下
拾伍
新月から上弦を経て満月に、そして下弦を過ぎまた新月に月の歴が一回りした。
若紫の身請けの噂話はもはや遊郭内では公然と言わるようになり、誰一人噂を聞く者はその信憑性を疑っていなかった。彼女の姉様である夕霧も身請けをして今は隠居の身なったが、檀那とは上手くやっているらしく仕合せであると云う噂が絶え間なく流れてきている。そういった背景が噂の信憑性を高めるのに一役買っていた。
また、身請けの檀那が誰であるか、色々名が挙がったものの、誰一人として確実な情報を持っている者はいなかった。それがまた噂に拍車を掛けた。つまり、賭け事としての娯楽を提供したのだった。ただ本命の北の檀那が最有力候補であり掛け率、配当は高く望めそうにもなかった。
こうなると、春の耳にも自分の身請けの噂が入る事になる。檀那衆の一人が若紫に身請けの事実を確認したのだ。若紫は、
「そないな話、いま聞きましてよ」
と肩をすくめたのだった。
その檀那は若紫の態度や表情があまりにも自然に嘘偽りがなかったので、彼女の言葉を信じたのだった。無論、彼の希望的な感情があった事は否めないが……。
一方、春は自分には全くそんな話などおかあさん(*)から聞かせれていないことから、本人を抜きにして、そんな話が進むとは思っていなかったのだ。遊郭で檀那衆相手を手玉にとる手管には文句なしの実力を持っていても、そこは籠の中の鳥。騙し騙され、押して引いて、口八丁手八丁の商人魂から見れば、春は子供でしかなかったのだった。
春は自身の噂は、誰かの身請け話がどこかで自分に入れ替わったのだと思い、騒ぎに揺れる遊郭内の噂を煙管を吹かしながら高みの見物を決め込んでいた。
辰はこのひと月、またも自分の能力を超えるような仕事をこなし、忙しさに身を任せいた。「心を忘れる」と書いて「忙」と成す。いま彼は心をなくし、機械仕掛けの人形になって働いていた。若紫を忘れる為であった。いっかいの番頭と遊郭の太夫を継いでもおかしくない遊女、身分違いも甚だしいにも程がある。実るはずのない恋であるのは、火を見るよりも明らかだった。それを今生々しい現実となって辰の肩、いや全身に圧し掛かったのであった。
それでも、一目、若紫を見たかった。それは未練以外何ものでもない。未練がましく、みっとないと気持ちより最後に一目でも彼女の姿をこの瞳に焼き付けておきたかったのだ。
籬を覗き込む。若紫はいなかった。窓に並ぶような遊女ではないのだから当然ではあったが、代わりに珠緒がそこに居た。
「辰さん」
と声を掛けた。
辰が珠緒の声に反応した。そして振り返った彼の顔を見た珠緒は呆然としたのだった。辰の顔は今にも泣きそうであり、これ以上悲愴な表情があるのかと思わせるものだったからだ。珠緒は下唇を軽く噛んだ後、もう一度、彼が生きていることを確認するようにその名を呼んだ。
「辰さん、辰さん」
と呼び掛けて、辰はやっと自分が呼ばれていることを自覚した。
「珠緒はん、今日は……」
「辰さん、おいでやす。妾にええ話がありよ」
「………」
『若紫はんの話』
珠緒は辰だけに解るように声を出さず、大きく口を動かした。
辰は彼女の口許が若紫と動くのにつられるように珠緒の許に足を動かした。その時の珠緒は辰の憔悴しきった表情に心を動かされたのだった。この人を助けてあげたい、という同情心と女性特有の母性心が入混じった複雑で単純な心持ちであった。つまり、先日の押した引いたの言葉遊びでなく心からこの男の手助けをしたいと思ったのだ。
珠緒の部屋に二人が入ると、彼女は第一声、
「妾が若紫に話つけてたるさかい、ちょいと数日待っとき」
そう言い終わるや辰に身体を預けるのだった。
拾陸
「姉さん、お館様が呼んでます」
おまつが春に正座をしながら深く頭を下げる。
「何用かい?」
春がおまつに問いただすと、
「へぇ、ただ呼んで来いと言われただけ……」
とおまつが応えた。その応えを聞いた春は、虫の知らせなのか、何か嫌な予感がした。おまつに要件が云えぬ何かであることは間違いない。ただ春はそれが何か全思いつかなかった。
「春です」
「入れ」
お館様の部屋の襖を音もたてず静かに春が開け、頭を下げながら部屋に入る。
「お春、お主に身請け話がある。ここでの暮らしももう仕舞いや」
お館は春の姿を見るや否そう言葉を投げかけた。
「身請けどすか……」
春は身請けと言われてもどこか他人事のように思えた。きょとんとした顔をしている春に、お館はさらに言葉を続けた。
「何や、お春。嬉しくあらへんのか?」
「へぇ」
春は何とも煮え切れない言葉で濁した。お館はそんな春に頓着することなく話をする。
「身請けする檀那が誰か判るか?」
お館は春の顔を覗き込む。
「北の檀那どすか?」
春がそう答えるのは当然であった。春の水揚げの檀那であり、商売も先代から引き継ぎ、それだけでなく先代から商売の才も引き継ぎ、申し分ない財力があり、粋にも通じた檀那、そしてたいした色(*)でもあった。
「ちゃうな」
「誰どす?」
お館は左の口角を上げ、意地悪そうな笑みを浮かべ、
「堺の納屋衆の檀那や」
得意そうに言い放つ。そこには大金をせしめたという貪欲で、相手を軽んじる蔑視な含みがあった。春はお館の言い方に生理的な嫌悪を感じた。それを出すまいとしたが、その感情が言葉に漏れる。
「あの御仁どすか……」
「何や、不満か? 銭も器量も文句ねぇ、御仁やぞ。身請けはここじゃ、これほどの仕合せはねぇぞ」
春はお館の言い分も理解できる。色町の籠(*)から抜けて自由になる最も確実な方法である。ここで女性特有の打算が働いたなら、この話を受けることに躊躇はないだろう。だが、春は遊女として男衆を転がす事に長けていても、その実は恋を知らぬ処女と変わりない。その卓越した色香に多くの男衆は彼女の本質を見誤るのである。お館もその例外ではなかった。
「まっ、こんなええ話はあらへん。後は俺に任せとき。あんばいしといたるさかい、大船に乗ったつもりでおったらええ」
春は小さく頷いたが、心はここにはなかった。
その日は朝から雨が降り一向に止む様子はない。雨の日はやや客足が落ちる。男衆の財布の紐も湿りがちになるのだろう。
春はこの日、馬を履く(*)日だった。つまり客を取らない日である。意外かも知れないが、生理中は客を取らなくても好いのである。ただ売り上げがない日でもあり、しっかり食費など給金から引かれることになる。銭にがめついお館衆にとっては当然の事だった。それが嫌で生理中でも客を取る遊女がいるにはいるが、余程お金に困っていない限り休みを取るのが一般的だった。
「姉さん?」
おまつが心配そうに春に声を掛ける。春がどこか心あらずで惚けていたからだった。いつも気を張って、女子衆の前では隙を見せないのが春の日常だったからだ。当然、おまつの前でも春の態度は変わる事はない。
「姉さん?」
おまつの二度目の掛け声で春は自分が呼ばれていることに気付いた。
「何?」
「姉さん、しんどいやったら、灸しはりますか?」
「灸、そないなのええわ(*)」
春はぷいと嫌そうに顔をそむけた。
「そうどすか……」
おまつは春の態度を見て、触らぬ神に祟りなし、と言わんばかりにそそくさと部屋を後にした。
「気の利かん女子やこと」
春はつい憎まれ口なような独り言を吐き捨てた。そして煙管に火を点け大きく息を吐き、紫煙を燻らすのだった。湿度の高い雨の日は、紫煙の流れもどこか重く感じられ、肌に触れれば纏わりつくような感触を春にもたらした。「雨か……」そう思うと自分の体調も今一つ、心も晴れない理由が解る気がした。
(*)色…ここでの色は、美男子
(*)色町の籠…遊女は特別な理由がない限り、遊郭から出る事が許されなかった
(*)馬を履く…生理用の褌を履く事
(*)ええわ…ここでの「ええわ」は否定の意味で使用
拾漆
珠緒が春の部屋の襖の前で声を掛けた。
「おゆき(*)どす。お春はん、居てはりますか?」
「お入り」
「おおきに」
すっと音もなく襖が開き、小さく頭を下げながら珠緒が入ってきた。珠緒が顔を上げると春がじっと彼女を見つめていた。その春の瞳には「何がようがあるのだろう」と好奇心と不安の入混じったものだった。この花街の世界では互いの部屋に顔を出す事は御法度ではないが、余程親密でない限りあり得ないことであった。その心の内は競争意識と嫉妬が深く存在していたからだった。
「お春はん、あんさんに会って欲しい人がいるねんけど」
「会って欲しい人?」
春は訝しげに聞き返した。
「そうどす」
珠緒は春を見据えてそう言った。
その珠緒の表情を見た春はキッと目を吊り上げて、
「他人様の馴染みを貰う程落ちぶれてはおまへん。それとも何どすか、油虫(*)でも押し付ける気でっか?」
「違いま、お春はんに惚れた御仁どすえ。何も馴染みになれとは云いまへん。ちょいと言葉を交わしておくんまし」
深々と珠緒は頭を下げた。
「おゆきはん、あんた……」
春はそこまで言って「惚れたね?」という言葉を飲み込んだ。珠緒も一端の遊女である。誇りもある。そんな遊女にここまで頭を下げさせる色に会っても好いのではないかという感情がムクムクと湧き上がってきた。無論、好奇心もある。この主(*)を自分の色にするのは仁義に劣る行為なので、そういう気にはなれないが、会って話すぐらいなら問題はない。そう思うと心は決まった。
「あゆきはん、うちがお茶を挽いてる時(*)なら構いまへんが、そうでない時は縁がないと諦めておくんなす」
頭を深く下げたまま珠緒は少しほっとしたような声で、
「おおきに」
と応えた。それからもう一度深く頭を下げてから春の部屋を出た。
春はそんな珠緒が出た襖をじっと見ていた。理由も解らず珠緒がほっとした口調で「おおきに」と言った姿が頭から離れなかったのだ。目を閉じ、頭を振り珠緒を姿を無理やり頭の中から追いやった。その代わり、春の脳裏には辰の姿が浮かんだ。唇を噛みながら手を握り、彼との距離が永遠とも思えるくらい遥か先にある事を自覚した。そして所詮、彼とは縁のない運命なのかと思うと、ぽとりと涙が零れた。慌てて涙を拭い、誰かに見られていないかと、きょろきょろ周りを見回した。当然、ここには彼女一人しかいない。皮肉めいた笑みが自然と湧き上がってくる。
「おまつは居るかい?」
すぐにおまつの声が襖の向こうから返ってくる。
「姉さん、何か用どすか?」
「お茶を用意しておくれ」
「へい、ただいま」
その声をした襖の方向を見ると、古くなった襖の木目模様が何かとく人の瞳に見えて、何かとく不愉快だった。
「いやだわ」
そう言いながら近くにあった手拭をその襖に投げつけた。
(*)おゆき…珠緒の本名
(*)油虫…冷かしの客
(*)主…お客のこと
(*)お茶を挽いてる時…暇な時
拾撥
若紫の身請け話が噂でなくなり、現実化してきた。その身請け人が堺の納屋衆の御老(*)であることがじわじわと広がってきたのである。その噂は聞き手の驚きをもって迎えられた。当然である。誰もが身請け人は北の檀那だと思っていたからである。
そして何より、噂を現実化させたのは、若紫の態度だった。檀那衆が若紫に身請け話をすると、露骨に話を逸らすのである。否定も肯定もせずにである。しかし、その切り返しは事実上、噂の肯定を意味しているのと聞く人の耳に伝わってしまう。当然、若紫もそれが聞く人に肯定の意味に取られる事が理解できた。嘘で誤魔化す事も出来たが、それは遊女の義に劣ると考えた為、敢えて話を逸らしたのであった。
何より、今さら誤魔化すまでもないと思ったのも事実だった。だが、素直に認めるには遊女と云うより春自身の矜持が許さなかったのだった。だからと云って、身請けの話でひと時の夢を売ることを壊しはしない。
「うちは今あなた様の腕の中にいるんよ」
と若紫は少し上目遣いに檀那衆に対する問い掛けは、檀那衆のこれ以上の言葉を無粋にさせる圧力があった。その為、檀那衆は瞳でその言葉を受けるか、ただ「そうだな」と呟く位しか出来なかったのである。
しかし檀那衆は若紫の会話から彼女の身請け話が事実であると嗅ぎ取ってはいた。多くの遊女から色(*)と認められる旦那衆ではある。そこは空気を読み、若紫の顔を立て、知らぬ振りを決め込んでいたのだった。
そうした中、遊郭内の噂は颯爽と飛び交う燕のように宙を舞う。噂の燕はあっさり大門を潜り抜け、町へを翔けていった。そして、若紫の身請け話は噂でなく確かな事実へと昇華していった。
辰はこの話を丁稚仲間から聞いて、今までどこかで誤魔化していた若紫が自分と違う世界の人間で接点がないことを改めて認めたのだった。以前も似たような感情を持ったが、今度は扇屋に行っても若紫はそこにはいなくなる。若紫は心を他人に許したのだ。そう思うと、また心が苦しくなった。
自分は若紫とは違う世界にいる。理性ではそれは理解できる。しかし感情が認めようとはしない。若い男衆の恋愛に費やす情熱の熱量は他人が予想する以上の熱量を持ち、時には自身を燃やし尽すことさえある。まさに生命を燃やすのである。
他人目から見たら大人しいの代名詞となる辰であってさえも、胸の中に恋の炎を燃やす事さえ厭わなくなる。恋のほとばしる情熱は誰にも止められない。
辰は昼餉を摂ることもせず、遊郭に足を運んだ。
扇屋の前で足を止めていると、籬に珠緒が座っていた。所在なげに煙管を弄んでいたいたが、視線に気付き顔をそちらの方に向けた。
「あら、辰さん」
辰は自分の名を呼ばれ、日頃の癖で反射的に頭を下げた。そして顔を上げた時、自分の名を呼んだ人を認めた。
「珠緒はん……」
「いらはいな」
その商人のような言葉使いに、辰は思わず笑みを浮かべた。
辰は珠緒の部屋に通されたが、珠緒は、
「ちょいと辰さん、外すさかい、このまま待ってくれやす」
と言い残して、たんと襖を閉め、小走りでおまつのいる禿が侍る部屋に向かった。
「おまつ、いる?」
「はい、あっ。珠緒姉さん。何用です?」
「お春はんはいま茶を引いてのかい?」
「そうどす。姉さんに用事です?」
「そや、お春はんに妾が行くって伝え」
と珠緒はおまつに三文銭を握らした。
おまつは小さく頷いて、音を立てない小走りであっという間に階段を駆け上がった。それから一呼吸吐いたかと思うと、おまつは珠緒の許に帰ってきた。
「珠緒姉さん、姉さんが待っているそうです」
「おまつ。おおきにやで」
今度は珠緒が小さく頷いて、おまつの時とは違いゆっくりと足音を立てずに春の許に向かった。
(*)御老…ここでは、権力を持つ老人の意味で使用
(*)色…ここでは、色恋沙汰だけでく男気を備えた男性のことを指す
拾玖
「若紫はん、はいるで」
と言って珠緒はそっと襖を開けた。
「珠緒はん、もしかして前に云ってた檀那どすか?」
春は間髪入れずに本題に切り込んだ。女性特有の含みを持った言いようはあまり好きになれなかったからだった。勿論、舌戦を仕掛けられたなら受けて立つ度胸と器量は備わってはいた。
珠緒は春の問いに頷いた。
「ええで、連れてきなはれ」
「おおきに、恩に着るわ」
珠緒は後ずさりしながら静かに襖を閉めた。それからトントンと嬉しそうな小さな足音を立てて自分の部屋に向かった。
「辰さん」
襖を開けると、珠緒はそう言いながら部屋に飛び込んできた。いきなり飛び込んで来た珠緒に反応出来なかった辰はただ目を丸くし、ただ彼女に言われるがまま彼女の部屋を出た。珠緒は辰の腕を絡めながら春の部屋に向かった。すぐに二人は春の部屋に着いた。それから珠緒は、
「若紫はん、連れてきたで」
「お入り」
凛とした声が返ってきた。珠緒はポンと辰の背中を軽く叩いた。
辰は珠緒の方に振り返り、分かったといった表情をして頷いた。
「お邪魔しまっせ」
襖を静かに開け、会釈しながら辰は若紫の部屋に入った。そして顔を上げた時、春は言葉を失い、ただ茫然と辰の顔を眺めた。春にとって思いがけない一撃だった。息をするのも忘れ、目を見開いて辰の顔を見詰める。
そんな春の突き刺さるような視線に辰は御贔屓さんの顔色を伺うように、
「若紫はん、どないしたんです?」
問い掛けた。
その辰の言葉で春は我に返った。もし辰が言葉を掛けなかったなら、春はじっと辰の顔を、それこそ穴が開くほど見詰めていただろう。
「おまはんが辰さんかい?」
辰は黙って首を縦に振った。
「妾を好いと?」
辰は再び黙って首を縦に振った。
「おおきに」
春は辰のその返答を見た時、心の中に言葉にし難い嬉しさが込み上げてきた。自分がいまこの男を前に居る為に生まれてきたような、そんな感慨に浸った。その為、春は次の言葉が出てこなかった。一方、辰も何を言葉にして好いか全く分からなかった。二人はただ言葉なく見詰合うだけだった。だが、二人の間には、幼い恋のような淡い華の香が漂っていた。刻がどれくらい経ったのか判らなくなった時、この甘い静寂が破れた。
「姉さん、おゆかりさんがおいでやす」
とおまつの声が小さく響いた。
辰はその声に驚いた表情をした後、蚊の鳴くような声で、
「おおきに」
と言って頭を下げながら部屋を出ていこうとした時、春は思わず辰を呼び止めた。
「辰さん」
春の言葉に辰はまるで突然神託を受けた小娘のように肩をびっくとさせ、春の方に振り返った。
春は次の言葉が続かず、餌を欲しがる鯉のように口をぱくぱくさせたが、大きく一呼吸吐き心を落ち着かせ、
「また、おいでやす」
と無意識にその言葉が出た。
その言葉を聞いて、辰は今まで緊張で強張った顔を喜びをと云う色に上書きすると、現金なもので勢い好く、
「誓いまっせ」
と大手を振って応えた。
その様子を珠緒はじっと見ていたが、一度下を向いた後、顔を上げた。その顔は憑き物が落ちたように晴れやかだったと珠緒は思いたかった。
弐拾
日和が暖かくなり、梅が咲く足音が聞こえはじめた頃、春の意志とは関係なく進んでいた身請け話は、ついに楼閣を降りる日が決まった。一ト月後、二十四節気で穀雨(*)の終わりの時となった。それまでに春はおゆかりさんに離別を済ましておかなければならない。その為に文にしたためるのである。下級の遊女ならいざ知らず、春の冠位になると文字も何なく書くことが出来、それだけでなく和歌を句を引用することさえ事もなげにこなしていくのである。そしておゆかりさんを同じ遊郭の遊女たちに引き継いでいく。同じ釜を食った仲間意識なのか、それとも単に遊郭の伝統なのか定かではない。ただ春は自分の師匠であった夕霧の真似をしただけであった。
そして、おゆかりさんにしたためた文は禿であるおまつでなく、楼閣で働く下男が文を檀那衆に届けるのである。遊郭に棲む女子衆は簡単に遊郭を出ることは出来ない。金づるである彼女たちの逃亡を防ぐ為である。
遊郭の仕来りや掟は彼女たちの手や足に絡みつき、その手足を腐らせるだけでなく、その頸さえ締め上げるのである。気が付いた時には血の一滴まで搾り取られることとなる。
春はもう一度辰に逢いたいと思ったが、遊女には待つ以外の選択肢はない。文を送るには、辰との繋がりがあるわけではない。気にせず文を送れば好いと思うかもしれないが、遊女がお得意様でもなく恋仲でもない男衆に文を送ることは滑稽なことであり、遊女の格式という品位が春に筆を止めさせたのだった。
一方、辰の方は若紫に逢った余韻もあり、その翌日は浮足立っていたが、夜には若紫が身請けする話を身近に感じははじめ、一気に気持ちは急降下となった。しっかり眼に焼付けた若紫の姿が浮世離れした存在ではなく実感の伴った存在となった為、手を伸ばせば届く女性であると辰の心に認識した結果であった。もはや辰にとって遠く眺めるだけの高嶺の花ではなく手の届く「芍薬」であり「牡丹」「百合」(*)となったのだった。それがひと時の淡い夢であったとしても。
そしてその美しき華を失う恐怖も現実味を帯びてしまったのだった。辰は再度焦燥感に襲われることになるが、何も出来ない現実が横たわっていた。だからと云って、何も手をこまねいてばかりもいられなかった。とにかく若紫に逢う事が先決である。
もう珠緒に若紫へ会う為の手引きは頼めないと思っていた。遊女間の檀那の受け渡しは、身請けするなどの遊郭を下る時以外はご法度であることは辰でも知っている事柄だった。珠緒はその危険を犯してまで辰の為に体を張ってくれたのだ。これ以上甘えることは辰にはできなかった。
そうなると辰は自力で若紫に逢う事になる。つまり若紫に逢う為にはそれ相応の金銭が必要となってしまう。蓄えとしてあるのは、数両の小判のみ。若紫に逢うのに幾ら掛かるか相場が判らない為、これでは心許ない。まず、自分の仕える問屋の店主、親方に駄賃の前借りを申し出た。大坂の商人は渋ちん(*)で世に通っている。当然、辰の親方も渋ちんであり、奉公人に気前よくお金を前借させる器量などありはしない。辰はそっけなく前借を断られたのだった。だからと云って、この程度で若紫に逢う事を辰は諦めることなど出来なかった。すぐに次の手を打つ。自分のお得意様になっている檀那衆になりふり構わず土下座して頼みこんだのだ。理由を問われた辰はただただ「お願いします」を繰り返すだけだった。辰も馬鹿ではない。遊郭に行く金欲しさだと判ればあっさり断れるだと思ったのだ。ここで嘘でも「親の為だと」と言えばまだ人の心を引くことができただろうが、そこは正直者の悲しさか、そんな嘘を吐く事など思い付きもしなかった。
檀那衆も大坂の商人の端くれ、簡単にそうですかと貸すほどお人好しはいない。番頭に何の保証もなしに金を貸すことはない。そして辰には担保となるものがない。
「辰さん、あんたとは好い商いをさせてもっらておます。だが、銭の貸し借りはそれと話しが違いまっせ。あっしの話解りますやろ、辰さん。今日はお引き取りください」
とあしらわれるだけだった。
辰は世間の全てから見捨てられたような心持ちになった。無論、事情を話せば、番頭仲間の何人からは金を借りられるだろうが、とても若紫を呼ぶだけの小判には手が届かない。彼はやるべき仕事も手につかず、まるで柳の枝が風に吹かれるように右へ左へふらふらしていた。
「辰」
と大きな声が響く。筆頭番頭の声が響いた。辰は初めてここにいることが気が付いたような顔をした。
「へい」
「どうしたんだ、辰。また、惚けているぞ」
「へい」
筆頭番頭はずかずかと辰の処に来て、頭を思い切り張った。
「辰、今日はもういい、休め。こんなんじゃ使い物にならん」
「はぁ~」
筆頭番頭にもう一発頭を張られるの辰であった。
(*)穀雨…二十四節気の第六節気、旧暦で三月以内
(*)渋ちん…どケチ
(*)「芍薬」であり「牡丹」「百合」
…美しい女性の例え「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」から
弐拾壱
腑抜けた事ばかりしていた辰は遂に店を叩き出されて、南船場を特に当てもなく町を歩いていた。まだ昼餉の時間にもなっていない。こんな時間に遊郭に行くのは、仕事に縛られないお偉いお侍さんしかいない。辰は意を決して、若紫の扇屋に行くことに決めた。お天道様を見上げると、空は蒼く、曇一つない好天の中輝いていた。そんなお天道様を見て、辰は何の根拠もなく若紫に逢える気がした。
西横堀川、瓢箪橋を越え、東口大門をくぐり遊郭に入った。辰はそのまま真直ぐに扇屋に向かった。しかし知る人は誰も籬に入っていなかった。それから辰はただ棒立ちのまま、時間が過ぎていった。お天道様が傾く頃、辰はその場を離れた。何か声を掛けられた気がするが、それが自分の勘違いなのか、本当にあったことなのか判らなかった。
気が付くと、また扇屋の前にいた。
「辰さん」
珠緒が声を掛けた。一応、珠緒が若紫に辰を譲渡したことはこの遊女内では知れ渡っていたから、辰をもう客として受け入れる事は出来ない。そんな恥晒しのような真似は無論珠緒にはする意思はない。
「あ、珠緒はん……」
憔悴しきった辰の顔を見て、珠緒は思わず、
「どないしたん? 色(*)が悪いどすえ」
辰は足許を見ながら、
「いや……」
とぼそぼそ言葉をこぼした。
「若紫はんの事?」
辰は珠緒が若紫と云った言葉を聞いて何とも言えない顔になった。それを見た珠緒は辰と若紫を逢わせた事で彼がこのように思い詰めたのではないかと感じ取った。女の嗅覚は鋭い。男のちょっとした仕草ですべてを読み取ってしまう。男からしたらまるで妖の術である。そして、それは女の最大の武器でもある。
「辰さん、今日は帰りなはれ。妾が何とかしたるさかい。なっ。そうし(*)」
と珠緒は辰を諭した。
項垂れる辰の背中を珠緒は言葉で押していく。やがて地面に張り付いていた両足が名残惜しそうに離れ、一歩一歩、歩き出す。その背中に思わず珠緒は、
「明後日夕さり(*)にでも、おいでやす」
と声を掛けた。珠緒は辰の為にひと肌脱ごうと決めた。自分でもお人好しが過ぎると思わないでもないが、そこはやはり気になる檀那の為、女の意地を突き通そうとしたのだった。
珠緒は控えの間にいるおまつを呼んだ。
「珠緒姉さん、なんどす?」
「おまつ、いつもすまないね。また、若紫はんに取り次でおくれ」
珠緒はおまつにそう言って小遣い銭を握らせた。すぐにおまつは用事を済ませ帰ってきた。
「明日の朝、おゆかりさんの後ならと」
「おおきに、その時に行かせて頂くわ。おまつ、若紫はんによろしゅうに」
翌日の朝、珠緒は上客の対応をした為に、朝餉の後に客から開放された。その後、おまつから若紫がお茶を引いていると聞いた。
珠緒は煙管で一息吐いた。自分でも馬鹿な事をしていると思う。生真面目な男として、手に乗せることが出来るとして見ていたが、今では完全に情が移っている。惚れたと認めたくはない気持ちもある。そんな事を考えると思わず笑いたくなる。どうせ馬鹿なら最後まで馬鹿で通すのも悪くないと思ってしまう自分もいる。それで好いんだと背を押す自分がいる。珠緒は煙管を置いた。「馬鹿と笑う人がいれば、それも好い。愚かだと指をさすのなら、それも好い」と独り言ちると気持ちが整理できた。
「お春はん、おゆき」
「どうぞ」
珠緒はすっと襖を開け、
「おおきに」
と頭を下げた。
「何か用でっか?」
この時、春はまた辰の事ではないかと期待に胸を膨らました。だが、そんな素振りは一切見せない。それは遊女としての自尊心が為せる業だった。ゆっくり煙管を持ち、優雅に雁首に煙草を詰め、煙草盆の炭で火を点けた。
「前に逢ってもろた檀那、辰太郎はんの事です。辰太郎はんの足らない華(*)、妾が持ちます。だから……」
「珠緒はん(*)、辞めてもらいましょう。同じ釜の飯を食った女衆の銭は貰えません」
「それは……」
「いつ逢えばいいん?」
「明日の夕は?」
「それで、ええわ」
珠緒は頭を下げて、
「おおきに」
「何度も頭に下げるものではありまへん、おゆきはん」
春にそう云われ、珠緒はゆっくり顔を上げた。それから春の顔を見た時、白粉の頬が薄っすらと紅に染まっている事を見逃さなかった。その時、ぐっと胸に刺さるものがあったが、それを無理やり抑え込んだ。その感情の流れは失ったモノを惜しむ普遍的な人の心の動きだった。
「よろしゅうに」
珠緒は真直ぐ春を見据えて云った。一瞬、二人の視線が絡み合ったが、すぐに珠緒は視線を下げてしまった。抑え込んだ嫉妬心がむくむくと沸き上がったからだ。目の前に居る遊女が遊女の階位の頂点に立ち、情を掛けていた檀那の心を奪っていったその現実を今もって再認識したのだった。
珠緒は自分の諦めの悪さを笑うしかなかった。「全く恰好付かないたら、ありゃしない」と思うが、ここでみっともない姿を晒すのは遊女の自尊心が許さなかった。
「それでは」
とニッコリ笑みを浮かべて部屋を暇した。
同じ様に春も口許に笑みをたたえながら、珠緒の姿を見送った。
(*)色…ここでは、顔色のこと
(*)そうし…そうしなさい
(*)夕さり…夕方
(*)華…華代
(*)珠緒はん…誤植ではありません
弐拾弐
辰太郎は大門をくぐった。その顔は不安で覆い尽されていた。若紫に「おいでやす」と云われたものの「彼女と逢えるのだろうか?」それだけが頭の中をぐるぐると果てもなく廻り続けていた。その不安は若紫が身請けする日が決まった事への焦燥感と相まって、辰の足を小走りになるまで突き動かした。
扇屋に着いた時、辰は既に肩で息をしていた。息と整えながら扇屋の籬に珠緒の姿を捜した。しかし籬には珠緒の姿がなかった。客を取っていたのだった。珠緒の階位では客を袖にすることは出来ない。そして初めて邂逅した時のように、若紫の姿は籬にありはしなかった。
辰はどうしたらいいのか判らずただ籬をじっと見ているだけだった。
そのうちに籬に並ぶ遊女の一人が辰が珠緒が若紫へ譲ったという噂の檀那であることに気付き、おまつを呼び、若紫に伺いに行かせた。おまつが伺いから戻ってくると、籬の外に突っ立ている辰の許に向かった。
「辰太郎はん?」
急に声を掛けられた辰はびっくりしながらも小さく頷いた。
「若紫姉さんがお待ちで」
辰は目を見開いて驚いた。まさかそんな言葉が彼女の口から出てくるとは思わなかったのだ。それからおまつに導かれながら扇屋に入っていた。
長い廊下を歩きながら辰は前回来た時以上に動悸が早くなった。一度来たはずなのに、ここは全く見知らぬ場所だった。辰の記憶と視界に写る様子が不一致を起こしていた。その原因の主だったものは極度の緊張であった。喉が渇き、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ここで、若紫お姉さんお待ちで」
辰はここまできて急に不安になった。誰の後ろ盾もなく若紫に逢うことが……、前回逢った時の去り際に「また、おいでやす」という詞を貰らい舞い上がった。しかし、遊女の詞をまともに信じる事に対して揺らぎ始めたのだった。巷では遊女の言葉を信じる馬鹿はいないと云われる程、遊郭の世界はあらゆる面で虚構がありふれている。それが実感として辰の心を覆い、この襖の先に存在しているように感じてしまった。
おまつはそんな辰の変化を見逃さなかった。この男を見る眼は遊女としての素質はかなりあると云えよう。だが、まだ経験のないおまつは、辰の変化を姉さんに逢うのに緊張しているだけだと思ったのだった。「こんな檀那、姉さんに不釣合い」と意地悪な気持ちになり、その感情はやがて苛立ちへと昇華された。内心の苛立ちを隠しながら、
「姉さん、入ります」
躊躇する辰を横目に襖を開け、頭を深く下げながら部屋に入った。
「辰太郎はんを連れてきました」
「おおきに」
辰は敷居を跨げず、阿呆のように突っ立ったままだった。
「それでは、姉さん、失礼します」
「辰太郎はん、入ってくれやす」
辰はその言葉に引き寄せられるように敷居を跨ぎ、同時におまつが部屋を出ながら音もなく襖を閉めた。
「よぉ、おいでやす」
辰はその声に応えるようにただ首を縦に振った。
「こっちへ」
春は小さく手招きして、自分の傍にくるように辰を誘った。まるで辰は春に操られるがままに、春の傍に行き、
「座って」
と言われ、そのまま辰は腰を下ろした。すっと春は辰の顔の許に顔を寄せた。辰の周りに甘い香が漂う。
「若紫はん……」
辰はそれだけ言うと、その後の言葉が続かなかった。
二人の間に沈黙が覆った。それは辰には甘い香の中で若紫の存在がありありと感じられる瞬間でもあった。それだけなく、この美しい遊女がやがて消えていく運命であることを実感として、生々しく感じる瞬間でもあった。
思わず辰は春の肩に手を触れようとした。が、その手を止めてしまった。目の前にいる遊女が自分と全く違う世界の人間であることを思い出したのだ。自分は丁稚上がりの番頭、あちらは太夫の名を継いでもおかしくないと云われるほどの花街の姫である。本来ならば自分の身分では逢うことすら出来ない遊女。前回は言葉を交わせただけで舞い上がったが、今は息が掛かるほど近い。その現実感が一種の恐怖感を引き出してしまった。そして思わず心の奥にあった言葉を吐露しまった。
「若紫はん、身請けの話はどうなってますん?」
春は少し驚いた表情を見せ、視線を少し落としながら、
「そうどすな、身請けの日は半月もありませんな」
寂しさを隠すこともなく、自分自身に聞かせるように呟いた。それから、ぐっと額を辰の肩に押し付けた。
「もう極まった事、どうすることも出来やせんよ」
辰は春の顔をじっと見詰た。その視線に気付いた春は辰の顔を見上げた。二人の視線が絡み合った。それから暫くの間、刻が止まったように二人は見詰合った。辰は春の黒い瞳の中に彼女の心に潜む声が聞えてくるような気がした。空耳と云えばそれまでかもしれない。しかし辰にとっては神託に等しいものだった。じっと見詰められる辰に、
「辰太郎」
と若紫の甘い囁きが聞える。その声を聴いているだけで辰は至福のひと時を得る事が出来た。だが、その声が幻想ではなく、現実の声だと思うと自分がここに居て好いのだろうかと思いが沸き上がってきた。前は若紫に逢えただけで浮かれたのに、いまは身体が感じられる程近いと云うのに……
そんな男の不可解な感情を春は読み取った。その優れた能力は太夫の名を引き継いでもおかしくないと云われる程の遊女の階位にふさわしいものだった。言い換えると彼女に出来る事は、遊郭の世界でのみ通用する愛の駆け引きのみだった。つまり素直に自分の気持ちを伝える法は持ち得ていなっかのだ。
春はじっと辰の顔を見詰める。そこから先、どう言葉にすれば好いのか戸惑いを隠せなかった。だからこそ、自分の心に正直に行動するきっかけとなった。そして心に不純物がない分、本能の性が表に出てくる。
春は自分の心に従った。ゆっくり辰の顔に近づけた後、両手で辰の頬を包んだ。辰は驚きながら春を見た。それから春は辰の唇を優しく塞いだ。春は初めて心の芯から満たされる幸福感を味わった。
遊女は檀那衆に身を売ることを生業としている。だからと云って、その身を全て売り渡しているのではない。その象徴として、遊女の時は決して唇を許すことはなかった。それは遊女としての嗜みであり、身は売っても心まで売りはしないという硬い誓いのような掟であった。
無論、この遊女の慣わしは辰も当然聞きかじっていた。そして今若紫と口付けを交わした。それも若紫の方からだ。辰の若紫と肩を触れあうような距離感に戸惑っていたのだが、若紫の唇の感触は、辰の男の性に火を点けるのは十二分な行為だった。辰は若紫を強く抱きしめた後、勢いよく若紫の唇を奪った。直情的で、がさつで、情緒の欠片もない、冗談でも上手な口付けではなかった。
そんな下手くそな口付けであっても、春にとっては心を振るわすような情熱的な口付けだった。
長い長い口付けが終わった後、二人は見詰合った。この時、二人は心が通じ合い、纏う雰囲気は甘く優しく包んだ。
「春、春よ、妾の名よ」
春は自分の名を辰に告げた。これで遊女の若紫でなく、ひとりの女として辰の前に立ったのだ。
辰もここまでされれば、身分差と卑屈になる事など出来ない位、春の心機に打たれる事になった。辰は春に対してますます愛しさが込み上げてきた。今度はゆっくり優しく春を抱きしめた。
「妾身請けなんか、しとうない」
辰は春を身体だけでなく心を抱きしめるように力を少し強めた。それに合わせて春が辰の胸に顔をうずめる。そしてその言葉を受け止めるように小さく頷いた。春はその様子を見ながら再び呟いた。
「妾、身請けなんか、しとうない」
静かな口調だが、意思の強さは感じられた。そして辰の襟を強く握った。
「春、身請けは断れん?」
「無理よ。あんな大金払われへん」
辰は襟を掴んでいた春の手を取り、それから絡めるように繋いだ。
「ねぇ、このまま離れとうない」
春の心の中は辰に触れた事によって、その存在感の生々しさが彼女の恋心に火を点けた。そしてその勢いは止まる事はなかった。町を呑込む大火のような焔が、彼女の心を、彼女自身を焼き尽くす危険を孕みながら燃え上がる。
「辰さんとは、現で夫婦になれぬ。来世なら契れる、妾は信じる、辰さんは信じる?」
春は辰の瞳を親の仇のように睨み付けた。その視線にあるのは、辰との仕合せな夫婦姿だった。
辰は春の気迫に圧され、
「信じるよ」
と言葉を返し、手を握り直した。辰は春にいじらしさを感じたが、同時にこの恋は先がないことを悟った。
再び二人は唇を交わし、それから二人は一つの番となり交わった。
弐拾参
二人は抱き合ったまま、
「後生で、妾を見つけて」
「うん、でも今は……」
辰は言い淀んだ。その心はこの現状では春と結ばれる事はないと、そういう諦めの思いがあった。そんな言葉の端をしっかり掴んだ春は、
「妾は辰さんと離れたくない。このまま居たい。それが出来んなら、ここで死んでもええ」
心のままに言葉を発した。その直情的な言葉は辰の心情に響かすことは出来たが、動かすことまでは出来なかった。その僅かな表情の変化を春はしっかり読み取った。それは彼女の内にある焔をさらに燃えさせ、誰にも止められぬ劫火となった。それは子供のような純粋さを持つが故に、相手の心まで焼き尽くことさえ厭わない。
「辰さん、妾、本気よ」
春は突然玉匣から小刀を持ち出すと、手拭を噛み、自身の左小指に当てがったと思うと、一気に力を込め小指を落とした。血が噴き出した。声にならない悲鳴が聞こえるようだった。
「これを受け取り……」
春は額に脂汗を幾筋も垂らしながら自分の切り落とした小指を辰に差し出した。髪などで代用することもあるが、自分自身の身を削り骨を断ち、その身の分身を捧げることは遊女が自分の想い人に対して行う最高の愛情の証だった。
辰は春の小指を受け取ると、すぐに出血している春の左手を右手で強く握った。春はゆっくり頭を辰の胸にうずめた。そして辰は春の耳元で、
「仕合せになろう」
と言うと、春の傍に落ちていた手拭を拾い上げると、自分の左手首に結び、それから春の右手首に結び、辰は優しく春を抱きしめた。
この時、辰の心は決まった。それまで春の大胆な行動に吞まれるだけだったが、自分自身、そんな彼女をいま絶対に誰にも渡したくなくなったのだ。苦しみさえ伴った愛しさが込み上げ、彼の全身を覆う。春の嵐のような感情の濁流が。
辰が春の頬を撫でる。春は痛みで歪んだ顔がふっと緩んで微笑んだ。
「辰太郎……」
「春……」
そして時を刻む間もなく、二人は紅いの衣を纏った。
桜も散り、葉桜が始まる季節だった。
了