一度見ただけの輪島をどうやって覚えていたのだろうか
私はよくジムのプールで泳ぐ。海まで足を運べなくても、週末まで待たなくても、ジムは帰り道にふと現在と自分に集中するのに良い場所だからだ。その瞬間は良いことばかりではない人生を少し休憩できるように感じる。
泳ぐというより潜るのが好きだ。潜り始めたばかりの不快さと一瞬の静寂、耳抜きをして背中から指先までしならせてぐんぐんと進んでいくうちに気づく心地よい水中の音と水面模様のゆらぐ光。ずっとここにいたい気持ちを曲げるような苦しさに仕方なく水面に戻った時の酸素のあの弾ける感じはどんなにお酒を飲んでも敵わない弾けるような感覚だと思う。
だからプールでは飛び込んだ時とターンをした後のグイグイっと進む瞬間が好きで何メートルも泳いでいる事になる。
だけど海は違う。本物の海は、違うのだ。
小学生の頃、ネグレクト気味な母親が珍しくキャンプに行こうと言った。私は蚊に刺されやすい質で、宿題も終わっていなかったので正直嫌だったのだが、そんな事を言っても私は小学生だったので、殴られてついていく事になった。
キャンプ場まで車で数時間のドライブをした後、吐きそうなのを我慢してどうにか降り立ったそこは随分と廃れたキャンプ場だった。
母親は新しい夫と七輪に張り付いていて、楽しそうだった。それこそ私は幽霊にでもなった気分だった。何故私は私のことを見てくれる誰かがいないのだろうか。
そんな光景を俯瞰的に眺めていると視界が体ごと自分のものではない感覚に陥る。いつもの事ではあるが辛かったので、誰もいないキャンプ場を散策する事にした。
キャンプ場を下っていくと海があった。私はそこまで歩いて行くことにした。小さな体を捻って、植え込みの隙間を縫うように近道をしていると、小柄だが綺麗な毛並みをした猫がいた。
きっと近くで飼われているのだろうと手を出すと、匂いを嗅いで来た道を戻り始めた。私から逃げたかったその子には申し訳ないが、脅かさないようにそろそろとついていった。
植え込みの隙間を抜けて少し行くとコンクリートの道に出る。その先には商店街があり、知らないお婆さんが「キャンプ場のお客さんかい?」とクッキーをくれた。私はその日何も食べていなかったことに気づき、ありがたくそれを頂戴した。猫も何かおやつをもらっていたように思う。私はおばあちゃんと砂浜へ行った。夕日が沈むのを眺めながら会ったばかりのおばあちゃんは「辛抱しとったらいいこともあるんよ」と少し標準語が混ざった方言で言った。
海は青くてキラキラしていて、私が強く頷くとおばあちゃんは満足気に笑った。
天国があったらこんな見た目をしているんだろうなと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。
次の日の朝、母とその夫はよく眠っていた。
キャンプ場にある水道のお水を飲んだのだが、すっかりお腹が空いてしまって、母の財布から百円をこっそりと盗んだ。そしてキャンプ場で借りたシュノーケルと大きな浮き輪を腕に通し、昨日商店街の奥に見たコンビニに向かうと百円で買える一番大きなパンを買った。それは海へ向かう道中で全て食べきってしまった。チョコレート味で夢のように美味しかったのだ。
帰るのも気まずい事になるとわかっていたので、そのまま昨日の砂浜に着くと、誰もいない砂浜で、シュノーケルを装着し、こっそり持ってきた浮き輪を広げて膨らませる。
海に入ると水の中は透明で、底までの全てが見えた。私は興奮して、ウネウネとしていたつもりだが、実際水の中では殆ど動きはなかったように思う。
先ずは浅瀬で動かずに浮いていると小さな魚達が興味深そうに寄ってきた。じっと見ていると髭の生えた細長い魚が力の抜けて筒状に丸まった手の中に入ってきた。小学校のポスターであった毒のある魚に似ていたので怖くて動けなくなったが、暫くするとするりと泳ぎ去って行った。
次に草フグが数匹寄ってくると、一番大きな奴が、私の脚にあるぷっくりとした黒子を食んできた。血は出なかったがそれは痛かったし何よりびっくりした。観光客が時々餌をやるのかも知れない。
餌になるのは嫌だったので逃げるように少し急いで遠くまで泳いだ。足がつかなくて少し怖かったが、生きていれば怖い事はもっと沢山あった。変に勇気を出すとそこは別世界だった。
海藻と岩とたくさんの魚。
大きなものは近づくとすぐ逃げて隠れてしまう。きっと経験というものだろうと、相手は魚とはいえ酷く感心した。
浮かんで眺めていると、イカが一匹比較的私に近い深さを通りかかったので、私はそれについていく事にした。
初めて見る生きたイカはこちらを見ながら優雅に泳いでいた。私はそれについていくと、イカはもう一匹のイカと合流して、それは楽しそうにクルクルと泳いだ。どうやっているのかはわからないが彼らは方向転換を何度重ねても同じ方向へ泳いでいて、ずっと私を眺めながら一定の距離を保っていた。こういうのが愛なのかも知れないと私は少し離れた距離のまま二匹の無駄のない動きの中に時々くるっと回りこちらを見る好奇心、二本の長い脚、その他の足がふわふわと刺すような美しい泳ぎを随分と堪能した。何度目かの息継ぎでうっかり見失ってしまったけれど、私は満足して浜に戻った。
暫く浜で寝そべっていると、知らないおじさんが昨日の猫と一緒にこちらを見ていた。猫がチクったのかと混乱していると、おじさんはさっきのイカのように距離を取りながら
「親と一緒じゃないと危ないよ」
と声をかけてきた。私が
「なんで?」
と聞くと、おじさんが
「可愛いんだから誘拐されちゃうかもしれないし、海に流されるかもしれない」
と真剣に言う。私は可愛いなんて初めて聞いた事も、こんなに美しい海を恐れるのも可笑しくて、
「お母さんより怖くないよ」
と言った。
おじさんは一秒ほど困った顔をした。
「少し待ってな」
と言うと近くの商店に入り、小走りで戻ってくると小さいボトルのオレンジジュースとおにぎりをくれた。
「これで堪忍や、暗くなる前に帰り」
と言うので私はありがとうと頷いた。おじさんは少し不器用にニカっと笑うと去っていった。
海はどんどんオレンジ色になっていって、穏やかな波がちらちらと光っている。太陽は少しずつ海の中へ入っていくように沈む。それに応えるように海は太陽の形を反射した。ぬるい風が肌を撫でるように磯っぽい匂いを運び、白い鳥が鳴く。
潮風のおかげかおにぎりがいつもよりおいしくて、一瞬で食べ終えると、ジュースを開けた。今まで飲んだ何よりも美味しいオレンジジュースに、次猫に会ったら猫にもお礼を言うべきか少し真剣に考えた。
私は太陽が半分沈むと残りを諦めて帰ることにした。ゴミはこっそりキャンプ場の建物のゴミ箱の底に入れてから戻ると、母親は「またぶらついて、暇でいいわね。綺麗な夕日を見逃してもったいない」と言った。私は私の見たものをシェアしたくない気がして、「そうだね」とだけ言った。
次の日の朝。帰り支度をしている母が急いでと手を振り上げるのを聞こえないフリをして、海の方を見た。そして鼻から深く、そして口も開けて肺がはち切れそうなほど息を吸った。海の匂い。海はキラキラしていて、私はそれが滲んでどんな夜景よりも綺麗だと感じた。生垣にはあの猫が一瞬通った気がして、ありがとうと囁いた。そして車に滑り込み、静かに目を瞑り息を吐いた。