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「嫌い」を語る  作者: ほろむしろ
2/5

01 スポーツ ~形に残らないから~

 私はスポーツが嫌いだ。


 それはなぜか?

 私が運動音痴でイケてない学生生活を過ごしたからである。


 以上、




 少し待ってほしい。確かにそれはそうなのだが、ここで終わるわけにはいかない。


 確かに私は全く運動ができなかった。

 幼稚園のマラソン大会は文字通り最下位だった。マラソンに最下位ってあるんだ。

 剣道も4年少しやっていたが、生涯戦績は3勝・数十敗・数十分け。勝った日には本当に豪華な夕食が出てきた。1勝しただけで大会で賞を取ったがごとく、皆が狂喜乱舞した。

 体育の時間は体育館のステージに上がって友達とだべって過ごしてた。そんな自分が運動嫌いであるのは自明かもしれない。


 しかし! ここでは、「嫌い」をきちんと分析したい。

 そこで今回は、「形に残らない」という観点から、自分の「嫌い」を考えてみたい。


 話は変わるが、私は大学で歴史学を専攻している。

 歴史と言えば、「本能寺の変の黒幕は誰か?」とか、「太平洋戦争はコミンテルンの陰謀なのか?」とか、よくわからないマユツバものの言説を目にする。

 しかし実のところ、歴史学というのはとても地味で堅実な学問だ。


 その歴史学は何を根拠にして、歴史を語るのか?

 それは主に文字で書かれたもの、「史料」である。

 もちろんその史料が本物か、書かれている内容は本当か吟味しなければならないが、少なくとも「史料にないこと」は基本的に語ることができないのだ。


 では「史料に残らなった出来事・人間」はこの世にいなかったことになるのか?

 歴史学としては「イエス」と答えなければいけないだろう。


 記録に残らなかった人間は、存在しなかった。少なくとも歴史の立場からは。

 だからこそ、たった一行、一文字だけでも文字が残っていること、そこに感動すら覚える。


 例えば村の帳簿。どこどこ村のだれ兵衛が借金をしただとか、娘が丁稚奉公でいくらで契約に出されたとか、そんなこと一つでも文字として残っていれば、彼ら彼女らは確かに「存在していた」ことになるのだ。


 さて、話がそれた。

 それではスポーツは何を残すだろうか?


 本を書く。論文を書く。

 これは半永久的に残り続ける。今は国立国会図書館に国内すべての書籍が保管されることになっている。

 ここに私が書いている駄文だって、アタマの中で考えているだけではなにも残らない。

 でもこうして文字に起こして、ネットの海に放流することで、このサイトが消えるまでは残り続ける。

 

 建物を建てる。

 これも半永久的とは言えないが、それでも人の一生よりは長く残るだろう。エッフェル塔ができた1889年に生まれた人が、まだ生きているだろうか。モノにもよるが、建物とは意外と長生きだ。

 建築業の仕事を表すキャッチコピーに「地図に残る仕事」というものがある。これこそ「残ること」を何よりも重んじた価値観だろう。


 さて、スポーツは何を残すか。

 感動。たしかにそうだ。私も野球観戦は好きだし、とても興奮する。

 思い出。私にはないが、そうだろう。気持ちはわかる。かけがえない青春の一ページだろう。

 筋肉。私もほしい。でもそれは歳とともに衰えていくし、死んだら動かなくなってしまう。


 記録。たしかにこれは残る。

 数字として、映像として、偉大な記録は残りつづける。

 しかし、どうもスポーツの記録というのは、その時その瞬間を見ていなければ価値が大きく損なわれるのではないか。 


 例えば、偉大なホームラン記録を打ち立てた野球選手、王貞治選手の記録は数字でみるとすごい。

 でも、そのとき生まれてさえいなかった自分にとっては、いまいち心が踊らないのである。

 それよりも最近活躍している大谷選手の方が、心に訴えてくるものがある。

 「巨人・大鵬・卵焼き」なんて昭和の言葉があっても、私が知っているのは卵焼きのおいしさだけ。


 昔の小説を読んで心を動かされることはある。

 昔の建物を見て言葉が出なくなることもある。

 しかしスポーツに関しては、昔のもの、残っている記録に心はおどらない。

 どうもスポーツというのは刹那的で、「今このとき」にのみ存在するもので、時代を超えては伝わりにくいらしい。


 残らないもの。それの価値はまた別にあるだろう。

 諸行無常。どんなものも常に移り変わるものであると仏教も説く。


 それでも、私は「残るもの」にこだわりたい。

 「残すこと」こそが、自分と他者との唯一の結節点であり、自分の存在証明であり、生きた証だと考えるから。

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