第8話:不要なるもの
――ネモンテミ
邪神大陸の言葉で「不要なもの」「いらないもの」を意味する言葉である。
転じて、一年の内の最後の5日間のことであり、その5日間は不幸なことが起こる忌まわしいものであるとされた。
その忌まわしき呼び名を付けられた人々――チマルショチトルとその他の戦士達はイツァストルが自らの素性を明かした後、イツァストルとシウの手足を縄で縛り、今、彼らの集落まで戻ってきていた。
切り立った岩山の合間に作られた、露出した岩肌に木々がまばらに生えるのみの灰色の集落。
湖に注ぐ川の上流に位置するため、水にこそ困りはしないだろうが、決して住みよい土地とは言えないだろう。
チマルショチトルはそんな集落の、岩を組まれただけの簡素な小屋の前に向かうと、乱雑にイツァストル達を家の中へと押し込み、念を押すように言う。
「お前達の処遇は追って言い渡す。逃げようなどとは思うなよ」
「逃げないさ、俺はお前と交渉に来たんだからな」
さも平然と、そう言い返すイツァストルの態度に、チマルショチトルは呆れたように溜息をつく。
「またそれか……交渉の余地などあると思うな。我らはネモンテミ、国に捨てられた死を待つのみの戦士達だ。今更アストルコの王族に何を言われたところで響きはすまい」
チマルショチトルはそう言い捨てると、部下にこの小屋を見張るように指示を出した後、どこかへと去っていった。
逃げようとしても無駄だということだろう。
どちらにせよ、手足を縛られている為にどのみち身動きは取れないのだが。
ましてやポチともう一頭のアウィツォトルも連れていかれてしまったのだ。
イツァストルもこの状況を力ずくでどうにか出来るとは思っていない。
薄暗く冷えた岩の小屋でネモンテミの戦士達を見送った後、しばらくしてシウが恐る恐るといった様子で口を開いた。
「……ひょっとしてなんすけど……姫様がここに来たのって、ネモンテミの連中と会いたかったからだったりするんすか?」
「おっ、正解」
「正解じゃないんすよ!何やってんすか!」
飄々と答えるイツァストルに、シウが驚き戸惑いながら大声で言い返す。
「他の連中ならまだしも……ネモンテミっすよ!『臆病者』の敗北者じゃないすか!あんな奴らと話したら姫様の魂が汚れるっす!」
そう語るシウの口調には明らかに侮蔑と嫌悪の感情が込められている。
この岩山に暮らす彼らがネモンテミ――「不要なもの」と呼ばれているのにも理由があった。
彼らは生贄として神に捧げられる筈だったが、それから逃げ出した臆病な背信者達なのだ。
この大陸では国や地域によって差異はあるとはいえ、生贄として神に心臓を捧げるのは何よりも尊ばれるべき名誉である。
だが、それでも、全ての人間が躊躇いなく自らの命を捨てられるものではない。
生贄として選ばれながらも、自身の命を惜しみ、恐怖に抗えず、逃げ出した者達。
さりとて、逃げ出した上で帰る場所もなく、暮らす場所もない哀れで臆病な逃亡者。
それ故にこそ、逃げ出し、山賊や盗賊に身をやつす彼らをアストルコの人々はネモンテミと呼び、蔑むのだ。
「臆病者ね~……俺なんかは生贄になれって言われたらさっさと逃げるけどな」
「姫様!?」
「いやだって当たり前だろ、俺は俺の命が一番大事だよ、平穏に生きていくのが夢だしな!」
「一番平穏から遠いところに乗り込んできて何言ってんすか……」
キリッと真面目な表情で自分が大事と言い捨てるイツァストルに、シウが呆れたように空を仰ぐ。
イツァストルはシウのそんな反応を見て笑みを浮かべながら、ふふんと得意げに語りだした。
「平穏な夢を叶えるには別の危険に飛び込む必要もあるってことさ。立派な戦士になるのにだって体を鍛えるだけじゃなくて勉強もしないといけないだろ?」
「いや、俺はしてないっすけど」
「しろよ」
ぽかんと口を開けて言い放つシウに、今度はイツァストルの方が呆れて突っ込む。
すると、何かを思いついたのか、丁度いいやとばかしに悪戯っぽい笑みでイツァストルが問いかけた。
「そうだ、じゃあ勉強だ。俺が生贄を止めさせるためにネモンテミと交渉しよう、ってなったのはどうしてだと思う?」
「なんでって……あっ、そうか、ネモンテミは生贄から逃げた……つまり生贄が嫌いな連中……ってことは……」
少しの間、ううん、と頭を伏せて考えていたシウだったが、すぐさま何かを察し、イツァストルの方へ向き直る。
「まさか姫様、あいつらを味方につけて生贄を止めさせるつもりっすか!?」
「おっ、惜しい。けど……そうだな、あいつらを味方につけたとして、どうやって生贄を止めさせる?」
「えっ、それは……う~ん…………ネモンテミを率いて王の座を奪い取って……そんでみんなに止めさせるとか?」
「いや、するわけねえだろ、反逆者じゃん……こっわ……」
「姫様が考えろっつったんじゃないすか!?いや俺はそんなことしようと思ってないすよ!?」
考えた末にテロリストめいたことを言い出すシウに、イツァストルがドン引きしていると、慌ててシウがそれを否定する。
実際、ネモンテミを率いたところで到底役に立つとは思えない。
彼らが生贄から逃げた臆病者、というのを差し引いても、アストルコの兵力とは開きがありすぎるし、指揮官としてもアストルコには優秀な兄王アカテカトルや、副王アウェウェテがいる。到底、勝ち目は無いだろう。
尤も、国を乗っ取る理由も兄と戦う理由も無いイツァストルがわざわざ兵を率いて反乱などするわけもないのだが。
重ねて言うなら、王座を奪い取ったとして、生贄を止めるように号令を出したところで民が納得するかも微妙である。
問題は、神を信じ生贄を奉じる敬虔なアストルコの民たちを如何にして納得させるか。なのだ。
その話を聞いて、わかっているのか、いないのか、ふむふむと頷いていたシウがまた口を開く。
「結局のところ、ネモンテミを味方につけるのは確定ってことっすね……う~ん……姫様の護衛としてはあんな奴らと関わってほしくないすけど……ていうか生贄止めるのも……」
「シウも意外と頭が硬いよな、俺の護衛するんならもうちょい考え方を柔軟にした方が良いぞ?」
「それは確かに。アウェウェテ様だったら姫様の話聞くだけで憤死もんっすね」
そう言うシウに、二人は頑固な老副王の顔を思い浮かべる。
確かに、あの堅物ならネモンテミと会うどころかひっそりアストルコを逃げ出したのがバレた時点で大説教だろう。
戻ったら半日は怒鳴られるのを覚悟しないといけないかもしれない。
ともあれ、それを思い浮かべたことでシウも少し落ち着いたようだ。
やれやれ、といった様子で呆れた顔をしつつも、どこか明るい調子で続ける。
「ま、実際、姫様が突飛なことするのはいつものことっすからね。しゃーないっすから付き合うっすよ」
「サンキュ、さて、後はネモンテミがどう出るかだな」
「そこは心配しないでも大丈夫じゃないすかね、生贄が嫌なのは向こうも同じ筈っすし、事情を話せばすぐ協力してくれるんじゃないすか?」
「だな、ま、そのへんはあんま気にしても……」
と、どこかシウとイツァストルが和やかに話していると、ザワザワと話す人々の声が遠くから聞こえてくる。
その喧騒が徐々に近づいてきたかと思うと、ばさりと艶やかな黒髪をたなびかせ、ネモンテミの戦士、チマルショチトルが小屋へと足を踏み入れた。
チマルショチトルは小屋の中でちょこんと座るイツァストルとシウをじろりと眺めると、呆れたように口を開く。
「本当に逃げる気が無いのだな……これでも警戒していたのだが……」
「あんたと話すつもりで来てたからな、そんで、俺達の沙汰はどうなった?」
「ああ、それだが……喜ぶといい」
期待を込めた眼差しで見つめるイツァストルとシウに、チマルショチトルは淡々と続ける。
「今夜――お前達二人を、神への生贄に捧げる」