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惜春  作者: イタリア皇帝
2/3

 玖


 小間(*)につく雨粒を吹き払うように、日々が瞳で追うことが出来ぬ程の勢いで弾き跳ばされ、足許を濡らしていく。下駄に意識を向けている間に、気が付けば傘はひと回りしている。籠の中に居る遊女たちは日々を生き抜く為に全てを捧げ、足許の変化に気付きはしても、移り行く空の色には中々気が付かないものである。

 桜が咲き始めた。新町遊郭を仕切る溝渠の脇に植えられた木々が薄い桃色の花弁を、これでもかと、吐き出している。色町もそれにあやかり活気ずく。祭りに等しく男衆を浮かれさせ、日頃新町に足を入れることない男子を誘い込む。

 米問屋、岡本の番頭、辰太郎と言い、親の借金の形として岡本に丁稚として謂わば売られたのである。本人の性格は真面目一本、過ぎた真面目さは堅物となり時折周囲と摩擦を起こすが、辰太郎は決して己が信じた心を捨てることはなかった。その真面目な性格はやがて大きな信頼を得る事となる。手代(てだい)(*)から最も若くして番頭補佐の座を射止める事となったのだ。

 競争世界では当然のように起こる嫉妬や妬みはあるにはあったが、一本筋の通った真面目な性格の辰太郎を慕う者の方が多く、数の力で抑えつけたのである。

 桜の季節に宴は付きもの。さらに祝いの席ともなれば、天鈿女命(あめのうずめのみこと)(*)のように美しく、酒精がその裾を上げながら踊るのは必然であろう。酒精が尽き始める頃、締めの舞台へと行く者たちが立ち上がる。ここは男衆の世界、祝いの席の締めとなれば、遊郭に足が向くのは致し方が無いのかも知れない。

 辰太郎は実は十六にして女を知らず、堅物である事を地で行く男子であった。隠し事など存在しない奉公時代、辰太郎の女性関係などの同輩共に筒抜けなのは当然の事、さらに云えば余計なお節介を焼きたくなるのも当然の流れ。辰太郎は両腕をしっかり捕まれ、捕縛されたように歩いている。

「辰よぉ、女子は好いぞぉ」

 酒臭い息を吐きながら辰太郎の左腕を掴んでいる手代が云った。それを彼は軽く受け流すように、

「知ってるがな、しっかり歩きんさい」

 と逆に手代を引っ張て行く。

 辰太郎は女性に興味がないのではない。人並に女性に興味があるが、何となく気後れしていたのだ。

 他の丁稚たちは兄たち(*)が連れられて遊郭を遊びまわるのだが、どうしても真面目な性格が邪魔をして付いて行くことが出来なかった。そう言った若気の至りは辰太郎には無縁だったのである。損な性格とは云えば損な性格である。

 西大門(おおもん)を辰太郎御一行が潜った時、誰かが声を上げた。

「若紫、見に行かへん?」

「それ、ええなぁ」

 とそれぞれが同形異音語を並べ立てた。辰太郎は、若紫の噂は聞いてはいたが、自分とは余りに住む世界が異なるので身近な事として捉える事が出来なかったのである。端的に言えば、今一つ興味が湧かなかったと云うことになる。

 千鳥足で瓢箪町にある扇屋に着くと、何故か辰太郎たちは感嘆の声をあげた。そこでなんと御一行は奇跡的な幸運を掴み、偶々(まかぎ)(*)に降りていた若紫のご尊顔を拝む事ができたのである。再び感嘆の声を上げるかと思いきや、彼らは押し黙ってしまった。若紫の美しさと纏う彼女の威厳が辰太郎たちから声を奪ったのである。そして何故か、切れ長の奥にある黒い泉が捉える一点は辰太郎であった。視線が持つ独特の見えぬ手で押さえられたような感覚を辰太郎は、若紫から感じ取る視線に露骨に晒され、嬉しいと云うより居心地が悪かった。

「辰、若紫がこっち見とるで」

 辰御一行様は大喜びである。そして、しっかりと辰の顔を見据え小さく頭を下げ、すっと立ち上がると奥へ消えて行った。

「おい、おい」

 と辰の肩を連れたちが無遠慮に叩く。かなり痛みがあるのだが、辰は全く感じていなかった。彼はただその無遠慮に突き刺さった視線の主の顔が頭から離れなくなっていた。彼女が奥に向かう姿がまるで大切な玩具を取り上げられた幼子のような心持ちにさせたのだった。暫くの間、辰は若紫の姿を消した方から目が離せなくなっていた。

「惚れたか」

 と酔いの廻った兄たちが耳元でからかい口調で言われ、辰は我に返った。

「あっちは、雲の上におわす御方。儂には無縁や」

 とスタスタと歩き始めた。

「おいおい、待たんかいな」

 兄たちの声が聞こえたが、辰は足を止めなかった。理由は実に簡単である。図星を突かれたからである。


 翌日の大騒ぎの疲れなど微塵も見せず、辰が筆頭番頭の補佐をするのは若さの為せる業なのか。はたまた何か自身好い事があったのか、本人以外知る由もない。時折、辰が遠い目をすることがあった。その視線の先には何が見えていたのだろう。


(*)小間…傘の骨と骨との間の三角の生地

(*)手代…番頭と小僧との間の使用人

(*)天鈿女命…天岩戸神話のなかに出てくる女神、天照大神を引き出すために踊りを踊った

(*)兄たち…一緒に遊郭に来た丁稚の先輩たちのこと

(*)籬…客待ちをしている遊女を覗き込む格子付きの大窓



 拾


 若紫の水揚げをした御仁は、豪商、喜多川家の跡取りとしてついた綽名が「北の若」であったが、今はその名で彼を呼ぶ者はいない。彼の父親は事実上隠居し「大檀那」と呼ばれるようになり、必然的に彼が「檀那」と呼ばれるようになる。おゆかりさんの社会的変化に敏感に反応する色町では、当然の彼の遊郭での通り名も変わる「北の檀那」と。

 当然、彼に掛る仕事量は今までの比ではなくなる。まだ慣れぬ事も多く父である大檀那の助言を聞きながら、商いを預かる者の「表のいろは」と「裏のいろは」を学んでいるところである。当然十五夜から次の十五夜まで休みなく働き詰めであった。やっと一区切りが付き、逃げるように春の許に来たのだった。

「あら、北の檀那、お久しぶり。ゆっくりしときやす。何かつけますかい?」

「あぁ、若紫、酒を少し」

「おまつ」

 と小さく語り掛けるように、おまつを呼んだ。大声を出すことなどご法度であり、太夫と呼ばれてもおかしくない遊女がする事ではない。

「失礼します」 

 の声が聞こえたのと同時にすっと音もなく襖が開いた。おまつは正座をして額を床につけたまま、

「姉さん、何用どす」

「北の檀那にお酒と肴を」

「はい、姉さん」

「取り敢えず、そんだけよ」

「はい、姉さん、失礼します」

 おまつは正座をして額を床につけたまま一度も顔を上げることなく、ゆっくり襖を閉めた。

 北の檀那とおまつは顔を知った仲であり、待ちの()で、好く話をする相手である。もし扇屋の外で逢えば気楽な世間話でもするだろうが、ここは春の部屋である。即ち遊女の仕事場なのである。仕事に私情を挟むのは遊女としての自尊心が許さない上に自身の価値を下げることになってしまう。さらに、おまつの行動は自分だけでなく姉さんである春の評判を落とす事を幼いながらも十二分に理解している。

 この世界では格を求めるのは遊女本人だけなく付き人や持ち物まで求められ、それに応えてこそ太夫と認められる厳しい世界である。

 北の檀那は疲れも溜まっていたのだろう、酒精にあっさり呑み込まれてしまった。春の膝を枕にして、日頃のきりっとした表情はなくはなく、あどけなさの残る、それでいて恐れを知らぬ表情をした坊やが眠っていた。

 春は坊やの髪を優しく撫でながら、今日、下で見た男子の事を考えていた。初めてその男子の顔を見た途端目が離せなくなったのだ。春にとって初めての経験であり、その衝撃は春が考えるよりも心身への影響は大きかったのだった。

 春の坊やを撫でる手が止まった。あの男子の顔を思い出したのだ。面構えは今膝の上で眠っている北の檀那の方が遥かに美しく品がある。しかし不思議とその顔をじっと見ていたいのは、下で見た男子なのである。

 春は自分の気持ちを持て余していた。自分がどうしたいのか、好く解らず心が全く晴れなかった。このような時、普通感情の発露は自分の外に、他人や物に当るものだが、春はじっと心の内にしまい込んだのである。そのような姿を他人に晒すのは見っともないという感情と自尊心が支配したからだった。

 だが、忘れてはいけない事がある。彼女は遊女として名高いが、それは男の感情を手玉に取るのに長けているだけで、自身の恋愛を成就させる為の駆引きの強さは、素人衆の娘たちと経験を含めさほど変わらないのが現実だった。遊女自身は男子に惚れさせるのがお役目であり、男子に惚れるのはご法度であった。惚れた腫れたの心を止める事は誰にも出来ないのだが。

 北の檀那が目を覚ました。春は心をあの男子に奪われていて、檀那が目を覚ましたのに気付かなかった。北の檀那は春をした見上げながら、その視線がどこに向いておらず、彼女は何か考えているようだった。そんな春を彼は根拠がないと云えばないのだが、どこか危うく見えてしまうのである。

 北の檀那は春にとって水揚げをした檀那である、また夕霧が最も信頼していた檀那でもある。北の檀那といる時、春は無意識であろうが、心の奥に仕舞い込んだ様々な感情、愛情、喜び、不安、嫉妬が檀那を前にした時、彼女の封印した壁を破って表情や態度に表れるのだろう。

 北の檀那は以前春の寝顔を見て、春が劫火に焼かれるそんな不吉な事を感じ取った事を思い出した。再び得た印象は先に感じたものより、より確信に近づいていると思わせた。

「若紫」

 小さく呼びかけたが、彼女は気付かなかった。そして檀那も再度を彼女に声を掛けることをためらった。春の瞳には涙が溜まっていた。



 拾壱


「辰、しっかりしなっ」

 筆頭番頭の怒声が響いた。

「へい、すんまへん」

 その後暫く筆頭番頭の怒り収まらないらしく、辰太郎への小言は続いた。辰は頭を下げひたすら詫びた。簡単な計算を間違えてしまったのだ。言い訳の言葉はない。辰は全面的に自分が悪いと思っている。ただ一つ救いなのは、お客人にご迷惑を掛けなかったことだろう。もしお客人にご迷惑を掛けたとあっては、自分の今までも信用を失いかねない。それは商人として大恥以外何ものでもない。そんな大恥を掻かずに済んだ事は好かったが、最近どうも気が散って仕方がない。

 扇屋で見た若紫とか云う遊女を見てからだと辰は唇を噛んだ。遊女にはそれ程興味はないが、彼女の噂は度々耳にしている。太夫の名を継いでもおかしくない位、美しく、学もあるらしい。最高位の遊女というふれ込みだ。ひと目見ただけだが、噂にたがわぬ確かに美人だった。

 しかし、と辰は思う。「自分には太夫を名乗る程の遊女に通うだけの稼ぎはない。身請けなんぞ、身の程知らずも好いところだ」

 そうやって心の中から、若紫の事を笹舟のように川下へと流してしまおうとするが、その笹舟は流れに乗ることが出来ず、その場でクルクルと回転し続けている。辰はその心情が何物なのかは知っている。多くの年若の男子が罹る病だ。辰はその病魔に己が罹患したと認めたくないのだ。その反抗の試みも、風前の灯火だった。

「辰。おい、辰」

 番頭仲間が背を叩いた。「お得意様がおいでなすった」と。

 木村の檀那(*)だった。先月大きな買い物して頂いた大切な御贔屓さんだ。辰は一発頬を張って心身に気合を入れた。あの遊女は手の届かない月と同じ、住む世界違う迦具夜(かぐや)の姫なのだ。月の姫なのだ。そうやって自分を納得させると、

「毎度、木村の檀那、好い品がありまっせ。どがいだす。ちょっと見て行きまへんか?」

 木村の檀那と呼ばれた初老の小柄な男は立ち止まり、

「辰はん、そがい好いモノが手に入ったんかい?」

「それはもう、木村の檀那の耳に真っ先にいれたかったんで」

「ほー、まあ好いわ、時間あるさかい、ちょっと寄らしてもらうよ」

「へい、檀那、こっちですわ」

 そしてすぐに女中に、

「お菊、お茶をすぐに用意せんかい」

 辰はいつもの調子を取り戻したように見えたが、人の心は簡単に変えられぬ。ふとした瞬間、若紫の顔が浮かぶのであった。月はその姿を消したかような朔から十五夜程で美しい望月となる。そしてまた朔として少しづつ消えて行くのである。辰の心から消えたように思っても、また心の中に現れる、そうまるで月の姫。古来より人は月を愛でてきた。その美しさに魅惑されてきた。今彼は月の変化幻想的な美しさに憑りつかれた画師そのものであった。

 辰は月の姫を心から追い出す為に、もっとも簡単な方法、忙しさに身を投じたのだった。目が回る忙しさという表現があるが、彼は正にその言葉を身を以て知ったのである。それでも妖の姫に魅せられた男子は、蜜を求める蟲のように必ず一夜も経てば戻ってくるものである。


 日は流れ、中秋の名月を明日に控えた日。その日、辰は早く仕事が退け少しばかり暇が出来た。仕事以外特に嗜む事知らぬ堅物の彼は、誰かに言い訳するように新町遊郭へと歩を進めていたのである。

「若紫の噂を確かめるだけ」

「確かめたら、直ぐ()ぬ」

「俺は遊郭になんぞ興味はない」

 そんな明らかに自己欺瞞が彼の頭中を巡り、それだけなく、その見っともない言い訳を自己正当化していたのだった。脚は若紫の居る扇屋に一直線に向かっており、どんな言い訳の言葉も重みがなかったのは言うまでもない。他人から見たら滑稽なものは、本人は真剣であるが故に笑いの要素を含む。だが、その滑稽さ故にひた向きさを感じるのもまた事実である。

 明日は名月、遊郭は日々の行事に事欠かない。行事に合わせて色々と催し物を企てるのである。簡単に云えば客寄せイベント。遊郭に巣くう慾の穴の深さは人の業より深いもの、それに呑み込まれては身動きが出来なくなり、やがて身を滅ぼしてしまう。そうして逝った男衆の多い事、多い事。遊女自身でさえ、その深き穴に呑まれ身を滅ぼしてしまう、怖ろしく、また利用価値の高いものだった。

 辰は若紫の扇屋に来ていた。遊女と共にする気はさらさらないが、ここまで来ては若紫を見ずに帰るのは出来なかった。若紫を見たいという感情が暴走してしまい、最早制御できなくなっていたのである。

 前に若紫を見た時と同様に籬に居るのではないかと眼を凝らし姫を捜してはみたが、全く気配がなかった。一歩、一歩、店に近づいて少しでも若紫の()(*)を探す。

 それだけなら、ただの若気の至りと笑えようとも、そのまま暖簾を潜ってしまえば、笑えぬ愚か者。それを地で演じてしまった辰太郎だった。己の迂闊さを怨む間もなく、あれよあれよとしている間に床を取る事になってしまった。辰太郎はどこかで若紫を一目でも見れるのではと言う打算があった事は否めない。そんな彼を受け止める遊女は珠緒と言い、その名の通りふくっらとした女子だった。珠緒は売れ子でもなければ、食い扶持が困る程売れていないわけでもなく、当たり障りのない位置を保っている遊女だった。辰のような男子を(たらし)し込んで檀那として上客にすれば、当分の間、身を保ってられると算盤(そろばん)を弾くのは性であり、決して悪意がある訳ではない。

 一方、辰の方はもしかしたらと淡い期待を持ったが、あっさりその期待は打ち砕かれたのである。楼内では檀那衆が顔を会わせることがないように計算尽くされており、その相手を務める遊女も然りである。気の進まぬまま辰は珠緒を抱くことなり、馬鹿正直な性格が災いして、そのまま態度に出てしまうのである。それに気づかぬ遊女はいない。

「辰さん、何か心配事でも」

「若紫はどこに居はるのやろ……」

 辰は自分の失言にも気付かないくらい心はここに在らずだった。

「妾は若紫あらへん。さっさと辰さん帰ってくれやす」

 ぽんと珠緒は自分の簪を辰に投げ捨てた。根が善良な男衆には女の怒りはどう受け止めて好いか判らず見っともなくオロオロとする以外為すすべがない。当然、辰もその一人だった。

 珠緒は辰の余りに見事なうろたえぶりと、その中に悪意を感じることがなかった。まるで子供のように思え、つい男の罪を赦してしまった。

「今度、若紫はんの事を口にしたら、簪でその口、引き裂きますえ」

 辰はここに来て自分の愚かさを悟った。

 しかし珠緒も遊女、しっかり辰を繋ぎ止める事も忘れない。「若紫はんの事を口にしたら、引き裂きますえ」と言った舌の根の乾かぬ内に、

「辰の檀那、若紫はんの事を知りたかったら、うちのところに来なはれ」

 と物をねだる小娘のようであり、物事の裏まで知り尽くしたやり手婆のような顔をしながら、辰を誘った。その不思議な雰囲気に呑まれるように辰は何度も首を縦に振ったのだった。


(*)木村の檀那…ここでは、木村又次郎(新町遊郭の長)からの由来

(*)若紫の香…ここでは、若紫の姿や若紫が居た痕跡



 拾弐


 辰は珠緒の言葉に促されて再び扇屋に足を向けていた。大門を抜けるまでは何となく後ろめたい気分で足が重たかった。しかし一旦大門をくぐり遊郭特有の空気に触れると、今までの暗い気分は一掃され、心焦りながら速足となったのだった。すぐに若紫の居る扇屋に着いた。籬には若紫の姿はなく、頼みの珠緒の姿もなかった。

 辰はそんな状況ではどうすれば良いか何も思案が思い浮かばなかった。もう帰るのか、扇屋の誰かに珠緒の事を聞くのか。単に勇気がないと云えばそれまでだが、彼の性格を考えれば致し方のないことだった。彼は立ち尽くすのだった。

 陽気な人たちが何人か辰の横を通り過ぎた時、籬の暖簾の後ろから珠緒が出てきた。

「辰さん」

 と声を掛けなければ辰はその場で見っともなく、ずっと立ち尽くしていただろう。その言葉に吊られるように辰は珠緒の許に足を運んだ。

 この時、辰と春、二人の運命の糸が絡み合い始めた。春が(びん)を整える為に下階に降りた時、辰の横顔を見つけたのだった。春は自覚のないまま、辰と珠緒の背を忍び足で追った。そこで気になる檀那の名前を知ることが出来たのだ。

「たつたろう」

 字(*)まではさすがに判らぬが「たつたろう」と口の中で転がすように囁く。

 春は何だか急に嬉しくなってつい歌を口ずさんだ。

「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで」

 そして左の掌に右手の人差し指で「たつたろう」と書いてみると、掌に彼の手の感触を覚えた気がした。その手を握り締め、そっと袖の下に隠した。そうしないと、春は客人に愛情の駆引きを愉しませる事が出来ないと強く思った。心無い言葉に玄人好みの上客は満足しては貰えない。それを知り、事と為せば遊郭で顔を張る事が出来る。但し、それが出来るのは一握りの遊女だけであり、春もその一人に名を連ねているのである。


 おまつが常連の名を告げた。堺の納屋衆で会合衆(*)にも名を持つ御仁で、今は髪は古びた着物の袖のように白い糸が引いているが、若い頃は遊女たちの間で名の売れた粋な男だった。その優雅で艶ややかな仕草の名残は煙管を持つ指に今も色濃く残っている。

「若紫、今日は何か好い事でもあったのか?」

 ぽんと煙管の灰を落としながら春にそう問いかけた。皺の奥にある眼は衰えを知らず、女の勘のように鋭く遊女(あいて)の視線や仕草の変化を見逃さない。春も相当な手練れであるが、百戦錬磨の老兵にはまだ敵わないようだ。

「ええ、ありましてよ」

 と春は強兵(つわもの)に視線と笑みを返した。彼はその笑みの中に自分以外に向けられた男の翳を認めた。雁首に煙草を詰め盆の火種で火を点ける。ゆっくりと煙を胸にため込み、またゆっくり吐き出す。そこにある視線は遊女を見るものではなく、父親が娘を嫁がせる時に見せる一種の独占欲、それは老いた雄の本能なのかも知れない。

 春の視線は「あなたよ」と言っている。しかし、その矢は僅かに的の中心を外している。

 老人は「やれやれ」と思いながら、この雛を手許に置き、ただそれだけで満足し得る事を今その心の奥に流し込まれたのだ。もし春の視線が的の中心を得ていたなら、老人はこのような考えに至らなかっただろう。逃げる者を追う。これもまた雄の本能である。

 彼は煙草を吹かしながら、これから先の事を考えた。すると、

「何を考えてはるの?」

 少し拗ねた声が耳に届き、考え事に水を差された。意外にもこの言葉が止めとなった。老人の決心を促したのだった。老人は春の肩を優しく抱いた。

 不思議なもので、人の決心は案外ちょっとした言葉のやり取りから生れるもの。この場で老人は、この(むすめ)を独占したくなったのである。その独占欲は古びた(しん)の臓を奮い立たせ、失って幾ばくかの年を過ごした恋心を見事に咲かせたのであった。齢を重ねても男女問わず、惚れた腫れたは当座のうちと言うが懲りずに何度も恋をするものである。

 老人は目を瞑り、そして夢に描いたのだった。若紫が自分の床にいる姿を。思わず春の肩を抱く手に力が入る。

「痛いですよ」

 春はそっとしなびた甲(*)に指を置いた。

 老人は手の力を緩め、

「すまぬ、若紫」

 と言い、そしてじっと若紫を顔を見つめ。

「そなたの名を聞いても……」

「あら、いやだわ。(うち)の名は若紫よ」

 とおどけたように言葉を返し、老人の言葉を遮った。

「そうだったな」

 老人の()は、まるで若者が意中の女子(おなご)を追いかけるような力が漲っていた。無論、その変化を春は見逃すことはなかったが、男の好くある気紛れだと思い、大して気に掛けることはなかったのだった。


(*)字…漢字

(*)会合衆…堺の有力商人で構成され、堺の自治を指導した組織

(*)甲…手の甲のこと



 拾参


 若い頃に色に長けた老人は人を人形ように操るのが上手い。その手管は操るべき人の外堀を気付かれずに埋めていくのにである。当人がその事に気が付いた時には既に手遅れ状態、選択する道は老人に示した道以外にないのである。人の道の選択肢を奪う事は、その人の人生を奪い支配するのと同義となる。

 若紫を手に入れたい老人は、早速行動を起こした。扇屋の主と密会を持った。特に若紫と懇意している北の檀那の耳に若紫の身請け話を入れたくなかったのである。もし北の檀那が身請け話に横槍を入れてきた場合、若紫の心がそちらに傾き兼ねないからとそんな思いがあったのだ。

 ここで語られた事は身請け代の折衝だった。夕霧太夫に匹敵する遊女の身請け代となると、扇屋の主には当然強気な取引となる。勿論、老人もその位の事は弁えている。だからといって、相手の法外な言い値に臥せる気持ちはない。

 駆け引きが始まる。扇屋の主の言い値から老人は大胆に引いた値を告げた。

「そんな安値では売れん」

 と若紫の主は突っ撥ねる。初めからお互い下駄を履かせた値を付けている。阿吽の呼吸で両者はそれを知っている。そしてここから本当の駆引きが始まるのである。一歩進んでは一歩退(さが)り、傍目には一進一退を繰り返しているようだったが、人生の表から裏まで煮え湯を吞まされ回数では老人の方が経験豊富であった。数々の失敗から得た教訓から成功を収めた強者(つわもの)という点に於いては老人の方が扇屋の主より一日の長があった。

 上手く丸込められたとも露とも知らず、若紫の主は思った以上に大金をせしめたと思うのであった。一方、老人は安い買い物をしたと細く笑むのだった。

 そして二人でこの取引が決まった事を対して簡単な宴が催された。灘の酒が振舞われて二人の口を湿らした。にこやかに酒を酌み交わしながら、お互いに相手を見下し、扇屋の主は大金を手に入れる喜びに、老人は若紫を手に入れる悦びに浸っていたのである。


 春の心に少しずつだが、変化が起こり始めていた。辰という男の事を思い出すと、何とも居ても立っても居られないような心持ちになったのである。何とか、心を鎮めてようとするが、鎮めようとすればするほど心が乱れるのである。

 とは言え、そこは新町遊郭で名を馳せた遊女、檀那衆と愛の言葉を交わす時はそんな心の揺れを微塵も見せないのは流石(さすが)である。夕霧に鍛えられただけの事はある。それでも、乙女である事には変わりにはない。気を抜けば、ふっと恋に悩む女の顔を見せるのである。それを未熟と責めるのは酷と言うものであろう。

 当然、檀那衆の中には目敏く気付く者もいたのだが、「若紫にこのような色(*)をさせる男とは、どんな奴だろう」と嫉妬より興味の方が上回ったのだった。

 楼閣という檻の中に飼われている遊女は営みを事としている為に季節の変化に疎い。ただ日々が躍るように過ぎいく。折節の息遣いを感じるのは、肌にその気を触れるくらいである。気が付けば、一年(ひととせ)は一息で終わってしまう感覚。

 部屋の隅で、おまつが春の為に厚手の打掛を用意していた。春は手際よく畳まれる打掛を見ながらふと他愛のない考えに耽る。

 辰と夫婦(めおと)となる自分の姿を……

 ぽっと頬が熱くなるのを感じ、それを誰かに見られまいと顔を伏せた。誰に? ここにはおまつしかいない。彼女を仕事に集中している。そう、春の自身以外誰でもない。つまり自分で考えた事で自分自身で羞恥を感じてしまったのだ。まるで恋を知らぬ、恋を夢見る処女(おとめ)そのもの、今なおその事実を知らないのは春自身であった。


(*)色…ここでは顔色



 拾肆


 人の噂には戸は立てられぬ、と云うが、それだけではなく、不思議な事に噂の渦中の人より、周りの人の方が噂を先に知ることになるもの。その噂と言うのは、若紫の身請けの事だった。隙間風が吹き込むように珠緒の耳にも入ってくる。当然、尾びれ背びれが付くのは噂話の必然であった。そのひれとは、若紫が身請けを受けたと云うことだった。その源となったのは、姉様であった夕霧も身請けを喜んで受けたことがあった。

 珠緒もその噂を納得して信じたのだった。

 この噂は扇屋内で収まらず、最初のうちは少しずつ堰を犯していく水のように最初は少量な流れであったが、やがて水は大水となり堰は水の流れに負け崩壊し遊郭内に一気に広がったのだった。その濁流は遊郭の大門を破り、外郭の世界へと広がった。

 当然の事ながら、唐変木な辰の耳にも、この噂話は耳に入る事になる。

 辰はその噂を聞いた時、心を砕けたような衝撃を受け、一瞬惚けたようになったものの、すぐに自分とは違う世界の出来事だと思い直し、その心の欠片を拾い集め、心の奥に仕舞い込んだ。すると辰はいつもの調子を簡単に取り戻したのだった。

 しかし、心の奥に仕舞い込んだだけで、その欠片はふとした時に心の表層まで湧き上がってくるのである。そんな時の辰は、心の臓を鷲掴みされたような痛みに苦しむ事となる。その疵口は容赦なく彼を襲い、疵を癒すにはその噂の真実を知る事であった。

 辰の足が遊郭に自然(じねん)と向かうのは当然の帰結である。

 遊郭の妖しげ且つお気楽な雰囲気な中で、問題の扇屋の前で辰は足を止める。入るか、入らないか。そう思っていると、珠緒が扇屋の籬から声を掛けた。

「辰さん、いらっしゃい」

 そう云われて、言葉を躱す度胸は辰にはない。渋々暖簾を潜る。

「いらっしゃい」

 珠緒自身が出迎える。それに応えるように辰は小さく頭を下げた。二人は寄り添いながら、珠緒の部屋に向かった。その時、辰は周りを気にする仕草を見せたが、珠緒は見知らぬ振りを決めた。彼女は辰が若紫の身請けの事が気になっていると気付いたのだが、それはここに来る理由でもあるからだった。その事を無下にするのは、この男を手放すと感じたのであった。女の駆引きと勘はいつも男の上をいくものである。

 部屋に入ると、すぐに辰は自分の聞きたい事を珠緒に尋ねた。せっかちなのは男の特権であろう。

「若紫が身請けをするって、ほんまかい?」

「そうね、そう聞いてる」

 辰はしばらくじっと考えた後、

「そうかい……」

 と肩を落とした。

「若紫に会いたいかえ?」

 辰は珠緒の方に振り返った。その顔を見た珠緒の感情は同情に満たされる事になった。あまりにも彼の顔が見るも無残に憔悴していたからだ。

 珠緒は少し考え込んだ後、

「辰さん、会ってみるがええ。(うち)が会わせたるわ」

 彼女はそう言いながら、辰の胸に髪の香りを残すように身体を預けた。そこは彼女も遊女である。例え、情けから出た言葉があっても、簡単に行動に移してはその名が廃ると云うもの。男をじらして、隙あらば身銭を切らすことは遊女の沽券に関わること。簡単に手放すことは出来はしない。

 そういう意味では、辰は既に珠緒の術中に堕ちているのだが、さらに深みへと足どころか身体全体、もしかしたなら、頭の天辺まで浸かっている状態なのかもしれない。

 知らねば仏、見ぬが秘事。そしてそこに起こるのは喜劇か悲劇か?

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― 新着の感想 ―
[一言]  とても面白く読ませて戴いてます。゜+(人・∀・*)+。♪  おかしいですよね、当人たちは会話さえ交わしていないのに周りがどんどん勝手に進んで行って、複雑にしています。  ちょっとした仕草で…
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