44 妖精の過ち
誰かの泣いている声がする。
ペリーウィンクルはまたか、と思った。
きっとこれは、いつもの悪夢。
泣いているのは幼い時の自分で、祖父母と父の元婚約者に害されたのか、もしくは両親がいない寂しさから泣いているに違いない。
(きっと目を覚ましても、ヴィアベルはいない。それならこのままずっと、夢の中にいようか)
ペリーウィンクルが再び意識を深く沈めようとしていると、涙まじりの声が彼女を呼んだ。
「ペリーウィンクル様、ペリーウィンクル様。お願いです、どうか起きてください」
ユサユサと体を揺さぶられて意識が浮上したペリーウィンクルは、うっすらと目を開いた。
(ああ、起きちゃった)
残念だ。このまま悪夢に身を任せていたかったのに。
そうしたら、ヴィアベルがいないことを悲しまなくて済む。
ぼんやりした頭でそんなことを考えていたら、声の主が焦り出した。
「ペリーウィンクル様。お願いですから、起きてください。はっ! も、もしや死んでいませんよね⁉︎」
ふわふわした毛玉のようなものが、ペリーウィンクルの胸に押し当てられる。
首筋にあたる感触がこそばゆい。
ペリーウィンクルは思わず吹き出しそうになった。
「くすぐったい」
払い除けようと、ペリーウィンクルが体を起こす。
「わあぁぁぁ!」
こん、ころり。
体に乗り上げていた生き物が、叫び声を上げながら転がり落ちる。
彼女の前に、タンポポ色をした毛玉がコロリと転がった。
「おぅ、もふもふ……」
大きさは、ペリーウィンクルの両手に収まるくらいだろうか。
毛玉は「いてて」と言いながら、みょーんと背伸びをするように体を伸ばして、後ろ足で立った。
(かっ、かわいい〜〜!)
蜂蜜色のくりくりとした目が、ペリーウィンクルを見上げる。
小さな鼻を忙しなくヒクヒクさせるその姿は、どう見ても長いお耳のウサギさんだ。
「ああ、良かった! このまま目覚めなかったらどうしようかと思っていたのです」
もふもふのおててを、これまたもふもふのほっぺたに押し当てて、ウサギは変顔になりながら「えへへ」と笑った。
あざとい。だがしかし、とてもかわいい。
さきほどまでの陰鬱な気分が吹っ飛んでしまうくらいの衝撃である。
ペリーウィンクルは二足歩行の愛らしいウサギを前にして、プルプル震えた。
彼女の悪い癖だ。かわいいものを前にすると、あらゆるネジが緩んでしまう。
もしもヴィアベルがこの場にいたら、呆れていたに違いない。
「わぁぁぁ! かわいいうさちゃん、どこから来たの?」
「む! かわいいうさちゃんではないのです。わたしの名前はスヴェート。ひだまりの妖精です」
「スヴェートって……リコリス様と契約している?」
「ええ、ええ、そう通り。わたしが契約しているのはリコリスです」
「えっと。そのスヴェートは、どうして私を起こしているのかな? それに、ここはどこ? 私、部屋で寝て……」
言いかけて、ペリーウィンクルはピタリと止まった。
「違う。そうじゃない」
ペリーウィンクルは確かにベッドへ横になっていたが、寝ていたわけじゃない。
「ベッドで寝ていたら何かに襲われて……それで……」
どうして忘れていられたのだろう。
思い出すだけで身震いしてしまうほどの恐怖。
おぞましい。
まさにその言葉にぴったりの生き物だった。
「ええ、そうです」
訳知り顔で頷くスヴェートに、ペリーウィンクルは慎重に問いかけた。
「あれは、なに?」
「名もなき生き物です」
「え?」
「あれは、絶対に生まれてはいけない生き物です。絶対に生まれてはいけないのに、わたしは生み出してしまいました。あの子が言うからやってみたけれど、やっぱり禁忌は禁忌だった」
わたしは禁忌を犯しました、とスヴェートは言った。
名もなき生き物。
それは、妖精が生まれる誕生花が生む、もう一つの存在である。
『栄養剤や肥料を与えられた誕生花から、妖精は生まれない。そこから生まれるのは、誰からも望まれない、忌まわしい存在……』
以前、ローズマリーはそう言っていた。
聞いた時はなんてかわいそうな生き物だろうと思ったが、対峙してみたらわかる。
あれは絶対に生まれてはいけないものだ。
だって、アレは明らかに──、
「私を食べたがっていた」
真っ黒いドロドロとした生き物が、グパァと大きな口を開ける。
真っ暗な穴の中に鋭く尖った歯のようなものが見えたのを思い出して、ペリーウィンクルは青ざめた。
「ええ、そうです。あれは、あなたとヴィアベルを食べようとしています」
「どうして……? 私やヴィアベルが何かしたっていうの?」
「いいえ。あなた方にはなんの罪もない。全ての元凶は、わたしにあるのです」
「あなたが元凶なのに、どうして私たちが狙われるのよ」
「それは、わたしが誕生花に、あなた方が作った栄養剤を使ってしまったから」
スヴェートは、卒業試験が始まるよりずっと前から、誕生花の種を育てていた。
それは、契約したリコリスが、
「誰よりも早く卒業試験を突破して、一流の妖精使いとして認めてもらいたいの。そうしたら、わたしが誰と結ばれたって文句は言えないでしょ? そう、たとえばそれが、王子様だったとしてもね」
と願ったせいである。
しかし、誕生花は妖精の力だけでは育たない。
人と妖精、双方が世話をすることではじめて成長する植物なのだ。
スヴェートが何度頼んでもリコリスは世話を一切せず、しかも種からは苦しげな声が聞こえるばかり。
思い悩んでいた時、たまたまペリーウィンクルがリコリスの箱庭で栄養剤を使っているところを見て、これだ! と思ったらしい。
誕生花に栄養剤を与えてはいけない。
禁忌だとわかっていたが、なによりも種自身が「あれがほしい」と言ったので、与えてしまったのだという。
ひとり立ちしたばかりの若い妖精であるスヴェートは、妖精たちに伝わる禁忌の話を本気にしていなかった。
今回の件は、スヴェートが禁忌を軽んじていたために起きたことだったのである。