婚約破棄されたので、極上の男を捕まえて見返してやります!(おや!? 弟の様子が……!)
「おまえは所詮、伯爵の養女だろう? 本物の貴族でもないくせに、俺に偉そうに言うんじゃない」
「それは……」
「……もういい。リネア、おまえとは婚約破棄だ!」
私の知らない女性の肩を抱いてそう言う男――婚約者を前に、私は何も言えなかった。
私――リネア・ハルネスは、幼い頃から母親と二人暮らしだった。
父親がどんな人なのかは、知らない。聞いたことはあるけれど、「知らなくてもいいのよ」と悲しそうな横顔の母に言われてからは、二度と尋ねないようにしていた。
そんな母は、娘である私から見てもとても魅力的な人だった。
飛び抜けて美しい、というわけではないけれど、いつも笑顔で人当たりがよく、伯爵邸の掃除メイドとして採用されてからも毎日元気に仕事に行っていた。
そんな母は、私が十五歳のときに再婚することになった。
相手は、母が働いている屋敷の主――ルーベンソン伯爵だった。
伯爵には、奥方がいない。昔はいたけれどあまり使用人たちからの評判がいい人ではなくて、ずっと前に夫と息子を残して若い男と一緒に出て行ってしまったそうだ。しかも、大量の借金を置き土産に。
それからやや女性不信になった伯爵だけれど、母の明るさに触れて心が穏やかになり、やがて似たような境遇の母に恋をした。伯爵からのアプローチを母の方が遠慮し続けていたそうだけれど、ついに根負けしたそうだ。
伯爵とは、何度か会ったことがある。母より少し若い三十代後半の彼は母にぞっこんで、娘である私への関心はほどほど、といったところだった。
娘を持つ母親と再婚する男の中には、娘の方を狙う者もいる……と聞いていたから、それほどまで私自身に関心を持たれなくてよかったし、ずっと苦労してきた母がこれで幸せになれるのなら、と私も結婚を後押しした。
そうして、再婚が決まった。
母は伯爵夫人に、そしてそのおまけで私も伯爵令嬢になる。
母と伯爵が屋敷で話をしている間、私は立派な庭園を一人で散策していた。使用人たちも私たち母娘を全面的に歓迎してくれるようで、「お嬢様が来てくださって嬉しい」「ヴィオラの娘ならきっと、素敵なお嬢さんだと思っていました」と言っていた。
ただの平民だった私が、伯爵令嬢になる。なんだか不安だけれど、せめて母や伯爵の邪魔にならないように頑張りたい。
そう思いながら花を見ていたら、背後でかさりと音がした。
「……君は」
「えっ?」
かすれた声に振り返ると、庭園の入り口に一人の少年が立っていた。
風を受けてかすかにそよぐ髪は、鮮やかな金色。見開かれた目は赤茶色で、ちょっと強気な印象がある。私と同じくらいの年齢の、きれいな顔立ちの男の子だった。
彼が着ている服は、使用人階級の子どもたちのそれとは全く仕立てが異なる。だから私は、彼が何者なのかのだいたいの予想が付いた。
だから伯爵から贈られた新品のドレスのスカートをつまんで、ぎこちないながらにお辞儀をした。
「初めまして。私、ヴィオラ・ハルネスの娘のリネア・ハルネスと申します」
「……」
男の子は、少し驚いたように目を丸くした。そして、「ああ」と声変わり前の涼やかな声で相づちを打つ。
「君が、父上のおっしゃっていた……」
「……そこにいたか、クラース」
男の子と被せるように、男性の声がした。
母を伴ってこちらにやってくるのは、ルーベンソン伯爵。二人の手は、しっかりと握られている。
「……なんだ、もうリネア嬢と顔合わせをしていたのか」
「……」
「リネア嬢、そこにいるのが私の息子のクラースだ。リネア嬢より一つ年下の十四歳だから、君の弟になる」
「弟……」
男の子の正体の予想は付いていたけれど、「弟」という言葉で改めて――この、目の前にいる美しい少年が伯爵の実子のクラース・ルーベンソンで、私は彼と血のつながりのない書類上の姉になるのだと、実感させられた。
男の子――クラースは、じっと私を見ている。正直、あまり友好的な眼差しには思えないけれど、それも仕方がないだろうと割り切るしかない。
彼にとって、私や母は赤の他人。いきなり養母と敬え、姉と思え、と言われても難しいに決まっている。
「よろしくお願いします、クラース様」
「……クラース、でいい。こちらこそよろしく、姉さん」
私の方から進んで挨拶をすると、クラースはぶっきらぼうに言った。
すかさず伯爵が、「せめて『姉上』にしなさい」と言ったけれど、私は「姉さん」と素っ気なく言われるくらいがちょうどいいと思った。
母が再婚して、私はなんちゃって伯爵令嬢になった。
ルーベンソン伯爵家の跡取りは、弟のクラースに決まっている。じゃあ私はというと、伯爵家がより力を付けるための便利な駒――つまるところ政略結婚の材料になる。もし私が男の子だったら伯爵も母との再婚をためらっただろうから、自分が女でよかったと思えた。
ただ、私の養父になった伯爵は娘の政略結婚にはそれほど頓着しないどころか、「不幸になるような結婚をしてはならない」と言っている。ご自分が前妻とうまくいかなかったから余計に、そう思われるのかもしれない。
でも、養父に愛される母はともかく、そのおまけである私まで引き取ってくれたのだから、相応の働きはしたいと思っていた。
だから伯爵令嬢として恥のない振る舞いができるように、家庭教師からいろいろなことを教わったし……そこに、意外なことにクラースも関わってきた。
「姉さんがみっともないことをしたら、僕も困るんだ。だから、きちんと勉強をしてもらうよ」
そう辛辣なことを言いつつも、クラースは物覚えが悪い私に辛抱強く勉強を教えてくれたし、パーティーなどでまごついているとすぐにフォローしてくれたりした。
「クラース、さっきはごめんなさい。私、うまくおしゃべりができなくて……」
ある日のガーデンパーティーで、私が来客の貴婦人からの問いかけにうまく答えられず口ごもっていたら、どこからともなくクラースがやってきて助け船を出してくれた。
パーティーの後でそのお礼を言うと、彼はふんっと鼻を鳴らした。
「何度も言うように、姉さんが失敗をしたら僕にまで被害が及ぶから、やっているだけだ」
「うう……」
「……でもまあ、姉さんがうちに来てまだ一年も経たないんだから、できないことがあるのも当然だ。ただいつまでも僕が側にいられるわけじゃないんだから、もっとしっかりしてよ」
「……う、うん。ありがとう。私、頑張るね……!」
クラースのフォローと叱咤激励を受けて私が拳を固めると、彼は「……そういう振る舞い、人前ではしないでよ」と言いつつも、その口元はほころんでいた。
クラースは十五歳になると、王都の士官学校に通うようになった。王国の貴族男子は義務として、十五歳から十八歳まで士官学校で修学する必要があった。
士官学校には寄宿舎もあったけれど、クラースは実家通いを選択した。「僕が見ていないと、姉さんが何をするか分からないからね」と憎まれ口を叩くけれど、そんな彼を見て母は「クラースは、リネアのことが好きなのね」とのほほんと笑っていた。
頼りなくて物覚えが悪い私にぐちぐち文句を言いつつも、クラースは私の面倒を見てくれた。彼にだってやることはたくさんあるだろうに、「姉さんの指導をするのも、僕の仕事だからね」と言って勉強を教え、たまにはお土産を買ってきてくれたりもした。
弟はツンツンしつつも優しくて、母は養父と仲睦まじく過ごしている。
そんな、穏やかな伯爵令嬢生活を過ごすこと、約二年。
私は、婚約をした。
相手は、ランデル伯爵家の嫡男であるダーグ。ランデル伯爵家はルーベンソン伯爵家の遠縁にあたり、養父とランデル伯爵は士官学校時代の同級生だという。
ダーグは、上品で優しい男性だった。私より二つ年上の博識な人で、デートのたびにあちこちに連れて行ってたくさんの話をしてくれた。
きっとこの人となら、幸せになれる。私は伯爵令嬢としての務めを果たせる――そう思っていたのに。
「姉さん! どういうことなんだ!」
バン、と応接間のドアを開けて入室してきたのは、弟のクラース。
現在私は十九歳で、クラースは士官学校最上級生の十八歳。出会った頃はまだ可愛らしい面影のあった彼はここ数年ですっかり大人の男性の顔になり、声も低くなっている。
「……あ、あら。おかえりなさい、クラース。早いのね――」
「僕のことはどうでもいい! 姉さんが、婚約破棄を言い渡されたって……」
「……ええ、そうなの」
私はかっかと怒る弟をなだめてソファに座らせ、テーブルに置いていた書類を見せた。
「これ、さっきランデル伯爵家から届いたの。……ダーグは、傍系王族の令嬢との恋に落ちたらしくて。だから、私との婚約を破棄する、と」
「……なんだそれ。ふざけているのか!?」
書類を読み上げるクラースは今にもそれを破かんばかりだったので没収して、私は微笑んだ。
「相手が王家の血を継ぐ女性だから、お養父様も強く言えなかったみたい。……婚約破棄は、受理される予定よ」
「……」
「……私では、だめだったみたいね」
ぽつんとつぶやくと、拳を固めていたクラースがゆっくりと顔を上げた。
「ダーグにね、言われたの。おまえは本物の貴族ではないのだから、偉そうなことを言うな、って」
「……何だって?」
「でも、本当だもの。私はお母様のおまけで伯爵家に身を寄せられただけの、元平民。私の体には、高貴な血は一滴も流れていない。……私に、価値はなかったのね」
「違う! 姉さんの価値は、そんなことでは決まらない!」
「ありがとう、クラース。でも、もうどうしようもないの。ただ……そうね」
クラースが帰宅する前、養父や母と話しているときは絶対に口にするまいと思っていた言葉が、するりと出てくる。
「……婚約破棄されて悲しいというより、私が伯爵令嬢としての務めを果たせなかったことの方が、辛いわね」
「……務め?」
「おまえは本物の貴族じゃない、と言われて……ああ、私はお養父様の娘として失格だったんだ、私は、役に、立てなかったんだと、思って……それが、申し訳なくて……」
私はこの四年間、満ち足りた生活を送らせてもらえた。でもそれは、「ルーベンソン伯爵令嬢」としての責務があるからこそ与えられたものだと私は解釈している。
政略結婚をして伯爵家のために貢献できれば、私が母のおまけとしてここに来た意味があるはず。そう思ってきたからこそ、「本物の貴族ではない」の言葉が何よりも胸に突き刺さった。
私の弱音を聞いたクラースはさっと顔色を変え、ソファから立ち上がった。そして私の前に跪くと、膝の上で固めていた拳をぎゅっと握ってきた。
「……違う。僕も父上も、姉さんにそんなことを強いているわけじゃない!」
「……ありがとう。そう言ってくれると、ちょっとだけ気が楽になるわ」
「姉さん。……僕は、姉さんの努力を知っている。物覚えが悪くてうっかりやで頼りない姉さんだけど……誰よりも頑張っていることを知っているし、そんな姉さんのよさをあんな糞野郎よりよっぽど多く知っている」
糞野郎、とはダーグのことを示すようだ。
糞野郎……そうか。あの人は、糞野郎なのね。
「だ、だから、その……姉さんが次の婚約に向けて頑張るっていうのなら僕も協力するし、もし辛いというのなら、その、僕がずっと面倒を見て――」
「……クラース!」
「な、何?」
いきなり私が大声を上げたからか、クラースはぎょっとしたように身を引いた。
……さっきの、クラースの「糞野郎」という発言で、私の中の何かがぷつんと切れた。
「……私、やりたいことがあるの」
「やりたいこと? ……ああ、さてはあの糞野郎への復讐とか?」
「察しがいいわね。その通りよ」
私が微笑むと、クラースも唇に笑みをかたどった。ただしその微笑みからはどことなく、昏いものを感じる。
「……いいよ、協力する。あいつをどうしてやる? 姉さんが望むのなら、もいでやってもいいよ」
何やら物騒な発言をするし、ダーグのどこをもぐのか気になるけれど、それは置いておいて。
「私、思うの。私のことを捨てたダーグへの一番の復讐は――同じことをしてやることだって」
「……同じこと?」
「そう、つまり……ダーグなんて目ではないくらいの極上の男性を捕まえればいいのよ!」
後で振り返ってみて……このときの私は、かなり気分がハイになっていたと思う。
人間、感情が高まりすぎると頭のネジが外れてしまうものなのだろう。
「ダーグより格好よくて、背が高くて、お金持ちで、優しくて、頭がよくて、地位のある人を捕まえて、見返してやるのよ! あなたに捨てられたおかげで、私はこーんなに素敵な人と巡り会うことができました! ってね」
「……」
「……。……え、ええと。やっぱり、難しいかしら……?」
クラースの冷めた眼差しを受けてかなり頭が冷えたため、おずおずと問う。
クラースはため息をついてから私の手を放し、艶やかな金髪をかきむしった。
「……姉さんって、地頭は悪くないはずなのにたまにとんでもなく馬鹿っぽい発言をするよね」
「うっ……ば、馬鹿な姉でごめんなさい……」
「別にいいよ、僕は姉さんのこと分かってるし。……つまり姉さんは、あの糞野郎より何もかも優れている男性だったら誰でもいいんだよね?」
「え、ええと……誰でも、というほどではないけれど……でもまあ、そんなに素敵な人が私みたいな『本物の貴族でもない』女を見初めるわけないものね。だいたい、そういう人がいたとしても既に相手がいるに決まっているし……あ、あはは」
「……」
「……あ、あの。今の発言は、ちょっと忘れていいからね? でも、こうして話をしているとかなり気持ちが落ち着いてきたわ。ありがとう、クラース」
「……気にしないで」
クラースは言葉少なに応じると立ち上がり、ドアの方に向かった。
「……あ、あの。学校に戻るの?」
「うん。ちょっと、やるべきことが増えたから」
「……。……もいだりしないでね?」
「分かっているよ。……もっといい方法を考えついたからね」
念のために忠告しておくと、一応聞き入れてくれたようだけど……「もっといい方法」とは、何だろう?
ダーグに婚約破棄された私を、養父も母も気遣ってくれた。
さすがに今すぐに新しい婚約者捜しをするつもりにはなれないので、しばらく伯爵領にある休養地でゆっくりさせてもらうことにした。私が屋敷にいれば両親も気掛かりになるだろうから、今はちょっと距離を置いた方がいいと思った。
クラースとも距離ができたけれど、彼は「姉さんはゆっくりしていてよ。僕も、やることがあるし」と言って送り出してくれた。
……思えば私はこの四年間、クラースをずっと振り回してきた。
彼だってやりたいことはあるだろうし……あんなに見目麗しい子なのだから、恋愛だってしたいはず。それなのにこれまでずっとそれらしい存在が見られなかったのは間違いなく、手の掛かる姉のせいだ。
今はゆっくり心と体を休めて、それから……もう一度、現実を見つめるために王都に戻ろう。
そう思っていた。
私が王都にある伯爵邸に戻ったのは、婚約破棄されて半年後のことだった。
本当はもっと早く帰る予定だったけれど、伯爵領でお祭りなどがあり、いつもなら養父や母が出向くそれに私が伯爵家代表として参加したりした。その他にも伯爵令嬢としてできることをやろうとした結果、予想以上に長く伯爵領に居座ることになってしまった。
でも領での仕事に精を出したり、「お嬢様のおかげです」「ありがとうございます、リネア様」と皆に言ってもらったりしたおかげか、私は半年前よりずっと健康になって戻ることができ、養父と母にも元気になった姿を見せることができた。
「リネアが元気そうで、何よりだ。……もう心も落ち着いたか?」
「はい。ご迷惑をお掛けしました、お養父様」
「気にしなくていい。……そういえば、最近リネアはクラースと連絡を取り合っているのか?」
弟の名前が出てきたので、私は首を横に振った。
「いえ、彼も多忙なようなので、あえて私の方から連絡を取ることはしませんでした」
「そうだよな。……実はここ最近、クラースの様子がおかしくて」
「えっ」
クラースの様子が、おかしい?
養父に続き、母も小首をかしげる。
「そうなの。ああ、でも、体調が悪いとかということではないのよ。ただあの子、あなたがいなくなってから寄宿舎で暮らすようになって……屋敷に帰ってくるたびに、見た目が変わっている感じなの」
「……はい?」
クラースが寄宿舎で暮らしているというのは、まあ、分かる。これまでは手の掛かる姉がいたけれどその面倒を見る必要がなくなったから、寄宿舎生活になったということだろう。
でも、「屋敷に帰ってくるたびに、見た目が変わっている」とは、どういうこと? それって本当に、あのクラースなの? 途中で人間が入れ替わっていない?
養父も「確かにそんな感じだな……」とつぶやいてから、「あいつなら今日帰ってくる予定だから、様子を見てやってくれ」と言った。望むところだ。
そうして休養地から持って帰った衣類や道具などを屋敷に運んだりしていると、夕方になった。
「リネア様、クラース様がお帰りです」
「ありがとう。……出迎えた方がいいかしら」
「いえ、その必要はなさそうで……あっ」
メイドが小さな声を上げた直後、私の部屋のドアがコンコンコンコン! とけたたましくノックされた。
「姉さん、そこにいるのか?」
「あっ、クラースね。ええ、いるわ。どうぞ」
「失礼する」
何事かと思ったらクラースの声がしたから、ほっとして入室を促した、けれど――
「……。……クラース?」
「そうだよ。半年ぶりだね、姉さん。元気そうで何よりだ」
ドアの前に、金髪の青年が立っている。それは間違いなく私の弟のクラース、だけれど……。
別れる前はもうちょっと細かったはずの体はかなりがっしりしているし、背も伸びている。着ているのは士官学校の制服ではなくて、純白の布地が目にまぶしい正装だ。手には、チューリップやかすみ草などの愛らしい花をまとめたブーケが握られている。
しばらく見ない間にやけに美々しく成長した弟を前にぽかんとしていると、以前は下ろしていた前髪をきっちり上げているクラースは微笑み、部屋に足を踏み入れてきた。
「……姉さんのその顔からして、今の僕の見目はたいそう気に入ってもらえたようだな」
「……えっ? え、ま、まあ、そうね。しばらく見ない間に……なんというか、化けた?」
「もうちょっと別の言い方をしてほしいけれど……まあいいや」
クラースは私の前まで来ると、花束を差し出してきた。
「おかえり、姉さん。……この半年間、ずっと会いたいと思っていたよ」
「えっ、そ、そうなのね……そ、その、ありがとう……?」
すっかり麗しく成長した弟を前にどぎまぎしていたけれど、ブーケを差し出しながら告げられた言葉にほっとした。
やけに仰々しい格好をしていてびっくりしたけれど、つまりこれは療養から帰ってきた姉を迎えるためにおめかしをしてくれたということなのね。
そういうことなら、と思ってブーケを受け取る。チューリップにしてもかすみ草にしても、私が好きな花ばかりだ。実は薔薇や百合のような豪華な花があまり好きではないことを、クラースはちゃんと覚えてくれていたようだ。
「……そ、その。お養父様たちからも聞いていたけれど……なんというか、クラース、雰囲気が変わったのね……?」
「ああ。この半年間で、できることは何でもやった。身長は十センチ近く伸びたし、筋肉も付いた。士官学校では首席になったし、この前の剣術大会では優勝して騎士団からのスカウトも受けている。あと、新しい事業も始めてその軌道がいい感じに乗っているから、もうすぐかなりの資金が入ってくる予定だ」
「……ん?」
最初のうちは、へー、うちの弟すごい、と純粋に感心していたけれど、だんだんインパクトが強くなってきた。
半年で身長が十センチ伸びるのもとんでもないことだけど……事業?
「え、ええと……とても頑張ったのね! すごいわ!」
「だろう? これくらいあれば、あの糞野郎なんて足下にも及ばないだろう。……まあ、あいつは新しい婚約者との仲がうまくいかなくて、喧嘩ばかりしているらしいけれど」
「……ええと。それは、ダーグのこと?」
「そうだけど、もう二度とそいつの名前を口にしなくていいからね。姉さんが呼ぶ価値もないような、腐れ野郎だから」
クラースはどこか鬼気迫る様子でそう言ってから、一つ咳払いをした。
「……ということで、僕はあらゆる点であの糞野郎に勝っている。それは、姉さんも分かってくれたね?」
「え、ええ」
「それじゃあ……」
クラースはどこか緊張した面持ちでその場に跪き、胸に手を当てて私を見上げてきた。
「……リネア・ルーベンソン伯爵令嬢。どうか、僕と結婚してくれませんか?」
「……。…………………………え?」
……どういうこと?
ここから、クラースのターンが始まった。
「好きだ。ずっと、姉さん……いや、リネアのことが好きだったんだ。僕はあなたの好みに合う男になれたはずだから、結婚してほしい」
「いや、あの……えっ? ずっと好き?」
「四年前、庭で初めて出会った瞬間、僕は恋に落ちた。そして直後に、あなたが姉になる人だと知った。……ものの数秒で砕け散った初恋を、やっと叶えることができる。この機を逃すわけにはいかない」
「は、初恋!? ……あ、あのね、クラース。私たちは書類上とはいえ姉弟だから、結婚はできないと思うの」
「問題ない。僕とリネアに血のつながりがない以上、法律の穴を突けば可能だ」
「……で、でも、その……」
「僕はどこかの糞野郎と違って、ずっとあなた一筋だ。絶対に浮気なんてしないし、もししたとしたら僕を八つ裂きにしてくれたってもいでくれたって、構わない」
この弟は私を何だと思っているのだ。妖怪もぎたがり女か。
……いやいや、落ち着け、私!
「……あ、あのね。あなたの方はどうやら私のことをずっとす、好きだったようだけど……私はこの四年間、あなたのことを弟と思っていたの」
「分かっている。でも、たかが四年だ。これからはあなたが僕を弟ではなくて一人の男として見られるように、一層努力する。なんなら、あの手この手を使ってより強大な権力を手に入れよう。リネアのためなら、何だってできるよ」
それはさすがに闇を感じて怖いわ。
「僕はリネアが望む、極上の男になるべく努力してきた。……あなたが本物の貴族令嬢かどうかとか、伯爵家の責務とかなんて、関係ない。僕は、リネアという一人の女性が好きで、そんなあなたを求めているんだ」
「あ……」
それは、かつて私がこぼした弱音。
ダーグに捨てられた私では、伯爵令嬢としての責務を果たせない。それが何よりも辛いのだ……と、クラースにだけ打ち明けたのだった。
クラースは、そのこともちゃんと覚えてくれていたんだ……。
「……で、でも、私はあなたも知っての通り、頼りない物分かりの悪い姉よ」
「僕と結婚すれば、全て丸く収まる」
「そうかもしれないけれど……それに、お養父様やお母様になんと説明するつもりなの?」
「どうにでもなる。あの二人だって愛を貫いたのだから、僕にだってその権利はあるはずだ」
つまり、もし反対されたのなら両親が貴賤再婚をしたことを盾にして脅すつもりなのか……この子、怖い……。
ここまではすごい勢いだったクラースだけど、少しだけまなじりを下げた。
「……弟だと思っていた男にこんなことを言われても気持ち悪い、生理的に無理、ということなら引くよ。僕だって、あなたを苦しませたいわけじゃないから」
「……」
「ただ。……少しでも、僕に男としての魅力を感じてくれるのなら、僕の求婚を受けることについて前向きに考えてほしい。僕はあなたの幸せのためなら、何でもする。……そのことだけは、覚えておいて」
切実なクラースの言葉に、ひとつ、私の胸が高鳴る。
クラースと結婚することは、法律では禁じられていない。そして彼は誰よりも私のことを理解していて、私の幸せのことを考えてくれる。私と初めて出会った四年前からずっと、私だけを想ってくれている。
そんなクラースのことを、私は――
「……あのね、クラース」
「うん」
「今はやっぱりまだ、あなたのことは弟という認識が強い。だから、求婚のこととか、考えるのは難しい」
クラースは、さもありなんとばかりにうなずく。
そんな真摯な眼差しを前に、私はぎゅっと自分の手を握りしめた。
「でも、その……あなたの気持ち自体は嬉しいし、あなたのことを誇らしい弟だと思っている。だ、だから……もうちょっと、時間がほしいのだけれど」
「……うん、もちろんだよ。僕に強要されて嫌々うなずくのではなくて、あなたが笑顔で僕の申し出を受けてくれるようになるまで、いくらでも待つ。そして、その末にあなたが出した答えが『否』だったとしても、それを受け止めることも約束するよ」
クラースがそう言うので、つい苦笑してしまう。
「そこはもうちょっと、強欲になってもいいものなのに」
「いや、僕にとってはあなたの気持ちが一番なんだ。……あなたが自分で選び取った未来に僕がいることを何よりも願っているけれど、あなたが自分で選んだものなら僕は――弟として、その選択を肯定するからね」
……ああ。本当にこの人は、よくできた弟だ。
クラースは微笑んで、ゆっくりと立ち上がった。
「……四年前のあの日は正直、こんなに素敵な女性と結ばれる未来を潰した父上のことを恨んだりもした。でも、今では父上と養母上に感謝したいよ。あなたが僕を選んでくれたら僕はあなたの夫として、選ばれなくても弟として、これからも近くにいられるのだからね」
「……そ、そうなったらまたあなたは私を『姉さん』と呼ぶのかしら?」
「そうだね。……あの頃の僕は、あなたのことを好きになってはならない、という自戒のような気持ちであなたを『姉さん』と呼ぶことにしたんだ。本当は、リネアってずっと呼びたかったけれど」
クラースの微笑みに、つい胸の奥がくすぐったくなってしまう。
でも……まだ。
まだもう少しだけ、待ってほしい。
「……ありがとう、クラース」
私の気持ちをどこまでも肯定してくれる優しい弟に、私は心からのお礼を言った。
結論として。
クラースから求婚された約二年後、私は彼の姉を辞めた。
彼は法律の穴云々と言っていたけれど、一旦私を伯爵家の籍から抜いて知人の養女にし、そこの令嬢として改めて求婚することで姉弟問題を解決させた。
最初に話を聞いたときは驚いていた養父と母だけど、クラースが脅すまでもなく「やはり我々は、親子なんだな」「好きになる異性のタイプも似ているのね」と苦笑いしつつも受け入れてくれた。ちなみに養父はともかく母の方は、クラースが私に向ける想いについて、なんとなく察していたという。
私の名前は、リネア・ルーベンソンのままだ。
でもしばらくして養父が引退して母と一緒に田舎で暮らすようになってからは、私の身分は伯爵夫人になった。
あの日、庭園で初めて出会ったその瞬間に私に恋してくれたという弟は、生涯を掛けて私に惜しみのない愛情を注いでくれる最高の旦那様になった。
「僕、あなたの望む極上の男になれたよね?」というのが、夫の口癖だったのは言うまでもない。
「そういえば、あの糞野郎はどうなったの?」
「結局相手の女とは別れたらしい。……あっ。あいつは僕の遠い親戚なんだし、結婚式に呼ぶ? おまえが捨てた女性はこんな極上の男を惚れ込ませたんだぞ、って自慢してやろう」
「……言うわねぇ」