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「嫌い」を語る  作者: ほろむしろ
4/5

03 最近の曲 ~「風景」を美しく歌えていないから~

 最近の曲は歌詞がうすっぺらい!


 こんな言葉はあちらこちらでたまに聞くことだろう。

 私も、根拠はないけど、なんとなくそう感じている。

 具体的な名前をあげるのは避けるが、ここ数年のあいだにネットでバズってすぐに話題から消えていった曲はいくらでも思い浮かべることができるだろう。

 

 ところで、「最近の曲は歌詞がうすっぺらい」というのは本当だろうか?

 そもそも「最近」とは、いつからだろうか?

 そして、なぜ「うすっぺらい」という感想が湧いてくるのだろうか?


 これは、「最近」の曲は「風景を美しく歌えていない」からだと、私は思う。

 だから曲のメロディは好きでも、歌ってみたり歌詞を紙に書き写したりしてみたいとはならないのだと。


 では、おまえの言う「最近」はいつからだって?

 私の「最近」は、昭和の戦後以降はおおむね当てはまると考えている。


 私が普段聞く音楽ジャンルは「軍歌」。それも日本・海外を問わず。

 軍歌といっても、街中で怖い車がスピーカーで流している曲はまったく好きではない。

 ああいう軍歌は、銃後にいる奴らが勇ましいことを言ってるだけ、空虚な言葉を並べただけでなんの魅力もない。

 それよりも、前線の兵士が歌った、軍歌なのにどこか物悲しさが残るような曲こそすばらしい。

 

 少しだけ、私の好きな歌詞を紹介したい。ぜひ実際に聞きながら読んでいただければ幸いだ。

 なお歌詞の著作権がパブリックドメインになっていることはすでに確認済みである。


①山紫に水清き 作詞:小西貞治(注1) 作曲:不明

(一番)

山紫に水清き

七州の野に生まれたる

われら五十のこの校に

集いしことも夢なれや

(五番)

磐梯山[ばんだいさん]の朝嵐

鬼怒の河畔の夕時雨

殷々轟々勇ましく

野山に響く砲[つつ]の音


 この曲は明治45年(1912)に、東北の仙台陸軍幼年学校の学生が作った曲である。

 陸軍幼年学校にはだいたい13~17歳、今でいう中高生くらいの子どもが将来軍人になるために通った。つまり、この曲は中高生が作詞したものと言ってよい。


 この歌は卒業の100日前を祝う「百日祭」のために作られた。だから歌詞には幼年学校の3年間の思い出を思うがままに書かれている。「七州の野」つまりは東北地方各地から「われら五十」人が一つの学び舎に集まったことは、まるで「夢」のような思い出だ、と。

 

 さて、この曲でもっとも美しい歌詞は「五番」であると思う。

 磐梯山は、福島を代表する山の一つ。そこで見た「朝嵐」。

 鬼怒は、栃木の日光から利根川まで流れる鬼怒川。そこで見た「夕時雨」。

 「磐梯山」と「鬼怒川」、「朝嵐」と「夕時雨」。みごとに風景が対比されていることは、すぐ気づく。

 そして、ゴウゴウと音を上げて野山に響きわたる砲の音。彼らは軍人の卵なので、軍事演習のために磐梯山のふもとや鬼怒川の川辺まで行ったことがあるのだろうか。


 ところで東洋の概念で「天地人」というものがある。

 世界を構成するものは「天」と「地」と「人」の3つなのである。だから昔の中国の百科事典を引いてみると、この順番で単語が載っている。


 この「山紫に水清き」もしっかり「天地人」を含んでいる。「磐梯山・鬼怒」は地であるし、「朝嵐・夕時雨」は天、そしてその間で砲を撃っている「彼ら学生たち」が人。

 この歌詞に深みがあるのは、「天地人」があるからだと思う。逆に、最近の自分の気持ちばかりをごちゃごちゃと歌った曲は、これが揃っていない。要は、「人」しかなく「天地」が欠けている。

 世界の構成要素の「三分の一」しか含まれていない曲をうすっぺらいと感じるのは、当然ではありませんか。


②北満だより 作詞:佐藤惣之助(注2) 作曲:三界稔

(一番)

銃後の友よ

いよいよ冬が来ましたが

ソ満国境警備する

若い僕らの殉血は

雪に輝く桜です

(三番)

アカシアの花散るころに

新京出でて幾山河

今じゃ匪賊の影もなく

雪と氷で日が暮れりゃ

腰の軍刀が啼いとるよ


 この曲は1938年に発表された。余談であるが、作詞者は阪神タイガースの「六甲おろし」を作った人でもある。


 さて、内容については、ソ連と満洲国の国境警備の任についている兵士が、日本にいる友だちに「こっちも達者でやってるよ」と手紙で伝えるという風の歌となっている。だから「北満だより」という曲名なのだ。


 この曲で好きなのは歌詞の三番。

 満洲の中心都市「新京」(今は長春という)を出発して、さらに北のソ連との国境であるアムール川に向かう場面。

 「アカシアの花散るころに」。この何気ない一フレーズが、なかなかに美しい。


 アカシアの花、本当の名前はニセアカシアだとか、ハリエンジュだとかいう。初夏に白い花を咲かせ、「アカシアはちみつ」というはちみつの素になったりする。また寒冷地でもよく育つのが特徴で、北海道や満洲、大連で街路樹として多く植えられた樹である。特に大連のアカシアは有名で、『アカシアの大連』という小説があったり、戦後大連から引き揚げた人の体験録にしばしばアカシアの話が出てきたり、何かと大陸の街と縁の深い植物だ。


 「アカシアの花が散るころに」、満洲のアカシアがいつごろ散るのかは知らないが、夏盛りになる前に新京の街を出発したのだろう。一面にアカシアの散り花でいっぱいの、新京の街の道を通り抜けて。

 そしていくつもの山や河を越えて国境まで来たものの、匪賊(盗賊のこと)の姿も見えず、すっかり夏も終わって秋も過ぎ去り、「雪と氷」の冬になってしまった。

 ここでようやく自分の感情、腕がなまって退屈してしまったよ(「腰の軍刀が啼いとるよ」)というのが現れる。


 やはりはじめは「風景」が来て、それに合わせるように「人の感情」が最後に現れる。

 美しい「風景」があってこそ、人の心はますます光るのではなかろうか。


 語りだすときりがない。次で最後にする。


③討匪行 作詞:八木沼丈夫(注3) 作曲:藤原義江

(一番)

どこまで続く泥濘[ぬかるみ]ぞ

三日二夜 食もなく

雨降り飛沫[しぶ]く鉄兜

(二番)

いななく声も絶え果てて

倒れし馬の鬣[たてがみ]を

形見と今は別れ来ぬ

(十四番)

敵にはあれど遺骸[なきがら]に

花を手向けて懇ろに

興安嶺よ いざさらば


 「討匪行」。意味は「匪賊」を「討ち」に「行く」。

 先に少し触れたように、満洲には集団で盗みや暴力を働く「匪賊」と呼ばれた人々がいた。

 満洲に進出した日本兵は彼らを退治することになるのだが、この曲のメロディからは微塵も勇ましさなんて感じられない。

 戦争の虚しさや戦友を失った悲しさといった悲壮感ではない、ただ広漠とした荒野をひとり無心で歩き続けるような、何とも言いがたい喪失感。


 歌詞もまた強烈である。いきなり一番で泥濘を、食べるものもないままに歩いている。

 二番では何と連れてきた馬が死んでしまい、そのたてがみを形見として別れたことがわかる。

 その後、寒さを耐え忍び、あちこち回った末に匪賊を見つけ、ついに退治することに成功するのだが、やはり一番美しいのは十四番の歌詞。


 敵ではあるけれど成敗した匪賊の遺体を丁寧に埋葬して、おそらくは木で建てた粗末な墓標に花を手向ける。どんな仇敵でも「死ねば仏」。まさに「情け」の世界であり、これだけでも美しいのだが、圧巻なのはこの次のフレーズである。


 「興安嶺よ、いざさらば」

 興安嶺というのは満洲平野の北にある山脈。ヒマラヤやアルプスのように際立って高い山々ではないが、「赤い夕日の満洲」と称されるくらい平らな地平線のこの地では、圧巻というべき存在感を放っていたことだろう。


 目の前の亡骸を埋めたお墓。そこから広大な満洲の大地と興安嶺の山々、どこまでも広がる空へと視線が移っていく。近景から遠景への誘導が実に巧みだと思わないか。そして広大な景色に投げ出された自分は、どうしてよいか呆然とした気持ちにならないか。

 それでも「いざさらば」と気持ちを引き締めて、次へと進んでいくのである。ここで「風景」に代わって、ようやく「人」が出てくるのである。


 この歌の替え歌と題したメモが書かれた兵士の手帳を、博物館で見たことがある。

 口ずさむとなるほど、たしかに「討匪行」のメロディーに合う。

 戦地にいる兵士の心に刺さる曲とは、こういうものなのかなと思った。


 事実、作詞者の八木沼丈夫も満洲に渡っているし、最後は北京で亡くなった。

 実際に見た風景を、美しい言葉で歌う。

 今の、家の中で、頭の中で考えただけの歌詞とは、違っていて当たり前だ。


 「嫌い」を語るつもりが、長々と「好き」について語ってしまった。

 結語として、「風景」を美しく言葉で描き出すこと。これは「天と地」を表現することであり、そして「人」の感情や感性をより美しく際立たせるものだと私は思う。

 だから、それが欠けている「最近」の曲を、私は嫌いなのだ。

注1 明治28年(1895)生まれ。仙台陸軍幼年学校13期、陸軍士官学校28期。終戦時は東京陸軍少年通信兵学校長。最終階級は陸軍大佐。JASRACの著作権管理外であるが、小西氏は1959年8月時点ですでに亡くなっており(『偕行』第97号、陸修偕行社、1959年、19頁)、改正前の著作権法の保護期間50年規定に基づき2009年以前に著作権が消えている。

注2 1942年没。

注3 1944年没。

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