第9話:信じる道
厳しくも暖かな太陽はとうに沈み、夜闇に閉ざされた、冷たく、無機質な岩山。
その岩山に隠れ潜むように佇むネモンテミの集落の中心では、いくつかの篝火が焚かれ、辛うじて祭壇としての見目を保っている簡素な岩台の上にネモンテミの長、チマルショチトルが槍を手に立っている。
「これより祭祀を執り行う!この地の――石と寒気と死の神へ生贄を捧げるのだ!」
チマルショチトルは祭壇の周りに集まったネモンテミの民にそう語ると、裏手に控える部下に目で合図をやる。
合図を受けた部下に連れられ、祭壇へ引きずりだされたのはイツァストルとシウだ。
手足は未だに縄で縛られたまま、背後からチマルショチトルの部下たちに肩を押さえつけられ、祭壇に膝をつく。
「ひ……姫様……」
落ち着かない様子で、不安げにイツァストルを見つめて震えた声を出すシウだったが、イツァストルはそんなシウの様子を気にもしないかのように、薄い微笑みを浮かべ、小声で返す。
「安心しろシウ、これも全部想定内だ。俺を信じろ」
「姫様……そっすよね……信じます……!」
シウはイツァストルの言葉に少し安心したようだ。ほっ、と溜息をつくと、先程までの弱気な表情からキリッとした戦士の顔へと変わる。
イツァストルもそれを見て微笑むと、さて、と、思考を巡らせる。
――しくった。
正直なところ、イツァストルはネモンテミとの交渉はすぐ済むと思っていた。
彼らは生贄から逃げた臆病者、神を信じぬ合理的な背信者、であれば、その思想は自分と同じだ。通じ合える。
アストルコでの生贄を止めさせた暁には、岩山に隠れ潜むネモンテミ達をアストルコへと呼びよせ、居住権と市民権を与える。
ただし、その為の条件として、今回の計画でのネモンテミ達の協力を取り付ける。
問題はむしろその後、失敗する可能性が大きいのはそれ以降の話だ。
ところが、当のネモンテミ達はイツァストルの思っていたような人々とは違った。
――落ち着け、考えろ。
イツァストルは岩山の冷たい空気を吸い込み、息を整えると、急いで脳を働かせる。
ネモンテミは、イツァストルを生贄にするという。
つまり、彼らは生贄という文化を嫌悪しているわけではないのだ。
敬虔に神を信じ、生贄を奉じる戦士。
だが、同時に自身の命を生贄に捧げるのを拒み、逃げ出した臆病者でもある。
相反して見える二つの要素、それは何故か、考えを巡らせるイツァストルをよそに、チマルショチトルは周りの人々に声を掛け、祭祀を進行させる。
「この生贄は本人曰く、アストルコの王族、アカテカトル王が妹、イツァストルだという!高貴なる血だ!彼女の血肉を捧げればきっと神々もお喜びになるだろう!」
アストルコの王族、という言葉に集まったネモンテミ達の一部がざわつく。イツァストル達を捕らえた時にいなかった者達は知らなかったのだろう。
生贄は誇りある名誉だが、かといって王族が生贄に捧げられる。ということは滅多にあることではない。
王は神の血を引く現人神、言うなれば血を捧げられるべき神の側に近い人間だからだ。
捧げられるとしたら本人からの強い希望があるか、戦に敗れ、国を守れなかった時などである。
尋常なことではない。
何故、どうしてチマルショチトルはその尋常ならざることを選んだのか、いや、チマルショチトルだけではあるまい、ある程度は他のネモンテミとも話し合って決めた筈だ。
考えるイツァストルの首元に、瞬間、黒曜石の刃が突きつけられる。
祭壇の中央に立ったチマルショチトルが、手にした槍をイツァストルに向けていた。
今少し、ほんの少し力を込めて槍を押し込めば、その柔らかな皮膚を切り裂き、首から鮮血が噴き出すだろう。
「アストルコの王女、イツァストル、これから貴女の皮を剥ぐ」
ゆらゆらと揺れる篝火の光の中、人々の視線の先でチマルショチトルが呟く。
「皮を剥ぎ、心臓を抉り出し、血と肉を岩山へ染み込ませる。それでこそ、そこまでやってこそ神は我々を受け入れて下さる。神々は我らを許して下さる!」
――許す。
チマルショチトルは今、確かにそう言った。
生贄を捧げることで神は我らを『許して下さる』。と。
息を荒げ、そう叫ぶチマルショチトルに、辺りの人々も神に祈るかの如き……いや、実際祈っているのだろう。
嗚咽を漏らし、両手を固く握りしめ、見えざる神々へと懇願する。
人々の祈りのもと、槍を押し込むべく、チマルショチトルが手に力を込めた瞬間。
「――それは祈りじゃない」
人々の願いが、嗚咽が岩山にこだまする中、その声は驚く程に美しく、強く、響き渡る。
「……なに?」
「俺を生贄にすることで神は喜びはしない。お前たちのそれは神への感謝の祈りじゃないからだ」
ただただ、淡々と、チマルショチトルを真っ直ぐ見据えてそう語るイツァストル。
語りながらも、イツァストルの頭は考え続ける。
ネモンテミの人々が、何故、逃げながらも生贄を捧げるのか。
その答えをある程度、頭の中で組み立てながら、その場で言葉を編んでいく。
その間にも、チマルショチトルは構えた槍に力を込めて叫ぶ。
「何を言う!これは神への祈りだ!我々は……ネモンテミは、臆病者だ!恥ずべき心弱きものだ!だが、それでも信仰は捨てていない!それを示す為に――」
「いいや、違う、お前たちはただ、神に裁かれたいだけだ」
イツァストルの言葉に、チマルショチトルが、集まった人々がハッとした表情を見せる。
「生贄から逃げたお前達は……何てことは無い、ただ逃げた自分が許せないだけだ。だから、逃げた先で神に許しを請う。逃げ出した自分達を許してくださいと、誇りある死をと、そう願う」
神に捧げるべき命を捧げることが出来なかった。
自分の弱さ故に命を捨てることが出来なかった。
その罪悪感、自分自身への嫌悪感。懺悔とも言うべき神への懇願と、それ故の生贄。
「だがそれは――決して、祈りではない!」
チマルショチトルの槍が皮膚に当たり、わずかに血を流しながらも、イツァストルは怯むことなく、胸を張り、叫ぶ。
「お前達はただ、神々が自分達に都合の良いことをしてくれるように望んでいるだけだ!臆病者の自分達にも目を向けよと、自分達を罰しろと!」
「……!」
イツァストルは考える。
そうだ。アストルコの人々は神に祈り、生贄を捧げる。
作物の恵みを願い神に祈り、戦での勝利を願い神に祈る。
だがそれは決して罪を償う為でもなく、ましてや神を自分達の思い通りに動かす為でもない。
日々の暮らしと豊穣をもたらす神々に感謝する祈りであり、あるいは試練を乗り越えるための誓いであり、超自然的な神に対する畏怖である。
だが、ネモンテミの人々は違う。
逃げた罪を償う為に、神に裁かれるためにこそ生贄を捧げようとしている。
懺悔はあれど、そこに神々への感謝は無く、畏怖も無く、誓いも無い。
ただ、逃げたことに対する後悔と背徳に苦しみ、それ故に神にすがり、目を向けてもらおうとしている。
「だから俺を生贄にしようとした。アストルコの王族の俺を生贄にすれば神がお怒りになるか――ならないにしろ、兄王アカテカトルはお前達を倒しに兵を出す。そこでならお前達は戦って死ぬことが出来る」
「……っお前に何がわかる!私達の、逃げて怯えて汚れた魂の、臆病者の血は!最早神々に捧げて死ぬことすら出来ぬ!最早、私達は……神々の裁きを待つしか……!」
「神々の裁きも、救いも無い!お前達はこの期に及んでまだ逃げてるだけだ!神々に向き合うことから!生きて戦士としての名誉と誇りを取り戻すことから!」
「ぐっ……!」
わかっている。
彼らも理解してはいるのだ。
この生贄をしたところで神々が自分たちに目を向けるわけでもなければ、戦士としての誇りを取り戻せるわけでもない。
本来であれば、戦士は血を、心臓を捧げるべきだ。
生贄になり神々に血を捧げるか、そうでなければ戦で誇りある戦士として戦って散るべきだ。
だが、彼らにはそれが出来なかった。
ある者は恐怖に怯え、ある者は生まれたばかりの子への未練から、ある者は老いた親に対する責任から、各々の事情はあれど命を惜しみ、その後悔をずっと抱えて生きていた。
臆病者ではあるかもしれない。けれども背信者ではない。
神を信じ、誇りを持った戦士達。
それ故にこそ、逃げた先で悔恨の念に憑りつかれながらも、神への生贄を捧げようとした。
祈りを捧げようとした。
「そうでもしなければ……我々は……誇りを、名誉を汚してまで逃げ出した我々は、何の為にこの命を永らえさせたのです……!」
堂々と、前を向き、真っ直ぐに自身を見つめるイツァストルの瞳に耐えきれず、俯きながらチマルショチトルが答える。
チマルショチトルもまた、大きな祭祀で、戦の神へと自身の心臓を差し出すべく選ばれた戦士だ。
しかし逃げ出した。後で後悔し、死のうと思ったところで、逃げた戦士の、卑怯者の魂を神は欲することは無い。
「卑怯者の魂はただ冥府へと堕ち消え去るのみ……生贄にもなれず……最早戦士にもなれない我らに……ただ意味も無く苦しみ続けて生きよと申すのですか!」
「意味はある」
最早、槍を持つ手は緩み、俯き、嗚咽を漏らしながら、悲鳴にも似た叫びを上げるチマルショチトルに、イツァストルはただ一言、そう返す。
槍を除け、手を縛られながらも、しかし、堂々と起き上がると、みすぼらしい祭壇の中央に立ち、集まったネモンテミ達へと顔を向け、口を開く。
「これは――神託である!」
その美しくも荘厳に響き渡る声、高らかに神託を告げる少女の姿を、幾多もの戦士が固唾を飲んで見上げる。
「お前達には役目がある、近いうち、この大地に、我らが祖先の愛した大地に敵がやってくる!」
イツァストルの言葉に、人々がざわめく。
人々の動揺を前に、イツァストルは高らかに声を張り、続ける。
「戦だ!大戦が起きるぞ!その時――戦士の誇りを胸に、槍を手に先陣を切るのはお前達だ!」
「まさか……そんな……」
戦が起きる、そこで戦い、戦士としての誇りを取り戻せる。
ネモンテミの人々の前に堂々と立つ少女はそう答えた。
だが――本当に?
本当に戦が起きるのか?臆病者の我々が、戦う名誉を与えてもらえるのか?戦って死ぬことが許されるのか?
「……本当、なのですか?」
人々の不安を代表するかの如く、チマルショチトルが声を震わせて問いかける。
「信じて良いのですか、戦士としての誇りを再び示せると、再び槍を手に戦えると――」
「お前は、どう思う?」
問いかけたつもりが、逆に質問を返されてしまった。
目の前のこの少女、神の血を引き、神の言葉を聞く巫女の言葉。
その巫女が語る魅力的な未来の言葉。
その言葉を――
「……信じたいです……我々は、本当にそんな機会が訪れるのなら、機会を与えて下さると言うのなら……」
「なら信じろ、その信じたいものを見せてやるのが俺の役目だ」
そう言いながら、柔らかな笑みを浮かべるイツァストルからは、後ろ暗いものを感じない。
あるのは自信、必ずこうなる、そうしてみせるという断固とした意志。
この人ならば、自分達の信じる道へ、光り輝く道へと誘ってくれるという予感。
「もう一度言う!これは、アストルコの巫女よりの神託である!戦が起きた時、戦士の誇りを胸に、槍を手に先陣を切るのは誰か!」
「――俺達だ!」
「拾ってしまった命を、戦える場所があるのならば、俺達は!」
「そうだ、俺達が戦う!戦士としての誇りを取り戻す!」
次々に、ネモンテミの人々が、命を惜しみ、逃げ出し、それでもなお戦士である者達が、口々に叫ぶ。
そうだ、本当に戦があるのなら、本当に敵が来るのならば、神がその為に自分達を生き延びさせたのだとしたら。
「酷いですね、姫様は……いじけた私達にそんなものを聞かされては――信じないわけにはいかないではないですか」
歓声を上げ、未だかつてない程の熱気、闘士を見せる戦士達を前に、チマルショチトルは笑みを浮かべると、祭壇の中央に立つイツァストルの前へと進み、跪く。
「神託、承りました。アストルコの巫女、アカテカトル王が妹、イツァストルよ。このチマルショチトル、来るべき戦の折には必ずやあなたの元へ駆けつけましょう」
チマルショチトルのそれに倣うかのように、ネモンテミの人々も次々に跪き、祭壇に立つ一人の少女を仰ぎ見る。
かくしてここに、イツァストルとネモンテミとの交渉は成ったのだ。
自身が光を放つかの如く、闇夜に照らされ、堂々と立つ少女は、微笑みをもって人々を見回すと、かすかな声でポツリと呟いた。
「……死ぬかと思った」
イツァストルが小声でこぼした不安を誰も聞くことも無く、相当な綱渡りをしたイツァストルは一人、ひっそり大きな溜息を突いたのだった。




