声
侯爵家にやってきてからというもの、マリーはまったくといっていいほどに元気がなかった。
ランディが大好きだったひまわりのような笑顔は一度も見ることができず、彼女はいつもどこか上の空な様子だ。
食事も細くなっているようで、出された料理が完食された場面を、ランディは一度として見たことがなかった。
「マリー……どうかしたのかい?」
「なんでもないの、大丈夫よランディ」
精気が抜けた様子のマリーは、何を聞いても濁すばかりで、ランディとまともに会話をしようとしてくれない。
ランディにはそれがショックでたまらなかった。
だがランディはマリーが優しい子であることを知っている。
故にこうなったことにも理由があると考えた。
マリーはたしかにグリニッジ侯爵家へとやって来た。
形だけ見れば完全な輿入れだ。
だがランディは、違和感を拭い去ることができなかった。
そして考えれば考えるほどに、その違和感は大きくなっていく
おかしな点は、やってきた時の馬車以外にもいくつもあった。というかおかしな点しかないのだ。
普通貴族家の輿入れは、おおがかりに行うものだ。
それも今回の婚姻は公爵家と侯爵家という大貴族同士のもの。
その規模はかなり大きくなるはずである。
かなりかわいがられていたマリーの輿入れともなれば、アナスタジア公爵もかなり気合いを入れるはずだ。
それなのにやってきたマリーは、何一つ持っていなかった。
持ってきたものの目録どころか、持参金すらなかったのだ。
これは貴族家の婚姻からするとイレギュラーもいいところである。
アナスタジア公爵であるタッデンはそういったところで礼を失する男ではない。
であればそれにも何か理由があるのだ。
それに、現在グリニッジ家には不気味な男が滞在している。
その名をアルブレヒトと言う謎の人物は、マリーのことをこの屋敷に連れてきた御者である。
「やあ、今日もいい朝だね」
悶々として眠れずにいたランディに声をかけてきた金髪の人物こそ、件の人物であるアルブレヒトだ。
逆立てた金髪の髪の毛に、道化師のような刺青。
着ている服もとにかく派手で、意味不明な言動が多い。
目立てば襲われる可能性だってある馬車の御者としてこんなに適していない人物は他にはいないのではないかと思えるような人物だ。
彼はなぜか現在も、訳知り顔で屋敷に居座っているし、侯爵邸に滞在を許されてもいる。
ランディにはまったく理解のできない話だった。
「平民風情がこの僕に対して無礼な口を利くなと言っているだろう」
「僕は侯爵から滞在を認められている賓客だ。そんな人物に対して無礼な態度を取ることは、ホストである父上のメンツを潰すことになるよ」
「うぐっ……まったくなぜ父上は、こんなやつを……」
そう言われてしまうと、ランディは強く出ることができない。
すごすごと逃げ帰り、部屋に戻る。
すると自分が手のひらにじっとりと汗を掻いているのがわかった。
(なんなのだ、あいつは……)
道化のような見た目をしているあのアルブレヒト。
彼から発されるプレッシャーは、尋常のものではない。
それがランディに向けられることはないが、それでも存在の差を感じずにはいられなかった。
ランディは以前、彼がその殺気をマリーに叩きつけているのを見たことがある。
マリーは毅然として対抗していたが、自分が同じことをやられれば果たして対抗できるかは、非常に怪しいところな気がしている。
(でも、マリーのことは……僕が守らないと)
これから先も、ランディはマリーのことを守らなければならないのだ。
恐らくだが、今回の婚姻はアナスタジア公爵の望むところではないのだろう。
そして父のグリムすら、マリーへの態度は適当だ。
アルブレヒトのような危険人物を放置しているのがその証拠。
だからこそ、マリーを守らなければならない。
たとえマリーが今回の婚姻に乗り気ではなく、心を塞いでいるのだとしても。
結婚生活を少しでもいいものにしていくためには、ランディが心を砕くしかないのだ。
故にランディは毎日、マリーと会話をする時間を設けるようにしていた。
「ふぅ、今晩は遅くなってしまったな……ん?」
ランディが執務を終えてマリーの部屋に向かおうとする時、どこかから風が入ってくるのがわかる。
窓でも開けっぱなしになっているのだろうかと風のやってきた方向へ向かうと……そこにはバルコニーから外を眺める、マリーの姿があった。
彼女の横顔は、女神と見間違うほどに美しい。
思わず顔を赤らめるランディは、近づこうと早足で駆けようとする。
けれどマリーの頬に一筋の線が通るのを見た時、彼の足はピタリと止まった。
「ロンド……」
そしてその言葉を聞いて、ランディは硬直する。そして彼は気付いてしまった。
マリーの心にいるのは――自分ではない他の誰かなのだと。