侯爵家の異変
時を少し戻し、未だマリーが連れ去られるより前のこと。
グリニッジ侯爵家が領都であるグリニデで、一人の少年が遠くを見つめていた。
街の中でも一際大きく豪華に誂えられている屋敷の屋上に立っている彼は、何を言うでもなく、ジッと眼下の光景について思いを馳せている。
「……」
グリニッジ侯爵の本邸は、バーゲルスベルクの最も高い丘の上に建てられている。
ここに暮らす市民の様子を一望することができるように――先々代の侯爵がそんな思いから建てたこの場所は、今ではその役割を大きく変えつつあった。
グリニッジ侯爵が嫡子、ランディ・フォン・グリニッジは一人領都の街並みを見下ろす。
双眼鏡を覗き込めば、そこには暗い表情を浮かべる領民達の姿がある。
グリニッジ侯爵領は領都バーゲルスベルクに暮らす民達の顔は、一様に暗かった。
侯爵領の中央部にほど近いこの土地は、東西南北に目を光らせることのできる要地だ。
――そもそもの話、グリニッジ侯爵領はユグディア王国の中央部に位置している。
北を向けば魔物討伐と新たなる領地の開墾に余念のないエドゥアール辺境伯が。
東へ行けば力こそないものの未だその権威の衰えていない国王の治める天領がある。
西へ行けば、ここ最近関係性は悪化する一方だったアナスタジア公爵領がある。
南へ行けば緩衝国家群があり、そこを抜けた先にはヴァナルガンド帝国とクリステラ聖王国がある。
グリニッジ侯爵領は四方を別の領地によって囲まれている。
そのために魔物の被害はかなり少なく、軍備にかかるコストが他の大貴族と比べるとずっと少なく済んでいた。
だがその分だけ楽かと言われれば、決してそんなことはない。
ただでさえ王国内の貴族の関係性は決して良いものではない状況で、別国家との窓口も担当しなければならないような状況下。
油断のできない外交を続けなければならない、難しい立ち位置となっていた。
だが侯爵領は、各地の交通の結節点である。
外交上の問題を解決し、内政の経営に注力することができれば、貿易や交易の中継地として栄えることができるだけの可能性を秘めている。
では現状はどうかと言われれば……領都の現状を見れば、答えがわかる。
「……民は、苦しんでいる」
その顔に、いつも社交場で見せるような快活な表情は浮かんでいない。
ランディは悔しくてたまらないといった様子で、歯を食いしばりながら民の様子を見つめていた。
ここで領都の人々のことを見つめるのは、ここ最近の彼の日課だ。
その統治が上手くいっているか否かは、民の様子を見ればわかる。
ランディは祖父から言われたその言葉を信じ、なかなか屋敷を出ることのできない中でも、毎日屋敷の屋上から領都を見つめている。
彼は立派な領主になるために頑張ってきたのではなかったか。
しかし現状はどうか。
民は疲れ、侯爵領は疲弊しており、繁栄していた過去は見る影もない。
(どうにかしなくてはいけない……嫡子の身故に爵位はないが、今の僕にだってできることはあるはずだ)
父であるグリニッジ侯爵は既に齢五十を超えているが、家督を譲る気はまったくないようだった。
ランディは今しばらく、現在の地位に甘んじなければならない。
嫡子の身分では、父に対してあまり強い言葉を使うこともできない。
そんなことをして嫡子の立場すら奪われてしまえば、本当に何もできなくなってしまう。
現在の彼ができる、唯一と言っていいこと。
それは放蕩に耽り自身は遊んでばかりいる父の名代として、可能な限り貴族としての役目を果たすことだ。
故に彼は社交界に出続けている。
しかしそれだけでは、余所からの評価が多少マシにはなっても、根本的な解決には至らない。
(やはり今のままではダメだ。――直談判、するしかない)
覚悟の決意を秘めたランディが、父の執務室へと入る。
奇しくもそのタイミングは、ロンド達とアルブレヒトが戦い始めたそのタイミングであった。
彼がノックをしようとしたところで、部屋の内側から声がする。
そこでは父と見知らぬ人物が会話をしていた。
「困りますなぁ、グリム卿。――返すものはきっちりと返してもらわねば」
「わ、わかっている! 返せばいいのだろう、返せば!」




