池
アナスタジア家の裏庭には、小さな池がある。
庭師が丁寧に手入れをしている庭は、日によって様々な色を見せる。
苔むした岩は長い時間が経ったかのような年月を感じさせることもあれば、その緑が溢れる生命の力強さを感じさせてくれることもある。
ロンドはそんな池を、ぼうっと見つめていた。
見る人によってその在り方が変わる池を見て、何を抱いているのか。
本人を除いて、それが理解できる者はいない。
(俺は負け、マリーは攫われた……結果だけ見ればそれが全てだ)
彼の身体には、いくつもの傷痕がある。
魔法による切り傷や、打撃による打撲痕。
痛々しい傷だが、彼の心を悩ませるのは肉体的な痛みではなかった。
それは精神的な痛み。
毒魔法を使っても癒やすことのできない、心の傷だ。
ロンドは夕暮れにさしかかるアナスタジア公爵とのやり取りを思い出す。
「王家を通じて抗議はする予定もない……グリニッジ侯爵家の言い分を、全面的に飲むべきだ」
「――そんなっ!? マリー様が攫われて、何もしないというのですか!?」
「……ああ。忸怩たる思いはあるが……こうなってしまえば、私は動けない。だからこそ速く動こうとしたわけだが……向こうの方が一枚上手だったというわけだ」
グリニッジ侯爵は、黒い噂の絶えない人間だ。
彼にとって都合の悪い情報を集めるのに、苦労はほとんどかからなかった。
二重帳簿から非合法な薬品の売買、果てには売国紛いの行為まで……彼が手を染めていた悪事は、非常に多岐に渡る。
情報の裏を取り、宮廷内の貴族達に事前に根回しを行い、後は王家へ直訴をしてから糾弾すればいいというところまでいっていたのだ。
けれどここにきて、侯爵は強硬手段に出た。
しかもそこには、更に悪いことが重なる。
「まさかヴァナルガンド帝国の人間を引き入れるとはな……そこまでしてでも、戦力が必要だったということか」
現在ロンド達が暮らしているアナスタジア公爵領は、ユグディア王国の国王との封建によって統治をしている。
ユグディア王国の隣にあるのが、大国であるヴァナルガンド帝国だ。
非常に野心的な国であり、いつでも外国につけいる隙がないかを窺っている。
ただし内側での共食いも苛烈であり、幸いなことに未だその矛先がユグディアに向くことはなかった。
グリニッジ侯爵がやっていた悪事の中には、王国に災いを引き起こしかねないものがあった。
その内容は――彼が秘密裏に行っていた、ヴァナルガンド帝国との内通だ。
侯爵は彼の国から、援助を受けていた。
マリーを攫ったアルブレヒトは、帝国でかなり名の通った魔法使いらしい。
どうやら今回、侯爵はとうとう帝国から武力まで借り受けたらしい。
今後のことを考えれば悪手としか言いようがないが、実際それでマリーを攫うことには成功している。
そして愛する娘を奪われたことで、アナスタジア公爵であるタッデンはかなり意気消沈していた。
「今すぐにマリー様を取り返しに行くべきです!」
「そんなことをして、マリーにもしものことがあったらどうする? 今の私には、向こうから言伝がやってくるを待つ以外に選択肢などないのだ……」
もし今強引に動けば、マリーがどんな目に遭うかわからない。
その可能性があるというだけで、タッデンはまったく身動きが取れなくなってしまう。
これを見越して動いていたというのなら、なるほど侯爵もなかなか強かな男と言える。
「それに……仮に秘密裏に助けに向かったとしてもだ。今の我々に……あの魔法使いを倒すだけの戦力がない。大規模な紛争を起こせない以上、手の打ちようがない」
ロンドがマリーの救出を訴えても、とりつく島もない。
とぼとぼと部屋を出たロンドは、まるで魂が抜け落ちてしまったかのように、ジッと池を見つめていたのだった――。
(守るって、約束したのに……このざまだ)
乾いた笑いをこぼすロンド。
自分が情けなくてたまらなかった。
力が足りなくて。
約束を守れなくて。
何もできなくて。
それが悔しくて悔しくて。
気を緩めれば、涙がこぼれてしまいそうだった。
ドスンッと何かが落ちるような音。
隣を見ればそこには……。
「なんという不甲斐ない顔をしているのだ、お前は」
未だ傷の痛みに眉を顰めている、アマンダの姿があった――。