42 閑話
ある夜のことだった。
微かに聞こえる金属音に、ベッドに横になっていたペリーウィンクルのまぶたがパチッと上がる。
「なにごと……?」
ムクッと起き上がる彼女に、眠そうなそぶりはない。
それもそのはず。彼女は寝ていなかった。
眠ろうと努力している最中だったのだ。
ヴィアベルから「距離を置こう」と言われた日の夜から、ペリーウィンクルは眠れない夜が続いていた。
自分の何がいけなかったのか。考えれば考えるほど駄目なところばかり思い起こされて、腹が立つ。
睡眠不足が続き、気絶するように寝落ちると、悪夢を見た。
そして、今までだったら必ずあった優しい体温が隣にないことに気がついて、それ以上眠ることができなくなる。
そういう時はいつも、キッチンでチーズとオレガノのクッキーを焼く。
そして、匂いにつられてこっそり来たりしやしないかと期待しながら、誰にもわからないような場所にこっそり置くのだ。残念ながら、この数日の間にやって来た形跡はなかったが。
ペリーウィンクルが耳を済ませていると、今度はローズマリーの叫び声が聞こえてきた。
(さて、どうしようか……)
正直なところ、駆け付けたい気持ちと無視したい気持ちが半々だ。
ローズマリーが嫌いになったわけじゃない。だけどやっぱり、一度拒否されてしまうと身構えてしまうものだ。
ヴィアベルは、すぐに妖精王の茶会の中止をローズマリーへ通知してくれた。
彼から別れを告げられた翌日、ローズマリーはペリーウィンクルの前でそれは綺麗な土下座を披露したのだ。
「申し訳ございませんでした」
そう言って床に額を押し付けんばかりに深々と頭を下げた彼女に、ペリーウィンクルは一瞬何が起こったのか理解できなかった。
おかしな話だが、あまりに華麗な土下座だったものだったから、土下座だと理解しきれなかったのだ。
ローズマリーは……いや、前世の彼女は、おそらく数えきれないくらい土下座をしてきたのだろう。
彼女もペリーウィンクルと同じ元社畜の転生者。前世については社畜だということしか教え合っていないが、彼女は彼女でペリーウィンクルとは違った苦労をしてきたことが、土下座から窺い知れた。
「頭を……上げてください、ローズマリーお嬢様。あなたは、そんなことをしてはいけません」
「いいえ、やめないわ。だってわたくしはあなたにひどいことをしたもの。ひどいことを言ったもの」
「良いんですよ。お嬢様は貴族なんですから」
「いいえ。ちっとも良くない。それに……わたくしは……いいえ、私は、ただのローズマリーとしてあなたに謝っているんじゃない。前世社畜で転生者であるあなたに、滝本なお兼ローズマリーとして謝りたいの」
「滝本なおって……お嬢様の前世の名前ですか?」
「そうよ。毎日毎日頭を下げてばかりの冴えない女だったわ。私にできることは、土下座くらい。だから、こうするの」
そう言って、ローズマリーは丁寧に頭を下げた。
屈辱的な姿だというのに、ペリーウィンクルは綺麗だと思った。
「私、あなたのことは前世からの戦友のように思っていたの。苦労して、過労死して、この世界に転生して……巡り合えたことは運命だと思っていたわ。でも……私、あなたに嫌われたくなくて、隠し事をしていたでしょう。あなたは気にしないって言ってくれたけど、私自身は後ろ暗くて仕方がなかった。勝手に勘違いして、あなたを罵って、突き放して。違うってわかったら、こうして土下座して。あなたは迷惑だって思うかもしれない。私の自己満足に付き合わされて、面倒に思っているでしょう。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。それでも私は、あなたが必要なんです」
「それは……婚約破棄をするために、ですか?」
意地悪な質問だ、とペリーウィンクルは思った。
これに乗じてちょっと困らせてやれ、という気持ちがあったのかもしれない。散々振り回されてきた、そのお返しに。
「正直に言えば、それもないわけじゃない。でもそれ以上に、仲間を失うことが恐ろしいのよ。このゲームの世界で私みたいな存在が私だけじゃないということが、大事なの」
「よく、わからないのですが」
「私も、よくわからない」
「なんですか、それ」
「なんなのかしらね。これは私の我儘でしかないけれど……あなたには婚約破棄まで見届けてもらいたい」
グズン、とローズマリーが鼻をすする。いや、滝本なおと言うべきか。
ペリーウィンクルは彼女の言い分がよくわからなかった。
そして、彼女もよくわからないと言う。
だけど、謝りたいという気持ちはひしひしと伝わってきた。
『謝りたいと思った時、謝りたい相手がいなかったら悲しいだろう?』
ずっとずっと昔、祖父が言っていた言葉が脳裏をかすめる。
祖父は、許さなくても良いと言っていた。
(じゃあ、私は? ローズマリーお嬢様を……滝本なおさんを許さない?)
許すか、許さないか。
今すぐには決められない。
だって、よくわからないから。
ペリーウィンクルに言えるのはこれだけだ。
「わかりました。誓いましょう。私は必ず、あなたの婚約破棄を見届けます」
あれから数日が経ったが、ヴィアベルのことで頭がいっぱいでローズマリーのことは後回しになっている。我ながら、ひどい女だ。
ペリーウィンクルの耳に、またしても金属音とローズマリーの悲鳴が聞こえてくる。
一体彼女はなにをしているのか。聞こえてくる音の方角からいって、彼女はキッチンにいるようだが……。
ペリーウィンクルは疲れたため息を吐いて、ベッドから降りた。
ペリーウィンクルがキッチンに行ってみると、中は大惨事だった。
今ここでマッチを擦ったら、ドカンと粉塵爆発が起こるに違いない。
「なにをやっているんですか」
ペリーウィンクルがローズマリーに近づくと、彼女は「きゃっ」と悲鳴をあげてしゃがみ込んだ。
台の上にあった麺棒が転がって、ローズマリーの頭上へ落ちそうになる。
ペリーウィンクルはとっさに手を伸ばし、麺棒をキャッチした。
「危ないじゃないですか」
「ごめんなさい……!」
土下座をして以来、ローズマリーはペリーウィンクルに嫌われまいとしているような言動を繰り返している。ビクビク、オドオド。彼女らしくないったらない。反射的にに謝ってしまうのも、それゆえだろう。
「怒っているわけではないのですが……あの、本当に、何をしていたんです?」
「クッキーを、焼こうと思って」
「食べたいなら私が焼きますから、言ってください」
「違うの……わたくしはあなたにプレゼントしたくて」
ペリーウィンクルはこのやりとりに既視感を覚えた。
一体いつの出来事と重ねているのだろうと思い返して、幼い頃の自分だったと思い至る。
どうして彼女はこんなに必死なのだろう。
そんなにペリーウィンクルが大事なのだろうか。
(いや、大事なんだろうなぁ)
今のローズマリーは、あの時のペリーウィンクルと同じだ。
ヴィアベルが祖父の前から去ろうとしていたあの時同じ。
彼女はペリーウィンクルが離れていくことを恐れている。
そう思ったら、不思議と気持ちが楽になった。
「は、はは……」
突然笑い出したペリーウィンクルに、ローズマリーが困惑の表情を浮かべる。
「ねぇ、ローズマリーお嬢様」
「はい」
神妙な顔をして返事をするローズマリーが、おかしくてたまらない。
たぶんペリーウィンクルは、おかしくなっているのだ。寝不足でハイになっている自覚はあった。
「ふふ。はい、だって。お嬢様らしくないこと、やめてくださいよ。調子狂うじゃないですか」
「でも……」
「私、前世からローズマリーが推しなんです。今のあなたよりずっとずっと性格が悪い時から、大好きだったんですよ? だから、今更ちょっと突き放されたくらいで嫌いになれるわけ、ないんです」
ローズマリーの顔が、グシャリと歪む。
らしくもなく顔を歪めて子どものように大声を出して泣き出した彼女を、ペリーウィンクルは腹を抱えてゲラゲラ笑った。
そんなペリーウィンクルにローズマリーは「ひどい」と言いながらもっと泣いたが、最終的には一緒になってゲラゲラ笑っていたから、たぶんそれで良かったのだ。