男
もし屋敷に来客があれば、自分に話が通っていてもおかしくないはずだ。
それが父であるグリムと直接会話を交わすほどの人物であるならなおのこと、自分に対してまったく話が通っていないというのはおかしい。
(……少しだけ、少しだけだ)
ランディはドアにそっと身体を寄せる。
幸運にもドアはわずかに開いており、その隙間からは中の様子を窺うことができた。
父と向かい合っているのは、漆黒のローブを身に纏っている男だった。
(あれは……誰だ?)
その声には、やはり聞き覚えがない。
だがどうやら、父とはある程度の交流があるようで、二人の口ぶりは会って間もない時のそれとは思えなかった。
「だから払うと言っているだろう!」
「そう言ってからもうどれだけの月日が経ったか……私がこの催促をするのも、一度や二度ではございませんよ?」
「そ、それは……」
「既に返済期日もとっくに過ぎております。これで返すと言われても、信ずるに足る証拠がありません」
言葉遣いだけを考えれば、どちらが上なのかは明らかだ。
けれど話の内容を加味すれば、その関係の天秤は逆に傾く。
話しぶりから考えるに、どうやらグリムは借金を背負っているらしい。
あまりグリニッジ侯爵領の資金繰りがよろしくないのは、領内にいる人間であれば誰でも知っているほどには有名な話だ。
だがそれがまさか借財をするほどだったとは、さすがのランディも考えてはいなかった。
しかも……。
(父上が話をしている相手からは……何か禍々しい気を感じる)
ランディの武人としての素質はそれほど高くない。
魔法はどれもそつなく使えるが、その身体に紋章はない。その力は一般的な魔導師と変わらぬ程度だ。
けれどそんな彼であっても、相手の気味の悪いオーラのようなものは感じることができた。
あれはよくないものだ。
ランディは即座にそう直感する。
(商人から金を借りるのならいい。けれど父は一体……何から金を借りたのだ? そして……何を招き寄せてしまったのだ?)
ランディは自分の存在が気付かれぬうちにその場を去る。
そっと足音を立てずに部屋を去る。
そのために彼が次の一言を聞き取ることができなかったのは、果たして幸なのか不幸なのか……。
「借金は返してもらわなくて結構。ですが代わりに……一つお願いがございます」
それからしばらくは、何も変わらぬ日常が続く。
けれどランディはあの時ドア越しに見た謎の男のことを忘れることはなかった。
彼はあのことを頭の隅に追いやるために、頭の中に別のことを詰め込むことにした。
それがグリニッジ侯爵領の領地経営に関する部分だ。
今まではどうせ何を学んでも父が跡を継がせる気にならなければ意味はないと軽くしかしてこなかったが、借金の二文字が頭から離れずに本腰を入れることにしたのだ。
「とうとうランディも次期領主としての自覚が芽生えてきたようだな。私は嬉しいぞ」
あの時にヒステリーを起こしていたのが嘘であるかのように、父の顔は朗らかだった。
そのことを訝しむランディだったが、すぐに彼の別のことで頭を抱えることになる。
それは父であるグリムの、あまりの放蕩経営っぷりについてだっただ。
父が以前から貴族思想―つまりは平民は貴族に従って当然という考え方―を持っている人間であるということは理解していた。
けれど事実は彼の想像のはるか下をいっていた。
そもそも完全に税収を把握することもできておらず、部下の報告を信じすぎている。
食糧不足が起きても金を出すだけで、それがどこまで領民に行っているかなどはまったく把握できていない。
恐らくかなりの部分が、代官や徴税官の懐に入っているはずだ。
こんな状態では、まともな税収が期待できるはずもない。
借金を負うべくして負ったと言えるだろう。
正直なことを言えば、直訴をして現状を変えたかった。
けれどそんなことをしてしまえば、プライドの高い父が何をするかわからない。
侯爵を継げる人間は、何もランディだけではない。
ランディが下手に反抗しても、嫡子が次男に変わるだけだ。
そして最悪なことに、次男は父に似て育っていた。
(僕が……我慢するしかないのか)
歯噛みする彼は、何も言わずにただ時間が流れるのを待つことにした。
ランディが次期領主となり、そしてマリーと結婚することさえできれば事態は大きく好転する。
マリーの父であるアナスタジア公爵家とよしみを通じることができれば、そこから興せる事業などもあるだろうし、優秀な代官を融通してもらうこともできるだろう。それに最悪借金の肩代わりを頼むことだってできる。
現状を打開するために必要な婚姻。
けれどそこには打算だけではない、純粋な恋心も含まれていた。
ランディは以前パーティーで一目見た時に、マリーに惚れていた。
こんなにかわいらしい子がこの世にいるのかと、世界の神秘に思いを馳せるほどだった。 一目惚れした相手が己の婚約者だと気付いた時には、小躍りしたものだ。
ランディが悶々としているうちに、再び事態は動き出す。
なんと侯爵家に、マリーがやって来たのだ。
けれど事態はやはり、予想のはるか下をいったのだった……。




