31 妖精と不幸な女の子②
「……少し風を起こしただけだろう。これくらいのことで対価を要求するほど、私は狭量ではない」
「きょう、りょう?」
「気にするなということだ」
ヴィアベルがツンとそっぽを向きながらそう言うと、ペリーウィンクルは「ありがとう、妖精さん」と小さく笑った。
子どもとは思えないはかなげな笑みに、ヴィアベルの胸がキュウッと締め付けられる。
ぷっくりとした小さな手で胸を押さえていると、ペリーウィンクルが「あ!」と声を漏らした。
思わずビクリと体をかたくするヴィアベルの前で、彼女はワタワタとミトンをつけてオーブンの扉に手を伸ばす。
分厚い扉を開くと、熱気とともに香ばしいチーズとハーブの匂いがブワリと漂い、キッチンを満たした。
天パンを両手で持ち上げたペリーウィンクルは、「んっしょ!」と台の上へ置く。
焼き上がったクッキーを見て、彼女は落胆したようにため息を吐いた。
納得がいっていない。と、そんな態度のペリーウィンクルに、ヴィアベルもどれどれと近寄る。
天パンの上には、お世辞にも綺麗とは言い難い歪な形のクッキーが並んでいた。
「このクッキーは、私のために作ったのか?」
「うん、そうだよ。バジルとチーズのクッキー」
「私はオレガノの方が好みなのだが……」
ヴィアベルの口から、ついて出た言葉。
うっかりとしか言いようのない失言に、誰よりもヴィアベルが狼狽えた。
言うべきではなかったと、今更ながらに「バジルも嫌いではない」だなんてフォローしたって、もう遅い。
またいつものようにビービーメソメソ泣いてしまうか⁉︎ と焦るヴィアベルに、しかしペリーウィンクルは泣かなかった。
「……私って、なんにも知らないんだなぁ。パパのことも、ママのことも……おじいちゃんやあなたのことだって、私、なんにも知らない。ねぇ、あなたは知っている? 知らないってとても怖いことなのよ」
ヴィアベルは、六歳の女の子という生き物をよく知らない。
知らないが、幼い子どもはこんなことを言うものなのだろうかと疑問が浮かんだ。
(知らないことが怖いだなんて、大人でさえ言わないぞ……?)
間違いではない。
間違いではないが、それをまだ子どもの彼女が言っているということが、どうしようもなくつらくなった。
ヴィアベルの胸は再び締め付けられるようにキュウッとなり、同時に言いようもない不快感に襲われる。
「知らないことで、失敗したり、傷つけたりすることはままあることだろう」
「私が知らなかったから、パパやママは死んじゃったのよ」
「そんなわけがないだろう」
「だって、言われたもん。おじいちゃんとおばあちゃん、それからパパの婚約者だったっていう人に」
泣いている方がまだマシだと、そう思う日がくるなんてヴィアベルは思いもしなかった。
つぶやいたペリーウィンクルの顔からは表情が抜け落ちていて、人形のように静かだ。
ヴィアベルは彼女のことをオモチャのように思っていたが、こんな顔は嫌だと思った。
(人はこういう時、どうするものなのだ⁉︎)
その時ふと、天啓かのようにヴィアベルの脳裏をある言葉が過ぎった。
フィンスターニスの言葉だ。
『その時がきたら、優しく抱きしめてあげるんだよ。人は壊れやすいからね。大事なら殊更優しくしないといけないよ』
思い出してしまえば、もう駄目だった。
頭の中はそれこそが正解だと言わんばかりで、フィンスターニスが言った「その時」がいつかなんて、考えている時間さえ無駄に思える。
それが、ヴィアベルが番を“選んだ”瞬間だった。
聞き及んでいた通りの現象が、自らの身に降り掛かる。
はじめて手に入れた人の姿で、ヴィアベルはペリーウィンクルへ手を伸ばした。
ポカンと口を開けていた彼女は、何が起こったのかわからず呆然としたままだ。
探り探りゆるく抱きしめると、息を飲む音が聞こえてきた。
それから、雨に濡れた子猫みたいに、腕の中に囲ったペリーウィンクルが震えだす。
「大丈夫だ。痛くしない」
できる限り優しく言ってみても、ペリーウィンクルは怯えたままだ。
宥めるように背中をさすっても、それは変わらない。
人よりも長く生き、人よりも強い力を持ち、なにもかも人より優れているはずなのに、番を安心させることもできない。
無力な自分に、ヴィアベルは腹が立った。
(いや、ここからだ。ここから、挽回していけば良い)
ヴィアベルもペリーウィンクルも、落ちるところまで落ちている。
それならあとは、這い上がればいい。
結局、その時はペリーウィンクルが我慢しきれずに泣き出してしまい、起きてきた契約者に不審者だと勘違いされて飛びかかられた。
当時幼かったペリーウィンクルを番認定したから人化しましたなんて、幼女趣味の疑いをかけられそうで素直に説明できるわけもなく。
ヴィアベルは「力があるから人の姿にもなれるのだ」と、妖精が聞いたらゲラゲラ笑いそうな偽りの説明をする羽目になった。
そのあとは、坂を転がるように真っ逆さま。
これまでの塩対応はなんだったのかと思うほどに、ヴィアベルは過保護な妖精と化した。
ペリーウィンクルは、そんな彼に甘やかされることに最初は泣くほど戸惑っていたが、次第に受け入れるようになり、少しずつ今の彼女へ近づいていった。
今のペリーウィンクルがどこにでもいるようなただの女の子に見えるのは、ヴィアベルの過剰な献身のおかげである。
そうでなければ、両親の事故死から引き起こされた一連の不幸と、引き取ってくれた祖父の死を、彼女が乗り越えることはなかっただろう。
(だがなぁ……)
最近は、少しばかり自立心旺盛なことがヴィアベルは気になっていた。
しかし、彼女はすでに中央の国の中だ。
つい先日など「殺す気か」と恥を忍んで騒ぎ立てたところ、あっさり譲歩してくれたので、付け入る隙はばっちりあるだろう。
「対価、対価と……あの頃からあいつは変わらないな。ああ、そうだ。いいことを思いついたぞ。次にあいつが対価と言い出したら、望み通り要求してやることにしよう」
ニヤニヤと笑みながら艶っぽい空気を出すヴィアベルに、すっかり存在を忘れ去られていたフィンスターニスはやれやれと肩を竦めた。
ヴィアベルとペリーウィンクルの馴れ初めを聞かされるのは、もう何度目だろう。大まかに説明できるほどには覚えてしまっていると辟易したところで、フィンスターニスは「ああ、なるほど」と目を細めた。
「なんだ」
クツクツと笑うフィンスターニスに気付いたヴィアベルが、訝しげに彼を見る。
ヴィアベルは、細められたフィンスターニスの目の奥が、いたずらっぽく光ったような気がした。
こんな時の彼はろくなことを言わないことを、ヴィアベルは長い付き合いの中で嫌と言うほど知っている。
身構えるヴィアベルの前で、フィンスターニスは「心外だなぁ」と肩を竦めた。
「ヴィーの番が、恋破れた乙女たちに手を差し伸べる理由さ。面倒なことをしているなぁと思っていたが……両親の影響を受けてのことだったのかと合点がいっただけだよ」
「まだ、引き摺っていると?」
「どうだろうねぇ。そこまでは。けれど、そうだね。彼女が大事にしているローズマリーがソレルとうまくいけば……多少の影響はあるのではないかい?」
「ソレルと……うまくいけば……?」
「身近な者に恋人ができれば、自分も、と思うのはよくあることだろう?」
フィンスターニスの言葉は、そのほとんどが戯言である。
だが、今回に限っては珍しく的を射ているような気がした。
彼の言葉は、ごく稀にヴィアベルに転機をもたらす。
ペリーウィンクルを番に選んだ時も、そうだった。
「……」
「まぁ、どうするかはおまえの勝手だけれどね。さぁて、行くとしよう。じゃあね、ヴィー。番とうまくやるのだよ」
言いたいことだけ言うと、フィンスターニスは妖精姿に戻ってパタパタと飛び去る。
そんな彼の蝶のような翅を見送りながら、ヴィアベルは思案するようにしばし佇んでいた。




