ顔に出ちゃってるんだ。だから千差万別。特徴だらけ。描いてて一番面白いよ。」

「へぇ、描いてて面白いのは、きれいな女性かと思いました。」

「美人は一番難しいんだぜ。ハナ、描く時は気をつけな。」

「一番難しいのは、赤ちゃんじゃなかったんですか。」

「難しいのと描きにくいのは違う意味なんだ。女性は男より特徴が少ないけど、あぁ、これは化粧してるからなんだけど、赤ちゃんよりは特徴があるから似せて描くことは出来る。でもそっくりに描いちゃいけないんだよ。女性の場合。」

「え、なぜそっくりじゃいけないんですか。」

「女性は外見にプライド持ってるから。そっくりに描いても、私はもっときれい、ってなっちゃうんだ。もちろん全部が全部じゃない。」

「そんな事、ありますか。」

「あるんだよ。それが。目の前で似顔絵を破かれた奴もいる。いらないって受け取らなかった客もいる。だから美人には用心だ。」

「・・・」

「大体女性は、見た目ズバリより可愛く描いてやるんだよ。あたしって結構かわいいじゃん、って喜んでくれるから。でも美人の場合、底上げ幅が無いだろ。元々きれいなんだから。だから難しい。」

見た目より可愛く描けば喜ばれるなんて。出来る限り似せて描こうと思っていたのに。

「今日はいいよ。今日はきっとおじさんばかりだから、そっくりに描いても喜ばれる。」

倉本は花菜に貴重なアドバイスをくれた。

「似顔絵か。描いてもらおうかな。」

 倉本の言葉通りなら、格好の試作第1号が現れた。居酒屋のオヤジ風のサラリーマンが目の前に立っていた。だが花菜は河合と倉本を差し置いて一番最初に描く事に抵抗があった。そんな雰囲気を察してか、その客は中央の席を外し、左隣の倉本の前に座った。

「似顔絵お断りって顔に出まくりだぜ。もっと笑ってろよ。」

右側から河合が耳打ちをしてきた。本番の緊張は別次元だった。笑えない。

「あら、女の子が似顔絵を描いてくれるの、面白そう。お願いね。」

花菜の緊張に追い討ちを掛けるように、中央の席に座ったのは、倉本がペンの動きを思わず止める程の、とびっきりの美人だった。


「由紀ちゃーん。」

「どうしたの。」

 アパートのドアが開き、いつもと変わらないその顔を見た途端、張り詰めていた糸がぷつんと切れた。両手を松田の首に回し、顔を埋めてしゃくり上げた。

「あらあら。取り合えず、中入ろ。」

 松田の部屋は練馬にある。花菜が訪ねたのは今日が4回目だ。前3回は川西も一緒だった。夜遅くまで3人であれこれと話に花が咲き、時間を忘れた。花菜は殆どが聞き役で、松田と川西が話すこの歳相応の女の子の話題、男性の好みやファッション、占い等々が新鮮で、いつまでも聞いていたいと思った。だが最初に瞼が重くなるのも花菜だった。日付が変わる頃には他の2人の会話を子守唄代わりに眠りにつく。驚いたのは翌朝起きた時には簡単な朝食が用意されていた事だった。

 シンプルだが花菜の下宿より遥かに女性らしいこの部屋を、今日はゆっくり眺める余裕がない。部屋の中央に置かれているガラス天板のテーブルに伏せ、暫くの間肩を震わせていた花菜を、松田は辛抱強く待ってくれた。

 

 惨憺たる結果だった。手も足も出なかった。

文字通り絵に描いたようなキャリアウーマンが目の前に座り、花菜はなかなか書き始めることが出来なかった。サインペンが描く線は、いつもの奔放で緻密な花菜のタッチとは懸離れていた。何度も失敗し、新しい紙に描き直した。4枚目でようやくペン入れが終わった時、キャリアウーマンが顔を寄せてきた。

「ありがと、頑張って描いてくれて。ごめんね、時間が無いからこれで貰っていくわ。」

そう言って花菜から着色前の、下書きだけの似顔絵を受け取っていった。気が付いたら30分以上も時間が経っていた。

 その失敗は一日尾を引いた。ショックから立ち直れないまま、義務感で描き続けた。交代で摂った昼食も、配られたお弁当を食べる事が出来ず、控え室で1人水だけ飲んだ。

 河合も倉本も、何度も話しかけ、励ましてくれたが、その都度花菜は頷くだけで、まともな返事が出来なかった。

 やっと展示会が終了し、志垣課長はじめ日本複写科学の人たちにお礼を言われ、アルバイト料を渡された。貰える訳ない、と返そうとした時、河合に制された。2人の後をついて品川駅まで歩く途中、寄る所があると言い訳して別れた。そしてここに来た。


「そう。頑張ったんだね、ハナちゃんは。」

 花菜が独り言のようにしゃべり終えた後、松田は口を開いた。

「私たちって社会人から見たら、まだまだ子供に見えると思うの。上手に出来ても『子供の割りに』、失敗したら『子供だから』。甘やかせてくれてるんだと思う。今日途中で投げ出しても『子供だから』で許してくれたと思うよ。でも甘やかせてくれる気持ちに甘えたくはないよね。ハナちゃんもそう思って、今日出来る精一杯のところまで頑張ったんだよね。」

「由紀ちゃん。」

「それだけ辛かったってことは、それだけ悔しかったって事だよ。もっと似顔絵、上手く描きたかったからだよね。」

「ありがと、由紀ちゃん。」

「だったらまた頑張れるよ。頑張ろう。」

「由紀ちゃん。由紀ちゃんは大人だね。」

「そんな事ない。私もハナちゃんや麗ちゃんに比べたら、全然ダメだなーって思う事、いっぱいあるもん。」

一言一言が花菜の心を解き解していく、松田の言葉は魔法のようだ。



 松田のお陰で似顔絵アルバイトのショックからはかなり立ち直れたものの、BOXには顔を出せないでいた。

 今日は図書館で調べたかった事があって、それを理由にBOXへ行くのをやめた。ディケンズやトマス・ハーディの原文短編集を、辞書を片手に読み進めていったら、夜7時を過ぎてしまった。図書館を出、外堀を市ヶ谷方面に歩き始めたところ、後ろから声がした。

「お嬢さーん、今お帰りですかー。」

こんなふうに声を掛けられた方はさぞ迷惑だろうな、と思ったが、お嬢さんと呼ばれる人種の中に自分は含まれないと認識していたので、聞き流して歩き続けた。

「ハナ、無視すんなよ。」

同じ声が自分の名前を呼んだ。そういえば聞き覚えのある声だ。恐る恐る振り返った目の前にハーフっぽいロックンローラーがいた。

「内田さんですか。」

「よぉ、久しぶり。最近、大活躍だそうじゃないか。河合から聞いたぜ。」

「だだだだ大活躍って。河合さん、あたしの事、何か言ってたんですか。お、怒ってました?」

「いや別に。怒ってなかったぜ。学祭が楽しみだって言ってたな。」

「?」

「そうだ。ハナ、俺就職決まったんだよ。お祝いしてくれよ。」

「え、おめでとうございます。どんな会社ですか。」

「音楽プロダクション。就職祝い頼むな。バイト料貰ったんだろ。」

そういえばヘアスタイルがロックンローラーじゃなくなっている。

「バイト代は、洋服を買おうと、思ってたんですけど。」

「洋服?お前が?」

「ええ。どうせ一度は返そうとしたバイト代ですから。」

「じゃ就職祝いはいーや。代わりに俺とデートしてくれよ。」

「ででででで!」

「デートだよ。」

「な、な、なんであたしが、内田さんと!」

「明日午後6時に原宿駅の竹下口で。絶対来いよ。いいな。」

ヘアスタイルはおとなしくなったが、大きな垂目で凄まれるとやっぱり怖い。騙されててもいいから、絶対遅れないで明日原宿に行こうと誓った。


 原宿には今日まで全く縁が無かった。

 10月も20日を過ぎると、夜の帳は早々に空気の色まで変えてしまう。時計を見たら約束の時間はもう25分も過ぎている。3歳年上の先輩と待ち合わせの時、どれ位の時間待ったなら帰っても失礼に当たらないのだろう。『あいさつのマナー』には、そんな事までは載ってなかった。河合といい、漫研の先輩は人を待たせ過ぎる。

「よぅ、よく来たな、感心、感心。」

「内田さん。こんばんは。今日は宜しくお願いします。」

深々と頭を下げた。3歳年下の後輩には25分遅れたお詫びの言葉を言わないのがマナーなのだろう。

「お前、その挨拶、変じゃね?」

ウッチーは暖かそうな革のジャケットを着て現れた。

「さて、どこ行く?」

「どこって。デートって言われたから、デートに行くんですよね?」

「そうそう。デートだった。んじゃ、行くか。」

 道路を渡り、入り口の軽い坂道を下って竹下通りに入っていく。歩くスピードは驚く位ゆっくりだ。金曜日の夕方、通りはかなり混雑している。

「お前さぁ、こういうとこの服とか興味ねぇの。」

「いえ、あんまり、無いんです。」

「どういうとこの服なら興味あるの。」

「服自体に、あんまり興味ないんです。暑くなく、寒くなく、服は着られればいいかな、と思って。」

「だめなんじゃないの、ハタチ前の女の子が、そんなんじゃ。」

「はい。そうなのですかねぇ。」

「ちょっと、見てみるか。」

半ば強制的に足を踏み入れた店は、花菜の目にも可愛い洋服がふんだんにディスプレイされていた。

「大体お前のGパン以外の恰好見た事無いしな。」

「Gパン以外、持ってないですから。」

店員の女性は、ファッション誌から抜け出したような全身コーディネートで迎えてくれた。

「お姉さん、この子に合う服見繕ってくれない?」

「はい。どうぞこちらへ。」

花菜は店員とのコミュニケーションが苦手なのだ。のんびりウィンドウショッピング程度なら、と思って入った店で、いきなり苦しい状況に立たされた。

「内田さん、あたしそんな、お金持ってないです。」

「いいよ、足りなかったら貸してやるよ。」

お金は持ってない事もなかった。バイト料は使わず封筒のままバッグに入れていたし、日頃から浪費しない生活なので、毎月の仕送りの残りが貯まっている。あと3日で今月の仕送りも入ってくる。

「どうなの。何とかなりそう?この子」

「はい。とても可愛らしい方なので、選び甲斐がありますよ。」

こんなきれいな服を着た店員さんに、営業トークと分かっていても、可愛いと言われたら嫌な気はしない。それにしてもウッチーは誰とでも気軽に話す事が出来て羨ましい。そこは心から尊敬する。

「お化粧はあまりされないんですか。」

「下手なんです。だからあまりしない。だから上手くならない。」

「これ、お似合いだと思います。」

出してくれた深緑色のツィードジャケットは、袖が折り返し出来るデザインになっていたので、お直しも必要ない。

「おぉ、いいんじゃね。」

「インナーやボトムスもお選びしますか?」

「うん。一応お願い。」

いちいち花菜ではなく、ウッチーに確認を取る店員さん。

「試着されますか。」

「あ、はい。お願いします。」

店の目立たない位置にある試着室に案内され、花菜が中に入ると、一抱えの洋服を店員さんから手渡された。シンプルなアイボリーのブラウス、ライト目の色調のチェックのプリーツスカート。スカートは無理。あとでパンツに替えてもらおう、と思いながら一応履いてみた。

「着られましたか?」

「はい。あ、」

ちょっと待って下さい、と言う前にカーテンを開けられてしまった。

「素敵ですよ。とてもお似合いで。」

「おお、それだよ、それ。」

膝から下がスースーする。反対に頬は風邪をひいた時よりも熱い。

「靴はどうされます?」

「これだけで今いくら位になった?」

「3点で2万円ほどですね。」

「靴はいいや。今履いてるコンバースで。」

「じゃ、少しお待ち下さい。」

店員さんはウッチーと話をしているので、スカートを換えて欲しいとなかなか言えない。

「ジャケット、こちらはいかがですか。少しカジュアルな方が。」

深緑の代わりに持ってきてくれたのは、焦茶のブルゾン。Iラインのショート丈で襟と袖口の革素材がしゃれている。

「こちらの方が靴と合いますから。」

「あの、スカートは。」

「可愛いですよ。スニーカーとも合います。」

結局断れなかったのは、花菜自身そのコーディネートが気に入ってしまったためだ。最後にソックスを合わせ、締めて21800円。払えるものの、めったに財布から取り出さない額で、やっぱり少し後悔した。それでもウッチーには、払えますから、ときっぱり言った。

「ありがとうございました。あの、もしよろしかったら、ちょっとお時間いただけますか。」

3200円のお釣りとレシートを花菜に手渡しながら、店員さんがにっこり微笑んだ。営業スマイルには見えなかった。


「吉田拓郎、聴いた事あるか。」

「はい。好きです。『外は白い雪の夜』聴きました。泣けました。」

「ペニーレーンで?」

「バーボンを。」

 店を出て、当ても無く歩いていると思った。手には原宿まで着て来たGパンとパーカーが入った買い物袋を抱えている。相変わらずウッチーの歩くペースは遅い。ゆっくりなので、つい辺りを見回してしまう。たまにぼんやりとショーウィンドウに映る自分の姿を見て、慌てて視線を逸らす。


「折角だから、服に合せてメイクしちゃいましょう。」

軽くウインクしながら店員さんは花菜から化粧ポーチを受け取った。

「目、閉じててね。」

言われるまま、まぬけな顔だな、と思いつつ顔を店員さんの前に差し出した。

「こんな感じ。どうですか?」

鏡の前に立たされた自分の姿を見た時、どきどきした。でもやっぱり恥ずかしいのが先に立った。


 店員さんとウッチーはもしかして知り合いだったかも、と、ふと思いついた。あの店のロゴの入った袋をウッチーが持っていた記憶がある。

 ウッチーは表参道を横断し、キディランド方面へ向かっていた。そしてその手前の小道へ曲がった所で振り向いた。

「よし、じゃここでバーボンでも飲むか。」

「お酒ですか?」

ウッチーは答えず、白壁の建物の、変哲も無い格子ガラスのドアを開けて中に入っていった。急に歩を早めたので花菜は慌てて続いたが、入口の上に掲げてある黒地に白文字の看板は見逃さなかった。

「ペニーレーン?」

「原宿でバーボンを飲むなら、やっぱここでしょ。」

歌の中でだけ聞いていた場所に自分がいる事に感動した。田舎者だな、と同時に思った。そんな花菜の気持ちはお構い無しに、ウッチーはまるで自分の部屋の中のような気軽さで奥へ進んで行った。

「わー!」

 ウッチーの後を追い、花菜が通り過ぎたフロアの一角から、突然歓声のような声が上がった。そのタイミングと声の大きさ、なにより聞き覚えのある声に驚き、思わず振り返った。

「ハナ!」「ハナちゃん!」

「由紀ちゃん!麗ちゃん!河合さん!倉本さんも!」

中山、永田、萩原、山本もいる。状況がよく分からなくて、それ以上言葉が続かない。

「なんだよぅお前ら。デートの邪魔すんなよ。」

行き過ぎたウッチーが戻って来た。

「だははははは。ハナちゃんだめだよ。あたしより可愛くなっちゃ。」

ウッチーの言葉を無視した永田の一言で、全員が話し始めた。

「ウッチーに変な事されなかったか?」

 萩原さん。

「すげーな。変わるもんだな。」

「まるで別人だな。」

 中山くん、山本くん。

「だめよ。あたしのハナちゃんに手出しちゃ。」

 麗ちゃん。

「ハナちゃん、元気戻ってきてよかったね。」

 由紀ちゃん。

「もう逃げ出すなよ。」

 倉本さん。すみませんでした。

「学祭、俺ら楽したいから、頼むよ。」

 河合さん。すみませんでした。

「おい、俺たちの席空けてくれよ。中山、場所取りすぎてんだよ。」

 花菜のために集まってくれたという事が、勘の鈍い花菜にもやっと判った。嬉しくて嬉しくて、涙が出るくらい嬉しくて、でも今日は絶対に泣かないと誓った。泣くなんて、こんな楽しい夜にはもったいない。それと、せっかくきれいにメイクしてくれた店員のお姉さんに申し訳ない。

 髪は左右非対称に盛られた。細くて量の多い花菜の髪は敢えて整えられず、前髪や襟足を垂らしたまま無造作に緑とオレンジの細いリボンで束ねられていた。それが却って可愛く見せている。

 やっぱりウッチーはバーボンばかり飲んでいる。花菜はいろいろ迷った末、結局コーラにした。松田も川西も賛成した。その2人はジントニックやらハイボールやら、あれこれ種類を変えて楽しんでいる。花菜はふと思い出して、気になっていたことを河合に聞いてみようと思った。

「河合さん。あの、さっきも、学祭頼むって言われましたけど、学祭に何か、あるんですか。」

「学祭って言や、似顔絵さ。」

「漫研の似顔絵の出店は、そりゃすごいんだぜー。朝から夜まで休む暇がないんだからな。倉本なんか去年2日間描きっぱなしだったんじゃないか。」

「そうでしたね。大変でした。」

「その役を毎年1年がやるんだよ。大変だぞー。」

萩原が脅すように1年生の5人を見た。後々この言葉が脅しでも何でもないことが解るのだが。

「バイトの似顔絵より気楽だから。ほんとは学祭で練習してからバイトに出るのが順序なんだけど。ハナのこの間のバイトは特別。」

「近いうちに山形から当番表渡されると思うよ。用事があるやつは早目に海原か山形に言っときな。」

「いいよ。萩原ちゃん。あたし聞いとくから。用事ある人いる?」

山本、川西、松田の順で手が挙がった。

「山本君が描けないのは知ってる。」

「きついっすよ、永田さん。」

 この夜、花菜は終電を初体験した。松田と川西と一緒に、酒の匂いがぷんぷんする車両に乗り込んで川西の家に向かった。24時を回っても瞼が重くならないのは、いつまでも今日が終わらないで、と本気で願っているからだ。ここ東京で、花菜は確かな自分の居場所を見つけた。そこにいる人たちの優しさを全身で感じていた。




 髪を切った。川原に紹介してもらった『スタジオ』と名の付く美容院で。ついでにヘアブローの仕方を教えてもらった。川原の家に泊まった夜、メイクの上手な方法も教えてもらった。

 洋服を買ってイメチェンしたと言われたけど、買った洋服ばかり毎日着ている訳にはいかないので、結局今までと同じようにGパン主体のコーディネートを考えるしかない。せめてメイクだけは覚えて、あの夜の奇跡を少しでも維持したいと思う。

 講義に出ると、イメージ変わった、とか、可愛くなった、とか、百歩譲って、何かあった?といった類の言葉を掛けてくれた人が6人いた。全部女の子だけれど。

 それでも気分を良くしてBOXに向かった。そろそろ学祭の準備を始めなくてはいけない。花菜たち1年生は手足となって働かなくてはいけないのだ。頑張ろう、とエレベーターの前で気構えた。

 降りてきたのは萩原と倉本だった。

「丁度よかった。ハナちゃん、BOXに何か用事ある?」

「いえ、特にありません。」

「じゃ、一緒に来いよ。『すうりいる』が出来た。取りに行くから。」

久しぶりなのでBOXに一度行っておきたかったが、手足となる覚悟だったので萩原の指示に従った。

 年度最終号が出来上がった。年3回発行する本の中でも、この最終号が一番力が入っている。4年生はこれを最後に卒業となるし、他の学年もこの号の掲載を逃したら、次の発行まで暫く時間が空いてしまう。さらに学祭に発行日を合わせているので注目度も高い。

「どうやって運ぶんですか。まさか!電車で運ぶ人手のために、あたし、捕まったんじゃ。」

「お前の力じゃ、何往復しても追い付かねーよ。人手なら中山とか柴田とか連れてくだろう。印刷会社の車借りて運ぶんだよ。」

「あたし、免許、持ってないです。」

「誰が運転しろって言ったよ。俺がするから。」

 1年生の柴田は背が高く、花菜は話をする時いつも見上げてなければいけなかった。大型のバイクに乗ってバイトに駆け回っている。それでいてBOXにも顔を出し、どんな時間の使い方をしているのかと思う。その辺り、偉いなと思ってしまう。

「今から印刷会社の担当の人と顔つなぎしておいた方がいいんじゃないのって思ってさ。」

「あたしなんか、顔つないでいいんですか、萩原さん。」

「お前、言ってる意味分かってないだろう。」

「分かりますよ。顔つなぎって、挨拶して、顔と名前覚える事でしょう。あたし、挨拶は得意ですから。」

「じゃなくてぇ。倉本説明してやって。」

「あのな、ハナ。学祭が終わると幹部交代があるって知ってる?」

「知りません。」

「幹部の中で編集長はちょっと特殊で、技量が無くちゃ勤まらないんだ。で、少なくとも幹部になる前の1年間、編集補佐をして編集の仕方を覚える。」

「そうなんですか。」

「俺は萩原さんの補佐を1年間やってきたから、多分次の編集長になるだろうけど、そうなったら次の編集補佐も必要になる。」

「はい。」

「その補佐をハナにやってもらう。そのための顔つなぎだ。」



 朝8時前に下宿を出ると、女子高生の登校時間と重なってしまう。笹塚十号通り沿いに女子高があり、駅方面から歩いてくる人数が半端ないので、まるで向かい風に煽られるような気分でいつも駅に向っていた。11月22日、木曜日。紺色のセーラー服の上から羽織る白いカーディガンが眩しく、寝不足の花菜の目を刺激する。なるべく欠伸が目立たないよう、気を付けて駅に向かった。

 校門を潜るともう既にあちこちに模擬店の屋台が準備され、移動するのにはその屋台の間を縫って進まなくてはいけなかった。高校の文化祭とは全然次元が違う。小型プロパンやケース積みのビールを横目で見ながら、田舎のお祭りの風景を思い出していた。

 海原から渡された学祭の似顔絵当番表に、花菜の名前が3か所書かれていた。22日、23日、25日。いずれも終日。他の1年生は多くて2日割り振られている程度だった。

 五十五年館のホールに立った時、空きスペースの広さに戸惑った。外の出店がひしめき合っているのに比べ、漫研の似顔絵会場の前には20坪位の何もない空間が残っている。似顔絵を描く8人掛けのテーブルが、ホール正面の一番奥に入り口側を向いて配置されているのだが、そのテーブルからホール入り口までの間が何も無い。

「塚原さん、あの。」

先に到着していた3年生、塚原重隆のところに駆け寄った。塚原が漫研似顔絵トップ3の一角だ。

「ここ。ここは、どこが出店してくるんでしょう。」

空きスペース全体を見渡して聞いてみた。

「ああここ?ここはこのまま。毎年そうだけど、どこも来ないよ。」

「え。もったいない、ですよね、これだけ広く空いているのに。」

「でも必要なんだよ、この空きが。すぐ分かるから。それよりハナちゃん、座る場所自由だからここ座んなよ。」

「塚原さんの隣ですか。しかも、真ん中ですか。」

「そう。ハナちゃんはこのへんじゃないとまずいと思うんだよね。」

「わかりました。」

気合が入っていたので素直に指示に従った。

「ハナちゃん、久しぶり。今日頑張ってね。」

「あ、成ちゃん。今週授業で会ったじゃない。」

「漫研では久しぶりっていう意味。今日丸1日なんだってね。大変。」

「成ちゃんは描かないの?」

「私はムリムリ。頑張ってこれ売ってるわ。」

岸田が取り出したのは、先日萩原たちと引き取りに行った『すうりいる』14号だった。気が付けば部員がそこそこ集合して来ている。

「よぅ。」

「おはようございます。」

河合が眠そうな顔をして花菜の隣に座った。

「あれ、みんな早いですね。おはようございます。オス、ハナ。」

「あ、おはようございます。」

ウォークマンを外しながら、倉本が河合の隣に座った。

 初日から、花菜は似顔絵トップ3に囲まれた。


 日本複写科学での失敗のひとつは、1回1回に時間を掛けすぎた事だ。その失敗を克服するため、花菜はずっと下宿で練習を続けてきた。『40代メガネやせ型サラリーマン』と自分で課題を設定して描いてみる。課題を『女子高生猫顔ショートカット』とか『30代主婦小太り』とか、色々切り替えて、ひたすらそれを描く練習を繰り返した。そして最終的には1分も掛らないで描けるようになった。それからマニュアル通りの色付けをして1分30秒。ただ顔を描くだけなら、合計2分30秒で完成させられるようになった。


 10時を回ると一般客の姿がちらほら目につくようになった。最初の客は、右から2番目、中山の前に座った。かなり美人の女子大生。一番描くのが難しいタイプだ。中山がかわいそうになった。中山の上ずった声が聞こえる。かわいそうじゃない、嬉しそうだ。その女子大生を皮切りに、客がぽつりぽつりと椅子に座り始めた。

 花菜の席よりも前に、塚原の席に大学生らしい客が座った。

「何かサークル入ってるんですか。」

「スポーツやってそうな身体つきですね。」

「お酒好きでしょ。」

「彼女います?」

手を動かさないで次から次へと質問ばかりしている。塚原は会話が上手い。花菜はこんなふうな会話が出来ない。飽きさせないように会話が出来れば、客も楽しいだろうと思う。

「描いてもらえますか。」

「あっ、はい、はい。」

塚原に注意を払っていたら、自分の前の席に気が付かなかった。慌てて正面を向き直す。

「よ、宜しくお願いします。」

「はい。」

中年男性。少しほっとした。これなら何とかなりそうだ。

「ど、どちらから、い、いらっしゃったのですか。」

「あ、はい。調布から。」

「・・・」

「・・・」

「お、お仕事は、何を。」

「は、会社員です。」

塚原の真似は無理だった。お見合いのようになってしまう。会話で余計に緊張して、全然描けない。似顔絵に集中しようとペンを走らせた。髪型は、眉の形は、目は、と観察する。描き進めていくうちに、このままでは難しい顔をした絵になってしまうと気が付いた。笑ってもらえますか、とも言えない。結局小手先で口の形を少しアレンジして、笑顔風にみせた。

「ありがとう。」

代金の100円を受け取った。

「ありがとうございました。」

ほっと一息。まずまず似ていたと思う。

「もったいなかったね、ハナちゃん。」

横から塚原が声を掛けてきた。

「今の客、もっと遊べたよ。」

「似てなかった、ですか。」

「いや、似てた。似てたよ。似顔絵として充分OK。上手いよ。」

話の途中で塚原にも花菜にも次の客が来てしまったので、それ以上アドバイスは聞けなかった。花菜の次の客はH大生だった。塚原の客と友達のようで、客同士でおしゃべりをして、口を挟む間が無く、却って助かった。時々普通に笑ってもくれるので、今回は笑顔を描ける。出来上がった絵は、1人前の会社員よりも活き活きした表情になっていた。

「ありがとうございました。」

「ありがとうね。ハナちゃん」

客に名前を呼ばれたのにはびっくりしたが、そういえば自分で自分のサイン『Hana』を右下に書いていたのだった。

「今の良かったよ。」

「ありがとうございます。」

「さっきの客と今の客、決定的に違ってたところはどこだ。」

「笑顔、ですね。」

「そう。分かってるじゃん。」


 遅い昼から戻ってくると、似顔絵待ちの列が長くなっているのにびっくりした。朝はあんなに広々としていたホールが人で埋まっている。なるほど漫研のテーブル前にスペースが必要だった訳だ。

「おーい、早く交代してくれよー。」

花菜の休憩の間だけ交代してくれた渡部が手を振っている。

「すみませーん。」

「もうおじさんには似顔絵は辛いのよ。」

午後の最初の客は赤ちゃんを抱いた若いお母さんだった。人混みの中でも大きな目を好奇心いっぱいにきょろきょろさせ、にこにこ笑っている人見知りをしない赤ちゃんだ。

「長い時間並んでいただいてありがとうございました。」

「いいえ。この子をどうしても描いてもらいたくて。並んでいても苦になりませんでした。」

「何ちゃんですか。」

「ゆい、といいます。唯一つ、と書く、ゆい。」

「ゆいちゃーん、こんにちはっ。よろちくね。」

「赤ちゃん、大丈夫ですか。」

「だいちゅきですー。あっ、すみません!」

「あはは。いいですよ。ありがとう。実はこの子、メガネと髭が苦手で。さっきの男性の方だったらどうしようかと思って。あなたに交代してもらってよかったわ。内緒ね。」

メガネと髭は4年生の渡部のトレードマークだ。

「あたし、兄弟いなくて、小っちゃい頃ずっと妹が欲しくて。あの、すみません、抱っこさせてもらえませんか。」

「抱っこ、してもらえますか。」

テーブル越しに差し出された人形のような赤ちゃんを、宝物のように抱きしめた。ぎゅっと抱きしめた途端、唯ちゃんが泣き出した。

「あっあっ、ごめんね!ゆいちゃん。すみません。」

「いえいえ、多分。これは違うのよ。おもらししちゃったわね。」

「そうなんですか。」

「この泣き方はね。すみません、おしめ換えてきます。」

「ハナちゃん、換え終わったら、後ろに並ばないでそのままテーブルまで来てもらって。」

塚原が自分の客の似顔絵を描きながら、お母さんにも聞こえる声で指示をくれた。

「あ、はい。そういう事で、またすぐお越し下さい。」

「ありがとうございます。すみません。」

そう言ってお母さんは席を離れていった。

「じゃ、次の・・」

「ちょっと待って。ハナちゃん、今のお母さんの顔、思い出して描いてみて。」

「赤ちゃんじゃなくて、ですか。」

「そう。お母さん。忘れないうちに、早く。」

「はい。」

面長、ストレートのショートヘア、目の形は。違う。パーツ毎に思い出しても限界がある。もっと全体を思い出して。赤ちゃんを見つめる優しい眼差し、花菜が赤ちゃん言葉で返した時の笑顔、内緒ねって言った時の悪戯っぽい上目使い。ひとつのイメージが頭の中で出来上がった。

「すみませーん。すみません。」

 お母さんと唯ちゃんが戻って来た。

「大丈夫でしたか?」

「ごめんなさい。後ろの方たちにも迷惑掛けちゃった。」

「いいんですよ。こちらで了解いただいておきましたから。」

「ありがとう。じゃ、お願いします。」

唯ちゃんはまたこの上なく愛らしい笑顔に戻っている。

「こんな感じで。」

「わっ!こんなに可愛く!ありがとうございました。」

「唯ちゃん、人見知りしないですね。描き易かったです。」

「本当にありがとうございました。それじゃ、頑張って下さいね。」お母さんはもう一度頭を下げた

「あの、お母さん、お母さんのお名前は。」

「え、私?百合子といいます。」

素早く用意していたもう1枚の紙に『ゆりこおかあさんとゆいちゃんへ』と書いて差し出した。

「これも、宜しかったら、持って行って下さい。」

「まあ・・。」

この母娘のイメージは、お互いを労わり合うような笑顔だった。そのイメージ通りの、そして実物通りの母娘の似顔絵が描けたという自信があった。

「ハナちゃん、似顔絵は見たままを描くんじゃなく、イメージを描くんだよ。」

塚原がさっき言った言葉の意味が分かった。そうだ、夏休み、山並先生と金田を描いた時、花菜は実物ではなくイメージを描いたのだ。

 午後7時を回ってようやく一区切り付いた時、塚原がもう一度話し掛けてきてくれた。

「ハナちゃん、似顔絵描く時、僕たちが色々無駄な話してると思ってるでしょう。」

「いえ、お客さんを飽きさせないで、楽しませるために必要だと思います。あたしはそれが出来なくて。ダメなんです。」

「その効果もあるけど、ほんとは客に色んな顔をさせるために話し掛けてるんだよ。」

「あっ。」

「色んな表情をさせるためには、客をリラックスさせないといけない。こっちの緊張は客にも伝染るからね。今日の1人目みたいに。」

「でも、どうしても緊張、しちゃうんです。会話していろいろ聞き出そうとすると。あたし。会話するのって、ものすごく難しいです。あの母娘みたいなお客さんばかりじゃないから。」

「簡単だよ。本音で会話するなんて事。」

「塚原さんは出来るけど、あたしは口下手で・・・」

「相手のこと聞けなかったら。自分の事話せばいいじゃん。

失敗した事や、好きなタレントの事、失恋話とか、感動した話とか。」

「そんな事でいいんですか。」

「明日、やってみな。」


 次の日、花菜は1人目の女性の客に、こう切り出した。

「一番似顔絵を描くのが難しいタイプって、知ってますか。実はきれいな女性なんです。一度それで、大失敗しちゃった事があって。だからあたし、今日いきなり描くのが難しくって。失敗したら、ごめんなさい。」

一瞬にしてその客が破顔した。


 最終日の混雑は前3日の比ではなかった。昼前からホールが順番待ちの客で一杯になり、待ち時間が1時間半を超えた。

 花菜も倉本も中島も福山も中山も、食事を摂る時間どころか、トイレに立つこともままならなかった。

 午後6時を回っても、客が引ける様子を見せなかった。さすがに3日トータルで24時間を超えて似顔絵を描き続けた花菜は、山形の配慮で早目に上がらせてもらった。

 倉本に手招きされ、倉本が歩く後をついて行くと、似顔絵を待つ客の背後に回った。

「ハナ、列の長さがまちまちだろ。」

「はい。長かったり短かったり、色々ですね。」

「客がどの部員に似顔絵を描いてもらいたいか、客の方で選ぶから列に差が出来るんだよ。」

「シビア、ですね。」

「ハナはいつも真ん中の席で描いていただろ。何故か分かる?」

「バイトの時と同じように、女子が中央にいた方が、見栄えが、いいからですか。」

「学祭はそうじゃない。端の方の列が長くなると人通りの邪魔になって、周りの店からクレームが来るからだよ。ハナの列は長くなると思った。塚原さんも同じ意見だった。」

 最後の客が帰り、4日間の学祭が終わった。テーブルや画材が片付けられ、花菜は解散の指示を待っていたが、いつまで待っても声が掛らない。ゴミを捨てに行っていた川西が帰って来た。

「ね、もう帰っていいのかな。あたし疲れちゃった。」

「今から打ち上げらしいよ。どうする?帰るならあたし山形さんに言っとくけど。」

「打ち上げかぁ。」

花菜に、楽しかったペニーレーンの夜が蘇った。

「じゃ、いる。」

 瞬く間に似顔絵会場は宴会場に変わり、空いていたスペースに人が集まってきた。漫研のスペースを見渡すと、普段滅多に会う事もない人も殆ど来ていて、大宴会になりつつある。

 花菜は1年生らしく酒やつまみを配り、その都度顔見知りの先輩からはねぎらいの声を掛けられ、あまり馴染みのない先輩とは挨拶を交わして回った。ようやく落ち着いて1年生の席に戻った時には、勝沢がもうすっかり真っ赤な顔をしていた。

 松田と同じ日本文学科の勝沢卓は、酒が好きなくせにすぐ顔に出る。山梨県出身なので、時々花菜の方言と似たイントネーションでしゃべるところに親しみを感じる。ただ花菜には聞き取れない位の早口で、何回も聞き返すと怒り出す。だから最近は聞き取れなくても分かったふりをする事にした。

「お疲れ、ハナちゃん。これどーぞ。」

その勝沢から紙コップを渡された。早口じゃなくても、もうすぐ何を言っているか判らなくなりそうだ。

「ハナちゃん。今日、いっちゃう?」

川西がキリンラガーを片手に薦めてきた。

「うーん。みんなお酒かあ。じゃ、ちょっとだけ。」

「そういえば、ハナちゃんがお酒飲むとこ見るの、オレたちは初めてだな。」

中山がつまみのポテトチップスを回してくれた。

「あたしたちも初めて見る。」

「えー、大丈夫かよ。川西さん。」

「あたし、大丈夫、です。」

ビールの苦さが口いっぱいに広がって、喉が痛い。そう答えておきながら、大丈夫かな、と思った。

 すぐにビールの影響は顕著に表れてきた。コップ半分しか空けていないのに、鼓動の速さが普段の倍に聞こえる。頬骨のあたりが熱い。隣の席が中山なのも暑苦しい。

「ハナちゃん、3日間で合計何人くらい似顔絵描いた?」

「えーと、数えてたんだ。初日が19人、2日目が28人、今日が、何人だっけ、30人で、合計67人?」

「77人だよ。」

「うそ。」

簡単な計算が難しい。もう1回計算しても77人にならない。

「じゃ、いいやそれで。」

なんか面倒くさくなってきた。ビールの苦さも慣れたので残りを1口で空けた。

「伊澤くーん。何飲んでんの。」

さっきから伊澤章一の飲んでいるものが妙に気になる。

「これ?コーラ。」

「なによー、あたしがビール飲んでるっていうのに、コーラってぇ。」

「おれなんかが酒で潰れちゃったら、介抱する人が大変でしょ。ハナちゃんが潰れても簡単に運べるけど。」

「ああ。なるほどね。」

そんな理由で納得した。松田も川西も岸田も、最初伊澤に会った時は先輩だと思い、暫くそのつもりで接したそうだ。花菜は顧問の教授だと思って接した。花菜の3倍近くある体躯の割に、しゃべると津軽弁が少し顔を出し、微笑ましく思ってしまう。

「ハナちゃん、さっきからしゃべってないけど、大丈夫かよ。」

隣の中山がやっぱりうっとうしい。みんなが会話している声は聞こえるが、口を開いて話す事がすっかり億劫になってきている。

「ハナちゃん、気持ち悪くない?」

遠くから松田の声がする。気分は悪くない。だからVサインを返した。ただ夜12時を回ったようで、瞼が重くなってきただけだ。

「由紀ちゃん。先に寝るよ。」

冷たい床が頬に当たって気持ちいい。目覚めたら、由紀ちゃんが作ってくれた朝ごはんが食べたい。

「ハナ!」「ハナちゃん。」「おーい!」

今日は随分大勢由紀ちゃんの部屋に泊まるんだな、と思った。



 『あけましておめでとう』

 『謹賀新年』

 『A HAPPY NEW YEAR』

 色んな言葉でみんな新年を祝っている。1980年が始まった。

「今年は年賀状多いね。花菜からは出してあるの?」

数だけではない。高校までの友達は、頑張ってせいぜいプリントごっこで彩ったデザインが精一杯だったが、漫研のメンバーからの年賀状は凝りに凝っている。コメントもしゃれている。実家の炬燵で寝転んで、1枚1枚を見ながら、ついつい感心してしまう。

花菜は漫研の人たちにも、そうじゃない人へも、全て手書きの年賀状を送った。似顔絵の練習の成果で、ペン入れも色付けもスピードが早くなったのだ。

「初詣にでも行ってくるよ。」

 昨日の夜は日本レコード大賞と紅白歌合戦を連続して観て、テレビの前から1歩も動かなかった。レコード大賞の新人賞は、花菜としては竹内まりやに取って欲しかった。その代わり、大賞はジュディ・オングが取ってくれてほっとした。

 花菜の家では年越しそばを紅白歌合戦を見ながら食べる習慣がある。普通に夕飯を食べて、3時間後にまたそばを食べる。その間にみかんを沢山食べる。昨日に限らず、年末に帰省してからずっと食べている気がする。その上1人暮らしの反動か、手伝いもあまりしない。元旦から身体が重くてしんどい。これは少々まずいな、と危機感を持ち始め、手始めに散歩がてら初詣に行こうと思い立った。

 花菜の家から歩いて10分位の所に神社がある。4月の祭の際にはこの神社で神事が行われ、大勢の人出で賑わう。元旦も結構な初詣客が訪れ、参拝者が途切れる事が無い。

 道すがら、近所の人や知り合いとすれ違う度、新年の挨拶をして立ち止るため、片道30分近く掛ってしまった。挨拶の次に言われる言葉は、可愛くなっちゃって、とかおしゃれになって、だった。それはそれで悪い気がしなかったが、花菜が嬉しかったのは、その言葉に対して花菜自身がしっかり応対出来た事だった。高校の時は、『あ、ども。』程度で済ませていたが、今日は『ありがとうございます。』や『○○さんこそ、お元気そうで。』などと返し、会話が自然に続いた。たったそれだけの自分の変化だったが、嬉しかった。

 賽銭箱の前に立ち、例年の通り10円玉を投げようと思ったが、ふと思い直し千円札を取り出した。去年1年の感謝を込めて。











1980年  友だち


 入学して1年が過ぎ、花菜はこちら側にいる事に気付き、改めてその変化に少しだけ感動した。向こう側では新入生がキョロキョロしながら歩いている。今自分が掲げている新入生勧誘パネルの向こう側とこちら側、その差はとてつもなく大きい。今年も外庭は様々な出店で賑わっている。勧誘の声に呼び止められ、はにかみながら話を聞く新入生の緊張した顔を眺め、あなたたちが皆、良いスタートが切れますように、と自分の事のように願った。

 BOXに入ると見慣れない新しい顔が数人いた。もう入部希望者が来ている。みんな花菜の顔を見ると会釈をする。花菜も会釈で返すが、心ならずも緊張してしまう。今年はもう先輩の立場で部員に接する機会もあるのだ。そう思いながら立ったままいると、新会長の福山が入部希望者の紹介をしてくれた。

「よかった。ハナちゃん来てた。」

永田が駆け込んで来た。

「ハナちゃん、あなたアシ出来る?」

「足?」

「アシスタント。泉が急遽アシスタントして欲しいんだって。」

「漫画の、アシスタントですか。」

「他に何があるの。だはは。」

泉友子は花菜の2年先輩の4年生。永田と同級生だ。花菜も数回面識があるが、漫研には最近殆ど出て来ていない。プロの漫画家を目指しており、既に短編が漫画雑誌の増刊号などに掲載されている。

「あ、あたしじゃ無理ですよ。美優さんや由紀ちゃんとかの方が漫画上手ですよ。」

「泉のご指名だもん。あたしに言われても困る。泉、今度の『すうりいる』のハナちゃんの原稿見て、頼みたいって言ってたから。」

「本当にあたしでいいんですね。だったらやります。」

「良かったぁ。これ連絡先と住所。連絡してやって。頼んだよ。」

そう言って永田は出て行った。


 渡された住所と電話で確認したアパートは、確かこの辺りで間違いないはずだ。西武新宿線の下落合で降り、北側に見える新目白通りを越えて斜め西方向に入った。番地を確認していくと、それらしい木造のアパートがあった。103号室という事は多分1階。ここで間違いないと思ってもドキドキしてしまう。

「はい。」

と返事があってすぐ、泉がドアの中から顔を出した。

「ハナちゃん、ありがとう。急にお願いして。何か飲む?」

「あ、いえいえお構い無く。お役に立てないと思いますけど。」

「そんな事ないよ。『すうりいる』見たわよ。あと去年のパネル展も。似顔絵も。麻衣から聞いたの。学祭で大活躍だったんだって?」

「いえいえいえ。あたし漫画は描けなくて。ストーリーが全然ダメなんです。学祭はただひたすら似顔絵描いてただけで。」


 花菜はこの春休み、『すうりいる』用の原稿を描いた。ストーリー作りに四苦八苦し、春休みの大半を費やしてしまった。結果、描き上げた漫画はイラストに毛が生えた程度のもので、自分の才能の無さに少々落ち込んでいた。


「ストーリー作りは難しいわね。私も一番悩むもの。閃いてもネームの段階でまた悩む。少し進んで、また悩む。それの繰り返し。」

「あの、ネームって何ですか。」

「ああ、ネームってね、これの事。」

 泉が見せてくれたのは、A5程度の雑紙に描かれた下描き程度の漫画だった。顔の細部も服装も背景も描かれていない。その代わりフセリフやト書き、背景の説明などが文字で細かく書かれている。

「原稿に取り掛かる前に、こういうふうに下描きをするの。絵コンテっていうんだけど。で、書いてあるセリフや文がネーム。でもこれが一番重要。編集者の人ともこれを元に相談するの。これで漫画が面白いか面白くないか、全て決まっちゃう。」

繁々と絵コンテを眺める花菜に、泉がコーヒーを渡してくれた。

「じゃ、いいかな。まずこのコマに背景のエキストラ描いて。」

「あの、どれくらいの時間、お手伝いすればいいんですか。」

「明日の昼までに今描いてる漫画を出版社に届けるの。」

「うわっ、大変。」

「そうでもないわよ。あと少しだから。」

「そうなんですか。よかった。」

「あとたった8ページ。白紙からだけど。」

分かってはいたけど、今何時か花菜は時計を確認した。針は午後7時半を指していた。優しくて気さくな泉だが、人使いの荒さは並じゃないと思った。花菜の初アシスタント体験がスタートした。

「ハナちゃん、お腹空かない?」

もう1時間以上前から、花菜の胃袋は悲鳴を上げていた。でも言い出せず、必死に耐えていた。

「空きました。」

「やっぱり。何か買って来ようか。」

「あたし行って来ます。」

「でもこの辺の地理分からないでしょ。私が行って来るから。」

「場所教えてもらえたら、行って来れます。」

「じゃ、一緒に行こうか。」

 原稿に取り掛かって4時間、6枚は白紙のままだ。花菜は自分の技量とスピードが足を引っ張っているのじゃないかと不安だったが、それでも食欲には勝てない。泉と一緒に外に出た。

 夜11時を回ると、さすがに開いている店を探すのは難しい。

「牛丼でもいい?」

「はい。あたしは何でも。」

通りを東に向かう先にオレンジ色の看板が見える。1年間の東京生活で、まだこの店に入ったことが無い。泉は何の躊躇も無く入って行き、花菜は離れないようにぴったりくっついて泉に続いた。

「私、並とコールスロー。ハナちゃんは?」

「あ、あたしも同じで。」

「じゃ、並ふたつ、コールスローふたつ。」

無難に泉と同じものを注文した。代金450円を支払おうとした時、

「いいわよハナちゃん。」

と、泉が払ってくれた。

 部屋に戻り、花菜がお茶を用意した。初めて食べる吉野家の牛丼は、経験したことが無い味で、珍しさもあって瞬く間に平らげた。

「ハナちゃんは漫画家目指してるの?」

口の中に残ったご飯を慌ててお茶で流し込み、答えた。

「それ、まだ分からないです。というより、自分がどうしたいのかあまり考えた事がないです。中学の時は漫画家って憧れた時期もありましたけど、満足いく作品書き上げた事も無いし。泉さんはどういうきっかけで、漫画家になろうとしたんですか。」

「私はね、周りの影響が一番大きかったかな。」

「漫研、ですか。」

「そうね。私たちの学年はみんな漫画に熱心でね。それと運もあったの。出版社から六大学漫画研究会の合同漫画雑誌を出さないかって企画を貰ったの。そういう場を与えられた事が大きかった。他の大学の人も含めて、みんなで刺激し合って漫画を描いたから自分の実力以上の事が出来たし、上達もしたんだと思う。私の漫画はみんなに育ててもらった。」

「何となく分かります。生意気ですけど。」

「そうね。ハナちゃんも似顔絵で同じ事去年経験したものね。」

似顔絵だけじゃないですよ、と思ったが、言わなかった。自分の今があるのは漫研のおかげ、クラスのおかげ、大学のおかげ、山並先生のおかげ、母のおかげ、そして、父のおかげ。今日のアシスタントの経験も、きっと自分のためになると信じている。

「さ、まだまだ先は長いよ。」

「はい。」

「このページ、印したところ1時までにベタとトーンやって。」



 2年生に進級すると、ゼミを選択しなくてはならない。花菜は『映画・演劇に学ぶ英語圏の文化』というゼミを希望し、学ぶことにした。少しでもストーリー作りに役立つようなことが学べるかな、と安易な気持ちで決めた。


 『すうりいる』15号が納品された。

 初めて自分の漫画が印刷されて出来上がった時、妙にくすぐったい気持ちがした。そして何度も何度も読み返した。泉のアシスタントをした漫画も出版された。直ぐ買いに行き、自分の描いたコマを何度も、ずーっと眺めた。額に入れて飾っておきたい気分だった。

『すうりいる』は倉本と福山と三人で引き取りに行った。倉本には編集補佐の仕事をかなり言いつけられる。加えて似顔絵のアルバイトも倉本と一緒の事が多い。何をするのにも花菜より遥かに手際のいい倉本と一緒にいると、自分の未熟さに落ち込むが、感心させられる事ばかりで、最近は一番尊敬する先輩になってきている。


 毎週土曜日の午後1時、漫研の定例会が開催される。議題が少ない時は雑談で終わる事もあるが、この日の定例会は『すうりいる』15号の講評会で、幽霊部員を除き、殆どの部員が出席した。

 講評会は『すうりいる』に掲載された漫画、イラスト、コラム全ての作品に対して作品の意図、コメントを作者が述べ、それに対して部員から質問や批評を受ける。場合によっては厳しい指摘もあり、結構シビアな論議も繰り広げられる。

 花菜の漫画は3作品目に掲載されており、早い時間に講評される。8ページの短編で、おとなしい高校生が同級生から苛められ、大好きな歌に慰められて積極的になろうと決意する単純なストーリーだ。巻頭は3年の有村美優の作品で、巻頭にふさわしい恋愛ストーリーだった。批判的な意見は一切無く、テクニック面の質問が相次いだ。花菜の心臓はずいぶん前から早鐘どころではなく、今すぐ大事件でも起きて講評会が中止にならないか、本気で願っていた。いよいよ花菜の番が回ってきた。

「じゃ、次、掛井さん。」

こんな時に改まって苗字で呼ぶなんて。

「はい。えーと、えーと、・・・」

「えーと、のその次は?コメントないの?」

進行役の倉本は容赦ない。

「いっ、いえ。あの、主人公はあたし自身だと。これはあんまり重要じゃないんですけど。歌は、あの、歌は漫研のみなさん、同期のみんな、先輩の人たちを象徴してます。みなさんに励まされたあたしの今の気持ちを、そのまま描いてみました。」

「ん。はい。じゃ誰か意見を。加藤、どう?」

「はい。えー。絵の上手さは文句なしです。デッサンも、背景の描写も、表情の付け方も。で、ハナちゃん、下書きはどうやってる?絵コンテしてるの?」

「ううん。原稿用紙に直接描き始めた。」

「だよね。コマ運びがぎこちないところがあるもん。あと絵のバランス。特に、歌の中に立ち直るきっかけを見つけて、はっとする場面、迫力が足りないと思う。下描きで確認すれば全然良くなる。」

 加藤治夫は同期の中で一番プロ志向が高い。新潟の出身だからという訳ではないだろうが、普段は穏やかな、朴訥な話し方をする。ストーリー漫画の技術は、加藤の方が全然上だと花菜は認めている。

 定例会が終わり、いつも通り神楽坂方面に殆どが流れた。花菜は松田と川西と連れだって行こうとした。

「あ、ハナ、待ってちょっと。」

倉本に呼び止められて、足を止めた。

「頼みたい事があって、ちょっと待ってくれる。」

「はい、分かりました。」

仕方なく同期2人の方へ向き直り、申し訳ない顔をした。

「ごめん。先行っててくれる?後から行く。パウワウよねきっと。」

「うん。多分そう。先行ってるね。」

「大変ね、次期編集長は。」

「そんな。いいように使われているだけだよ。」

川西の言葉がちょっとだけ心に刺さった。

「じゃ、後でね。」

松田が笑顔で手を振って出て行った。

 『すうりいる』は大学界隈のスポンサーを募り、広告を出して貰っている。1枠1500円からの広告掲載料で、結構な収入になる。

「2軒まだ持って行ってないスポンサーがあってさ、手分けして行ってくれない?」

倉本の用事はそんな事だった。広告スポンサーには掲載された『すうりいる』を持って行く事になっていた。

「いいですけど。」

先手先手で仕事をこなす倉本にしては珍しい事だ。

「俺調子悪くてさ、昨日まで学校休んでたんで本届けられなくて。」

「どこが悪いんですか。」

「ただの風邪だけど、熱が引かなくてメシが食えないのが辛いよ。」

「今日はもう大丈夫なんですか。」

「いや、そうでもない。」

「だったら本はあたしが届けておきますよ。帰って寝た方がいいんじゃないですか。」

「・・・ああ、そうさせてもらおうかな。」

「何か食べやすくて栄養の付くもの作りに行きましょうか。」

花菜の下宿から倉本のアパートまで歩いて15分位だった。前に2回ほど行ったことがある。そこから歩いて2~3分のところに中島のアパートがある。

 倉本は花菜の提案を受け、背中を丸めながら帰って行った。

 2軒に『すうりいる』を届け終えた花菜は、その足で神楽坂のパウワウに向かった。ドアを開けて中を覗くと、店内は満員で花菜の座れる席は全く無かった。遠くの席で山本が大きく腕を交差させ、バツ印を作っている。川西と松田の姿が見えない。入口でどうしようか迷っていると、

「こっち空いてるよ。みんないるよ。」

と奥から声が掛かった。恰幅のいいパウワウのマスターがにこにこしながら手招きしている。

「ありがとうございます。」

「そっち側のドアから入って。」

一旦外に出て、隣接するドアから入って、という事だ。パウワウの入口はカウンター席に繋がるドアとテーブル席に繋がるドアのふたつある。カウンターは14席ほどのL型のレイアウトになっており、常連の客が多く、花菜は普段そちらのドアを開ける勇気が無い。

「ハナちゃん、お疲れ様。」

松田と川西、それから中島、福山、萩原がいた。

「倉本は?」

花菜は萩原の隣に座った。

「風邪ひいてるそうで、帰りました。」

「調子悪そうな雰囲気だったもんな。」

「あたし、カフェスノー下さい。」

パウワウのカフェスノーはソーサー型のシャンパングラスのような器にコーヒーゼリーを固め、上に生クリームを乗せたもので、お好みでガムシロップを掛けて食べる。最近の花菜のお気に入りだ。

「はい、お待たせ。」

カウンターの向こうから宮下がカフェスノーを渡してくれた。パウワウは今いるヒゲの宮下と、丸顔の西川が社員で働いている。あとはマスターの小林と、時々マスターの奥さんの美知子、アルバイト数人で回している。

「タク、バイト入んなくていいのかよ。」

萩原が中島に話し掛けた。中島は名前の卓也から、タクと呼ばれる事が多い。パウワウで週何日かアルバイトをしている。

「3年になってからやってないんですよ。忙しくなっちゃって。」

「困っちゃったんだよ。だからアルバイトが足りなくて。」

宮下は気さくに会話に入ってくる。

「だったらタク、代わりに誰か紹介して上げないとまずいんじゃないの。責任上。」

「えー。そんな事無いでしょ、萩原さん。あ、でもそこにいたわ。」

中島が指さした先に花菜がいた。

「えーっ?」

「宮下さん、この子どうですかね。」

「いいよ。助かるよ。やってくれるの?」

「なんで、あたし、ですか?」

「別に理由は無いけど。暇そうじゃん、彼氏もいないし。」

「まあ、それはその通りですけど。由紀ちゃんとか麗ちゃんとか、中山くんだっているじゃないですか。」

「私、バイト始めたよ。」

松田がびっくりする事を言い始めた。

「アパートの近くの中華料理店で。あれ、言ってなかった?」

「初耳。いつから?」

「先々週から。週2日だけど」

「中山とか柴田とか山本じゃダメなんだよ。店の品格が落ちる。」

中島の言う通り、パウワウは美形が多い。宮下、西川も恰好いいし、中島や他のアルバイトもそうだ。美知子もきれいで花を添えている。唯一マスターに疑問符が付くが、オーナーだから仕方ない。

「だったら、麗ちゃんの方がいいでしょ。」

「あたしはダメよ。これから彼氏で忙しくなるから。」

「えっ、つきあってる人いるの?」

中島が慌てて聞いた。

「うそうそ。あたしバイトするつもりないんです。」

「やっぱりハナしかいないね。」

「福山さん、あたしだって品格落としますよ。」

「全然大丈夫だよ。ていうか、うちの店、品格とか関係ないけど。」

「じゃ、決まりだ。」

萩原の一言で、みんな納得したのか、別の話題に移っていった。花菜は結局どうしたらいいのか聞けず仕舞いだった。気がついたらパウワウの壁に掛けられた古びた掛時計が6時を指していた。

「あ、あたしそろそろ。」

「帰る?」

問いかけてきた川西の方を向いて返事をした。

「うん。倉本さんに料理作ってあげる約束しちゃって。行かなきゃ。」

「今から?」

川西と松田が驚いた顔をしている。萩原も意外そうな顔をした。

「ハナちゃん、料理作れるの?」

「由紀ちゃんほど上手じゃないですけど、まあそこそこは。」

「ほんと?見掛けによらねぇ。」

「じゃ、オレも今日ご馳走になりに行こうかな。」

「あ、中島さん、どうぞ。」

「中島さん、行ってあげてよ。」

川西が中島の腕を取って言った言葉には、結構力がこもっていた。

「ハナ、じゃ材料代渡すから、マジに頼んでいい?」

「どうぞ。もう行きます?」

「そうしようか。」

「ハナさん、じゃいつから来れる?」

「え?」

「バイトいつから来てくれるかな。早目にお願いしたいんだけど。」

代金を支払おうとした時宮下から言われ、冒頭の会話を思い出した。冗談じゃなかったんだと、この時初めて分かった。

「あたし、迷惑かけちゃうと思うんですけど。」

「大丈夫。みんな最初はそうだから。」

似顔絵のアルバイトは不定期なので全く出来ない月もある。ゼミや専門教科でこれから教材にお金掛かってくる。少しはおしゃれもしなきゃ。画材も買いたい。松田もバイト始めたし。そんなことが目まぐるしく頭の中を駆け巡り、

「来週、月曜日からでいいですか。」

と返事をしていた。

 パウワウを出ると、福山は地下鉄で渋谷方面へ、松田は池袋方面へ帰って行った。萩原と中島と花菜は京王線なので新宿に向かい、中央線沿いの川西も同じ電車に乗った。

 代々木駅を過ぎた時、川西が突然花菜に向かって話し掛けてきた。

「ハナちゃん、明日用事ある?」

「ううん。別にないけど。」

「じゃ、ハナちゃんの家、遊びに行っていい?」

「うん。いいよ、来て。」

「ありがと。お昼過ぎに行くね。じゃーね。おやすみなさい。」

そう約束して新宿駅で川西と別れた。

 幡ヶ谷の八号通り商店街は十号通りと似ている。色んな種類の店が軒を並べ、花菜の料理のレパートリー程度なら何でも食材は揃う。

 電車の中で考えたメニューの材料を抱え、倉本のアパートに着くと、ドアは鍵が掛かってなく、一声掛けてから中島が返事を待たずに上がっていった。いいのかなと思いながら花菜も後に続いた。倉本は布団に包まり、こちらの声にも気づかず寝息を立てていた。

「倉本、来たぞ。」

「ん、んあ、タク。何してんの。」

「俺もハナのメシ食べさせてもらいに来たんだよ。」

「ああ、そうだった。ハナは?」

「ここにいます。キッチン借ります。」

「どうだ、調子は。良くなったの。」

「寝たらだいぶ良くなったみたいだ。腹も減ったし。」

「すみません。30分ほど待っていて下さい。」

キッチンの調理器具を確認して困ってしまった。フライパンと鍋がひとつずつ。ご飯を炊くと時間が掛かると思ったので、レトルトの粥を買ってきてよかった。炊飯器が無い。あと食器が無い。

「倉本さん、3人分の食器がありません。」

「そうそう。言うの忘れてた。」

「オレの部屋から持ってくるよ。待ってて。」

何とか体裁を整えることが出来そうだ。

 油を使う料理は食欲が湧かないと思ったので、水餃子と肉じゃがを作る事にした。合挽き肉とニラ、ニンニク、レタスに塩こしょうとゴマ油で味付けをし、後からシソと梅肉を少し入れて作った餃子を、市販の中華ブイヨンを使ったスープで煮た。鍋はこの水餃子に使い、肉じゃがはフライパンで作った。他にレタスと海藻とトマトのサラダを盛り付け、35分で仕上げた。

「料理、やるじゃん。こんな特技何で隠してたんだよ。」

餃子に梅を使っているので、お粥には『ごはんですよ』にわさびを混ぜ、上に掛けて食べてみた。

「特技じゃないですよ。普通です。」

「ハナはボーっとしてるか慌てているか泣いているかのイメージだったけど、落ち着いたところもあったんだな。」

「最近は泣いてないです。」

「強くなったな。」

「ありがとうございます。あ、中島さん、倉本さん、今日はごちそう様です。」

食材は倉本から預かったお金と、足りない分は中島が買い物の時出してくれた。花菜は1円も払っていない。

「いや、俺たちの方こそごちそう様だよ。な、タク。」

「うん。ハナ、肉じゃがお代わりあるの。」

「少しだけあります。」

「いや、今日は俺のお見舞いだろ、オレが貰うよ。」

「え、じゃ、ジャンケンで決めようぜ。」

倉本の食欲が本当に戻ってきたようで安心した。

 倉本も中島も音楽に詳しい。食後カシオペアの3枚目のアルバム、『サンダーライブ』を聴かされた。テクニックの凄さやメンバーの情報を2人掛かりで花菜に語った。楽器の弾けない花菜はテクニック云々はさっぱりで、はいはいと頷くばかりだった。

「あ、おいハナ、じゃ送ってくよ。」

時刻は11時を回り、この日朝から忙しかった花菜はいつもより早く瞼が重くなってきた。

「あ、いいですよ。1人で帰ります。」

「そうはいかないよ。倉本、オレ送ってくるから。」

「悪いな、タク。」

倉本はしゃべり疲れたのか、横になりたそうな表情をしている。まだ体力が戻っていないのだろう。

 外に出て見上げると、暗い空が頭上を覆っていた。

「星が見えないですね。」

花菜の田舎に比べ、東京は星空がいつも遠い。ただこの日の空は雲が掛っているようで、重い空気の圧力を感じた。

 明日は雨になるかも知れない。


 曇天はそのままだった。川西が1人で花菜の下宿に来るのは、そういえば初めてだ。川西の部屋に比べたら格段に狭く、不便な花菜の部屋に遊びに来るなんてもの好きだな、と思いながら、掃除をし、川西を待った。

 花菜の下宿は花菜の部屋を含めて四部屋並んでいる。他の部屋も女子大生ばかりだが、会って挨拶をする程度であまり交流はない。ただお互いに気遣う雰囲気が当たり前になっていて、夜だけじゃなく休日の昼間もテレビの音とか、出入りの音とかがあまり聞こえて来ない。

 階段を掛け上がる音が聞こえ、間もなく部屋のドアがノックされた。

「はーい。開いてるよ。」

「こんにちは。おじゃましまーす。」

にこにこ笑いながら川西が現れた。

 花菜から見て、川西はいつまで経っても手の届かない存在だった。少しおしゃれが上手になったと思っても、川西は二歩も三歩も先を行っている。好きな音楽は洋楽で、花菜の知らないミュージシャンを何人も知っている。

「これ、後で食べよ。」

「あ、あたしも、買ってあるの。」

ケーキが4つ揃ってしまった。

「いいよ。全部食べちゃおう。」

 一年前、花菜が初めて川西に会った時から感じている緊張は、今もまだ続いている。もう慣れっこになって、川西とおしゃべりする時は身体が自然と川西用のポジションを取る。それはそれで疲れないので、こんな自然体もあるのかなと思う。

「もう、我慢出来ない。ケーキ食べよっか。」

「うん。じゃ、紅茶入れるよ。」

 ケーキを2つずつ食べる間、会話が少し途切れた。その後、川西に聞かれたことに花菜はドキッとしてしまった。

「ハナちゃん、好きな人いる?」

「今?」

「そう。今だよ。昔の事聞いても仕方ないよ。」

「それって、恋とか愛とかっていう意味で聞いてる?」

「そうそう。」

「じゃ、いない。今も昔もいない。」

「ほんと?」

「ほんとだよ。高校の時は憧れみたいな気持ちは何回かあったけど、その人が誰かとつきあったって聞いても、別にショックでもなかったんだよね。それって、そういう意味の好きって事じゃないでしょ。大学入ってからは、麗ちゃんも見ての通り。」

「本当?恋愛経験って、じゃ、無いんだ。」

「無い無い。」

「じゃ、聞いていい?」

「何を?」

「倉本さんの事、どう思う?」

よくテレビで突拍子もないことを聞いた時、飲み物を吹き出すシーンを見た事があったけれど、まさか自分がそんな事するとは思わなかった。こぼした紅茶を慌てて拭いた。

「ど、どうって、先輩だと思ってる。すごい先輩だなって尊敬するところもあるよ。」

「それだけ?」

「うーん。もっと細かく考えれば嫌なところとか、合わないなって思うところとかあると思うけど。」

「好きじゃないの?」

「それ、さっき聞かれた意味で答えるなら、好きじゃない。」

花菜はこの手の話が得意じゃない。中学でも高校でも、同級生の同性同士が集まればこの手の話は避けて通れない。そういったおしゃべりには参加しなかったし、他人の噂も好きではなかった。

「自分で気が付いてないだけじゃないの?」

「そんな事無いよ。」

「でもおかしくない?最近、ハナちゃん倉本さんに接近し過ぎてる。昨日だって中島さんが行かなかったら、2人きりだったでしょ。」

この言葉は花菜には衝撃だった。川西からそう見られていたことがショックだった。

「それは、倉本さんが編集の手伝いとか、何かと言いつけてきて・・・」

「断る事も出来るよね。編集に関係ない事なんかは。」

「断れないよ。なかなか。」

「やっぱり、一緒に居たいからじゃないの?」

「何でそう疑うの?」

「疑ってるんじゃない。見たままを言ってるの。あたしだけじゃないから。そう思ってるの。」

「由紀ちゃんも?」

「由紀ちゃんはそんな事言わないよ。あたしも由紀ちゃんにはこの事は話さないから。」

「じゃ、誰が。」

「あたしがそう思うくらいだから、ハナちゃんの事よく知らない人はもっと思うはずよ。」

「・・・」

「好きなら好きでいい。だったらそれ以上何も言わない。」

「・・・」

「何で何も言わないの?やっぱり好きなんでしょ。隠してるんでしょ。」

「好きじゃないって言ってるじゃない。どうも思ってない。どうして信じてくれないの。そんなふうに見られてるなんて思わなかった。それが嫌だ!じゃ、もし、好きだったとしてどうなの?やっぱり今みたいに責められる?なんでそこまで言われなきゃいけないの!」

「あなたがそういう行動を取ってると、傷付く人がいるからよ!」

「それって、それって、誰のこと。」

「そういうところが嘘っぽい。じゃなきゃどれだけ鈍感?あたしは一生懸命頑張ってますってアピールして、自分を主張しないでいい子になろうとして、無防備ですって顔をして、何も言わないことが実は一番ずるい時だってあるの。分からない?」

「わかんないよ!あたしは自分が鈍感だと思う。だから頑張ろうと思う。それがだめなんだって思われても、それ以外にあたしには出来ないもの。麗ちゃんそれが気に入らないんだったら、あたしを嫌いになってくれればいい!あたしが自分を主張しないと思ったなら、あたしを追い詰めればいいじゃん。あたしがそれで逃げ出したのなら、あたしはあたしの頑張りが負けたんだと思う。あたしはあたし以外にはなれないから!麗ちゃんの思い通りにはなれないから!」

花菜はとっくに泣き声になっていた。泣きながら大声で叫んでいた。泣いた花菜を川西はもっと責めてくると思った。これ以上責められたら、もうどうしていいのかわからない。どうしてこんな言い合いになってしまったんだろう。どうしてこんなこと言ってしまったんだろう。ぐっと唇を嚙み締め、川西の罵倒に耐えようと覚悟した。

「ハナちゃん・・・」

突然川西の大きな目から、大粒の涙がこぼれた。それは花菜の涙よりずっと多く、ずっと悲しく、そしてずっと深いところで流す涙だということが、何故か分かった。

「ハナちゃん、・・めんね。」

「・・・麗ちゃん?」

「ハナちゃん、あたしはもういいから・・・由紀ちゃんを、大切にしてあげて。」

「由紀ちゃんを?」

「ケーキ、美味しかったね。」

「・・・」

「じゃ、ね。ありがとう。」

「麗ちゃん!」

静かに、ゆっくりと、川西が部屋を出て行く。花菜はその動きを見守るしか出来ない。川西の背中に覚悟と、この上無い寂しさが透けて見えた。大声で言い合った事を他の部屋の人にどう思われようが、どうでもいいと思った。


 ロングパンツはダメだと言われたので、仕方なくキュロットを買ってきた。色は無難な黒にした。これならコーヒーを溢しても目立たない。ついでに黒のハイソックスを買い、スニーカーは買わずに持っていたものを使う事にした。

アルバイト初日。パウワウの裏口から2階に上がり、支給のブラウスとニットタイとエプロンを着たら、何となく気持ちが引き締まって笑顔になった。久しぶりに笑った気がした。

 プライベートドアから1歩店内に足を踏み入れた途端、談笑している客が一斉に花菜に注目しているような錯覚を覚えた。想像していた感覚と違う、不安定な雲の中を浮遊するような緊張感がある。

「ハナちゃん、こっち。」

西川が手招きしている。

「おはよう。」

「おはようございます。」

「じゃ、まず手洗いをして来て。」

「はい。」

冷たい水に手を晒していたら、少し集中してきた。

「ハナちゃん、これメニュー表。知ってるね。」

見慣れたトールペイント風のメニューを渡された。

「お客さんが来たら、このメニューとお水を持ってオーダーを取りに行く。まずそこから覚えていこう。」

「はい。」

 ハナさんからハナちゃん、に呼び方が変わっている。

「いらっしゃいませ。」

「・・い、いらっしゃいませ。」

客が入って来た。西川に続いて花菜は慌てて声を出した。西川が手振りで花菜に行けと言っている。女性2人組の客のところに水とメニュー表を持って行った。

「いらっしゃいませ。どうぞ。」

一旦戻ろうか、このままオーダーを聞こうか迷った。

「私、モカ。」

「じゃ私はキリマンで。」

「はい。」

戻る前にオーダーしてくれて助かった。メニューを受け取り、オーダーを告げなくてはいけない。

「・・・あれ。」

今聞いたばかりの注文を忘れている。

「・・・」

「忘れちゃった?」

西川が聞いてきた。

「・・はい、すみません。」

「じゃ、もう一度聞いてきて。」

「はい。」

もうミスをしてしまった。悔しさと恥ずかしさで胸がいっぱいになりながら、もう一度注文を聞きに行った。

 初日のバイトでオーダー忘れを4回、オーダーミス1回、2回水を溢しカップを1個割ってしまった。こんな調子で勤まるのだろうか。西川は初日なら上出来だと言ってくれた。それでも今日バイトが出来てよかった。バイトの間は昨日の事を忘れていられた。

 何とかバイトを終え、こうして1人部屋に帰ってくると、やはり考えは昨日の川西の事に戻ってしまう。川西が言った言葉、傷ついている人は誰だろう。花菜は川西を何でも打ち明けられる友達と思っていた。でも花菜が、自分らしく、と思って行動していた事が川西や他の誰かには不満だった。川西とはこれまでなのだろうか。頭の中を、川西の言葉がぐるぐる回る。川西の涙声が聞こえる。

『あたしは、もういいから。』

川西は花菜との関係を断つつもりだったのだろうか。

『由紀ちゃんを、大切にしてあげて。』

そう言っていた。それは松田と花菜の関係は認めたという事だ。その上で花菜との関係を絶つつもりなら、川西は松田との友情も断ち切る覚悟だ。川西が漫研を辞める覚悟だ。そう思った時、突然思いもよらない考えが湧き上がった。川西に責められなければ花菜はずっと気が付かなかった。

 コーヒーカップを割っても、同じものを買えばいい。水を溢しても、拭けば乾く。そんな事、1日経ったら忘れてしまう些細なことだ。二度と元に戻らない大切なものを、気づかないところで壊していたのかもしれない。


 5月の、爽やかな陽気に少し救われる。この日の昼過ぎ、花菜は東京駅のホームに立っていた。連休でも何でもない火曜日に家に帰ったら、母は何と言うだろうか。怒られても仕方ない。このまま東京にいても出口がどこにあるのか分からなくなっていた。

 東海道線掛川駅に降りるのは去年の夏休み以来だ。時刻は午後4時30分。花菜の家に帰るためにはひとつ隣の駅、袋井駅まで行かなくてはいけないのだが、何となくこの駅で降りてみた。3年間、散々通った駅だ。高校に行って山並先生に会おうと思った訳ではない。先生にはこんな今の自分を見て欲しくない。

「あれ、ハナちゃん?」

 彼女が近づいてきた事に気が付かなかった。

「どうしてここにいるの?東京の大学に行ってるって聞いたけど。」

平松良美。中学校の同級生。

「ああ、平松さん。久しぶり。急な用事があって帰ってきたの。」


 平松は高校も花菜と同じだったが、高校3年の7月、平松の父親が亡くなったすぐ後、高校を中退した。花菜の憧れ、そして花菜を大学進学に向かわせるきっかけを作ってくれた。

花菜は中退の事を、彼女が退学する前日、母から聞いた。母は仕事の関係でその情報を得た。平松はぎりぎりまで同級生に伏せたかったのだろう。花菜はその夜悲しくて、自室に籠って漫画を描いた。彼女が中退する事がとても悲しかった。花菜が父親を亡くした時の気持ちを、彼女に重ねて見ていた。夜通し描いた漫画は、中学の修学旅行で偶然平松と一緒に写った写真の模写だった。

 平松が学校を辞める当日、殆ど眠らず描き上げた漫画を渡したくて、HRが終わってすぐ下駄箱に走った。しかしそこには既に平松の靴は無く、帰った後だった。絵を渡したかったというのは口実だった。高校生の彼女と、最後に会って話がしたかった。追いつけるか分からない平松を追って、学校から駅まで走った。徒歩20分掛かる道を、一度も立ち止まらず走り続けた。やっと彼女の姿を見つけた時、電車がホームに入って来た。これ、と言って手渡した漫画は汗で湿って、握り締めたせいで皺も寄って、それでも平松はじっと見つめて、ありがとう、と言ってくれた。平松の目に涙は無く、花菜と2人で黙って電車に揺られて帰った。家の近くのバス亭に降りた時、平松はそっと花菜の手を取り、しばらく離さないで目を閉じていた。そして最後にぎゅっと手を握り締め、ありがとう、ともう一度言って帰っていった。


「ハナちゃん、あの時のお礼言えてなかったけど、ごめんね。」

「平松さん何度もありがとうって言ってくれたよ。忘れちゃった?」

「ううん、覚えてる。ハナちゃんには何度ありがとうって言っても足りないの。あの頃、私どうしようもなく落ち込んでたんだ。当然だよね。ハナちゃん、あの日の帰り、ずっと泣いてたでしょう。だから私は泣かなかった。ハナちゃんが一生懸命私を励ましてくれてる事が分かったから、泣かないでいられた。そしたら少し元気が出たの。頑張ろうと思えた。でももう少し勇気が欲しくて、ハナちゃんの手を握ったわ。目を閉じて、今日の事は絶対忘れない、って誓った。今もはっきり覚えてるよ、あの日の事。私が今日までまっすぐ来れたのは、あの日のおかげ。ハナちゃんのおかげだよ。」

「よかった。平松さん、元気そうで。」

「元気だよ!私は負けないよ。」

「うん、うん。やっぱりあたしの憧れの平松さんだ。」

「ハナちゃん、名前で呼んでよ。ずっと友達でしょ。」

「あっ、うん!ごめん。」

「ああ、遅刻しちゃう。あのね、私今年から定時制に通ってんだ。やっぱり大学行きたいから。」

「えっ、本当!?」

「うん、ハナちゃんに比べたら遠回りになっちゃうけどね。昼間働いて少しお金も貯めたし、奨学金も借りられそうだから。」

「すごいよ。平、良美ちゃん、すごいすごい!」

「私1人じゃ出来なかったよ。ハナちゃんにも、お母さんにも、職場の人にも、私を応援してくれる人みんなに感謝してる。」

「良美ちゃんはあたしよりずっとすごいよ。」

「ハナちゃん、今日東京帰るの?」

「うん。今から帰る。」

「残念ね。じゃ、夏休み帰ってきたら連絡くれる?何か食べにでも行こうよ。私社会人だから奢るからね。」

「ほんと?行こう行こう。これあたしの東京の住所。教えとくね。」

 花菜は勢い平松に今日帰ると宣言した。家には帰らない、このまま東京に戻ろう。このまま負けたら平松に夏休み会わす顔がない。敵がいる訳じゃないけど絶対に負けたくない。敵がいるとしたら、それは自分の心の中だと分かった。


 とんぼ帰りで東京駅まで戻り、結構な出費をしてしまったが、惜しいとは思わなかった。今から行く所は決まっている。国鉄の改札を抜け、地下鉄ホームの方角へ向かった。

 松田のアパートは電気が点いていなかった。時刻は午後9時。このままいつまでも待っていようと決めた。

 1時間後、駅の方角に松田の姿が見えた。彼女の元へ走って行こうとした時、逆に彼女が駆け寄って来ている事に気付いた。

「ハナちゃん。うちに来てくれてたんだ。」

「うん。由紀ちゃんにね、どうしても会いたかったから。」

「中、入ろう。」

「ううん、いい。ここで。謝りに来ただけだから。」

「だめ。入って。私も話がある。」

こんな雰囲気の松田を初めて見る。

「お茶でいい?」

同じ静岡県出身というのに、花菜はお茶をあまり普段飲まない。逆に松田はお茶が好きで、大学でも部屋でもよく飲む姿を見る。

「ハナちゃんは謝る必要ないよ。先に言っておく。」

「何の事か知ってるの?」

「麗ちゃんから話聞いたよ。」

「いつ?」

「一昨日の日曜日。ハナちゃんの家から帰った後。」

「そう。」

「ね、ハナちゃん。私は麗ちゃんを許してあげてとは言わない。でも私が知っていて、ハナちゃんが気付いていないと思う事がある。それを今から話す。私はその事をハナちゃんに知っていて欲しい。」

「うん。」

「ハナちゃんは麗ちゃんを、苦手だなって思った事無い?」

「正直、最初はそうだったよ。緊張したの。」

「そうね。それは麗ちゃんの方は分かってたわ。私も何となく気付いてた。でも麗ちゃんも私も、ハナちゃんと出会ってからすぐに、ハナちゃんの事が大好きになったの。素直で、元気で。それから純粋で。麗ちゃんも真っ直ぐな性格はハナちゃんと似てるけど、誰にでも思ったこと正直にズバズバ言っちゃうの。そこがハナちゃんと違うね。」

「うん。麗ちゃんの正直なところ、好きだった。」

「でもハナちゃんの方は麗ちゃんに一歩遠慮して、譲っちゃうばかりだったね。」

「でもそれは、あたしの中では納得してたから。」

「麗ちゃんは、それが不満だったの。ううん、寂しかったんだよ。」

「・・・」

「麗ちゃんはハナちゃんの純粋なところを羨ましがってた。自分には真似できないって。尊敬するくらい。でもハナちゃんは麗ちゃんに対して、肝心なところでぶつかって行かない。穿った見方をすれば、相手にしてくれてないんじゃないかと思うんだって。」

「・・・」

「これって、片思いみたいだって言ってたよ。だから。あのね、だから、この間の日曜日、ハナちゃんが麗ちゃんに思いっきり文句言った事、凄く嬉しかったって。ハナちゃんの事、益々好きになったんだって。でもその嬉しさと引き換えに、大切なものを手放しちゃった、とも言ってた。失恋しちゃったんだって。覚悟はしてたけど。」

「由紀ちゃん、あたし・・・」

「私がハナちゃんに知っておいて欲しかったのはこの事。麗ちゃん、おしゃれとかお化粧とか上手だけど、気持ち伝えるのに不器用なとこあるから。」

「あたし、麗ちゃんに何て言ったらいいか・・・」

「悩まなくていいんだよ。ハナちゃんが思っている事を隠さずぶつける事を、麗ちゃんは待ってるよ。」

「うん。うん。」

「私は友達を私の力で助けてあげる事は出来ないと思ってるの。私が出来るのは、その友達が困ってる時、間違ってる時、どれだけの事がしてあげたいのか考えてやってみるだけ。困難は本人自身の力で乗り越えなくちゃ解決しないから。乗り越えられたら、私は思いっきり祝福する。一緒になって喜ぶわ。冷たいようだけど、友達の力って本人の努力に比べたら、ほんの微力だと思う。でもその微力が無ければ乗り越えられない壁も、数え切れないほどあるの。」

「あたし、由紀ちゃんと出会えて、本当によかった。」

 花菜が川西よりも先に松田を訪ねたのは別の理由からだったが、それは花菜の方からはもう2度と口にしないだろうと思った。

 高校の時花菜が平松に渡した漫画は、平松にとって微力だったのだろう。そして今日花菜は、平松からありがとうの言葉と一緒に微力をもらった。松田の話も花菜にとって大きな微力だった。


 次の朝、松田の朝食をきれいに平らげ、川西の部屋へ向かった。早朝が迷惑になるとは全然思わなかった。きっと川西も花菜と同じ気持ちだと、信じて疑わなかった。

 部屋のドアが開いた時、中から化粧気の無いとびきりの笑顔が覗いた。花菜の顔を見ると素足のまま花菜の前に立ち、何も言わず花菜を抱きしめた。花菜も同じ強さで背中をぎゅっと抱きしめた。高校3年のあの夏の日、平松がバス亭で花菜の手を握り締めた時と同じ強さで。今日の2人にも、もう涙は無かった。


(1979年のライン(中)に続く)


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