7 俺達が外国人
3日目
7時半から8時半の間が宿舎での朝食時間と決められている。7時に起きたんだけど、未だうす暗い。部屋を出て、同じフロアのレストルームで顔を洗おうとドアを開け入る。既に鵜飼君と陳君が歯を磨いていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「ぐっすり眠れたかい?」俺が聞くと。
「全然、ベッドのスプリングが弱いもんで、寝返り打つのに苦労しちゃって。中々寝付けなかったな」陳君が鵜飼君に同意を求めた処。
「俺は全然平気だったけど。長府は神経が細やかだからな」
歯を磨きながら喋るな。口の中のものが飛ぶじゃないか。俺も顔を洗い歯磨きをした。二人は俺より先に出て行った。
タイル地の冷たい感じが気持ち良く、歯磨きを終えるとトイレに入った。便器の便座がしっかりと取り付けられている。安心した。流石に女性用トイレは点検出来ないから、男子用トイレでの点検で済ませる。蓋の開閉も問題ない。便座の上げ下げも問題ない。レバーを動かす。水も問題なく流れている。大丈夫だね。只一点残念なのは、ウォシュレットじゃない事。
レストルームから自分の部屋に戻り、着替えをして1階の食堂に向かった。階段を降りた左手、正面入口から見て右手に食堂があり、その先にはグランドに繋がるテラスがある。食堂の広さは20坪程度、10台の丸テーブルがある。テラスにも3台の丸テーブルが置いてある。既に外国人が外のテラスで朝食を取っている。室内のテーブルには日本人の学生が座っている。
食堂に入って左手のテーブルの上、順に金属製のプレート、磁器製のお椀と丼の中間位の大きさのボウル、丸皿、スプーンにフォーク、大皿に盛られたコッペパン、金属製の洗面器大の器に入っているインスタントコーヒー粉、同じくお湯、同じく暖かいミルク、バターとジャム、ヨーグルト(ダノン製)そして洋梨。
プレートにコッペパンを一つ取る。ボウルにインスタントコーヒーとお湯と暖かいミルクを入れてカフェオレの出来上がり。バターとジャムとヨーグルトを載せて学生が占めるテーブルの空いた席に座った。
「おはよう。この席空いている?」
「おはようございます。はい」
奈緒ちゃんが応えた。化粧っ気のない素顔で、にこやかにあいさつをしてくれた。遅れて、美智ちゃんもしてくれた。美智ちゃんもスッピンだ。別テーブルで朝食を取っていた外の学生もあいさつを返して来た。清子ちゃんと好子ちゃんは薄化粧だな。
カフェオレを飲み、コッペパンにバターを塗る。硬い、コッペパンに見えたけど、こりゃ立派なフランスパンだ。焼き立てだから暖かさが手の平に伝わる。初めて本場のフランスパンを食べた。確かに美味い。特段バターやジャムを付けなくとも、十分いける。
「先生、このフランスパン美味いでしょ」
「そうだね」
美智ちゃんが俺に、フランスパンが美味いと言う。初めて食べたけど美味い。だけど、焼き立てだからじゃないか、とは言わなかった。腹が空いた時、暖かいものは大概美味いと相場が決まっている。身も蓋もない話しだけれどね。
「カフェオレもこうした飲み方をするんですね」
「美智ちゃんは普段どんな飲み物を飲んでいるの?」
「私? うーん、何だろ。朝は、コーヒーとかホットミルクとかじゃない? 奈緒は?」
「私? 私は、朝はお味噌汁とお茶ね。お昼はウーロン茶で、夜はほうじ茶かな。余りコーヒーは飲まないわよ」
「日本食がメインなのね」
「うんん。そんな訳じゃないんだけど。自然とそうなったの。それよりも先生は何を飲まれるんですか?」
フランスパンを一口、二口食べ、カフェオレも飲み、ヨーグルトを食べようと蓋を開けようとしていた処だったから、良く聞いていなかった。
「何?」
「先生は普段、どの様な飲み物を飲まれるのですか?」奈緒ちゃんが尋ねた。
「何だろうね・・・ 出された物なら、何でもかな。こだわりないから、俺」
「そんなあ」美智ちゃんがお道化て茶々を入れた。
「本当だよ。研究室でも事務室でも出された物は美味しく頂きます。それが俺のモットーかな?」
「何か、ショック・・・ 先生ならフランス語教えているから、カフェオレか何かだと思ってた」
「ご期待に沿えず、申し訳ないね」
俺達が朝食を食べていると、テラス席から外国人が戻って来て、あいさつをしながら食堂から出て行った。俺は学生達を見回した。皆、フランス語であいさつを返していた。俺はホッとした、一安心だ。此処で、フランス語であいさつ出来なかったら、俺は彼等に何を教えていたのか、という問題になる。
他のテーブルの学生も、食事を終える頃だ。席を立とうとする者もいる。俺は急いで彼等に伝えた。
「皆さん。各部屋にレジュメがあったと思いますが、9時から11時半迄、施設の案内をムッシュ・サロモンからしてもらいます。その後、こちらを会場として、レセプションが13時迄あります。それから14時迄昼食になりまして、14時から16時半迄クラス割り試験が実施されます。外を見るとグランドが見えるでしょ。その先に見える建物、そこで行います。文法の問題がメインになりますから、学習した事を思い出して当たって下さい。その後、18時半迄エクスパンドをクラス分けしたグループ毎に実施します。19時からはバスで市内案内、20時より夕食になります。本日から研修が始まりますが、盛沢山の内容ですので、もし、体調が悪くなりましたら、遠慮なく私に申し出て下さい。以上で日程説明を終わりますが、質問ありますか? ないようでしたら、各自部屋に戻り、9時前に此処へ集合して下さい」
一気に、これからのスケジュールを説明したが、分かったかな? 特に発言もないようだし、良しとしよう。
もう一杯カフェオレを飲もうと、ボウルを持って席を立とうとした時。
「先生。もう一度言って下さい」
鵜飼君が再度の説明を求めた。仕方なく俺がもう一度説明を始めようとした時、最後の学生、大西純君が食堂に入って来た。彼は夏休みに入って、直ぐパリの親御さんの家にやって来ていた。この度は、そこから直接来た訳だ。
「おはようございます、先生。今、着きました」
「グッタイミン」
誰かゞ囃し立てた。確かにそうだ。大西君にも説明する必要があったので、タイミングとしては良い。しかしだね、君達。良く聞いていれば二度も説明する必要などないのだからな。
気を取り直して俺は再度スケジュールを説明した。今度は納得したのか、何も質問は出ないだろうと思ったが。
「辞書は使って良いのですか?」利恵ちゃんの質問だ。
「駄目です。貴方達の実力を見極めて、クラス分けをするのですからね。大丈夫です。皆さんは既に中級フランス語文法に進んでいます。十分対応可能です」
「試験会場は隣の建物と言いましたが、全員同じ部屋ですか?」洋子ちゃんの質問ね。
「皆さん、同じ部屋で受けてもらいます。但し、外国人は別の部屋で受けます」
そう言って、俺は何か腑に落ちなかった。そうです「外国人」。俺達の事だろ。そう思い直し、俺は訂正した。
「修正します。『外国人』と言いましたが、貴方々以外の人を指しますので。貴方達とそれ以外とに分けて、試験を受けて頂くという事です」
「了解」陳君が即効で応じた。
学生からの質問もないようなので、今到着した大西君を俺の隣へ呼び、2階の空いている部屋へ荷物を運び、着替えた後に朝食を取るよう伝えた。彼は自宅で朝食は食べて来たと言い、ボストンバッグを肩から下げたまゝ、清子ちゃんと好子ちゃんのテーブルに移動した。そこで清子ちゃんと何か話しを交わし、2階へ向かった。
他の学生も食事を終え、2階の自室に戻って行く。俺も2杯目のカフェオレを飲み終え、食器を配膳板に戻して2階に上がった。
9時前に食堂に戻った処、既に学生12名全員集まっていた。時間を守る事は大切ですね。二つのテーブルに座って、ワイワイ騒いでいる。後は外国人だ。失礼。良い方を間違えました。アフリカ系が2名、マグレブ系が1名、コーカソイドが7名見える。9時を10分程過ぎてサロモン氏がやって来た。簡単なあいさつを交わし、施設の概要を話し始めた。
俺はショックを受けた。彼の話しが半分も理解出来なかったからだ。理解出来る単語と理解不能な単語が混じり合い、文章否、会話として消化出来なかった。語彙力のなさが原因なのかと思ったが、待てよ。そうだよ。昨日のホテルのフロントとの会話も理解不能だった。俺のフランス語も理解してもらえなかったからな。
と言う事は、ボキャブュレールの不足ではなく、ディクテが駄目なんだ。聞き取ってもらえないと言う事は、発音が悪い事になる。リエゾンなんかしなくとも、はっきり単語を発すれば問題ない筈だ。発音が悪いという事は、正確なアーントナションを理解していなかった事になる。だから聞き取りが出来ないのだ。これはもう正確な発音を聞いて覚えるしかない。情けないがフランス人の発音を真似るしかないな。
サロモン氏の説明が終わったのだろう。彼を先頭にして、諸外国の人が続き、そして我等が最後に食堂を出た。移設案内と事前に伝えて良かった。何処を歩いたのか記憶にないが、林の中を通った気はした。学生からは特に質問がなかったから良しとしよう。