プロローグ
本作を読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、一人の男が異世界で新たな人生を歩み始める物語です。
マヒロの冒険を、どうぞお楽しみください。
M.T. Sachio
――白い光の向こう側――
朝。
部屋の中に、スマートフォンのアラーム音が鳴り響いた。
ピピピッ! ピピピッ! ピピピッ!
布団の中から、気だるそうに手が伸びる。
目を開けることも、画面を確認することもなく、彼はアラームを止めた。
「……あと五分……」
布団を頭まですっぽりとかぶり、そのまま再び静かになった。
五分が過ぎた。
そして、一時間。
さらに、二時間。
やがて、カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、薄暗かった部屋をゆっくりと照らし始めた。
壁に掛けられた時計は、午前十一時を指していた。
「……うぅ……」
彼は苦労しながら目を開けた。
腫れぼったい目。
ぼさぼさの髪。
まるで長い戦争に敗れたばかりの兵士のような顔だった。
ベッドの端に腰を下ろし、ぼんやりと前を見つめる。
スマートフォンには、新しいメッセージがない。
着信もない。
そして、自分のことを待っている人もいない。
部屋の隅では、扇風機がゆっくりと回っている。
彼はスマートフォンを手に取り、画面を確認した。
……静かだ。
「……何もないか」
そう呟き、スマートフォンを再び置いた。
かつて、彼にも学生時代の友人が何人かいた。
一緒にゲームをしたり、くだらないことで笑い合ったり、時には連れ立って出かけたりもした。
けれど、時間は止まってくれない。
友人たちは、それぞれの人生を歩み始めた。
大学に進学した者。
就職した者。
恋人ができた者。
みんな、それぞれの場所で前に進んでいた。
一方で、自分はというと――
何も変わっていなかった。
起きる。
ゲームをする。
食べる。
寝る。
そして翌日、また同じことを繰り返す。
そんな毎日だった。
以前は、彼も仕事を探そうとしたことがある。
一度や二度ではない。
何度も応募した。
しかし、返ってくる結果はいつも同じだった。
『申し訳ありませんが、今回は別の方を採用させていただくことになりました』
『この度はご応募いただき、ありがとうございました』
『選考結果につきましては、改めてご連絡いたします』
――その連絡が来ることは、一度もなかった。
最初のうちは、まだ頑張ろうと思っていた。
けれど、何度も繰り返される不採用の通知に、少しずつ疲れていった。
やがて、彼は仕事を探すことをやめた。
外に出ることも減り、家に引きこもる時間が増えていった。
目的もなく、ただ時間だけが過ぎていく。
そして、今に至る。
「……俺の人生、このままずっとこんな感じなのかな」
小さく笑ってみた。
けれど、その笑顔に喜びはなかった。
その時――
ぐぅぅ……。
腹の虫が鳴った。
彼は動きを止めた。
「……腹減った」
ベッドから立ち上がり、気だるい足取りでキッチンへ向かう。
冷蔵庫の扉を開けた。
中を覗き込む。
数秒間、彼は黙っていた。
そこにあったのは――
たった一本のミネラルウォーターだけだった。
「……マジかよ」
彼はそのボトルを取り出し、冷蔵庫を閉めた。
「インスタントラーメンすらないのか……」
深いため息が漏れる。
どうやら、他に選択肢はなさそうだった。
「……仕方ない。外に買いに行くか」
何気ない一言だった。
けれど、彼にとっては妙に新鮮な響きがあった。
食べ物を買うためだけに、本当に外へ出る。
そんなことが、いったいいつ以来なのか。
もう思い出せなかった。
彼は財布を手に取り、ポケットにしまった。
それからサンダルを履き、忘れ物がないことを確認して玄関へ向かった。
そして、ドアノブに手を掛ける。
――その手が、ふと止まった。
彼はしばらくの間、ただそこに立ち尽くしていた。
「……なんだ、これ」
理由は分からない。
けれど、胸の奥に奇妙な感覚があった。
まるで――
この扉の向こうで、何かが自分を待っているかのような。
「……ま、いいか」
カチャリ。
ドアノブを回す。
そして、ゆっくりと扉を開いた。
その瞬間――
彼の目に飛び込んできたのは、見慣れた外の景色ではなかった。
道もない。
隣家もない。
車の走る音もない。
空すら、そこには存在しなかった。
あるのは、ただ――
白い光。
目が眩むほどの、真っ白な光だった。
「うっ……!?」
彼は反射的に目を閉じ、腕を上げて顔をかばった。
そして、一歩後ずさる。
「な、なんだ……これ……?」
扉の向こうに広がる白い光。
その光は、まるで目の前にあるあらゆるものを吸い込もうとしているかのようだった。
最初は、かすかな引力だった。
けれど、それは次第に強くなっていく。
玄関の向こうから、凄まじい力で家の中の空気が吸い出されていた。
「な、なんなんだよ、これ!?」
彼は慌てて扉を閉めようとした。
しかし――遅かった。
ゴォォォォォッ!!
背後から、突風が吹き荒れた。
「うわっ!?」
体が前方へと押し出される。
彼は必死に手を伸ばし、扉の枠をつかもうとした。
指先が、あと少しで届く。
だが、体を引きずり込もうとする力は、あまりにも強かった。
「ま、待っ――!」
ゴォォォッ!!
彼の体は、抵抗する間もなく白い光の中へと引きずり込まれた。
その瞬間。
音が消えた。
家も。
日常も。
そして、彼がこれまで生きてきた世界も。
すべてが視界から消え去った。
「うわあああああああああっ――!!」
彼の叫び声が、遠ざかっていく。
やがて――
すべてが静寂に包まれた。
体が、軽い。
床もない。
壁もない。
空腹さえも、もう感じなかった。
ただ、どこまでも広がる白い光だけが、彼の視界を満たしていた。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
そして――
彼の意識は、深い闇の底へと落ちていった。
――その日、一人の男の人生が終わりを告げた。
そして、まだ誰も知らない新たな人生が始まろうとしていた。




