妄想の女
男がいた。セミダブルのベッドの端のほうに。
エレベーターの落ちる瞬間、あるいは崖の下を覗き込むようなヒュッと肝が冷える感覚が常にしている。嫌じゃないわけがない。なのになぜ、彼がそこにいるかというと……
「んごおおおぉぉぉぉ」
彼の横には太った妻。鼾をかき、暗がりの中、近くの公園の池の周りにある木の杭のような太い腕に、うっすらとムダ毛が生えているのが見える。
彼はため息をつく。すると、妻はさらに大きな鼾で返す。まるで『寝てるからといって甘く見るんじゃないよ』と、言うかのよう。彼はビクつき、呼吸さえもためらいがちに。できることは目を閉じること。そして、物思いに耽る……。
……おれは決まり事を守るタイプだ。法定速度はもちろん、自分が歩行者の時だってそうだ。赤信号も物心ついた時から、たとえ車が左右に見えなくとも大人しく青に切り替わるまで待っていた。
……なのにどうしてこんな女と結婚してしまったのだろう。こいつの真っ赤な口紅を見た時になぜ、止まれと思わなかったのか。なぜ、その口が泊まれと言った時、おれは踵を返し、走り出さなかったのか。
「んごぉぉぉおおおーおぉぉぉんんがっ!」
彼は目を開け、横で眠る妻をちらりと見ると、また目を閉じた。
これが日常だ。そしてこれも日常だ。彼はいつものように頭の中に、ある女性を思い浮かべた。
彼には思いを寄せた女性がいた。ただ、それが誰かはわからない。ドラマで見た気がするが、CMだったかもしれない。あるいは雑誌かそれとも夢か。なんにせよ、もう一度目にすることはなかった幻の女。あ、好きだ、とふと思った時にはもう日が経ち、放送期間は恐らく終了していた。
調べてもわからない。しかし心残りになり、脳内で彼女と逢瀬を重ねた。
性格も声も知らない、その顔も、もしかしたら細部が違っているかもしれないが想像力で補った。寝る前の妄想。現実逃避。女を知らない男子高校生のような行いであったが、これが彼の心の癒し。妄想の中で抱き合い愛を囁き合いニヤニヤ。現実ではモノを硬くしたが、リラックスできているのか不思議といつのまにかストンと眠りに落ちている。
何事も続けていれば、それなりに上達するもので妄想の中の女は艶めかしくあった。継続は力なり。が、飽きもする。
ホテル、自宅、野外、トイレ、プール、車内社内。あらゆるシチュエーションで女を抱いたが、最近はどうもマンネリ気味だ。喧嘩をし、仲直りのセックス。襲われそうになっているところを助け……と、より安っぽいドラマ染みた演出をするが次の展開に悩み、目を閉じながら渋い顔をする時間が増えた。
これでは寝付けない。何かないだろうか。恋愛漫画とかはどうだ? 何か良い展開はないか? と、そんな風に考えているとふと思いついた。
そうだ、恋敵を作ろう。なに、そう難しい事じゃない。適当な俳優の鼻を大きくしたり髭をつけたり髪型を変えたりするだけでいい。どうせ、おれに負けるだけの存在なんだ。どうだっていい。
その男に彼女は誘惑され、少しだけ良いなと心が動く。しかし、やはりおれだ、おれが好きなのだとそう、そこは絶対に揺るがないのだ。
おれもおれで嫉妬心を抱き、そして燃え上がった俺に彼女は……。
と、そんな風に設定を練り上げるうちに、また彼は眠りに落ちていくのだった。が……。
ん……あ、彼女だ。彼女が、ん、おい、誰だその男は! な、な、なんだ! 手なんて握って! おれというものがありながらふ、ふ、不純だぞ! き、君は、おれしか男を知らないし、知ってもいけないんだ!
あ、な、なんだ貴様! その目は! おれが、おれが想像したんだ! おれがお前を作ったんだぞ! お前なんてどうとでも、あ、やめ、やめろ、この!
「痛っ! あ、あれ」
「うおい、なに寝ぼけてんのよぉ……」
「え、いた、痛い! た、叩かないでくれよ……」
「痛いじゃないでしょ! あんたが先に叩いたのよ!」
「い、いや、違う、おれは奴を」
「だから、寝ぼけてんじゃねーよ! クソ! ボケ!」
「あ、あ、ごめ、ごめん、ごめんなさい」
彼はえらい目に遭ったと、肩を落とした。が、同時に喜びもした。まるで壁をぶち破ったように妄想の世界と夢の世界に橋が架かったのだ。
妄想とはまた違う。彼女はそこで自分の言葉を話し、行動し、そして奉仕してくれるだろう。なんて素晴らしいんだ。コツを掴んだ気がする。きっとまた夢で会える。尤も、あの男はいらないが……。
そして夜。前の晩の時と同じく彼は強く、ただ強く念じた。彼女のことだけを。しかし……。
あ、あ、あ、やめ、やめないか二人とも! あ、あ、そんな、舌をそうやって、へぇ、そうするのか。じゃなくて! あ、あ、ズルい、ズルいズルい! な、なんでそんなことを知っているんだ! おれは教えたことないぞ!
お前か……! お前のせいか! か、彼女はもっと純真無垢で、あ、あ、あ、離れろ、彼女から離れろ、あ。
彼は繰り返した。夢を見ては飛び起き、いや、妻に殴り起こされてはまた夜、夢を見た。
時にはボクシングの試合。ボコボコに殴り倒された彼の目の前で二人はセックスを始めた。
またある時は武士の世。呆気なく切り殺された彼の目の前にてやはり……と負け続き。
時には奮起し首を締め上げ、さあ、あともう少しというところで相手の男はニヤッと笑い、目覚め。彼は夢の世界から引き上げられる。
真夜中、息も絶え絶えになりつつ、クソッ! と握った拳をベッドに向かって叩きつければ妻の尻に当たり、平謝り。
ふんと鼻を鳴らし、また鼾をかいて眠る妻。もう少しでやれたんだ俺にだって……と彼は暴力的な衝動を引きずりつつ、妻の首に目を向けるも、そのセイウチのような首を絞めて殺すには狂気と指の長さが足りない。
ゆえに彼は大人しく、また眠りにつく。そして繰り返す、繰り返す。大人しく、大人しく。
そしてある日、彼が外回りをしているときの事であった。
「あ、あ、あの、あの女、あの女、彼女だぁ……」
目を見開き、そう呟くと同時に彼は駆けだしていた。寝不足からくる体の疲れはどこかへ吹き飛んでいた。
凛とした顔。額に手をかざし、陽射しを遮り長い黒髪を靡かせ堂々と歩く女。そこは彼がいる場所から道路を挟んだ向こう側の道。
か、彼女は妄想と夢の世界から越え、この現実に確かに現れたのだ! おれの、おれのために! ああ、彼女だぁ。彼女、彼女彼女彼女……。
彼の思考はそれ一色に。そして彼もまた、一線を飛び越えた。もし、ここに橋が架かっていたら結果は違っていたかもしれない。
待ってくれ、おれだ。おれなんだよ。頼む。待ってくれ、行かないでくれ。君だ。あの日見た君が、待って、ま――
ガードレールを飛び越えた彼はあっさりと車に轢かれた。不思議と痛みはなく、それが歩み寄る死を予期させていたが、彼のうちに込み上げてきたのは後悔ではなく喜び。その理由。
……ああ、彼女だ。彼女が駆け寄ってきてくれた! 会いたかった、会い、あ――
……が、その喜びはすぐに消えた。彼女のその隣、彼女と同じく彼のそばに寄ってきた男。どうやら彼女と知り合いのようなのだ。
あの男か? と彼は思うが顔は似ていない。しかし笑みを浮かべ彼を見下ろしていた。あの勝ち誇ったような笑みを。
「私、アナウ――望です! だから――せてください!」
「知るか――いから離れて! ただの――団員だろ!」
彼女たちは何か話しているが、彼の意識は遠のき理解することはできなかった。
『えー、各地で猛暑が続いていますが、気象情報をお伝えする際に使用するですねぇ、街の様子を撮影していたカメラクルーの前で男性が車に撥ねられる事故が起きました。
現場となったのは横断歩道からかなり離れた位置で歩道橋もなく、普段から横断が不便だという街の声もあり、まずそちらのインタビュー映像をどうぞ――』