第6話:英雄談義
「お前、こっちに来てから、何人殺した?」
淡く光る月明かりの元、そう言い放つ少女を前にして少しの間、時が凍る。
しばしの間、何を言われたか理解できずに混乱していたエルナンドだったが、ようやく言葉の意味を理解すると、慌てて口を開く。
「そっ……王女様、わ、私は誰も殺してなんか……」
「ああ、そうか、言い方が悪かったな」
鼻息荒く、先程のイツァストルの言葉を否定するエルナンドに、イツァストルはまた髪を掻きあげながら、鋭い目線を投げかけ、続ける。
「お前と一緒に来た連中……船長から船員まで含めて、こっちの奴らを何人殺したかって話だ。アストルコの民のことじゃないぞ、他の……そうだな……お前たちが拠点にした海岸……じゃなきゃ島の民だ」
「そっ……れは……」
「何人だ?」
言葉に詰まるエルナンドに、相も変わらずイツァストルの冷たい視線が突き刺さる。
この未開の蛮族の筈の、不自由なく育った筈の少女が果たして、先程のエルナンドの話だけでどこまで現状への理解を深めているのか。
末恐ろしいものを感じながらも、エルナンドはごくりと生唾を呑みこみ、意を決したように忌まわしい事実を思い出し、口を開く。
「……おおよそですが――80名ほどかと」
「そうか」
エルナンドの意を決した告白に、イツァストルはただそれだけ呟くと、二人の間にしばし重苦しい沈黙が流れる。
「エルナンド、俺はお前個人のことはさっきの話である程度は信用した。けどな、他の連中は別だ」
静寂を破ったのはイツァストルだ。
俯くエルナンドの頭上から、澄んだ声が降りかかる。
「話してくれるか、お前がこっちに来てからのこと」
「それは…………いえ……話します」
エルナンドはそう言って顔を上げると、イツァストルの目を真っ直ぐに見据える。
そうして一つ、大きく息を吸い込むと、まるでここが教会の懺悔室であるかのように、ぽつりぽつりと、自身の罪を語り始めた。
―――――――――――――――――――――――
エルナンドを含む船員達がとある島に辿り着いたのは、サン・ティグレを出港してからおよそ3か月程経ってからのことであった。
出航した時には大型船3隻、船員も100名近くいたものだったが、辿り着く頃には船は1隻沈み、船員は60名程にまで減っていた。
そんな彼らの前に突如として現れたその島は、正しく天の助けである。探検隊の船長――ゴンサロ・ガランは即座に島に上陸するように指示を出した。
夢にまで見た陸地とはいえ、そこは全くの未開の地、警戒しながら上陸・調査を始めた彼らだったが、そんな彼らの前に現れたのは、友好的な原住民だった。
原住民たちは巨大な船でやってきた肌の白い人々に驚きはしたものの、敵対心や警戒心を示すことはなかった。
アストルコやサン・ティグレとは違い、一つの島に同じ部族のみが暮らす彼らの間では基本的に争いが起こることはなかったのだ。
更に言えば、島にはアウィツォトルやシパクトリのような危険な魔物も生息してはいなかった。
珍しい客人が現れた、と、喜んだ彼らは、宴を開き、船員達に腕によりをかけた料理を振舞い、彼らの生み出した妙な文化を嬉々として紹介してくれたのだ。
それは動物を象った奇妙な形の壺であったり、奇妙な苦みのある独特な風味の酒であったり、あるいは大きな葉で包んで蒸した練り物だったり、木材を粗く削って作られた太鼓の音色だったりした。
一日を通して行われた興味深い宴は、エルナンドの好奇心を刺激するには十分すぎる程の冒険の記録だったが、しかし、それらに守るべき価値を感じていたのはエルナンドだけだったのだろう。
日が沈み、宴で皆が騒いで寝静まる夜。
招き入れてくれた原住民の家で眠りこけていたエルナンドは、突如として夜の静寂を切り裂くように響く女性の悲鳴で目を覚ました。
まさか敵襲か、平和に見えたこの島でも、敵国や盗賊の襲撃が起こるのかもしれない。
そのような想像をしながら慌てて銃を手に飛び起き、家を出たエルナンドだったが――その視界に映ったものは、先程まで自分たちを歓迎して宴を開いてくれた村長の首を手に笑う船長、ゴンサロ・ガランの姿だった。
見ると、赤々と篝火の焚かれた辺りには、至る所に原住民の血と死体が溢れ、仲間の筈だった船員達が、悲鳴を上げながら抵抗する村の女を無理矢理に組み伏せ、犯している姿が見える。
昼間とは逆の地獄と化したその村の有様に、理解が追い付かずに固まるエルナンドだったが、そのエルナンドに気付いたようだ。ゴンサロがエルナンドに声を掛ける。
「よう、エルナンド、今起きたのか!残念だったなあ、もうちょい早く起きてりゃお前も楽しめたのによ!」
笑顔を浮かべそう語るゴンサロは、言いながら首元にぶらさげたいくつもの装飾品をエルナンドに見せつける。
美しい宝石を加工して作られたそれらは原住民から略奪したものだろう。
その装飾品を、うっとりした様子で愛でるように撫でると、ゴンサロは上機嫌な様子で、しみじみと語りだす。
「ここは良い村だよなあ、エルナンド。真水もあって海も近けりゃ危険な魔物も盗賊も他国の軍もいない!しかも辺りにゃ豊富な食物に、住んでる男は弱っちいと来たもんだ!神様ってのはいるもんだ!さしずめ俺達は敬虔なる神の使者だな!」
そう言って豪快に笑うゴンサロだが、辺りの船員達の様子は神の使者などと到底呼べるようなものではない。
少なくとも、エルナンドには彼らの今の姿は神どころか、暗闇に潜み村を襲う下劣なゴブリンのようにしか見えなかった。
あまりの衝撃で一歩も動けず、言葉も発せずに固まっていたエルナンドだったが、何が起こったのかをようやく呑み込むと、ゴンサロに向かって叫んだ。
「な……何故こんなことを!?どうして私達を歓迎してくれた、この優しい人々を襲ったんです!船長!」
「何故って……襲っていい村があったからだが?」
激昂するエルナンドに、ポカンとした顔で、まるでそれが日常のことかのように返すゴンサロ。
あまりの価値観の相違に、困惑しながらもエルナンドは問いかける。
「襲っていい村……?」
「おう、見ればわかるだろ、こいつらは人間じゃない」
「……は?」
「だってそうだろう?俺達人間と違って――肌が黒い。それに言葉も通じない、当然だ、奴らは人間じゃないからな。だから俺達とは違うものを食べて、飲んで、何より全く違う神を信仰している。邪教の神だ。そういう奴らはな、ただの野蛮な魔物だ。お前はゴブリンが出た時に殺さないで仲良くするのか?」
ゴンサロはさも当然の如く、淡々と、自分達と彼らの違いを語っていく。確かにそうだ。
彼らとは肌の色が違う。言語が違う。文化が違う。神が違う。
だが、だからと言って自分達を歓迎してくれた優しい人々を虐殺しても良い理由にはなっていない。
ましてや、それを理由にするなら、サン・ティグレにも他国から旅をしてきた異国人や、それこそエルフやドワーフ等の異人種だって存在はするのだ。
だというのに今回の彼らに限っては一方的に邪教の信者として語り、さも当然の如く殺し、犯し、奪い取る。
ゴンサロの語りはエルナンドからしたら、単なる詭弁としか思えなかった。
ただ無理矢理に略奪する理由を求めているとしか――そこまで考えて、気付く。
いや、まさかと口元に手を当て、冷や汗を垂らすエルナンドだったが、その様子に気付いたのだろう。ゴンサロもにやりと、満面の笑みを浮かべ、語り掛ける。
「そうだ、エルナンド。こいつらは邪悪な魔物で、俺達がやっていることは魔物を滅ぼす聖戦だ。『そういうこと』にしておこう!」
サン・ティグレの周辺には他にもいくつかの国があり、それらは決して互いに仲が良いわけでもない。
だからといって下手に戦を起こしたりといったことも難しい。
同じ大陸に点在する国家は多少の差はあれど、基本的に軍事力・科学力共に同程度の国家であり、迂闊に攻めたところで簡単に土地を奪えるものではないからだ。
それに他国の干渉もある。サン・ティグレ近辺の国家と、その国民は、基本的にはどれも同じ神を信じる愛すべき隣人なのだ。
それら同民族の土地を一方的に奪えば他国からの批判と干渉は免れない。
故に国境沿いの小競り合い程度の干渉はあったとしても、ここ数十年、サン・ティグレ周辺ではどこかの国家が突出して土地を拡大することは難しい状況になっていた。
しかし、ここで仮に――『誰の物でもない土地』が発見されたとしたら?
国交のある他国とは関係の無い、海を隔てた遠い土地だ。
それを見つけた人間と、その国家が調査した土地を切り取ったとしても、他国との戦争に発展することも無い。
例えそこに、元々住んでいた人々が存在していて、別の人種の国家があったとしても――『そんなものはいなかった』と言ってしまえばそれでおしまいなのだ。
「そう、ここの島は人間じゃあなく、邪悪な魔物に占拠されていたんだ。俺達はそれを解放して国家に新たな土地をもたらした勇者――英雄だな!」
ゴンサロはそう宣言すると、手を広く掲げ、歯を見せて笑う。
その笑顔に張り付いた眼はしかし、濁り、淀み、おおよそ善良なものとは程遠い邪悪な深淵であった。
冷や汗を垂らし、一歩引いてそれを見つめるエルナンドだったが、エルナンドのその気持ちに気付いているのかどうか、ゴンサロは高らかに自身の栄光を語り始める。
「英雄、英雄だ!そう、良い響きだなぁ!英雄!ここの土地のことを国家に持ち替えりゃあ、俺は嵐を切り開く先駆者――文明の開拓者だ!この島の名前もゴンサロ島になって後世に語り継がれる!」
高揚した様子で語るゴンサロは、うっとりした様子で目を閉じると、満足そうに大きな息を吐き、今度は島の西側を指差した。
何かあるのかとエルナンドがゴンサロの指先に目を向けると、ゴンサロはまた邪悪な笑みを浮かべて口を開く。
「しかも、だ、聞いて驚けよエルナンド。物見の話だと西にもでっけぇ陸地があるらしい。島じゃあねえぞ、大陸だ。」
ゴンサロは言いながら腕を大きく開くと、次の瞬間には打って変わって、おお、神よ!と大袈裟に叫びながら天を仰ぎ見る。
「おお、我らが神よ!俺達にこんな最高の名誉と土地を与えてくださり感謝いたします!なんてな!あの大陸はさしずめ神の与えたもうた神大陸……いや、邪神を信じる魔物どもの地ってことなら……そうだな、むしろ――」
――邪神大陸
ゴンサロは満足気にそう呟き、遥か海の向こうに広がる大陸を思い描くと、先程までよりも更に邪悪な笑みを浮かべ、その黒く歪んだ瞳で、自身の光溢れる栄光の未来を見つめるのであった。
――――――――――――――――――――――――――――
「邪神大陸かあ……センスねえな」
「まあ、自分から英雄だと名乗ってしまうような人ですからね……私は……あのような人を決して認めたくはありません」
苦虫を噛み潰したような顔でそう語るエルナンドに、こちらも眉間に皺を寄せながら、苦々しい表情で話を聞いていたイツァストルが問いかける。
「で、お前はそれで嫌になって一人でこっちまで探検に来たってことで良いのか?」
「はい……少なくとも、奴らがこちらに目をつける前に、未知の大地を自分の目で見て、記録に残したくて……」
そう言うと、エルナンドは傍らに置かれた本を手に取り、ページをパラパラとめくる。
イツァストルには読めない文字だったが、そこにはエルナンドが旅の中で気付いたことや目にしたものが事細かに書かれており、精度は怪しいながらおおまかな地図のようなものも書き記されていた。
文字は読めないながらも、ランタンの灯の元、その地図を覗き込んだイツァストルが、ページを抑えて右上の点を指差す。
「ここがそのゴンサロ島か?」
「はい、元々の島の名前はわからないのですが……王女様は知ってますか?」
「いや、知らねえ、アストルコが関りあるのはここの……ちょっと北のシパクカルパンと、その更に北西のトトチトラン……あと湖挟んで向かい側のオソマトリカンくらいか」
そう言いながら、イツァストルは地図のおおまかな部分を次々に指し示す。
実際のところ、この大陸――邪神大陸の国家は、他の国との関わりが少ない。
隣接する国家や部族ならばともかく、大陸の端の別の国や、海を隔てた島の住民とのやり取りは珍しいのだ。
最も、各国に旅商人のギルドのようなものはあり、それらが国の代理として他国に商いに行ったり情報を仕入れることはあるのだが、それも頻繁に大陸の端から端まで渡るものでもない。
「となると、今まで僕が寄った村なんかとはあまり関わっていないんですね」
そう言うと、エルナンドは地図の北端あたりの点を順々に指差す。
恐らく、エルナンドは船で大陸の海岸線沿いをぐるりと回り、そうして湖から流れる川を伝って湖の沿岸、アストルコまで辿り着いたのだろう。
「ただ、僕がここまで来れたということは……遅かれ早かれ船長……ゴンサロ・ガランもこの地まで辿り着くでしょう」
重苦しい表情でそう呟いたエルナンドは、また眉間に皺を寄せ、目を閉じ考え込むと、しばらくの後、意を決したような瞳をイツァストルに向け、語りだす。
「王女様……いえ、イツァストル王女殿下、私からのお願いです。逃げてください」
真摯に向き合い、そう語るエルナンドは必死な表情を浮かべながら、更に続ける。
「ゴンサロはいずれ必ず、ここまで来ます。そうなった時この都の人々が……あなたがゴンサロ島の罪も無い人々のように殺され、凌辱されるのは私は見たくない。今のうちです。奴の来ない今のうちに出来るだけ遠くに――あいだぁあっ!」
バチン、と、激しく乾いた音が響き、先程まで真剣な顔で話していたエルナンドの顔面が、勢いよく地面にぶつかる。
必死に捲し立てていたエルナンドの頭を、イツァストルが思い切り平手でひっぱたいたのだ。無論、戦神の呪術は持続したままで。
あいたた、と、情けない声を上げながら顔を上げるエルナンドを、イツァストルは心底呆れたような瞳で見つめながら大きな溜息と共に語りだす。
「ばーか、お前、ばか。逃げられるわけないだろ」
「いやしかし、ゴンサロが……」
「仮に俺だけ逃げたとして、民はどうする?王である兄さんは?全員で逃げるのか?どこに?逃げた先には連中は攻めてこないのか?」
「いや、それは……その……ええと……」
次々に問いかけるイツァストルに、エルナンドが何やら口の中をもごもご動かしながら、申し訳なさそうに答えにもならない答えを返す。
実際のところ、アストルコの民全員の避難は不可能だ。仮に都ごと移したとしても、そこまでゴンサロが攻めてこない保証もない上に、他国がアストルコの民を受け入れてくれるとも限らない。
それで戦争にでもなろうものなら、ゴンサロの到着を待たずしてアストルコは滅亡するかもしれない。
いずれにせよ避難は現実的ではないのだ。ではどうするか。
「逃げるのは無理、となれば……戦うしかないだろ」
「しかし……」
髪を掻き上げ、仕方ないと答えるイツァストルに対し、エルナンドは答えづらそうに目を伏せると、ちらりとイツァストルの腰にぶら下げられた石器に目をやる。
アストルコには鉄が無い。
黒曜石で作られたアストルコの剣や槍も、切れ味は鋭く、殺傷力も高いのだが、如何せん石だ。
鉄の剣とぶつかり合えば砕けるし、鉄の盾を貫くのは難しいだろう。
単なる肉体の勝負であれば、呪術がある分有利かもしれないが、呪術を使ったところで流石に素手で鉄を砕ける程の力を得られるわけでもなく、武器の硬さや耐久度が上がるわけでは無い。
ましてやゴンサロ島が拠点として成立すれば、サン・ティグレ本国とのやり取りが出来るようになり、銃も人員も届くはずだ。
事実、ゴンサロは今のところ、新たな地を開拓するよりも、ゴンサロ島の調査と拠点化に力を注いでおり、ある程度まで拠点としての目途が立ったら一度本国まで帰還するつもりだろう。
エルナンドもそれを察して、ゴンサロに先立ち未開の大陸の調査、ないし冒険へと旅立ったのだ。
つまるところ、現状、アストルコの文明で海を渡って来た侵略者達に立ち向かうのは、かなり厳しいと言わざるを得ない。
どう考えても勝ち目は薄い。
イツァストルはサン・ティグレの文明力を知らないが故に無謀な戦いを挑もうとしているのではないか。
そう考えたエルナンドは、答えづらいながらも、子供に諭すような口ぶりでイツァストルに語り掛ける。
「ええっと……ですね、王女様、恐らく王女様が思っているよりも敵は強大で……武器も石器よりも硬くて鋭い鉄器というものを……」
「ああ、装備も戦術も向こうの方が断然上で、今のままじゃ勝てないってんだろ。俺だってそれくらい分かる」
ごにょごにょと何かを語るエルナンドに、当然のように自身の敗北の未来を語り返すイツァストル。
それが分かっていて何故、と、エルナンドが聞き返すより先に、イツァストルはにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべ、いつもの澄んだ鈴のような声を響かせる。
「だから――協力してくれ、エルナンド」
「…………へぇ!?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかったエルナンドだったが、どういう意味かを理解すると、頓狂な声を上げた。
エルナンドは少年のように無垢な夢と憧れを持つだけの男だが――それでも侵略者であるサン・ティグレの人間だ。
それに協力を頼むとはエルナンド自身も想定外だった。
「正気ですか、王女様!私は敵国の人間ですよ!それに戦うのが得意というわけでも……」
「戦えとは言ってないだろ、ゴンサロ側の情報や武器をこっちに流してくれるだけでもいい」
「しかし――」
そう言いかけると、エルナンドの頭に地獄と化したゴンサロ島の光景が浮かび、思わず体がぶるりと震える。
――怖い
エルナンドは怖いのだ。
ゴンサロと戦うことが怖い。死ぬのが怖い。
イツァストルに協力したとして、それで負けたら?戦場には出なかったとしても、協力しているとゴンサロにバレたら?仮に生かされたとしても本国には一生帰れないのでは?
確かにアストルコの民は可哀想だ。この地の文化が消え失せるのは許せないことだ。
だが――私が協力したところで何ができる?何もできずに無駄死にするだけではないのか?
アストルコの民が戦うのに何も出来ないのも申し訳ないが、エルナンドにも自身の人生があり、母国への思いや生への渇望がある。
そうだ、何より私が死ねばこの手記はどうなる?アストルコが負けた時にこの地の文化を語り継ぐ人間がいなくなってしまう。
私は母国に帰らなければならない。
エルナンドがそう考え、断るべく口を開こうとしたところで、それよりも先に一つの問いかけが耳に届く。
「エルナンド、英雄とは何だ?」
澄み切った美しく、しかし不思議と力強い声を響かせ、炎のように明々と輝く瞳をエルナンドに向けながら、イツァストルはただ一言、そう問いかけた。
英雄とは何か――
エルナンドが子供の頃から抱えてきた人生のテーマの一つだ。
思わず慌てて言葉を返す。
「英雄とは……それは困難を打ち払い、未知への冒険に旅立って……夢を叶え、そして偉業を成す者で……」
「なら、ゴンサロは英雄だな」
「!?」
ぽつり、ぽつりと紡ぐエルナンドの言葉をばっさりと切り捨てるように、イツァストルが言う。
「だってそうだろ?ゴンサロは誰も知らない未知の航路を切り開き、英雄になる夢を叶えて、お前らの国に未だかつてない富をもたらそうとしている。紛れもない偉業、世界を切り開く大英雄だ。そうだろ?」
両腕を大きく開き、目を閉じながら神に祈るかのようにゴンサロを称えるイツァストル。
だがそれは……そうかもしれない。
サン・ティグレにとっては紛れもない最高の英雄となる。
未開の地へと挑む勇気、そこへ向かうまでの冒険、そして得る財宝と栄誉。
紛れもない英雄譚。紛れもない伝説だ。
恐らく、サン・ティグレでゴンサロの名は伝説になる。
遠い未来、子供たちはゴンサロを称え、憧れ、偉人として歴史の一ページに名を遺すのだろう。
だが――
「違う」
ぽつり、と、しかし力強く、短く、エルナンドが呟くと、次の瞬間、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「あれは……英雄ではない!誰が認めようと……少なくとも私は認めない!英雄とは――立ち向かう者であるべきだ!自分より強い怪物に勇気をもって挑む者である筈だ!断じて自分より弱い人間を、善良で心ある村人を凌辱し、踏み躙る者ではない!」
とめどなく溢れ出たエルナンドの言葉は、ただの感情の発露だ。
あの地獄を、邪悪な笑みを見た自分は、決してゴンサロを認めない。認めたくない。
それだけの感情だ。
ああ、そうだ、私の憧れていた英雄は、英雄譚は。
私が見たかったものは、海を渡ってまで見たかった、体験したかった英雄譚は、あれではない。
私は――
言いながらエルナンドは自身の心に抱えながらも、見ないふりをして覆い隠していたものに気が付く。
ゴンサロには勝てない。
あの恐ろしい悪魔には勝てない。適うはずがない。
だから最初から勝つのを諦めて、ただ記録だけ残そうとしていたのだ。
侵略者の一人として、逃げることで贖罪を果たそうとしていたのだ。
だがそれは――それもまた、英雄のやるべきことではなく、勇者の行いではない。
「勇者とは立ち向かう者のことだ」
自身の抱えていた思いを吐き出し、息を切らすエルナンドに、天上から響くかの如く、美しく、不思議と静かに染み渡る声が届く。
「アストルコの奴らはみんなそう教わり、実際、自分より強い相手だろうが果敢に立ち向かう」
「……ええ、そうです。そうだ。英雄とはそうでなくては」
ただただ、静かにそう語るイツァストルに、エルナンドは笑みを浮かべて返す。
そうか、それが英雄だ。
自分が憧れ、なろうとしながら――決してなれなかったもの。
月に照らされ、静かに、しかし熱く、燃え滾るような眼を輝かせる少女にそれを見ながら、エルナンドは思う。
この少女なら、もしかしたら、きっと――
イツァストルは自分を見つめるエルナンドの前に手を差し出すと、薄く笑いかけ、言う。
「来いよエルナンド・オリバ、俺がお前に、英雄を見せてやる」
かくして、この月夜の晩、一つの歴史の歯車が動き始めたのだった。