後編
―――街を出よう。あなたと出会って、もっとも衝撃的だったのは、何の事は無いはずのそんな提案だった。ヤクザとの抗争や、代理官邸宅での戦いなどよりも、自分にとっては余程大変な出来事だったのだ。街を、ずっと、それこそ一生そこに居続けると思っていた街から外へ出るなんて、その瞬間まで想像すらしていなかったから。
街を一歩出れば、そこは人の住む場所では無い……とも言えない。少なくとも、ライツはそんな風に想像を裏切られた。
「道がどこまでも続いている……ここも、ずっと向こうも、どこかの誰かが歩いた道なんだ……」
「ええそう。もしかしたら世界の果てにも、道はあるのかもしれないわねぇ。長く、本当に長く旅をしているけれど、そう思えてしまうわ」
ライツはレイリアと並び、そんな道を歩き続けていた。
馬は無い。馬車なんてもっての外だ。
自らの荷物を自らで持ち、続く道を歩き続けていた。
太陽は高く、少しばかり暑さを感じるものの、不快と言うわけで無い。
疲労についてもまだまだだ。どこまでも歩いて行ける様な、そんな気持ちがずっと続いていた。
レイリアの方はどうであろうか? 彼女は……ライツ程にも体力が無いから、そこだけは注意したいと思っている。
「旅って言ってたけど、それほど荷物は持って来てないですよね。だいたいどれくらいの期間なんです?」
「そう遠くないわ。だいたい、この調子で歩き続け、偶に休んで3日程。そこに鍛冶師がいる」
「案外……近い?」
「長旅が出来る程、頑丈な体じゃなくって」
もっと、本格的なものを覚悟していた分、拍子抜けした思いだが、レイリアの体力ではそれくらいでも大変なのかもしれない。
「まあ、3日程の場所にいてくれる鍛冶師の人に感謝ですね。街にも鍛冶をする人はいたけど、やっぱり、旅して会わなきゃならないくらい、力の剣の鍛冶師って言うのは特別な人なんですか?」
「力の剣自体、そういう鍛冶師が作ったものなのよ。彼らは剣に……魂を込めるのね」
「魂……」
胸に手を当ててみる。鼓動を感じるその部分であるが、そこから剣に何かを込めるというのは実感が湧かない。
「彼らがそう語っているだけで、そう単純な物では無いのでしょうけれど、作り出すにはそれこそ、寿命を削る様な過程が必要らしいわ。だからこそ、力の剣には魂と、力が込められているのだと思うの」
何がしかのカラクリが……などと言うのは無粋だろう。鍛冶師が魂を込め、作り上げた力の剣を、選ばれた剣士が使う。
剣士はその力の剣を使い、名誉と誇りのために戦う。そういう陳腐かもしれない物語があったからこそ、ライツはレイリアに出会い、今も憧れを持つ事が出来ているのだ。
今はきっと、それで良い。
「えっと、じゃあ、もしかして、その力の剣を直す場合、厳しい試練や、鍛冶師の命を削る何がしかが」
「ふふふ、直すくらいならそこまででは無いわ。これまで、何十度と剣を直して貰って来たもの。それでも、普通の剣を直すよりかは神経を使う作業みたいだけれど」
そんなものなのだろうか。そこはもう少し、神秘的であっても良いのではとライツは思えてしまった。
「そもそも、力の剣って言うのがどんなものか分かりませんよね。特別な力をくれるって言うのは分かりますよ? 先生の剣は、身体能力を上げてくれるし、代理官の邸宅にいた剣士は、こう、ぐねぐねしてました」
「ぐねぐねしてるのが力の剣ということよ」
「絶対嘘でしょう?」
「説明が、やや面倒くさいのよね」
頬を掻きながら、本当に面倒くさそうな顔をする。自分の立場に関わる話でもあるだろうに。
「鍛冶師が魂を込めれば力が発生するってわけですけど、それを持った剣士の方がこう……特別視されてる。僕もそんな目で先生を見てます。良く考えれば不思議ですよね」
「そうねぇ。剣士が力の剣を生み出したわけでも無い。作った鍛冶師こそが凄い人って見られるのが普通かもしれない。けど、実際には、やはり剣士の方が注目されている。それは事実ね」
やはり不思議だった。剣士は特別。剣士は憧れ。そんな風潮を誰が作ったのか。
「結局、力の剣が希少だからという理由に帰結するのよ。希少だから、偉い人しかそれを持つ事が出来なかった。偉い人が持ってるから、特別視もされたのね」
「その偉い人が……剣士?」
「昔の剣士はそうだった。けれど、今は違うわねぇ。ほら、代理官とその客人と言う形で、あの剣士さんも居たじゃない?」
「なるほど、ああいう形が普通ってことか」
権力者に雇われる立場。それが今の剣士の主流という形なのだろう。街中での帯剣が許されているのも、昔は特権であり、今は特権を持っている側の許可がある。みたいなものだろうか。
(なら、やっぱり先生は剣士の中でも特別なんだろうか)
誰にも従わず、剣士として、剣士の様に、剣士らしくある。それはレイリア自身が言う、昔の剣士としての在り方なのかもしれない。
「力の剣の、力の種類もいろいろあるけれど……実はそこは重要じゃあ無かったりする。普通のものじゃあない。その証明さえあれば、剣の特殊性で、その持ち手の特別さは増すから……物語にもなる」
「物語にある様な、剣士がお姫様を救ったり、巨大な魔物を退治したりっていうのは、実際にあった事なんでしょうか」
「昔はあったのじゃあないかしら。そうやって、剣士の立場はみんなに認知されて行ったけれど、今は違うから、剣士の地位も、未来においてはそんなにじゃ無くなるかも」
少しばかり悲しい話に感じる。ライツが感じていた憧れも、本当はずっと昔の話で、今はそんな物語はどこにも存在しないし、さらにその先は、昔への憧れすら消え去ってしまうというのは。
「人の世は移り変わる。剣や剣士の意味だってそう。変わらないのは老人ばかりってね。あなたは……もっと、いろんなものに触れて行きましょうか。何か、私なんかには選べないものを選べるかもしれない」
「そんな事……できるとは思えません」
「それはまだ、あなたが未熟だからよ。けど、放っておいたところで、あなたは育ち、何時かは大人になる。その時には、嫌でも何かを選ぶ必要が出てきちゃう。世の中って、そんなものなの」
剣士という立場を抜きにして、先達からの助言というものだったが、そういうのは得てして、耳に痛いという感想しか持てないものだ。
(けど、今の俺は、先生に剣を習い続けたいんだ)
どれほどの時間、そうやっていられるかは分からないが、それでも、続けられる内は続けたい。幸福と思える時間とはそういうもののはずだ。
「旅をしている間も、余裕があれば、剣を教えて貰いたいんですけど。いや、先生は疲れているでしょうから、見ていてくれるだけでも良いんです」
「そうね、剣術の訓練は、一日でもサボってはいけない。みたいな話もあるものねぇ」
思いの外、真面目な子どもだと思われただろうか。別にそれでも構わない。
「一日でも多く、訓練をしたいなって、今は思ってるんですよ。はい」
偽りの無い言葉であった。ただ、剣士として強くなりたいとか、そういう意味では無かったのは、レイリアには秘密にしておく事にする。
―――鍛冶師を尋ねての旅は、当初の予定通り、そう長いものでは無かったと記憶している。旅には波乱も無く、鍛冶師がいると呼ばれる場所まではすぐに辿り着く事もできたはずだ。ただ、旅なんてものは、目的地に着いてからが本番だと、思い知らされた記憶もある。
「鍛冶師っていうのは、街にいるものなんですか?」
「そりゃあ……人間だもの。街とかに住んでるものよ? どこだと思っていたのかしら」
てっきり、山深くや人里離れた森の中だとかライツは思っていた。
だが、レイリアの旅へ同行し、その目的地へと辿り着いた時、その想像は裏切られる事になる。
そこは街だった。ライツが生まれ育った街と似た様な規模の街。いや、こちらの方が賑わっている印象のある、そんな大きな街。
人が往来を大勢出歩き、大通りには沢山の店が立ち並ぶ。
少し裏へ入れば、さすがに寂れた場所が……と思いきや、むしろ清潔な印象を受ける道と、統一感のある住居が、雑多な印象を与えない程度に多数見受けられた。
総じて、ライツが知る街よりも、一つも二つも見栄えが良い。
「どこと言うか……何かズルいなぁって」
「住むなら住み心地の良い場所がベストだものねぇ。けど、生まれて育ってしまったものは仕方ないのじゃあないかしら」
「けどけど、ほら、こういう道をさらに奥に行った、誰も立ち寄らない様な場所で、一人鉄を打ってる人こそ、求める鍛冶師って感じじゃあないですか?」
「ごめんなさいねぇ。むしろ、ほら、あそこ、ちょっとした人混みが出来てるじゃない?」
レイリアに指差されたのは、大通りに並ぶ店。そんな中でも、店員の声とそれに呼ばれた様に集まる客によりざわつく店の一つ。
「奥さん! そろそろ包丁の研ぎ直しなんてどうだい!」
「今なら護身用の短剣がセール中です!」
「試し切りならこちらへ! 野菜から人肌に近い煮凝りまで取り揃えていますよ!」
宣伝文句が、ある程度離れた場所からでも聞こえてくる。
刃物……恐らくはそういうものを売っている店なのだろうが、そういうのは、大々的に売り出すものでは無いのじゃあなかろうか。
「一応、鍋とか農具とかも売っていたりするのよ。メイン商品が刃物なだけで」
ライツの表情から、何を考えているのか分かったのだろう。レイリアがフォローする様に発言した。
つまりレイリアも、この光景を独特だとは思っていると言う事だ。
「えっと、あの賑やかそうな店が目当てである事は分かりました。見れば何人か店員がいる様ですけれど、誰が力の剣の鍛冶師なんです? まさか……全員?」
「あの人達は、弟子の方々。腕のある人だから、その技術を学びたいって人が大勢集まって来るらしいわ。単純に商売上手でもあるから、そっち方面でもね」
ライツの抱いていた鍛冶師へのイメージが、どんどん崩れてきている。
離れた場所からでもそうなのに、これで店内へと入ればどうなってしまうのだろうか。
「力の剣を作れる鍛冶師の人って、そりゃあもう、鍛冶の腕をひたすら鍛えている感じの人だと思っていました」
「あら、それは間違っていないわよ? さあ、行きましょう」
「え?」
ライツの困惑を無視して、レイリアは賑わう店へと向かう。となるとライツも、戸惑いながらその背中を追う事しか出来なくなってしまった。
レイリアが店へ近づくと、店員の一人が気づいたらしく、驚いた様子でこちらへとやって来る。
鍛冶師の弟子と言うだけあって、筋肉質で体格が良く、レイリアの頭一つ二つ高そうだ。ライツから見ればもっと巨大に見えると言う事でもある。
そんな男がレイリアに向かって、頭をぺこぺこ下げていた。
「これはこれは! レイリア様ではありませんか! この度も、当店をご利用で?」
「勿論。何時もごめんなさいね。忙しい時期に」
「いえいえ、何時もの繁盛。感謝感激ですよ。そちらはお連れの方で?」
「あ、はい!」
目の前の男もまた、レイリアには頭が上がらない立場らしい。それはレイリアがやはり剣士だからか、それとも常連客だからか。
「店長にお会いしますよね? 個室に案内します」
賑わう人々の合間を抜け、店内へと入っていく。
鍛冶師の店というだけあって、多くの鉄器が並んでおり、レイリアの言う通り、刃物以外の物品も多く存在していた。
「上等そうな店ではありそう……ですね?」
「みんな腕が良いもの。それだけは確かよ」
「いやはや、嬉しい言葉ですね。ですが、それもこれも店長のおかげ。私も、長らく師事しておりますが、やはりあの人は素晴らしい」
その店長とやらが、レイリアの目当てである鍛冶師であるらしい。そうしてこの店員も、その鍛冶師の弟子と言う事か。
「店員さんも、それなりに鍛冶の腕があるんですかね?」
「いえ、私は商売の方の弟子でして」
「そ、そうですか」
じゃあその筋骨隆々の体は飾りなのか。そんな疑問はさて置かれ、店内の奥。一般客の入らない場所まで連れられて来た。
「店長、今、よろしいですか?」
店員がその場所。店奥の扉をノックする。すると、部屋の中から返事が聞こえて来た。
「なんだい? 開いてるから入って来ると良い」
頑固で一徹な鍛冶師……と言った声とは程遠い、穏やかそうな男の声が聞こえて来た。実際、店員も緊張無く扉を開く。
中から人が見えて来るタイミングで、レイリアが手を上げて声を発した。
「失礼するわね、マキッド。久しぶりかしら」
「うん? おお、レイリアさじゃあないですか! 失礼だなどと、とんでも無い!」
部屋の中にあった仕事机。その向こうの椅子に座っていた男が、レイリアの姿を見て、驚き立ち上がった。
男はやはり鍛冶師らしくない……小太りの、背丈も低めの男で(それでもライツよりかは高いが)、髭の似合わぬ柔和な顔を笑顔にしていた。
そんな男が席から立ち上がった後、レイリアの方へとやってきて、手を差し伸べて来る
「また、剣の調整ですかな?」
「ごめんなさいねぇ。何時も迷惑を掛けている。この店、そういうのは事前の予約をしなければならないくらいなのでしょう?」
「そんな、レイリアさんの頼みであれば、何時でも請け合いましょうとも。いえ、勿論、お代についてはいただく必要が……」
「商売だもの。そこは畏まらなくて結構。ライツ、紹介するわね。こちらが力の剣の鍛冶師、マキッド・ストドゥールさん」
レイリアの口から、直接、彼こそが力の剣すらも作り上げる事が出来る人間。レイリアが求めている鍛冶師である事が語られた。
それにショックを受ければ良いのか、予想外であるからこそ、力の剣を作れる鍛冶師という意外性に見合っていると思えば良いのか、ライツは困惑していた。
「よろしく、マキッドだ」
マキッドは一度、レイリアと手を握った後、その手をわざわざライツへと向けて来た。困惑が続くものの、ライツはその動きにつられて手を伸ばす。
「あ、えっと……ライツです。その、鍛冶師のマキッドさん?」
「そう、鍛冶師のマキッド。レイリアさんから私の事は聞いているかな? 私の方は、君の事を良く知らないから、教えてくれると嬉しいのだが」
手を握った後に一歩下がり、話の続きを促して来るマキッド。
敵意を感じさせない、警戒が抜けてしまいそうになる相手。そういう意味では、確かに商売人には見えた。
「先生……レイリア先生に剣を教えて貰ってます。その……まだまだなんですけど」
「ほう、レイリアさんから剣を……それはそれは……」
何か、深刻そうな顔をしながら、顎に手を当てるマキッド。彼の視線が次に向かうのはレイリアの方だった。
「どうやら、心境の変化があった様ですな」
どこか、鋭さを思わせるものになった気がする彼の視線。だが、レイリアそんな視線に対してどこ吹く風と言った様子だった。
「変化と言う程でも無いと思うのよねぇ。それに、この子の将来をどうこうするつもりも無いの。ただ、ああ、そうね。何かは変わって来てると思う」
「良い事です。あなたがそう思うのであれば特に。私が言葉を挟めるものでもありませんし……どれ、剣を拝見させていただいても?」
何か、それぞれにしか分からない話をしたかと思うと、すぐに仕事の話になってしまった。
(まーた置いてかれてる気がする。二人は古い知り合いっぽいから、仕方ないんだろうけど)
どことなく、居心地の悪さは感じる。だからと言って、この場を去る事も出来ないのであるが。
「ふむ。見た目は微かなものですが、大分、ガタが来ていると思います。だいたい、修復には一週間は掛かるかと」
「そんなに? 参ったわねぇ。帰りの時間まで考えると、大分時間のロスがありそう……」
意外な事に、レイリアは焦りの様なものを感じているらしかった。別に一週間程、この街で滞在したって良いのではと思えるのだが。
「……まだ、追っているのですか?」
「いい加減、そろそろ終わらせるつもりではあるの。けど、終わらせるまでは終われない。そういうものでしょう?」
「……かもしれませんね」
二人して、またライツが分からない話をしている。しかも深刻な話らしく、ここまでライツ達を案内した店員が、雰囲気を察し、ライツへ辞儀をした後に去って行った。
聞くべきでは無い事は聞かない。そう学んでいるのだろう。
(なら、僕はどうする? 僕も去るか? どこに?)
気を利かして立ち去れる程、自分は立派では無い。
ならばここで、話の続きを聞こうとも思えたが、それより先に、レイリアとマキッドが仕事の話へと戻ってしまっている。
ライツがするべき行動は何か。それを考える。出来る事を出来る限りする事が肝要だ。
「先生、早くあっちの街へ帰りたいなら、先に帰ったらどうです? 帰りなら俺一人でも大丈夫ですし、剣の修復が終わるまで、僕だけがここに残れば良いと思うんです」
「ライツ? それは確かに時間のロスは無くなるけれど……あなたは良いの?」
「良いも悪いも、お別れとかそういうのでは無く、ここに暫く滞在するだけですから。小間使いくらいは出来ますって。先生こそ、俺がその役目で大丈夫ですか?」
この提案が通らなければ、自分が出来る事は何も無いだろうなと考える。
もっとも、通ったところで、何か、大きな変化は期待していない。ただ、そうであっても、何かを変えたいのであれば、行動しなければならないと思ったのだ。
「……分かった。そうね、あなたを同行させたのも、これまでに無い経験を積ませられればと思ったが故だもの。丁度良い機会かしら」
どうにか許可を得る事が出来た。つまり、出来る事が増えたと言う事でもあるだろう。この後、次に何のために何をするのかをじっくり考えなければなるまい。
「じゃあ、剣の修復が終わるまで、この街へ滞在する事にします!」
何か、求めていた変化が起こってくれたと思う。まだ微かなものであったが、それをどうするかの選択肢は、恐らく自分の手の内にやってきたとライツは思ったのだ。
思ったところで、問題がある事に気が付いた。
「あー、なので……宿代か、屋根のある場所を紹介してくれませんか?」
何かを始めてみようとしたところで、とりあえず土台がいる。そこを用意できる程の力はまだ、ライツには存在していないらしい。
―――選択肢を間違えた。そう思うのは、何時も選んでしまった後の事であった。ここでまた、違う選択をしていたら? そう思うのは何度もあったが、やり直せた試しが無い。今でも、それが悔しい。その時は……最善を選んだつもりなのに。
ライツは鍛冶師のいる街へ滞在する事なった。当面、どこで寝泊りすれば良いのかの問題については、その鍛冶師の店で寝床を貸して貰える事になっている。
「目の前で話をされては、では頑張ってくださいと追い出す事もできないからねぇ」
小太りの鍛冶師、マキッドの部屋にて、ライツは彼と話をしている。
ちなみに、彼の部屋に泊まっていると言うわけでは無く、店の端の方に毛布を貸して貰って転がっているのがライツの夜の過ごし方だ。雑な寝床には慣れている。
では何故、今は彼の部屋にいるのかと言うと、それは勿論、彼の話をするためであった。
「本当に感謝してます。それでその……別件で話があるんですが」
「話ねぇ。幾つかありそうかな? だからこそ、一人、ここへ残ると提案したんだろう?」
お見通しと言った様子だ。この分だと、レイリアにも意図を読まれていたと思われる。
「その、まずはですね。力の剣を直すところを見てみたいかなと」
「それについては興味本位?」
「というか、全部そうです。興味があるから調べようと思ってます。だから……駄目だと言われたら、ちょっとどうしようも無いと言うか」
「まあ、泣き落としなんて事をして来ないだけマシ……かな? ただ、何の理由も無くとなると、こっちもはいそうですかと頷けない」
マキッドは頬を掻きながらも、馴れ合いにはならぬ線引きだけはしっかりして来る。
「理由ならありますよ。直していただく剣の管理を、俺は先生から頼まれてます。マキッドさんを信用しないというわけではありませんけど……見て守らなきゃな立場なわけですよ」
「なるほどなるほど。そういうやり口、レイリアさんから学んだのかい? 良く似てる……なら、剣の調整をしているところは見ても構わない。だが、聞きたいのはそれだけじゃあないだろう?」
まだ本題では無い。そういう部分もまた予想されていた。一方で、マキッドからの認識は変える事が出来たらしい。
ライツは……未熟者で、今後どうなるかは知らないが、それでもレイリアの教え子であるとの認識だ。
彼女を知る者にとって、それはそれだけで見る目を変えなければならない事柄であるはずだ。
(まったく。よーく理解してはいるけど、あの人はどんだけな人間なんだよ)
知る人にとっては、必ず一目置かれている。そんな人間に対して、ライツの立場がどれほど低い事か。
「知りたいんです。あの人がどんな人間なのかを。でなければ、何時か、俺なんかどこかへ置き去りにされそうで」
「そういう不義理はしない人のはずだ。だが、不安に思うのも分かる。彼女はそう……今は風来坊だから」
「今と言う事は、昔は違った?」
「お、そうやって口を滑らせてくるか。ここでの滞在中、どれだけ引き出せるか見ものだな。だが、悪いがこれから仕事だ。酷く神経を使う仕事が入ったんでね。勿論、見に来るだろう?」
レイリアから預かった力の剣をこれから修復するらしく、マキッドが立ち上がる。そして彼に促されてライツも椅子から立った。
(まあ良いさ。今日はこれくらいで納得するしかない)
出来る事は限られている。その中で全力を尽くすのが重要で、それ以上を求めて力を込めたところで、次へは続いてくれない。
「そう言えばこれは単なる感想なんですが」
「うん? 何だい?」
二人して部屋を出て、鍛冶場まで向かう。その間も、話す機会があればライツは話を続けるつもりだった。
本題で無くても、話したい事なら幾らでもある。
「鍛冶師って言うのは、もっとこう、人嫌いな感じだと思っていました」
「そういう時は、職人気質と言うべきだ。もっとも、私はそういう気質からも遠いらしいが……もう準備は出来ているかな?」
恐らく、力の剣のための鍛冶場らしい場所までやってくる。その入口の前には店員らしく男が立っており、マキッドに対して一礼をしていた。
「はい、火入れもばっちりでさあ。今回は店長一人……じゃあないんですかい?」
店員がライツを訝しむ様に見て来る。おかげで、自分の様な部外者がおいそれと入れる場所では無い事が分かった。
「彼は顧客の関係者だ。仕事を見学する権利はある。勿論、鍛冶自体は私一人でするよ。ちょっとばかり、気合を入れたい仕事だ」
「分かりやした。店長なら、いちいち見に来なくてもなんなとやってくれるから、心配で覗いてみたりもしやせんよ」
「いやあ、申し訳ない」
頭を掻きながら、マキッドは鍛冶場へと入っていく。ライツも一応、同行する事は出来た。
入ったそこは確かに鍛冶場であり、石畳の部屋の隅に炉とそこから天井へ伸びた煙突。近くには使い古された鞴と金床が置かれ、壁には幾つかのハンマーが並んでいた。
別の端には研ぎ石や、炉の近くのハンマーより小ぶりな槌が幾つか。部屋全体はやや小ぢんまりとしており、それぞれの道具へはすぐ向かう事が出来る様になっている。
狭くは感じるものの、むしろ機能的と言った方が正しいはずだ。
だが、それ以上の特徴がこの部屋にはあった。
(ああ、ここは……ひたすらに熱い)
既に頬や額から汗が吹き出している。マキッドの方を見れば、彼もまた同じ様子だったが、表情は涼しいものであった。慣れや経験。そういうものでもあるのか。
「鍛冶場は初めてかい? 見学すると言った以上、しっかりと見てもらうよ。辛いだろうが、それが礼儀だ。そういうものだろう?」
「そう……ですね」
選択肢を間違えた。少なくともそう思ってしまった。この酷暑の中を長時間? そう思うと、無事でいられるだろうかと今から不安だった。
「私の事を鍛冶屋らしく無いと言っていたが、今でもそう思うかな?」
マキッドは、彼が持ってきていたレイリアの力の剣を金床の上に置く。
そこから一度、ゆっくり鞘から抜くと、抜き身となったその剣を持ち上げ、じっくりと観察し始めていた。
それでもライツに話し掛けて来る余裕があるのは、彼の経験に寄るものか、まだ本番では無いからか。
「あなた自身については……その評価を撤回します。とてもその……俺が想像していた通りの鍛冶屋らしさになってる」
「嬉しい話だ。となると、まだ違和感を覚えているのは、この店の様子についてか」
「それはそうです。店の立地とか、賑わいとか、こう……物語の中の鍛冶屋って感じでは」
「ははっ、確かに物語の中での鍛冶屋は気難しくて、剣を求めて来た剣士に、厳しい事を言うものだ。実際、そういう鍛冶屋だっているにはいる」
剣を見終わったのか、マキッドは再び金床の上へ置くと、次に炉の方を見始めた。準備にしたところで、前置きが長いらしい。
「私は違う。私は言ってみれば凡才なんだ」
「力の剣の鍛冶師なんて人は、だいたいが才能あると思いますけど……」
「かもね。けれど、私は私の事を凡夫だと思っている。そこが重要だ。重要だと思ったからこそ、経験を積み続ける事にした。他人より、もっと多くだ」
炉の様子を見ていたマキッドが、勢い良く剣の刀身をそこへ突っ込んだ。相当の熱量はすぐに刀身を赤く光らせていく。
「私はね、野に下り、誰も知らない場所で技術を磨くなんて事は出来ないんだ。ひたすら客を取り、その客の要望に応えて剣を鍛える。それを繰り返す中で、自分の技術をモノにする。そのためには、沢山の顧客が必要だ」
ある程度の時間が経ったところで、マキッドが剣を引き抜き、金床の上へ。次に何時の間にか持っていた小ぶりなハンマーで、刀身を何度か軽く叩いて行く。
「何百、何千。万に届くかもしれない。そういう数の剣を鍛え上げて、漸く至れる境地があるものだ。こんな風にね」
刀身から炉の熱が抜けて行き、赤い光も鈍くなる。そうしたところで、マキッドはその刀身をライツへと向けて来た。
「…………ええっと?」
「終わりだよ。とりあえず、刀身の歪みはこれで修正できた。後は研ぎ直しと、柄の方もダメージが入っているだろうから、良い材料で補修しておきたい。その材料集めに時間が掛かるから、直すまで一週間とさせて貰った。だが、一番の作業はこれにて終了だ」
見せられていた刀身が引っ込む。マキッドが立ち上がったのだ。彼は壁にあるラックに剣を掛けた。本当に、これで作業が終わりと言う事らしかった。
「こんな……え? さっき、辛いだろうがちゃんと見て置けって……」
「この部屋、暑いだろう? 私も苦手だよ。あんまり長く居たくない。さっさと出ようか?」
「そ、そんなんで良いんですか? その……力の剣には魂が」
「ああ、この剣には魂が既に宿っている。だから、今さら込め直す必要も無い。けどね、軽い仕事だとは思われたくないかな?」
マキッドは鍛冶場の出入口へと向かうと、その前で振り向き、鍛冶場全体を見渡した。
「数を受けなければならないから、仕事は手早くだ。時間は何時だって有限だし、世の中に対して、私って言う奴は何時もノロマだからね。それに対する技術を磨き続けてこそなんだよ」
レイリアが剣を任せた以上、しっかりとその役目は果たす人間のはずだ。その人間の仕事がこれだけ手早い以上、確かに脅威の技術力と言ったところなのかもしれない。
(悔しいのは、僕にはそれがさっぱりだって事なんだけどさ)
見学させて欲しいと言ったのに、その事への理解が足りなかった。分かった事はと言えば、この暑い鍛冶場が、短時間であってもそれなりに消耗すると言う事だけ。
「恥じ入る必要なんてない。君がこれだけで何かを理解できる人間なら、剣士じゃあ無く、鍛冶師を目指せと助言するだろう」
「別に、剣士を目指しているわけじゃあ……」
「違うのかい? 彼女、レイリアさんに師事しているというのは、そういう事だと私は思っているがね。何せ彼女、弟子なんて取った事が一度としてない」
唐突に、自分の立場を知らされる。マキッドにとって、ライツの方こそ、ある種の特別な存在に映るらしい。
「思うに、単なる気まぐれなんじゃないかと」
「かもしれない。だが、何がしか思われているのは確かだ。一時的にとは言え、剣を預けられるくらいには……ね」
「なるほど。そう考える事もできます」
相手を探るどころか、相手に励まされてしまう。マキッドとライツという関係性にしたところで、自分はまだあらゆる部分で未熟者であると言う事なのだろう。
(それでも、時間はある。やれる事は……きっと、まだあるはずだ)
そう自分に言い聞かせながら、ライツはマキッドと共に鍛冶場を出た。恐らくは、暫く踏み込む事も無いであろうその鍛冶場を。
―――知らない鍛冶師。知らない鍛冶屋。そして知らない街。思えばそれは、自分にとって不利な場所であろう。無知な場所であるからこそ、新たな可能性がある。その時はそう信じて動き始めたが、あまり良い賭けでは無かったはずなのだ。
「まあ、どうしてこんなところにこんなお子様がいるのかしらっ」
その日の朝、ライツは甲高い声が耳に響いて目を覚ました。いや、訂正しよう。甲高く、そして大きな声でだ。
「何……君、何?」
眠い目蓋を擦ってみれば、そこには寝床を貸して貰っている鍛冶屋の風景と、まだ少し薄暗い朝の日差し。
そうして、自分と同じくらいの年齢に見える少女が一人。
「何ではないでしょう? ここをどこだかご存知? 街でも一、二を争う鍛冶屋の店内よ? あなた何者?」
少女は肩に掛かるくらいの長さがある亜麻色の髪を揺らし、比較的整った顔立ちで、怒りに見えなくも無い表情を浮かべていた。
「あれ? もしかして店の関係者? 昨日は見なかったけど」
「それはこっちの台詞! あなたの事なんて、私、一度も見た事が無い! 不法侵入者? 不法侵入者で良いのよね?」
「待って、一旦待とう。訴えられるのは困るし、寝ぼけた状態で訴えられるのはもっと嫌なんだ。十秒待って。ちゃんと起きて頭を動かすから」
「わかったわ。十秒ね」
律儀に待ってくれるらしい。育ちの良さを感じられる。ライツであれば、その十秒で逃げ出しているところだ。逃げる必要があればの話だが。
「ありがと、よーし起きた。僕は起きたぞ。頭も働いてるし、ここで寝ていた理由について、何一つやましいところが無い事も確認できる。だから言わせて貰うけど、君の方こそ誰だ」
剣の修復が完全に終わるまで、鍛冶屋で寝泊りして良い許可は得ている。他でもない店の主人にだ。
と言う事で、怪しいのは目の前の少女と言う事になる。
寝転がった状態から立ち上がってみれば、自分より少しばかり小さい背丈のその少女。怖がる必要も無い相手であった。
「だから、私を知らないから怪しいと言っているのよ! 私の名前はラニィ・ストドゥール。他ならぬ、この店の主人であるマキッド・ストドゥールの娘なのよ!」
「んー……なるほど。じゃあ俺はそのお客って事だ。力関係が出来たじゃないか。喧嘩売る相手を間違えたね」
「うっ……そ、そうなの?」
そうである。間違いないはずだ。いや、本来の客はレイリアで、あくまでライツはその代理でしか無いわけだが、客の代理なら客と同じだ。きっと。
「そうそう。何なら、店の人に聞いてみると良い。君のお父さんにもね。というわけで、お客を疑った君には貸しが一つできた。良く憶えておいて欲しい」
「何かとても理不尽を与えられた気がする!」
朝からとても元気が良い少女だ。元気が良く、恐らく高飛車で、尚且つ、ある程度ライツが主導権を握れる、そういう点で好感が持てる少女。
「なら、質問に答える事で貸し借り無しにしてみない? 君、なんでこんな朝早くから店に来たの」
他に店員がいる状況であれば、こういう誤解も無かっただろうに。マキッドの娘だからと言って、こんな時間に子供がいるのはおかしい。
「と、父さんが家の方に帰って来ないから、心配して差し入れついでに見に来ただけって、何言わせるのよっ」
「なんだ、家族思いなわけじゃないか。なんで恥ずかしがってるんだよ」
家族の仲が良い事は、周囲から見ても良い事だとライツは思う。ライツ自身、家族なんてものをそんなに知らないため、仲が悪い家族を見るよりかは何倍も好感が持てた。
「日ごろから、父さんの事を気にしてますって、そんな風に思われるのが嫌なのよっ」
「駄目だ。それが理解できない。価値観の相違ってやつかな? そこらへん、詳しく―――
「なんだ。声が聞こえると思ったら、ライツ君にラニィじゃないか。同年代だろうし、仲が良さそうで嬉しい限りだねぇ」
店の奥の方から、マキッドが顔を出して来た。ラニィの声は朝からとても大きいものだったので、嫌でも起こされたのだと思われる。
つまり、彼もまた、店内で寝泊りしていたと言う事だ。
(それを分かってるから、彼女も来たんだろうしね。心配してって事は、普段は自宅に帰ってるんだろうけど)
どうにも、レイリアの力の剣に関わる事で、マキッドは店にずっと滞在しているらしい。
「父さん! これ、母さんが作った差し入れ!」
「あ、ああ。ありがとう、ラニィ」
「それで、この子は誰? 本当にお客の人? 浮浪児の不法侵入者ではない?」
変わらず失礼な女子である。こっちも、相手に敵対心を湧かせるくらいの事しかしていないので、仕方ないとは思うものの。
「さて、どうだったか」
「ちょ、ちょっと! そういう冗談止めてくださいよ。この娘、絶対そういうの本気にするタイプですよ。父親なら良く知ってるでしょう?」
「親に向かって娘の悪い点をあげつらうのは失礼だよ?」
なら、その娘の暴走が繰り返される前に止めるべきだ。彼女は今、ライツを睨む目をさらに鋭くして、今にも飛び掛らんばかりなのである。
「やっぱり……犯罪少年……っ」
「手をわしわしさせるのは止めよう? 将来、関節が太くなってしまうかもしれない」
「娘がそうなるのは親としても心配か……よし、ラニィ。彼は客だ。飛び掛るのは客で無くなった後にしなさい」
マキッドの言葉は、この店を出る時は気を付けて居ようと思わせてくれる。特に背後だ。背後に注意しよう。
「ふうん。あなたみたいなお子様が、この店に何か注文するものがあるだなんてね。いがーい」
「お子様にお子様って言われるのは心外だし、何より、お客に失礼じゃないか?」
お互いに睨み合う格好になってしまった。喧嘩し合っている様にも見えるだろう。
ライツの視点からは、あちらが先に売ってきた物だと思うのだが、あちらにしてみたところで、同じ感想が出てくるかもしれない。
そんな二人を止めるのは、この場で唯一の大人であるマキッドだった。
「仲良さそうなところ恐縮なんだが、少し寝不足でね。あと一、二時間くらい、静かにしていてくれると嬉しい」
「寝不足って、徹夜でもしてたの、父さん?」
心配そうに父親の様子を伺うラニィ。こういう部分のみを見れば、しっかり父親の事を気遣える健気な少女に見えると言うのに。
「ちょっとね、ずっと鍛冶場で剣を見ていた。修理を頼まれた預かり物の剣なんだが……」
「それって……」
「そう。君の先生の剣だ。鍛冶師にとってね、あの剣は……見ているだけでも心が昂ってしまうものなのさ」
「あの剣、あなたが作ったものじゃあ―――
「勿論、そうじゃ無い。あれほどの剣はね、力の剣を作れる鍛冶師でも早々生み出せる物じゃあないのさ。その持ち手も、そこらの剣士……という言い方も変だが、普通に持っていられる物とは言えない」
つまり、レイリアは半端な剣士では無い。それはライツにも分かる。だが、何か別の意味も含まれている様な、そんな気がした。
「そう言えば、先生の出自についても俺は知りません」
「そうか。つまり彼女は話していないって事で、私が詳しく話せる立場ではやはり無いな」
意味深な言葉までは発するが、それ以上はしない。そんな線引きがされている様に見えた。
(つまり、そこを越えるなら、それなりの何かを用意して置けって事か。けど、そんなもの、この街には無いぞ?)
自分の街であったとしても似た状況だろうが、まだ、やり方はあったと思う。初めて来た街で、相応の難題を突き付けられるというのは、こうもやり難いものなのか。
(考えろ……ここで出来る……出来る限りの事は……)
「ちょっと、何黙ってるの? というか私、さっきから置いてかれてない?」
マキッドの娘が顔を覗き込んで来る。心配というより、気持ち悪いものでも見る様な顔だ。
「よし、君、マキッドさんが寝ちゃうとやる事無いよね? けど、女の子一人を帰すってのは危険かもしれないから、俺が送ろう」
「え? いきなり何?」
「なるほど、露骨な点数稼ぎに来たか……」
地道と言って欲しかった。こうやって恩を売れば、それを返せと要求できる立場になれる……かもしれない。
「というわけだから、帰ろう、ラニィ……だっけ?」
「どういうわけよ! っていうかさっき来たばっかりなんだから、なんでそうすぐに」
「だって、君のお父さんは疲れているじゃあないか。仕方ない。失礼を承知で言うから許して欲しいんだけど、君の存在自体、疲れそうだし」
「失礼だし許さないわよ!」
とは言え、事実、マキッドはライツ達の会話を、とても疲れた表情で見つめて来ていた。
「そこはすまないね、ラニィ。帰れとは言わないが、出来れば、暫くは外をうろつきながら喧嘩を続けてくれればと思うよ。あ、差し入れありがとう」
「ついでみたいにお礼を言われても嬉しくなーい! もう、分かったわよ! 行くわよ、その……」
「ライツ。ラから始まるからお揃いな名前かな?」
「合ってるのそこだけじゃない! 兎に角、行くわよ、ライツ!」
何だかんだ、一緒に外に出る状況になった。好都合と言えば好都合かもしれない。
(いや、けど……どうなんだ? 出来れば良い方向に状況が動いて欲しいとは思うけど、これ、行けるか?)
単に、鍛冶屋の娘と一緒に出歩く。そういう状況をなんとか作り出せただけにも思える。
「……冷静に考えれば、来る時に一人で来れたんだし、帰る時も一人で大丈夫なんじゃあないかな?」
「うっさいわね! 良いから! ほら!」
ラニィに無理矢理に手を引っ張られ、部屋を出る。女の子一人相手にもこの調子で、上手く狙った事が出来るだろうか。ライツは今さらながら不安になってきた。
―――そう言えば、知らない街を女の子の付き添いで歩くというのは、自分にとっては大胆な事だったかもしれない。あたなに関わる事は、何時だって初めてで大胆な事の様に思える。そんな勢いとノリで始めた事であったが、だからこそ、それは思いも寄らぬ事態に繋がった。
「あれは趣味よ趣味。仕事っていうより趣味の領域ね。普段は優しい父さんなのに、ちょーっと興味が湧いてくると、それに没頭して、碌に家へ帰らなくなるんだから」
鍛冶屋から出て暫く。ライツはラミィと共に街中を歩き続けていた。
知らない街であるため、ラミィの向かう先に付いて行っている形になるが、一向に自宅とやらに帰る様子が無いため、再び鍛冶屋に戻るつもりなのかもしれない。
「趣味って……君のお父さん、聞いた話じゃ凄い人だし、見た限りでも凄い仕事ぶりだったけど?」
「けど、趣味でしょう?」
「好きでやってる感はあったね、うん」
「馬鹿みたいよ。剣を鍛えるのは立派な仕事よ? でも、寿命を削ってまでってなると、本末転倒。違う?」
立ち止まり、こちらへ視線を向けて来るラミィ。さっきからだが、ずっと怒った表情を浮かべていた
「なるほど、君はお父さんが心配なんだ」
命を賭ける程の仕事というのもあるだろうが、それでも心配だと言う気持ちは消えはしないのだろう。親子とは、そういうものなのかもしれない。
「そりゃあ心配。心配よ。立派だって思うところもある……それでも心配の方が強いもの。だから、ちょっとイラってしちゃう」
「分かんなくも無い。けど、そうか。僕や君なんかが、ああいう人達と違う部分があるとすれば、きっとそこなんだ……」
自分とレイリアの違い。力量や経験、性格と言うものは多々あれ、もっとも重要なのはそこなのだろう。
他者を苛立たせ、心配もされる様な、何がしかの思い。そういうものが無くては、力の剣の鍛冶師、そうして剣士と言った存在にはなれないのかも。
(俺は……なりたいのか? そんな剣士に? 不合理な事に全力を尽くす様な人間に……何のために?)
思わぬところで、自分のこの先についてを考えてしまった。レイリアも、もしかしたら、こういう事を考えろと暗に伝えてきているのかもしれない。
(何のために、何を目指すのか。それを決める事も、今の俺にとっては必要―――
「ちょっと! 聞いてる?」
「うん? ああ、聞いてる聞いてる。なんで空は時々、緑色になったりするんだろうって話だったっけ?」
「そんな話してないわよ!」
「多分、それは目の病気か何かだから、早めにお医者さんに診てもらった方が良い」
「だからそんな話してないって言ってるでしょう!?」
どんな話であろうとも、聞き流しても別に構わない内容だろう。憶えていないのだからそういう事のはずだ。
「じゃあ、街の治安の話とかか。こう、無意味に子ども二人がぶらぶら歩いてても、チンピラに絡まれたりしない街って言うのは良い街だ」
「そんな話もしてなーい! って、歩いてるだけでチンピラが寄って来る街って何よ」
「俺の出身地の事。いや、最近は比較的マシになって来てたかな? 街の人間のおかげで無いのが、ちょっと複雑だけどさ」
初めて知った、自分が生まれた街以外の場所。そこは、明らかに上等な場所だった。何がそれに対して下等かと言えば、勿論、自らの街である。
朝、今はすっかり明るいものの、まだ薄暗い中を子どもが一人出歩く。少なくとも隣のラミィはそうやって鍛冶屋へとやって来たわけだろうが、自分の街では考えられない事だなとライツは感想を抱いた。
「君、自分が生まれた街以外の街って知ってる?」
「急に何でそんな事聞くのよ」
「良いから、答えて」
「知らないわよっ。父さんが人気鍛冶師なんだから、街を離れる事なんて無いの。これで満足?」
「うん。ってことは君にとって、この街のこの状況は普通で常識なんだ」
ライツにとっては異質であり、何が普通であるかと問われれば、こういう状況では、ヤクザかチンピラに出会うのが普通と答える。
(……自分が何をしたいか。それを決める以前に、俺はこの世界そのものを良く知らないし、視野が狭い)
それを知った以上、次にするべき事が自然と浮かんで来た。
(旅をしよう。すぐってわけでも無いけど、先生に、旅をしたいって事を伝えよう。そうして、もっといろんな事を知って行きたい)
自分にとって、それが必要だと今は強く思う。そう感じ取れただけでも、この街へ来た価値はあったのではと思えた。
思えたところで、この街でも、一応、自分の街と変わらないところはあるんだなと立ち止まる。
「な、何。あんた達?」
男が3人、正面からこちらへやって来て、進路を塞いで来たのだ。
ライツにとっては、実に良く見た光景である。
「ここ、あんまり人通り無いんだけど、君、もしかしてわざとここに来た?」
助けを呼べる状況ではない。悪意を持った人間が近づくには絶好の場所だ。
「えっ? そんな事してないけど、ただ、ぶらっと歩いて……」
「丁度良いところに来てくれたなぁ、お嬢ちゃん?」
男の一人。顔に大きな刃物傷の痕がある男が、ニタニタと笑いながら見下ろして来る。こういう顔の男も、ライツは良く知っていた。
(チンピラかヤクザかで言えば、後者寄りだ。仕事で人を威圧するタイプの人間。ここでも仕事で俺達が先を歩くのを止めてるって事かな?)
慣れた状況であるが、あくまでライツの認識がそれであって、ラニィの様子を伺えば、あからさまに怯えていた。
この街では、この状況は異質なのだろう。
「ちょっとそこ……ど、退きなさいよ。歩けないじゃない」
怯えながらも、強気な態度を維持しようとするラニィ。だがそれは、目の前の男達を上機嫌にさせるだけであった。
「そりゃあ無理だ、お嬢ちゃん。俺達はお嬢ちゃんに用があるんだよ。お嬢ちゃんはマキッド・ストドゥールの娘だろう?」
「何よ、それが分かっているなら、そんな失礼な様子で―――
「ちょっと黙ってな。お嬢ちゃん。こっちが何の用かを知りたいんだろう?」
「ひっ」
顔に傷痕がある男は、さらにラニィへ顔を近づけた。ニヤニヤと笑っていた顔は、次の瞬間には睨み付ける形でラニィを威圧しており、敵意を隠そうともしなくなっている。
「俺達はな、お嬢ちゃんの父親に、ちょいとばかり借りがあるのさ。だからよ、お嬢ちゃんにその借りを返そうと思ってんだ。貸し借りってのは帳消しにしなきゃ、世の中上手く行かないだろう? な?」
「か、借りって……何よっ」
強がっているラニィであったが、目の端には涙が浮かんでいた。それでも、この状況で泣いていないというのは大したものだと思う。育ちは良い女の子だろうに。
「黙ってろって―――
「くっだらない。どうせ、商売で損した仕返しとか、勝手にそこはうちの縄張りだから場所代を寄越せとか、そういうための脅しだろ? なに勿体ぶってんだか」
男が怒鳴る前、そしてラニィがその声のせいで、遂に泣き出してしまう前に、ライツは状況を動かす事にした。何をどうするかを決めたとも言って良い。
「あ? 何だ、坊主。てめぇも―――
「そっちこそ黙れよ。何が借りだ。ここにこの娘が来たのは単なる偶然。つまり、そんな偶然に頼って脅しかけてる時点で、あんたら下っ端も下っ端だろ? 不用心なこの娘に出会ったら、ちょっと凄んでやれとか命令される側だ。重要な仕事を任されてる奴じゃあないね」
あからさまに男達を挑発する。こっちの言葉を聞くたびに、男達の顔が怒りに染まっていくと言うのは、中々の快楽だと思う。
「ラニィ。お父さんの店とか、自警団の事務所とか、そういう場所に行って、助けを呼んで来るんだ」
「え……でも……」
「そりゃあね、俺も行きたいけど、どっちかがこのチンピラ連中を足止めしなきゃなわけじゃん? どちらかと言えば……それって俺の役目だ」
挑発と、ラニィの安全を考えて、ライツは彼女の前に立った。顔を近づけていた男のそこに、わざわざ手を置いて、退かす動作もついでにだ。
「よう餓鬼、痛い目遭わない内にどっかへ行けって忠告してやるつもりだったが―――
何か喋り出す前に、まだ手元近くにあった男の顔に向けて、親指を突き出した。狙うは目である。
(戦いの基本は、何時だって相手の予想を外す事から……!)
頭の中で、レイリアの教えを反芻する。体の動かし方は、幾らか身に着け始めた頃合いであり、頭の動かし方も同様に、ある程度の教えを受けている。
(問題は、それがどれだけ通用するからだ)
ライツに親指に当たったナニかの感触が伝わる。
「ぐっ……餓鬼ぃ!」
目に直接当たった感触では無い。その前に目蓋を閉じられている。
レイリアなら、そんな隙すら与えず目潰しを実行できただろうが、ライツの速度は、勿論、そのレイリアに劣る。
(いや、これは、虚を突くタイミングの問題かな?)
一人は潰せるかなと言う期待を外したが、それでも、冷静に考えている自分に驚く。
次を考えろ、ここで失敗したのは結果だ。それよりも重要なのは、次の場面をどうするかだと、頭の中でもう一人の自分が考え続けていた。
(相手はきっちり3人。どいつも自分より体格が上。喧嘩も……まあ慣れてるだろう。俺よりもずっと)
何一つ、自分に有利な点が無い。
レイリアには、そういう場合はすぐ逃げ出せと教わっている。だが、逃げる手はラニィに使わせた。彼女は一瞬だけ戸惑ったものの、背中を向けて走り去ってくれていた。
薄情とは言わない。むしろ、戸惑いが続いた方が最悪だ。彼女を守って戦う余裕なんて、ライツには欠片も存在しないのだから。
(ぎりぎりだ。推測の中でさえ、ぎりぎだ!)
ライツは足を踏み出した。目潰しをしようとした男では無い。
この男はすぐ、こちらへの警戒をするはずなのだから、隙を突くならその後ろに立った二人の男。その男達の内、手に棒らしき物を持っている方だ。
「何だ、てっ……ぐぎぃっ!?」
武器を握り込まれるその前に接近。その手に触れ、指の一本を握り、思いっきり関節とは逆方向へ曲げる。
指一本の力など、普通は鍛えていない。
だからライツ程度の力でも、全力で、さらに隙を突く形であれば、曲げる事も可能であるし、それだけでかなりの戦力を奪える。
(こういうことは、良く教えてくれたよ、先生!)
棒を握っていたはずの指が曲げられ、痛みでその棒を落とす男。ライツはすかさず落ちた棒を拾い直し、さらに走り抜け、男達と距離を置く。
(このまま逃げ……られれば楽っちゃあ楽なんだけど)
ラニィの姿が道の先にまだ見える。足止めはまだ続けるべきだった。幸運な事に、一番困難な場面は既に終わっている。
「何の……何の真似だぁっ!」
指を曲げられた男も、目潰しを仕掛けられた男も、何もしていないはずの男も、怒りを隠さず襲い掛かって来た。
その男達に対して、ライツは相手から奪った棒を一本持つだけの小僧。そう、丁度良い長さの棒を持つ事が出来た小僧である。
(自分が……どこまで出来るか? それを試すには丁度良い場面ですよね、先生)
声には出さない。男達と比べて、子どもの自分は体力においても劣るだろう。何もかも無駄にせず、それでも全力を尽くして、どうにか乗り越えられる状況が今だ。
最初に腕を振り上げて来たのは、指を一本折った男。指は折れたままだったので、折れていない方の腕でライツを殴りつけようとしてきたが……。
(そっちは利き腕じゃあないだろ?)
動きが遅い。慣れぬ側の腕を振るうというのは、それだけ体の動きが歪になるし、そこに隙が出来た。
その隙を突き、ライツは剣を振るう。狙う先は、指が折れている方の手。
(弱ってるところは、とことん狙わせて貰―――
「っ……てぇ!」
棒を再び、相手の手に叩き込んだ。それは確かだ。そして相手にダメージを与え……そこで終わる。
一人目の男はまだそこに立ったままであるし、他の二人も近づいて来て……。
「ざけんな餓鬼がぁ!」
「ぐっ―――
腹部を思いっきり蹴り上げられる。体重の軽さもあってか、それなりに吹き飛ばされた。ライツは地面を二転三転し、近くの壁にぶつかったところで漸く止まる。
「粋がるのは、もう少し背を伸ばしてからにしやがれよ? なぁ? おい、聞いてんのか」
男達三人が近づいて来る足音。彼らの言う通り、ライツには背の高さと重さが足りない。全力で殴りつけたところで、人一人倒し切る事も出来ないのだ。
(確認……できた。確認できたよ。幾ら訓練したって、こんなもんだ。俺は……こんなもんさ)
息を吸おうとする。蹴りつけられた腹が痛みを発するが、それでも息を吸う。生きるにも、行動するにも、息を吸う事からすべてが始まる。
「正道はやっぱ……得意じゃないです、先生」
「あ? ああっ!?」
ライツは、上半身をすぐさまに立ち上がらせ、手に持ったままの棒を、近寄って来た男の一人へと投げた。
男の体目掛けてではない、その両足の間に挟まる様にだ。結果、男は足を縺れさせる。その隙にライツは全身で立ち上がり、自分が投げた棒目掛けて駆け出す。
「大きく叫んだ方が、痛みは少ないらしいよ!」
男が縺れていた棒を再度掴み取り、それを両手で一気に引き上げた。足と足の間をだ。そこには当たり前みたいに、男の急所が存在している。
「んぎぃっ!?」
予想していたより、悲鳴は大きくなかった。だが、とりあえず一人は倒れた。股間を抑え付けて、地面で呻き声を上げている。
「あと二人……っとぉ!」
自分目掛けて、横殴りの腕が通り過ぎようとしてきたため、後方に飛ぶ。再び壁際へ追い詰められた形になるが、殴りつけられるより大分マシだ。
(受身くらいは取れるけどさ)
殴られたり蹴られたりした場合、その衝撃を最小限に留める体の動かし方も、レイリアに教わっていた。
だからこそ、蹴られた後でもすぐ動けたわけだ。おかげで、勢い良く蹴られた人間は、暫くまともに動けない。そういう考えの元にある隙も突く事が出来たのだ。
(けど、さすがに喧嘩慣れはしてるか)
男二人、表情は怒りに染まっているが、無駄口は叩かなくなった。先ほどの同じような事は出来ないだろう。するつもりも無いが。
(俺に向いてる戦い方は邪道だ。邪道ってのはつまり……どう考えたって卑怯なやり方だよなっ)
壁際から、再び男達二人の元へ。そう離れてもいないし、あちら側から近づいて来ているのだから、一歩だけで互いの手が届く範囲の内側。
「らぁっ!」
ヤクザの足が振り上げられる。そういえば足も届く範囲だった。
男の内、顔に傷痕がある男が足を上げ、再びライツを蹴ろうとしてくる。
(それを何とかするくらいなら、できる)
ライツは迫る足を何とかするために行動に出る。足の裏がこちらへと触れる前に、上げてない方の足の脛を棒で叩き、すぐさまその脇を通り過ぎる事ならできるのだ。
「痛ってぇなぁ!」
ライツの行動後には、叫び、脛を叩かれた事により痛みを誤魔化す男の姿。もっとも、倒す事までは出来ていない。
(けど、効いてる。だからその隙に、こいつの攻撃範囲からは逃げられるけど―――
次には再び、別の腕が襲い掛かって来る。もう一人の男が大きく振りかぶって拳をライツの顔面へ。
「だぁっ!?」
男が、殴りつけようとしていた腕を、悲鳴を上げながら引っ込める。大振りな動きは、どこを狙うかがすぐに分かったため、ライツはその間に棒を持ってきていた。
結果、まともに棒を叩く男。その勢いの半分程は自分に帰って来る。全力であればあるほど、拳を壊しかねない。それくらいのダメージは、ライツでも与えられるらしい。
(っと、こっちだって、まともに受けてはいられないよな)
棒を持った手が、少しだけ痺れていた。繰り返していれば、何時か握力を無くしてしまうだろう。
それでも、今がその程度で済んでいるのは、日頃の訓練の賜物と言ったところか。
(剣……っていうか今は木の棒だけど、なかなかこっちはやれてるじゃないか)
手の延長としてくらいには扱えている。傍から見ても器用な物だろう。そうして喧嘩慣れしているとは言え、目の前の男達にそれは出来ない。これは数少ないライツの利点であった。
(確かに……もう少し大人になれれば、正面からでも叩き潰せるんだろうな。それなりに、格好良く)
ただ、今はそれが出来ない。ライツには、男達がそれぞれの痛みにひるんでいる隙に、彼らから距離を取る事が精一杯。
精一杯であるが、その精一杯で結果は生み出せる……はずだ。
「よし、ラニィは十分に逃げ出せたし、時間稼ぎする必要も無くなった。これから追いかけっこでもする? 鬼はあんたら、俺は追われる側。よーいどんで始めてみようか」
「な、舐め続けてるんじゃねえぞ、おい!」
いいや、舐めた真似を続けさせて貰う。まともに戦うつもりなんてまったく無かった。
後ろを振り向き、路地を駆け出す。足音を聞けば、追って来る音が二つ。やはり股間を潰した男はまだ立てぬらしい。
だが、動ける男はしっかりと追って来ていた。
(ヤクザの癖に、そんな真っ正直でどうする?)
追って来た足音に差が出来たタイミングで、すぐにまた振り返り、こちらへ走り寄る勢いがまだまだ余っている男の顔面を見た。
その顔面に届く様にと少しジャンプし、全体重を乗せながら、ライツは棒を叩きこんだ。
「つっ……ぷぅっ……」
叩き付けた男が、今度こそ地面へ倒れた。ライツ一人の腕力ならば出来ぬ結果だろうが、自分の全体重と相手が迫る勢いも合わせれば、なんとか打ち倒せる威力へ届く。
おかげで敵は、あと一人にまで減ってくれた。
遅れて走り寄って来た男。顔に傷痕のある男が、一旦、ライツの数歩先で立ち止まる。
(足を殴ったんだがら、動く速度もそれなりに遅くはなってくれている……か)
だから男二人では無く、一人に絞って殴る事が出来た。一人で集団を相手にする必要は無いし、ライツにはそれが出来ない。
如何に、一人ずつ潰して行くかだ。今のところ、それは出来ている。
「おっと、何時の間にかあんた一人。どうする? まだやる?」
挑発の言葉。それを吐くのはライツの方だ。
三対一から一対一の状況。当初より大分マシになったこの状況は、ライツが圧倒的に有利に見えるが、実はそうで無い。
真正面からぶつかれば、それでもライツは男一人にやられるだろうと予想できる。
それくらい、ライツの体は軽いのだ。結局、戦いの本質は殴り合いであり、それにどれだけの重さを乗せられるかに掛かっている。
その点に置いて、大人の男一人だけでも、ライツを圧倒していた。
(それでも、この状況を作れたのは無視できない……だろ?)
男を挑発的に睨み付ける。口の片側を釣り上げて、嘲る様な表情を浮かべもする。そうすることで、目の前の男に勝負を挑む事にしたのだ。
まともにやり合えば自分が不利。邪道を使って何とか相手に出来る。そんな男に対して、それでもライツは戦いを挑む。
今度は正道でだ。
「が、餓鬼一人が……どんだけふざけりゃあ気が済むってんだっ!」
思う存分に怒って貰いたい。こっちも決着を付けるつもりなのだから。
ここで向こうに逃げ出されれば興ざめも良いところである。
ライツは手に持った棒を強く握り、笑った。
「あんたをぶん殴って倒すまでかなぁ!」
そうして前へと進む。さあ、ここから力試しと行こうじゃないか。
―――恐らく、その時点で大分染まっていたのだと思う。何にと問われれば、今も困ってしまうが、それでも、引き返せない場所には既に立っていた。後は……どんな道を進むかくらいの問題だったのだろう。
「無茶をしてくれるなと、私は言えば良いのかな? だが、筋違いではあるのだろうさ」
マキッドの鍛冶屋。そこで、他ならぬマキッドに傷の手当をされているのが、今のライツの状況だ。
もっと言えば、全身が傷や打ち身だらけである。ちょっと先ほどまで、ヤクザの一人と殴り合いの喧嘩をして、なんとか勝利(相打ちに近いと言う人間はいるかもしれない)してきたばかりだった。
「いえ、あなたに文句を言われる筋合いはあるかもですよ。少なくとも、助けては貰いましたし」
喧嘩が終わる頃に、丁度良く、ラニィが呼んで来たマキッドとその徒弟達がやってきて、倒れたヤクザ三人と、倒れかけているライツを運んでくれた。
ライツは今、この場所まで運ばれて手当を受けているが、ヤクザ達はどこか別の場所に運ばれたらしい。
この街の治安の良さは、どういう形で作られているか。それを思い知らされているだろうとマキッドは語ってくれた。その部分の想像については、あまりしたくない。
「そうだな。礼と文句くらい言える権利が私にはあるだろう。うちの娘を助けてくれてありがとう。結果、君は怪我をした。もし、それ以上の状況になっていたらどうするつもりだ」
「ああ、ほんとに礼と文句だ。答えられる事と言えば……はい、すみませんでした」
素直に謝っておく事にした。自分で自分のやった事は無茶だと分かっている。どんな言葉を発したところで、言い繕う事などできやしない。
「何故、こんな事をした?」
「娘さんの危機でしたから……じゃ、駄目ですか?」
「恩を売るつもりかな? だが、こうやって手当をしたから帳消しだ、などと言われればどうするね」
マキッドの手際は大したものだ。あれよあれよと消毒され、清潔な布を当てられ、包帯を巻かれていく。
元々、怪我自体がどれも小さいものであるから、ここまでされれば、数日で十分に良くなっているだろう。
「娘さんは……無事ですか?」
「まだ、少々怖がっている。君は無事だったと知らせると、それも随分マシになったが……ああ、こっちは帳消しにできない恩ではあるな」
身内には甘い。だが、どこの親だってそんなものかもしれない。親というものについては良く知らないが。
「君の正義感を馬鹿にするつもりは無いが……本当にそれだけが理由かい?」
「娘さんを助けたいと思ったのは本当ですよ。自分なら、なんとか出来るとも思えたから実行したまでですし」
「なら、なんで君も逃げなかった。ああいう連中を足止めするために戦う必要があった、というのはちゃんとした説明ではないな? それはあくまで、娘が逃げ切るまでの話で、その後、戦いを続行する理由は無くなるのだから」
マキッドの手が止まった。手当が終わったらしい。あちこち包帯だらけなので、手当をする前よりも怪我が酷く見えるのは、少しばかり滑稽だった。
「自分を試したかったって動機は、理由になりますか?」
「力をかい? まだ、訓練は途上も途上だろうに」
「いいえ、先生の……レイリア・ナスキートの過去を知れるだけの立場かを試したかった。どうにもあなたは、半端な俺に何か教えてくれそうにないし……だから、せめて半端さからは脱したかった。結果がこれって言うのは、笑い話にもならないでしょうけれど」
必死に戦った。本当に必死に戦って、なんとかヤクザ三人だ。
ほんの少し、何かの状況があちら側に傾いていれば、倒れていたのはライツだったろう。一人前とは……まったく言えないとライツは思う。
「子ども一人が大人三人だ。大したものじゃあないかな? だが、それでも君は満足していない。それは、いったい何と比べてだろう?」
「何でしょうね。それが分からない。まさか……剣士の器なんて事も無いでしょうし」
そこまで己惚れてはいない。本当だ。剣士と言う存在への憧れがまだ胸の内にあるのだ。そうである内は、自分が剣士になどと夢にも思わないはず。
「……やれやれ。多分、君がそれに気付くまで、きっと無茶をし続けるのだろう」
「分かった様な事を言うなら、分かる事を言って欲しいって思うのは、傲慢ですか?」
ライツの言葉は愚痴に近い。そんな愚痴でも、どうやらマキッドには届いたらしく、彼は苦笑を浮かべた。
「いいや。正しい考えだ。駄目だな、大人って奴は。子どもは子どもだから、難しい事は知る必要ないなどと、相手も見ずに考えてしまう。これは、レイリアさんだって同類かもしれない」
「子どもだって、難しい事を知りたくなる事もあります」
「なら、大人がすべきなのは、それを話してやる事くらいかな……」
何か、話くらいはしてくれる気になったらしい。それこそ自分が望むものであって欲しいとライツは思う。
「……セレイラ王国という国を知っているかい?」
ふと、空気が軽くなった気がする。いや、ライツにとっては、やはり重いものだったのかもしれないが、兎に角さっきまでとは空気が変わった。
「初めて聞いた名前です。その国が……何か?」
「君の先生の出身国だよ。レイリア・ナスキートの」
「……!」
顔を上げる。そこで漸く分かったのだ。彼は……ライツにすべてを話そうとしてくれていると。
「ああ、その国に居た時のレイリアさんだが、姓も違っていてね。ナスキート姓は、彼女がでっち上げたものらしい」
「でっち上げたってのがどういう過程を経てなのかは気になりますが、とりあえず、今は最初の姓とやらを優先して聞きたいです」
レイリアの事だから、その人生の過程で何をしでかしてもおかしくはない。そんな事は良く分かっているため、あくまで最初の部分から話を聞いておきたかった。
「レイリア・セレイラだ」
「うん?」
「だからレイリア・セレイラだよ。セレイラ王国の王族だ。というか、直系の王女だった。何でも、王とその妃の一粒種だったと聞いているね」
「えっ……先生が……え? 王女様?」
「驚きかい?」
「驚きもしてますけど、何かそう……どこか納得できてしまうのが、何だか妙な気分というか……」
レイリアが実は、どこかの国の王女様。そういう事もあり得ると思えてしまうのがあの人だ。
もっとも、既に老女であり、さらには剣士なのだから、王女という言葉に見合わない人とも言えてしまうかも。
「あの人だからね。そういう反応は分かるよ。だが、今さら気にする必要は無い。彼女は……もう王女じゃないのだから」
「剣士ですし、もうかなりの年齢ですからね。あっちこっちフラフラしてるんですから、国の偉い人になれもしないって分かりますよ」
国とか政治とか、ライツにはさっぱりだが、今のレイリアがそういうものから離れている事だけは分かった。やはり、彼女はライツにとって剣士なのである。
「もっと根本的な問題だ」
「根本……?」
「セレイラ王国はもう存在しない。だからレイリアさんも、その姓を捨てたんだよ。滅んだ王国の……滅んだ王族の一人。それが彼女なんだ」
その言葉は、ゾクリとした感覚をライツへ与えて来た。
レイリアが王女であったと言う先ほどの発言と同様に、何か、感覚的な部分で腑に落ちた気がしたのだ。
「滅んだって……どうして」
「レイリアさんから、DS団という名前を聞いたことはあるかな?」
「先生が色んな相手に、そういう相手を知らないかと聞いてるところは……」
直接、それが何であるかを教えて貰った事は無い。ただ、名前だけが不気味な印象としてライツの記憶の中に存在していた。
「その集団が、レイリアさんの故郷を滅ぼした……セレイア王国をだ」
「ちょっと待ってください。あの……名称だけ聞くと、そんな、一つの国を滅ぼせる様な団体には聞こえません……よね」
入って来る情報が、それぞれ突拍子も無さすぎで、逆に冷静になってくる。どれもこれもが現実感が無いせいで、物語を聞いている気分になってきたのだ。
「ドラゴンスケイル……そんな名前の略称だったかな。その団体は、驚くべき力を持っていた。その名前の通り、ドラゴンの姿に変身できるんだそうだよ」
「ドラゴンって……ドラゴンの事ですよね? あのドラゴン……」
「どのドラゴンがは知らないが、鱗があって、角があって、牙があって、爬虫類みたいで……ああ、あと、兎に角デカい。そういうドラゴンだ」
ドラゴンというものを、ライツは見た事が無い。けれど、やはり物語に登場する怪物としては知っている。
洞窟の奥底で財宝を守り、火を吹き、凶暴で、けれど剣士に倒される。そんな存在……。
「DS団がどうしてそんな力を持っているか。そこまでは私も知らない。けれど、力を持っていたのは事実だ。彼らは本当に、直接的に、セレイア王国を滅ぼす事でそれを証明した。正に、ドラゴンの如き力を持っていなければ、一国を滅ぼすなんて不可能だろう?」
「けど……その国には先生が居た。先生ならきっと―――
「正義の剣士が悪のドラゴンを倒し、平和を手にする。良く聞く話さ。ああ、そうだな。そういう話になれば良かった。けどね、ライツ君。さっき言っただろう? レイリアさんは……その国の王女だったんだ。まだ若く、それこそ彼女が少女だった頃の話なんだよ、これは」
「そんなのっ……」
どうしようも無いじゃあないか。レイリアが剣士で無く、ただの王女で、なら、そんな王女様を守る剣士はどこにいるのだ。物語なら、必ずそういう剣士が現れるはずじゃあないか。
「遣る瀬無い。私がその話を聞いた時の感想さ。セレイア王国は、DS団の侵攻を受け、多くの兵が、国民が、そして貴族や王族が敗れ去って行った。そんな状況で立ち上がる、正義の何がしかが居たって良いじゃないか。そう思ったものだよ」
だが、現れなかった。だからこそ国が滅んだのだとマキッドは語る。
「レイリアさんの話に戻そう。彼女は、それまでは王女だった。王である父とその妃である母に、蝶よ華よと育てられ、国民からも愛される。そんな可憐な少女だったんだろうね。だが、それはどうしようも無く変わってしまった」
むしろ、国家の破滅と同時に、命を失わなかった事にこそ驚く。王族というのは、国そのものと命運を共にする。そんな存在だと思っていたから。
「いったい……先生はどうなったんです?」
「DS団によって滅ぼされたすぐ後の話については、私も詳しく聞いていない。話したがらないんだよ。この件については特に。碌な話では無いだろうから……だが、国家滅亡の混乱の中で、彼女がある一つの宝を持って逃げた事だけは確実だ」
「宝……ですか」
「君も良く知っているはずだ。力の剣だよ。彼女が持つ力の剣こそ、セレイア王国が国宝の一つ。本当に、力の剣の中でも一級品のそれでね。私がその人生を賭したとして、同格のものが作り出せるかどうか……」
それほどのものだからこそ、目の前の男は、睡眠時間すら削って、その剣を観察し続けていたのかもしれない。
彼はその中で何らかの成長を掴もうとしているのだろうが、ライツの方は、剣の来歴だけを知りたいのでは無かった。
「国を滅ぼされてすぐ後じゃなくたって良い。先生は……セレイア王国のお姫様は、その後、どうなったんです?」
「どうもこうも無い。彼女はね、誓ったのさ」
「何を」
「復讐を……だよ。自分の国を滅ぼしたDS団への復讐を誓った。滅ぼされた以上、今度は滅ぼしてやると、そう誓った。因果だ。まったくもって因果な話だ」
「一国のお姫様が……復讐を」
「現実は物語と違う。そう思い知らされるよ。国の窮地を、可憐なお姫様を救う剣士は、セレイア王国においては終ぞ現れなかった。そして……国が滅んだ後には、力の剣とその剣を持って戦う誓いを立てた王女だけが残ったのだから」
「復讐姫……」
どこかで聞いた事がある。他ならぬレイリアがそう呼ばれていた。本人が望みそうにも無い名前だ。
「その名も知っているか。それこそまさに……レイリアさんの事だよ。彼女が力の剣を、その卓越した技量でもって振るい始めた頃から囁かれ始めた二つ名だ」
残酷な話だった。それが物語であればどんなに良いだろうかと思わせる、残酷な話。
ライツの様な浮浪児が、その人生でそれだけの物に関わる事はまったく無いと断言できる話。
だが、その話の主役は、ずっとライツの傍にいた。ライツが尊敬する人間として。
我知らず、ライツは握り込んだ手の力が強くなった。
「あの人は……ずっと戦って来たんですか? そのDS団と。その生涯を賭けて……」
「ああ、それは未練な話でもあるな」
「未練って、そんな言い方も無いでしょう? 生まれ故郷を滅ぼされたんだとしたら……俺のそれは碌でも無い場所ですけど、それでも、滅ぼした相手を憎く思う。それが自然なはずです」
真剣な顔で話していたマキッドが、ライツの言葉を聞いて、何故か再び苦笑した。そこでもう一度、空気が変わる。
「だから……未練な話なのさ。いいかい? 確かに復讐心は自然なものだ。復讐相手がいる限りにおいては……ね」
「セレイア王国は滅ぼされたんでしょう? その、他ならぬDS団って奴らに」
「ああ、そうだ。そうして、今はそのDS団は存在していない。少なくとも、彼らを率いていた存在は、ある剣士に寄って倒されたし、末端だって、生き残っている奴がいるかどうか……」
残酷で悲しい話が、壮絶な物へと変わる瞬間。どんな物語であればそうなるのか。だが、ライツは今、それを聞いていた。
きっと、まだまだ、ある女性についての話が続いているのだ。
「先生は……復讐を果たしたって事ですか?」
「ああそうだ。彼女はね、復讐を誓い、鍛錬し、力を得て、剣士として歩み、目的を達成した。その生涯を賭けてだ。だが、その人生にはまだ余りがあったのさ」
その、マキッドが言う余りの中で、ライツとレイリアは出会ったのだろう。まさに余生の中でだ。だが、まだ疑問はあった。
「あの……じゃあ、決着を付けたはずの先生が、それでもDS団を探しているのは……」
「組織が滅んでも、その名は残る。かつて一国を滅ぼした組織だ。その構成員だったと名乗れば拍も付くだろうさ。そういう相手を一々探しては、まだ戦っている。さすがに、悪人に限っての話らしいけれどね?」
未練と言うより、過去の残響を追っている。そんな印象だった。
無為と言えばそうなるのだろう。だが、レイリアの人生の中で多くを占めていたであろう復讐心。それがぽっかりと無くなった後、彼女はそう生きる以外にどうすれば良いのか。
「俺の街に、先生が来たのも?」
「誰かしら、名乗ったのだろうね。だが、今でも見つかっていないんだろう? なら、本当はいない。レイリアさん自身、薄々、それに気付いているのじゃあないかな」
残酷で、壮絶で、そうして、既にライツが彼女と出会う前に終わってしまっていた話。それを聞いてしまった。
確かにこんな話を、積極的に聞かせる者はいない。何よりこれは、レイリアという人間にとって恥と言える物語なのだから。
復讐が終わった後の話なんて、そんなものなのだろう。
「さて……これが君の聞きたい話で良かったかな? もしかして、彼女の趣味とか、何で暇な時、ハンカチを何重にも折る癖があるのかとか、そういう話を聞きたかったのなら、申し訳ないのだが知らなくてね」
「いいえ……その……俺が求めていた話でした。でしたけれど……」
戸惑いが続く。だが、それは外に対してではなく、ライツの内側に対しての混乱だった。
ずっと、レイリアについての話を求めていた。だが、求めて、それを知った後、自分はどうするつもりだったのか。
ライツの心の中には、その先をどうしたいのかについてが無かったのである。
(先生はずっと……俺に何かを見つける様に促してた……それは、こういう事なのか?)
師の半生。もしかしたら一生を知ってしまった。彼女が何を望み、何をしてきたかの一部を少なくとも知ったのだ。
それをずっと知りたかった。だからこそ無茶をして、その願いが叶った今、自分はいったい何をするのか。そこが抜けてしまっている事に、今さら気付いた。
「大人の人生を知った時、子どもはどうするべきか。大人の側が語るのは傲慢な発言かもしれないが、出来れば成長の糧にして欲しい。そう思ってしまうな」
「俺は……何をどう成長させれば良いか……」
「若いってのは、何時だって周りが霧に包まれた様に分からなくなる。大人になって分かるのは、それは錯覚なんかじゃないって事で、やっぱり五里霧中でしかないのが人生なんだろうが……少なくとも、道標はある。君にもね」
マキッドはそういうと、近くの机に乗った、布を被せられた何かを見た。彼が布を少しズラすと、中からはレイリアの力の剣が、鞘に入れられた状態で見える。
「その剣は……」
「彼女がその人生と共に歩んだ剣だ。彼女は何時も、肌身離さずこれを持っていた。さすがに、私の様な鍛冶師に任せる時は手を離してくれるが、それでも、こうやって先に街に帰るなんて事はしなかったか」
それはライツが、何となく、流れの中で提案した事であった。だがきっと、マキッドから見れば、それは特別な事だったのだろう。
「俺はただ……先生に憧れて、ちょっと我がままを言っただけで」
「かもね。だが、それが何か変えられないわけでも無いだろう? 実は私、レイリアさんの弟子として君が現れた時、大分驚いたんだ。彼女は君が現れるまで、たった一人で旅をし続けていたのだから」
レイリアもまた、何かが変わろうとしている。それが良いものか悪いものなのかを、ライツやマキッドが判断する事は出来ないのだろうけれど。
「君がこれをレイリアさんに返す時、それぞれ、何かが変わっていると良いね。その方が、長話をした甲斐があるというものだ。ああ、それと思いの外、帰るのが早まりそうだよ? 修繕用の素材を、上手く調達する事が出来た」
「なら、俺が何かを決めなきゃいけない時間も、短いって事ですね?」
「ああ、そうなるね。だが仕方ない。大人って奴は、何時も若い人間に無茶を言うものさ」
また一度、空気が変わった。
なるほど、マキッドの表情は、そんな空気と共に変わるらしい。今の彼は、どこか柔らかい、何かを見守る様な表情を浮かべていた。
―――実を言えば、その時点で、自分の心は決まっていたと思う。それを言葉にする事が出来なかっただけなのだ。けれど、それが早かったとは思わない。むしろ、ずっと遅いものだったのだ。
レイリア・ナスキートが、自分が借りている宿の部屋に戻ってから3日程経った。そうして思う事は、手元に剣の無い日々は堪えると言うものである。
「参ったわねぇ。ここまで衰えているなんて」
日々、力の剣をずっと所持していた。それは自分の身体能力を補うためでもあったのだ。今は一時的にそれが無くなり、街から街までの移動と、宿で過ごす時間だけで随分と疲労している。
朝起きる度に、体が重くなる様な感覚。自分の身動きが、ほんの少しずつ、自分が持っているはずの感覚から遅れて行く様な、そういう状況が続いていた。
「今さら、思う事では無いかもしれないけれど、もう歳なのかもしれないわね」
それをもっとも感じるのは、こんな肉体的衰えも、また良しと考えてしまった時だろうか。
(ごく……自然な事。人は若い時に必死に生きて……歳をとる度に、その必死さが消えていく。私もそうである事に変わり無かった)
何時か、若い時に抱いていた身を焦がす程の熱情が、今は遥か彼方である。余人が言う決着と言うものを、既に付けてしまったと言うのもあるだろう。
だが、レイリアはそこで止まらなかった。いや、今にして思えば止められなかったのだろう。
まだ、自分は先へ進める。まだ、やるべき事がある。そんな感情を止める事が出来なかった。
(復讐なんて目的を持っていながら、未練な事。碌な道の先が無いって言うのに……ね)
だが、もしかしたら、上等な物が待っているかもしれない。最近、そう思える様になってきた。
「失礼。よろしいですかな?」
部屋の扉からノックの音が聞こえた。その声と、扉越しに聞こえてくる動作の音から、それが支配人のフォリオである事が分かる。
「何かしら? 最近は、話し掛けて来る時と言ったら、あの子が一緒の時ばかりだったけれど」
ライツの事だ。ライツはフォリオが、レイリアに媚びを売るために良く話し掛けて来ている様に見ていた節があった。
けれど、レイリアが一人だけの時は、そうしつこく話をしてきたりはしない。恐らく、彼もライツの事が気に入っているのだろう。そう思う。
「やはり、彼はまだ帰って来ておられませんか」
ほら、フォリオが気にするのはライツの方である。その部分に関しては、レイリアも同様だったので、入室の許可を出す事にした。
「鍵、閉めているけれど、支配人ならマスターキーでも持っているのでは無くて? 入室は許可しておくわね」
「では遠慮なく。ふむ? 随分と穏やかな顔をしていらっしゃいますな」
扉を静かに開けて、部屋の中へと入って来るフォリオ。そうして、こちらの顔を見るや否や、酷く驚いた様な表情を浮かべてきた。
「そんなに何時もと違う顔だったかしら? これでも、何時も穏やかなレイリアさんなんて言われてるのじゃあないかと思っていたのだけれど」
「それはまた……ハッハッハ!」
笑って誤魔化されると言うのは、誤魔化された内に入るのだろうか。むしろ、直接的な答えである気もする。
「笑える話があるとしたら、自分でも、こんな歳で、今までずっとギラついてた気もするのよねぇ」
「自覚出来ただけ、大分前進かと。それに、今はそれも変化が生まれていらっしゃる」
そういう話を彼はしに来たのだろうか。そうなのかもしれない。彼が宿の支配人として、客を思う姿勢は本物だ。
客が良い方へ向かおうとしているか、悪い方へ向かおうとしているか。それを見極めるくらいはするつもりなのだろう。
「心配しないでちょうだい。多分、私にとっても悪くはならないわ。どちらかと言えば、収まるところに収まりそうになって来た。そういう話なのよ」
「それも……彼の影響ですかな?」
「ええ、そう。ライツ。あの子がどれだけ付いて来れるかは分からないけれど、私がこれまで培った何がしかを、あの子が幾らか引き継いでくれるのならそれで―――
「やれやれ、本当に衰えた」
「……っ!」
穏やかだった雰囲気が急に変わった。世間話をしていたはずが、一瞬でレイリアが良く知ったそれへと変化する。
修羅場だ。それもとびっきりの。この空気を感じるのは、レイリアとて久しぶりの事だった。
「そう……そうだったのね。あなたが……」
「失礼をすると良いました。そう、今、武器を持たないあなたを追い詰めるという礼を失した行動をこれより」
深く辞儀をするフォリオ。その隙に逃げられないものかと辺りを探るも、そもそも出入口との間にフォリオがいる。
恐らく、隙の様に見えるそれも、こちらが逃げる事が出来ないという事を前提にした余裕なのだろう。
「一つ聞かせてちょうだい。あなた……本物? それとも、騙り?」
「本物です。と言っても、下っ端も下っ端。あなたの全盛期に、我ら、DS団の大半は潰されていましたからね。私など、その頃、小間使い程度の役割しかない若造でした」
「そう……」
今までは、こんな街に本当に居るかどうかも怪しいと思っていた。けれど、やはり居たのだ。街に、レイリアが復讐を決めた組織の構成員が。
DS団。この街に来た理由も、彼らの名を語る人間がいるとの噂を聞き付けてとの事であったが、まさか、こんな近くに居たとは。
「嗅ぎ付けてやってきたつもりが、まさか誘き出されていたなんて……けれど、長く生きていれば、そういう事もある」
「あなたにとってはそれだけの事でしょう。何度と我々と戦い、そして勝利してきたあなたであれば。ですが……」
フォリオの、何時もふざけた様な軽さのある顔が、少しずつ変わる。軽さなど無い重い表情。重い、とても重い、だが笑顔のそれだった。
「今、この時は私の勝利だ。ずっと、ずっとこの瞬間だけを待ち望み、こうしてきた。慣れぬ宿の支配人を続けて来たのも、あなたがこういう宿を気に入るだろうと考えたからだ。迂闊に手を出さなかったのも、勝利を万全にするためだ。隙なら幾らでもあった。ここでその細い首をへし折れればとずっと考えて来た。だが、じっと我慢を続けて来た。続ける事が出来た。そうして来た。あなたの手元から剣が無くなり、どうしようも無くなる瞬間が」
まくし立てるフォリオ。レイリアに聞かせる物ではあるまい。ただ、これまで詰め込んで来た感情を、一気に放っているのだ。
どれだけの期間、その感情を閉じ込めていたのだろうか。どれだけの物が、彼の心の奥底に渦巻いていたのだろうか。
想像する事は出来ないだろうが……それと良く似た物を、レイリアは知っていた。
(彼もまた、復讐者。と言う事ね)
レイリアと同じ。レイリアが復讐を遂げた結果生まれた、新たなる復讐者。
因果な物だ。その因果が、当たり前の様にレイリアへと向かって来たのは、むしろ幸運かもしれない。
(無関係な人間を、巻き込む事は無かった……かしら)
この場にいない少年の事を思う。彼がこの宿に帰って来るまで、まだ日数がある。
ここで、この街で何が起ころうと、彼が巻き込まれる事は無いだろう。
「それで……どうするつもりかしら? この部屋を……老婆の血で染めてみるのがあなたの趣向?」
「いいえ。まだです。まだまだでしょう。伝えきれていない事がまだあるのですよ。ですが……ここでは些か場所が悪い。興が乗りませんね。ですので、あなたのための場所を用意したのですよ。もう……ずっと前から」
用意の良い事である。しかし、向けられて初めて分かる。復讐とは、これほど怖気の覚えるものなのか。
「あらあら、歓迎されるのは嬉しい限りね。景色の良い場所だと嬉しいのだけれど」
「きっと気に入りますよ。何せ、あなたのための場所だ。逃げようなどと思わないでいただきたい。私は、この宿の支配人ですので」
宿の従業員の大半は敵。もしくは、すべて敵と言ったところか。
(参ったわね。確かに追い詰められている)
もっとも厄介なのは、逃げるための体力が無い事だ。こうやって話をしている程度でも、息が少しばかり乱れていた。本当に、自分は衰えているのだ。
(ええ、そう。本当に衰えている。目の前の彼は……どうしようも無く、私の敵だと伝えてきているのに……)
かつてあった激情が、レイリアの中からまったく無くなっていた。DS団を追い続け、戦い続けた日々の感情はもう無い。それが何より恐ろしい。
生まれて初めてかもしれない。この後、自分は殺されるのだろうという予感を、そのままに受け入れると言うのは。
―――あなたがその時、どんな思いを抱いていたかを自分は知らない。自分がいなかった時の光景を、人は知る由も無い。ただ思う事は、どうしてその場に、自分は居られなかったのだと言う後悔であった。
ガランとした部屋がそこにある。ベッドの位置。家具類の配置。そのどれもが良く憶えていて、親しみすら感じ始めたその部屋を見て、ライツは呟いた。
「先生が……出て行った?」
「はい。その様に聞き及んでいます」
その部屋は、何時もレイリアが借りていた宿の部屋であり、ライツも良く出入りしていた部屋だった。
ライツがマキッドの鍛冶場のある街から戻ってすぐ、宿へと赴いたライツを出迎えたのは、レイリアの荷物が悉く無くなったこの部屋だった。
そんな部屋でフォリオ……では無く、ライツを案内してくれた女性の従業員から、この部屋の様子の意味を聞いていた。
「レイリア・ナスキート様は、突然に荷物を纏めて、街を出て行かれました」
「……そんな」
夢が覚める時はこういう風なのか。
ライツの心中は、従業員の語る言葉を信じられないという思いと、そういう事もあり得るかもしれないと、ずっと胸の中にあった予感がせめぎ合っていた。
「フォリオさんは……フォリオさんはどうしてるんです?」
こういう場合……と言うか、ライツとレイリアが関わっている問題について、何時もしつこく顔を出していたフォリオを思い出す。
こんな場面においても、彼はいちいち顔を出して、必要のある事もない事も無駄に話をする存在だった。
より多くを知りたいこの状況だからこそ、彼の存在が気になった。
「その……支配人は……何をどういう風に顔を付き合わせて良いか分からず、正直なところ気まずいから、顔を出したくないと……」
「ありそう……だけどさ……」
筋違いだろうが恨んでしまう。
酷く、酷くショックな事が起こっているのだ。フォリオの軽さくらい、この場にあっても良いじゃないか。
確かに、自分みたいな人間は、レイリアに不釣合いかもしれない。
けれど、漸く、色んな思いに整理が付き始めたのだ。それを伝える時間すら無いだなんて、そんな話あって良いものか。
「そ、そうだ。この剣。先生から預かったんだ。この剣については、何も言っていないかな? あの人にとって、この剣は大切な物のはずだ。俺なんかよりずっと!」
ライツの問い掛けに、従業員は心痛をしのぶと言った様子ながらも顔を上げて言葉を返して来た。
「その剣につきましては……置いて行く……と。あなたがそれを持ち、何時かは剣士として成長してくれれば、尚、嬉しいと話していました」
「なんだって?」
「ですからその……剣は置いて行くと」
「……」
考える必要がある。いや、さっきからずっと思考を続けているが、もっと考えなければならない。
学の無い頭で、どれほどの事が出来るか怪しいが、それでも、今は焦っている場合では無くなってしまった。
「聞くけど、その言葉、フォリオさんから聞いたの?」
「はい。そちらに関しましては、支配人よりの言葉です」
「それで、レイリアさんが宿を去った……その姿をあなた達は見送った?」
「レイリア様は、特別なお客様です。特に支配人がそう考えていますので、お見送りの際は、従業員の多くがあの方を―――
「もういい」
手に持った、レイリアより預かった力の剣を強く握る。鞘に納まり、さらにそれを袋で包んだそれ。
この剣を、確かにライツは預かったのだ。未熟者のライツが、それでもレイリアより引き出した状況。
だからこそ、彼女が剣を置いて出て行くなどあり得ない。既に譲歩していた彼女が、さらに剣を手放すなど考えられない。
ましてや、ライツが剣士として成長すれば使っても良いなどと、そんな無責任な事を言う人では絶対に無い。
「先生に何をした」
「はい?」
「先生に何をしたと言ってるんだ。ああ、そうだ。あの人は歳をとっていた。剣が手元に無ければ、無力な体がそこにあるだけなんだ。襲われれば、碌な反撃が出来ない状況だったはずだ。そんな事も、さっきまでの俺は考えが回らなかった」
どんな理由があっても、あの人から力の剣を離すべきでは無かったのだ。
あの人が超人的だったのは、力の剣の使い手としてであり、それ以外は……無力な老人であると、何故、自分は考えられなかったのか。
後悔してもし切れない。だが、今はそれより、やるべき事があった。
「先生を見送っただって? その嘘は……誰が提案した事だ。誰と、どんな風に辻褄を合わせようとした。言え、さもないと―――
視界が突然動いた。顔を動かしたつもりも、目を巡らせたつもりも無い。顎に感じた衝撃と同時に、どうやらその顎を蹴り上げられたのだと理解した。
(蹴られ……何を……!?)
鋭い蹴りは、ライツの顎を砕かんばかりだったが、既に体に染みつきつつある受身の動作が、その衝撃を何とか散らす事が出来た。
だが、それをもってもライツは跳ね飛ばされ、部屋の壁へ体を叩き付けられる。
「さもないと……どうすると?」
従業員が片足を上げている。ぷらぷらと垂らしたその足は、きっと柔軟性に富み、素早い動きでライツの顎を狙ったのだろう。
玄人がどういう物かを知らないが、この従業員は少なくとも素人とは言え無い。勿論、戦いの経験と言う意味で。
「あの程度の嘘で騙されるのなら、そのまま見逃しても良いとの事でしたが……それも無理になってしまいました。残念ですね。あなたが」
先ほどまでの様子とは打って変わって、冷淡にこちらを見る従業員。こちらが本性だろうか。少なくとも、先ほどまで、レイトに対して申し訳なさそうにしている様子は消え去っていた。
「ああそうかい。そうだよな。先生、今、ピンチなんだ。何、見捨てられたなんて焦ってたんだ、俺っ」
再び、従業員の女へと向かう。ただがむしゃらに、真っ直ぐに。逃げるわけには行かない戦いだった。
少なくとも、目を背けてはいられない。真っ直ぐ進み、片足を上げたバランスの悪そうな相手の足を掬うため、足払いを仕掛けるが……。
「悪いですが」
従業員が、床に着いた足を使って体を跳ね上げた。ライツが仕掛けた足払いは容易く避けられ、また、跳ね上げた勢いのまま、従業員の片足が再びライツを狙う。
「ぐぅっ……」
「ほんの少し体の捌き方を知っただけの子どもに、負ける理由もありません」
従業員の足が、今度は胴体を掠める。いや、避けたつもりでも胸に掠り、息が詰まった。
なんとか体を転がし、従業員から距離を取ろうとするも、部屋の中をそう逃げ回る事は出来ない。
ベッドにぶつかり、さらに痛い思いをする事にもなる。
「くっそ……」
ベッドの角にぶつけた頭を擦りながら立ち上がる。片時も従業員から目を離さないが、そうしていられるのも、相手が手加減をしているからだと実感させられた。
「さて、余り苦しませずにと行きたいところですが、あなたはどう思いますか?」
(ああ、そうだよ。そういう事言われたって仕方ない差が、俺とあんたにはある。だから……考えなくちゃならない)
死が目前に迫っている。目の前の人間は、技能的にも身体能力的にも、そうして何より機知の部分に置いても、ライツを上回っているのだ。
二発、足蹴りを喰らわされて、文字通り痛い程にそれを理解した。
何もせずに居ても、何かをしたとしても、自分は目の前の女に殺されるだろう。だと言うのに、どうしてだか恐怖に体は震えない。
(重要なのは……俺の命じゃあない。いや、重要だけど、それはとそれとして、先生の命が掛かってるんだ。怖がって、不可能だからと諦めて、それで終わりになんか出来るわけが無い。だから……考えなきゃならない)
足りない頭でも何か思い付くはずだ。そう信じる。こんな状況においても、諦めなんて選択はもっとも後に回すべきなのだ。いや、死んだところで選ぶつもりは無い。
「答えが無いということは、悪足掻きをすると取りました」
従業員が一歩二歩と勢いを付けて迫り、その鋭い足蹴りでライツの喉を狙ってくる。
そして、それをライツは見る事が出来ていた。
(なんだ……これ?)
突然、感覚が鋭くなった。不思議と相手の動きがスローモーに感じる。また、手元が何故か熱い。
(死の直前に……何もかもを覚悟するから、感覚がおかしくなった?)
そんな馬鹿な事を考えるくらいに、ライツを包む状況は変わっていた。そうして、自分の感覚だけが変調したのでは無い事も理解する。
周囲が遅く感じていると言うのに、自分の動きは何時も通りなのだ。つまり、何時もより何倍も素早く動けていた。
迫る足蹴りを、何とか避ける事が出来てしまったのだ。
「何ですって?」
従業員の目蓋が、少しだけひくついた。驚いたのであろう事は分かるが、いったいどういう風に見えただろうか。
こちらは、遅く感じた足蹴りを、ただ避けただけなのであるが。
そうして、相変わらず手が熱い。とても……だが、不快では無い熱さ。むしろ力を与えてくれている様な。
「情けないな……もうっ」
愚痴りながらも、ライツは再び、従業員から距離を取った。
狭い部屋なのでそう距離を取れは……とはならない。何時も以上に鋭くなった身体能力が、思った通りの場所へライツの体を運んでくれたのだ。
丁度、部屋の隅。もっとも従業員から距離を取れる場所。そこまで、一足で跳ぶ事が出来る。
「未だ、他人を嘲られる立場ですか? あなたは」
「あんたに言ったんじゃない」
自分自身を罵ったのである。こんな、大切な人を助けようと行動したこの場面ですら、ライツは助けられた。それも、大切な人が持っていた大切な物にだ。
手が熱い。その手がずっと持っていたものは、レイリアの剣だった。
「……俺は未熟だ。十分どころか、一割だってその力を引き出せるか分からないけど……お前の主人にお前を返すために、今は力を貸して欲しい。頼むよ」
これまでずっと、片時も離さなかった剣から、それを包んでいた布を剥がす。
鞘に納まったその剣を握る手は、それでもまだ熱かった。この剣が力を発する時、レイリアは何時もこの熱さを感じていたのだろうか。
「力の……剣」
「ああ、そうだ。先生の……剣士レイリア・ナスキートの剣だ。俺には簡単に勝てるかもしれないけど……この剣に勝てるなんて思うな!」
言い放ち、剣も鞘から抜き放つ。真白い刀身が窓からの日差しに照らされて、力強く輝いていた。
「そちらこそ、力の剣を持ったばかりの剣士足らずが、そう簡単に勝てると思わないで……いただきたい!」
再び跳ねた従業員。今度もまた足技だ。この相手はそういう技術が得意らしい。
突き出されるのは膝。狙いはライツの脇腹付近。それを確認できる程に、ライツの感覚はシャープであった。
(避ける事は出来る……けどっ……!)
それ以上の事も可能かもしれない。ライツは抜いた剣で突き出された膝を受け、さらにそれを流す。
「ちっ!」
従業員の舌打ちが聞こえるも、今は無視だ。攻撃を受けきれば、それはそのまま相手の隙になってくれる。
ライツは膝蹴りでがら空きになった相手の脇目掛けて、お返しとばかりにこちらの足を叩きこんだ。
「がっ!?」
従業員が跳ぶ。というより吹き飛ばした形になるだろうか。
子どもであるライツ体型からはあり得ぬ威力を持った蹴りが、今度は従業員を部屋の壁へ叩き付ける。
(やれるっ……これなら!)
劣っている身体能力を、五分以上にまで持っていける。ライツにとってもっとも不利な部分を補う事が出来る以上、戦いの行方は分からなくなる。が……。
「この……程度で!」
ライツが追撃を加えようと接近した瞬間、頬を掠めるものがあった。
いや、研ぎ澄まされた感覚が無ければ、それはライツの眼球にぶつかっていただろう。従業員の手には短剣が握られており、それが頬を掠めたのである。
(身体能力で勝っていてもっ……)
技能においてはあちらが上。ただの短剣であるはずのそれが、まるで命を持ったかの様に自在に動き、ライツの攻め手を妨害してきた。
「ガキが……粋がるなっ!」
従業員は言葉を荒らげ、その短剣の速度と手数を増やして来る。結果、ライツの勢いは削がれてしまうものの、それでも今はライツが優勢だ。
先ほどの蹴りによるダメージが酷いらしく、従業員は息が乱れ、短剣を持った腕の反対側の手で、その脇腹を抑えていた。
(こっちが冷静にさえなれば……まだ勝ち筋は十分にある)
襲い来る短剣の軌道を躱し、防ぎ、その動きに体を慣らしていく。良く見れば、縦横無尽に見えたその切っ先に、癖がある事が分かって来た。
その奥にある、彼女の隙もだ。
(ここだっ!)
微かな隙である。だが、今のライツであればそれを狙える。短剣の軌道を縫うように突き出した剣が、従業員の体にぶつかろうとして―――
「っ……!」
従業員の表情が、冷静そのものになるのを見た。仕掛けられたのは自分だったと、その瞬間に知る。
技量もそうだが、経験だってまだ相手が上のままなのだ。
例えば、調子に乗った餓鬼相手に、興奮した様子を見せて、あえて作った隙に呼び込むくらいは出来るのだろう。
「楽に……してあげる」
突き入れた剣が寸前で避けられる。従業員の持っていた短剣が、カウンターの形でこちらへと迫って来た。
狙う先はライツの胸。その奥には心臓があり、短剣はそこへと届くのに十分な長さがあった。
刃物が突き刺さる感覚。赤い血がその傷から流れ出して―――
「悪いけど、ここで楽になるつもりなんてない」
「何ですって……?」
ライツは自分の腕に突き刺さる短剣を見た。それが急所へと届く前に、咄嗟に腕で防いだのだ。
しかし力の剣で強化されたとしても、痛覚まではどうしようも無いらしい。正真正銘、突き刺さる様な痛みは、ライツの意識を奪おうとしてくる。
そこに関してはどうしようも無く、歯を食いしばって耐える他ない。
「ところで……隙ありだっ」
「……っ!?」
こちらが取った手が意外だったのか、それとも、何か思うところでもあったのか。数秒の呆けを従業員は見せた。
それを見逃せる程、ライツには余裕が無い。突き出し、空振った剣を横方向へ振るい、剣の腹で殴りつける。
刃の方で無かったのは、単なる偶然だ。剣の向きを確認できる余裕すらも存在しない。
「あ……がぁっ!」
(刃でなくても……関係無かったか?)
手加減できない全力の一撃。今のライツの腕力であれば、それだけで十分、相手に致命的なダメージを与えられる。
従業員は息こそあるものの、半死半生と言った様子で、床に転がっていた。
「おい……生きてるか。死ぬ前に話せ。先生をどこへやった」
命を奪うやり方だったかもしれない。だが、その事にショックを受ける余裕もまた、存在していなかった。
今はただ、目的のために行動し続ける。ライツはとっくにそう決めていた。
腕に突き刺さった短剣を無理矢理に引き抜き、清潔さは気になるものの、千切ったベッドのシーツで止血する。今はそれだけで次の行動に移るつもりだった。
「やっていることは……もう……戦士のそれ……ね」
倒れた従業員から漏れ出た言葉は、ライツが期待したものでは無かった。なので、今度は剣の刃を彼女に向ける。
「なら、脅しじゃあ無いって分かるはずだ。先生はどこだ? どこへやった」
「話すと……思うの? こんな事を……しでかして……命を惜しむ人間だと……? それに……あなたのそれは……脅しにならない……だって…………」
「くそっ、そういう事か」
従業員は気を失った様に目を閉じた。だが、喋れないから脅す事も出来ないと、そういう事でも無いらしい。
「おいおい、どういうことだこれは」
男、恐らく別の従業員が部屋の中へ入って来た。後ろを見れば、他に数人。
(あれだけやりあってれば、増援も来るってもんか)
この宿自体が、敵の根拠地なのだ。暴れればそれだけ、こちらが不利になって行く。
(けど、考えようもあるさ)
自分は馬鹿をやっている。馬鹿な事を考えている。自分ですらそう考えているのだが、それでもライツは目の前の人間達を睨み付ける。
「おい、お前ら……誰か一人くらいは喋る気にしてやるから、掛かってこい。どうせ、相手にしなきゃどうしようも無いんだからさ」
さて、自分はここで終わってしまうだろうか。それとも、何かを切り拓けるか。結果については、神にでも任せて置こうと思う。
ライツはただ、レイリアを助けるため、全力を尽くす事に決めたのだ。
―――やる事を先に決めてしまえば、後は随分と楽になると思う。難しく考える必要は無い。ただ、決めた事に全力を出し続ければ良い。けど、思う時もある。その後は、どうすれば良いのだろうかと。
終わりと言うのは、なかなかに来てくれないものだとレイリアは思う。
もうずっと、終わりが待っている気がして、それがすぐ傍まで来ていると言うのに、それでもまだ、自分は生き続けていた。それが不思議でならない。
「簡単に死なれると困る。というのも考えものですな」
フォリオの声が聞こえる。姿だって目の前にあるのだが、出来る限り意識しない事にしていた。
手を後ろに縛られ、床に転がされている時は、そうする事にしているのだ。目の前の相手こそが、レイリアをその状況に追いやった相手であれば猶更だろう。
「……」
「無駄な体力を使わないでくれて結構。そうしているだけでも寿命をすり減らしているあなただ。多少なり痛めつけた時点で、命を失ってしまう可能性も十分にある」
目の前の男は、もうずっとそんな話を続けていた。恨みを晴らすと言うのも中々に大変だなとレイリアは心の中で苦笑する。
確かに自分の体は限界に近い。こうやって捕えられて大分時間も経っていた。
だからこそ、フォリオはレイリアを傷つけはしないのだろう。あくまで肉体的にの話であって、精神的には追い詰めて来ているが。
「この瞬間だけを待っていた。DS団について、あなたにとっては悪逆非道の組織だったでしょう。だが、私にとっては力を与え、希望をくれた組織だった。だが、与えられたそのすぐ後に奪われた。他ならぬあなたの手によってだ」
ああ、そうだ。自分が潰した組織だ。憎くて堪らなかった集団だ。今はもう、存在していない者達なのだ。
だからこそ、受け入れるつもりでは居た。復讐を果たした自分が、復讐を果たされる側になる。ありきたりな結末だ。そういうのも……あったっておかしくはあるまい。
けれど、フォリオはまだまだレイリアを苦しめるつもりで居る。こちらの覚悟なんて、とっくに定まっていると言うのに。
「……足の骨の一本でも折って置くべきかな?」
「あら、前言撤回が早すぎるのではなくって?」
こちらの無反応に堪らず実力行使に出ようとしたフォリオ。それを受け入れるつもりだってあったが、あまりにも無様だったので、言葉を発してしまった。
必然的に、フォリオの姿も認識する破目になる。ただ広く、広いだけの石造りの部屋。その中心にフォリオは立っているし、レイリアは転がされていた。
「言葉くらい交わしていただけないと、そういう気分になるものでしょう?」
笑うフォリオ。その表情は、何時もの通りの笑顔だ。その奥にある憎しみについては、それなりに隠す事が出来ているらしい。
(となると、一杯食わされたかしら)
話をする事を、相手も望んでのあの行動なのだとしたら、それに乗った形になってしまう。もっとも、暇を持て余していたところだから、別に構わない。
「じゃあ、聞きたい事があるのだけれど、こんな部屋を、何でわざわざ宿の地下に作っていたのかしら? 掛かりそうな労力の割には、とても殺風景」
「墓標というのは、飾り立てるものではありますまい?」
「あらそう。私のお墓。なら豪勢ねぇ」
聞くべきでは無かった。生きながら墓に入るなんて悪趣味この上無い。もうすぐ死ぬかもしれないけれど。
「待つ時間だけは……十分にありましたから」
「あなたも酔狂ねぇ。私が来る保障なんて、どこにも無かったでしょう?」
「ええ。ええ、勿論ですとも。賭けですよ賭け。それくらい分の悪い賭けをしなければあなたには勝てない。あなたを油断させるためには、偶然にすら縋らなければならなかった。あなた自身、分かっているはずだ」
そうだとも。言うなれば、フォリオを信頼し始めてすらいた。だからこそ、剣を持たずに宿へと帰還したのだ。
あの宿は安全圏だとの判断をした。
それはレイリアが、本当に自身の好みだけで選び、そこで過ごす中で、理屈的に敵の罠であるはずが無いと考えたからだが、相手が理屈だけで待ち構えていた訳では無いとしたら、確かに自分は嵌められたのだ。
「けど……とてもおかしい話。そんな、私の命のためだけに、そこまでして、それこそ目的も果たせず、一生を棒に振る事にだってなったかもしれない。笑ってしまうわ」
「自嘲の言葉たとしても、聞き捨てなりませんな」
「あぐっ……」
フォリオがレイリアへ近づき、その足を踏みつけて来た。徐々に力を込められ、老骨が文字通り折れる様な痛みが走る。
「あなたとて、そんな無為を繰り返し、だが、思いを現実にした。全力を尽くせばそれくらいできると、あなた自身が証明したのだ。ならば私もそれを見習い、全力を尽くすまで……ですよ」
「無様、本当に無様。その後に何が残るかあなたは分かっているかしら? 終わってみれば、何も残りはしなかった。けど、もっと無様なのは、それでも生き続けてるって事。生き続けて、何も見つかりはしないっ」
ああ、これは自嘲であり、挑発だ。死を受け入れる? いや違う。望んですらいた。もう、ここで終わりにしても良いじゃあ無いか。
本当に、無様にこんな年齢になるまで生き続けたのだとしたら、最後くらい、因縁に巻き込まれた形で終わらなければ意味すら無い。
「死にたがりの老婆を、何時までも生かす意味の方も……ありませんか?」
「終わらせると言うのなら、それも良いかもしれないわね」
目を瞑る。襲い来る死が怖いのではない。
どうか、こんな因果が自分で終わる様に。良く知った、あの少年が巻き込まれない様に、そんな祈りを込めて、目を瞑ったのだ。
「……」
けれど、どうして。最後がまだやって来ないのだろう。どうして、目を開けたその先に、あの少年が立っているのだ。
「先生……やっと、見つけた。参りましたよ……みんな、口が堅くって」
「ライツ……あなた」
「すみません……ちょっと、預かってた剣を使っちゃって、大分汚しちゃってますけど……凄いですよね、これ。傷とかも、早く塞がるから……なんとかここまで、やってこれました」
何を言っているのだ。そんな傷だらけの体で。まだ未熟で、子どもな彼が、どうしてこんなところに来てしまっている。どうやってこんなところまで来たのか。
レイリアは死を覚悟していた自分を忘れてしまっていた。ただひたすらに、目の前に現れるはずの無い相手が現れた事に、驚愕している。
「入口には見張りを立てて居たはずですが、どうしたのですかな?」
フォリオもまた、ライツを見ていた。彼もレイリアと同様に驚いているのだろうと思う。ここに、この少年が来るはずが無いと。
「あんた……これだけの場所を用意してる割に……あんまり良い部下を揃えられてないね。口が堅いったって、それでも、この場所を喋ってくれる人だって居た」
「ふむ。人材については急ごしらえであった事は否定できませんな。何分、それほどのカリスマが無いもので。申し訳なく思いますよ」
辞儀をするフォリオ。それは、ライツの姿に敬意を表したものか、それとも……。
「じゃあ、とりあえず話を聞け。簡単な話だ。先生を解放しろ。ああ、殺せって意味じゃないらな。無事のまま、自由にしろって意味だ」
「ライツ、やめなさい。この男は―――
「さて、聞く理由がありますかな?」
「くっ……」
レイリアの足を踏みつけ、その言葉を止めながら、フォリオは楽しそうに笑っていた。
レイリアに向けて居た表情とはまた違った、けれど、根本は同質のそれだ。
(この男は……私を苦しめられる物を見つけた……!)
ライツが立っている場所へ、自ら近づいて行くフォリオ。やろうとしている事は、レイリアの想像通りなのだろう。
ライツをレイリアの目の前で痛めつける。そうする事で、レイリアへの復讐を果たすつもりなのだ。
明らかにライツは危険だった。いや、既にライツは危険を通り過ぎて来ているはずなのだ。満身創痍と言った体で、それでも剣を強く握って、フォリオとレイリアを見つめている。
「先生を傷つけたな?」
「ええ、そうです。そうですとも。私が彼女を痛めつけている。あの老体を、老い先短いその寿命を、さらに縮めているのですよ。それで、少年はどうすると?」
ライツもまた、フォリオの言葉に反応して、彼へと歩みを進めている。
駄目だ。他の従業員達はどうにか出来たかもしれないが、この男は駄目だ。どうして、こんなところにあなたは来てしまったのか。
レイリアは叫びたい衝動に駆られるも、ライツの側の答えについては、予想が出来てしまっていた。
(あの子……私を助けに来たのね……あんなに傷だらけになって……)
―――本当は、その時、今にも崩れそうだった。心も体も、限界なんかとっくに超えていた。それでも立っていたのは、あなたがそこに居たからだと思う。ちょっとばかり、格好つけたかったのだ。
ライツは剣を構えた。片手で構え、もう一方の手は空にする。傷が塞がったと言っても、先ほど短剣で突き刺された腕の方は、強く手が握れないからだ。
力の剣のおかげで、片手のみの力でも、振り抜く事は十分にできる。むしろ、この剣は片手で振って、もう一方を自由にしながら戦うのが望ましいのかもしれない。
(挑発には乗らない。今は先生を助ける事だけ考えろよ、ライツ)
フォリオへ近づきながら、ライツは自分に言い聞かせた。
戦いの中で信頼できるのは、情動で無く理性で、勝利と言うのは、ひたすらに、歯軋りしたくなる程の細緻な行動と思考の先にこそある……と、ライツは徐々に学び始めていた。
実際がどうかは分からない。だが、力の剣を持って、本気で命賭けの戦いを続ける中で、そういう考えの方が上手く行ったと言うだけの話だった。
(けど、今はそれを信用するしかない……先生に話を聞いている時間は無―――
近づきつつあったフォリオが視界から消えた。と、次の瞬間に、顎の下に鈍器で殴られた様な衝撃、顔が上向きになり、そのまま吹き飛ぶかと思える様な感覚の後に、腹部にも同様の衝撃が走った。
その衝撃のせいで2、3歩後退した結果、何をされたのか分かった。フォリオに素手で殴り付けられたのだ。
たった、それだけだ。素手の威力では無いと思うが、それ以上に驚きだったのは、その接近を察知できなかった事だ。
(なんだ……!? 瞬間移動でもされたのか?)
いきなり、大きなダメージを与えられた。
膝が震えて、立っているのさえ難しい。痛みに関しては、ここに来る前までの戦いで、どうにも麻痺してしまっているから、それで気を失うなんて事は無かったが……。
「ケンポーと言うものをご存知ですかな? 魔法の様に肉体を使い、その機能を十全に発揮させる戦い方だそうですが、そういうものを習った事があるのですよ。ですので……」
フォレノンがまた一歩近づき、そのすぐ後にまた消えた。ライツは視界を動かし、彼の居場所を見つけようとするも、発見する前にまた脇腹あたりに衝撃。
今度は立ったままではいられず、倒れ転がるも、地面を殴り付けてなんとか再び立ち上がる。
体はさらに損傷した。それでもまだ立っているのは、力の剣のおかげだった。この剣は、身体能力を高めるだけで無く、持ち手に癒しの力も与えてくれるらしい。
もっとも、すべての傷を瞬時に癒してくれるほど万能では無いが。いや、むしろ苦しむ時間が増えた気もする。
「この様に、致命傷を与えずとも、的確にあなたを苦しませる事が出来る。呻き声とか、上げてみる気はありませんかな?」
「どんな体捌きが出来れば、姿を消せるんだよっ」
喋っているフォリオに対して、またこちらから近づいて剣を振るう。ダメージがあろうと、強化された身体能力であれば、相当の速度での攻撃が可能だった。
しかし、それは体の捌きだけで避けられる。
「幾ら速かろうとも……」
「にっ……ぐぅっ……」
脇腹の、先ほどとまったく同じ位置に、フォリオの拳がカウンターの形でめり込む。痛みは麻痺していても、胃からこみ上げる吐き気が酷くなって来た。
「動きが単調であれば、対処の仕様は幾らでもある。そう習いませんでしたかな?」
勿論、習っていたとも。ならどうすれば良いのかまでは、まだであるのが悔しい……。
「とりあえず……砕けない程度には当たって様子を伺う事にしてるんだよっ……!」
剣をフォリオに向けて何度も振う。これも速度はあるが単純な動きになるのだろう。簡単にフォリオはその軌道を避け、再び距離を取ってしまった。
(まあ良いさ。こっちが足りなければ、簡単に攻撃は避けられるって事だけは学べた)
そうして生きている。学んだ事を活かせる機会は、幸運にもまだあると言う事だ。もっとも、一番学びたい、フォリオの移動方法についてはまだ分からないが。
「視界には死角がある。そこに相手は隠れているの」
「先生……」
「……手を縛っても、口は出せますね。そう言えば」
フォリオは忌々しそうに顔を歪めながら、それでもライツを見ていた。ここで目をレイリアへ向ければ、それを隙として襲い掛かってやれるのに。
「けど、先生……そんな死角に隠れるなんてとんでもな動きをする相手……どうすれば……」
「どうしようもありませんよ」
「がぁっ!」
同じ脇腹を何度も、執拗に。確かにこちらを痛めつけ、苦しませ続けるつもりらしい。
こうまで一方的だと言うのに、ライツの命が失われていないのが証拠だ。殺すつもりでは無く、悲鳴を上げさせる事。相手は確かにそれを目的としており、それを実行し続けるだけの実力があった。
彼は再びライツと距離を置くと、またこちらへと接近する構えを取っている。
(こんなのは……圧倒的差じゃないか……考えるにしたって、何か取っ掛かりが……)
「どうしようも無いのは本当よ、ライツ。あなたの能力は限られている。それがチャンスにもなる。分かるかしら?」
レイリアの声は、こんな状況だと言うのに穏やかだった。何時もと変わらない、ライツに何かを気付かせる、教師としての声。
復讐に燃えていたと聞く過去の姿などライツは知らない。この声を発する姿にライツは憧れたのだ。
「不利を有利に……ですか? それはまた……夢みたいな話だっ!」
フォリオがまた近づき、視界から消える。死角に隠れられたと言う事なのだろうが、それを追おうとしたところで、フォリオはライツの上を行くはずだ。
そこがライツの限界点。彼の技能には、絶対に追いつけない。
「だから油断してくれる……だろ?」
「ぬっ……ぐぅ……っ!」
ライツは剣を、フォリオの手に突き刺していた。殆ど勘に近い行動であったが、それでも、レイリアが教えてくれたからと言う自信の元に実行できたのだ。
フォリオは油断して、ライツを甘く見積もってくれた。そうして、こちらには一つだけ、フォリオの行動を予測できる方法があったのだ。
「良く……見破りましたね?」
「見破ってなんかいない。ただ、俺の死角ってのはここらなんだろう? さすがに何度も攻撃されれば、憶えるさ」
今度、単調に動いたのはフォリオの方だ。同じ動きで、同じ場所を攻撃し続けて来られば、その動きを追えなくとも、予想する事が出来る。
ライツの死角とやらだって限られているのだから、攻めて来る方向とて、限られたものになるのである。
それを気付かせてくれたのも、レイリアの言葉であった。
「あんたは……俺じゃなくて先生まで舐め切った!」
「………っ」
空の方の手で、フォリオの顔面を殴る。相手の腕を剣で縫い付けた形になるから、今度は避けられはし無いはずだ。
相手の気を失わせるくらいの威力はあるはずで、実際、フォリオは気を飛ばした様に動かなくなり、倒れてくれた。
「……っと、先生。今……助けますね」
敵は倒した。その事で気が抜けそうになるものの、まだレイリアを助けると言う目的は果たしていないのだ。ここで倒れるわけには行かなかった。
倒れたフォリオは放置して、レイリアの元へと向かう。だが、こちらを向くレイリアは、真剣そのものでこちらを見ていた。いや―――
「ライツっ。まだ油断しては駄目!」
言われて後ろを振り返る。殴りつけたはずのフォリオが、そこに立っていた。
足が震えているのを見るに、ダメージは通っている様に見えたが、それでも、まだしっかりと意識を保っていたのである。
「しつこいな、あんた……」
「ええ、まあ。それだけの一生ですので。ああ、だがしかし、私もいけない。出し惜しみする事など、出来る立場でも無いでしょうに」
「……?」
違和感を覚えた。フォリオの様子にであるが、それ以外にも、彼の姿そのものが先ほどと違う様な……。
(なんだ……膨れてる?)
フォリオの輪郭が大きくなっていた。それは肉体だけであるらしく、彼を包んでいた服はすぐにビリビリとあちこちが破け始めている。
その服の内側から現れるのは肌……などでは無い。濃い、毒々しい緑色。明らかに硬質さが見て取れるそれは、さらに膨れ上がり、服がただの布切れになる頃には、鱗である事が分かった。
(DS団は……ドラゴンの鱗を象徴している……!?)
鍛冶師のマキッドからその存在は聞いていた。だが、話に聞くのと、実際に見た際の感情は、大きく違っているものだ。
DS団の構成員は、ドラゴンになる力を持っている。それがどういう力に寄るものかは知らない。けれど、その言葉それそのものの意味なのだ。
フォリオの姿は、既にもう存在していない。この広い石室で、それを狭く感じさせる巨体が、代わりとなってそこに生まれたのだから。
「これが……ドラゴン……」
全体的にトカゲを思わせる体は、そのどれもが大きく、分厚い鱗に包まれている。尾は蛇かと思わんばかりに長く部屋の中をのたりくねっており、巨大な四肢がその尾と胴体を支えていた。
もっとも凶悪に見えるのはその頭部であり、鋭い眼光と同じくらいに鋭い牙がこちらに向けられていた。
側頭部から伸びる角は威嚇のためか実用のためか知らないが、捻じれながらも真っ直ぐ二本伸びており、その凶悪さの印象をさらに高めている。
(こんな相手が……)
火傷しそうなくらいに熱いドラゴンの吐息がこちらまで届いている。その熱気を感じて、ライツの体は震えていた。
恐怖だ。さっきまで感じていなかった恐怖が、ライツの心の奥から一気に噴出する。
けれどそれは、自分の命がこれから失われると言う恐怖では無かった。むしろ、怒りや憤りに似ている、別の誰かに向けられた感情。
(ああ、何てことだ)
―――あなたは、あなたはこんな……こんなものと戦い続けていたのですか? ずっと一人で。ただの王女様であったはずのあなたが。
ドラゴンの豪腕が迫る。それは巨体に見合わぬ速さであり、ライツは必死に後方へ転がるしか出来なかった。
それでも間近に衝撃が走り、石室に崩れた床と煙が舞った。全力で、無様に避けようとして何とかギリギリ。
そんな化け物の攻撃がさらにもう一撃。今度こそ潰されると思ったその瞬間に、ライツは自らの手に暖かいものを感じた。
「えっ……先生……?」
自分の手に、レイリアの手が乗せられていた。そうして、ライツの小さな手が握る柄の余った部分に、もう一方のレイリアの手が添えられている。
それだけでは無い。ライツはそのまま、レイリアに誘導される様に、さらに違う方向へと跳んでいたのだ。レイリアに運ばれたと言った方が正しいか。
「逃げの手を打つ時は、相手との距離を気にするのでは無く、相手の動きを気にしなさい」
避けられぬと考えたドラゴンの前足による攻撃を、事も無げに回避する事が出来ていた。レイリアが剣に触れた結果、彼女自身の強化された身体能力に寄り、ライツを誘導してくれたのだ。
そう、今は既に、彼女の手に力の剣が戻っているのである。
「けど先生……手が……」
レイリアの両手首を見る。そこからは赤い血が流れており、恐らく、縛られていた紐から無理矢理に脱出したのである事が分かる。
とても軽傷とは言えないその傷であるが、レイリアは優しく笑い、剣を渡すように促して来た。
「無茶はおあいこ。あなたが先にそうしたのだから、次は私の番……でしょう?」
剣がレイリアの手へと渡り、ライツの手の中から離れた。握り込んで離さないでいられるほど、ライツの力が無かったと言う事でもある。
身体の強化が存在しなくなるや、ライツはその場で尻餅を突いた。立っていられる程の体力も、実は無くなっていたらしい。
全身に忘れていた痛みが走り、その場でうずくまりたくなる衝動に駆られるも、それをしなかったのは、これからをしっかり自分の目で見るためだ。
レイリアはライツから離れ、あの凶悪なドラゴンへと向かって行く。この場を動けない以上、ライツはその背中だけは見逃さない様に決めた。
見守る事しか出来ない……などとは思いたくない。
(結果がどうであろうとも……絶対に)
それこそがレイトがやるべき事。ただひたすら、睨み合うレイリアとドラゴンを見つめる。
どちらが先に動くか。その瞬間が何時来るか。短い時間だと言うのに心の臓が痛い。
(小心者にも程がある……俺じゃなくて先生の事だぞ!?)
自分で命を賭けていた時よりも緊張していた。驚きなのが、レイリアへの心配が薄い事である。
既に怪我をしていて、体力だって消耗しているであろうレイリアが、それでも、その背中は、ドラゴンと比べて劣っていない様にすら感じていたのだ。
(……動いたっ)
戦いが遂に始まった。先に動いたのはドラゴンの方だ。ライツに向けてと同様に、腕を振り上げてからの振り下ろし。
その速度、その重量だけで、生半可な攻撃など比較にもならない結果をもたらすそれであったが、その軌道の先にレイリアはいない。
(さっきも……ああやって移動したんだ)
前にも見た、力の剣を使っての高速移動。強化された体の一部さえ地面に触れていれば、それだけで十分な移動距離と速度を維持できる動きが、今度はさらに洗練されたものになっていた。
(あれが、先生の本気……?)
単純な移動では無い。出鱈目な様でいて、的確に相手の嫌がりそうな場所への移動を繰り返し、それを追おうとすればまた別の場所へを繰り返す。
フォリオにやられた、死角へ潜り込まれる事による移動は瞬間移動に見えたが、レイリアのそれは分身した様に見えるだろう。何時も視界の端に捉えたと思えば、まったく別の場所に立っている。それもまた、次の瞬間には別の場所へ。
(普通、それだけやられれば、相手は混乱して、やけっぱちになって、それが隙になるんだろうけど……)
ドラゴンが相手であれば話は別だった。既にフォリオが変じたドラゴンは、完全に追う事を諦めている。
しつこく追えば、それだけ自身が消耗する。それをドラゴンは理解し、別の方法でレイリアを追い詰めようとしていた。
(足場って言うか……部屋ごと潰す気か!?)
腕を振るい、尾を跳ね上げ、レイリアはそれらを神業的に避けているが、壁や床、もしくは天井はそうは行かない。
ドラゴンの頑丈な肉体にこの石室は耐えられない。既にあちらこちらにヒビが入り、瓦礫が山となり始めていた。
(先生の足場が、潰されていく……?)
ライツにはそう思えた。だが、レイリアにはそうで無かったらしい。
潰れて、ヒビが入り、瓦礫だってあちこちに発生したこの部屋は、レイリアにとって、足場がさらに増える結果となっていた。
本当に、体のどこかが何かに触れれば、その点に力を込めて移動していた。瓦礫だろうが壁のヒビだろうが、そこを点として別の角度への移動を行う。
(むしろ、部屋が無事な状態だった時以上にめちゃくちゃな動きになって来てる……)
あれでは動きを捉えられない。少なくともライツは目でしっかり追う事すら出来なくなっていた。
それでも、天井をぶち壊され、部屋ごと潰される可能性だってあるわけだが、そうなる前に、レイリアは行動に出た。
勿論、攻撃だ。ドラゴン側がレイリアを直接的に狙わなくなったと言う事は、それだけレイリアの行動に余裕が出来る。
複雑さを増した動きをフェイントとしつつ、レイリアはドラゴンの振り下ろされた前足に切り付けた。
人間の大きさにしてみれば、指にナイフで切り傷が出来る程度のものであろうが、それでも鱗とその先にある肉を切られるのは痛いものだろう。
悲鳴こそ無いが、呻き声は聞こえた。僅かであろうとも、ダメージはあるのだ。
(先生の力の剣は、少なくともそれだけの鋭さもある……)
なればこそ、ドラゴンと戦える。レイリアの姿はまるで、巨獣の周りを飛び回る蠅だ。
(いや、蝶って言った方が綺麗か?)
そんな場違いな事を考えられるくらいに、レイリアがドラゴンと互角に戦えている様に見えた。
戦闘の速度と複雑さはさらに増し、ドラゴンの一撃の間に5回は切り込み、内3回は確かなる傷痕として残す。このまま先の事を考えれば、互角以上とすら言えた。
ただ、そんなライツの感想も変わる。彼女の表情を見てしまったから。
「先生……くそっ、本当に無茶をしてる……」
縦横無尽なその動きに反して、レイリアの表情は硬かった。必死とすら言える程に歯を食いしばり、頬から汗が流れている。
彼女の本気の動きは、彼女の寿命すら蝕みかねない程なのだ。
肉体は既に限界を越えているのでは無いだろうか? 全盛期をとっくに過ぎているだろうその身体は、もうとっくに悲鳴を上げている。そのはずだ。
(それでも……なんであの人は止まらないんだ? もう、立ち止まったって良いじゃないか)
彼女の半生をライツは知った。彼女の終生にどの様な物が待ち受けているかを薄々分かり始めた。
けれど、彼女の命を助けられているこの状況の中ですら、ライツは彼女に休んで欲しいと思い続けていた。
憧れていたあの人の終わり方は、穏やかな物であって欲しいと願い続けてもいた。
それでもレイリアは止まらない。凶暴で、自らを執拗に狙うドラゴンを相手に、その命をすり減らして勝利を得ようとしている。
(俺に……もっと力があったら、あの人の助けになれるんだろうか)
そうでありたいと願っていた。今、願い始めた物では無く、もう少し前からそう願う様になっていた。
だが、願いはただ、今は思いのままであり、この戦いもまた、レイリアとドラゴンの行動のみによって終わりを迎えようとしていた。
(部屋が熱い……ドラゴンが現れてから、少しずつ熱くなっている気がする)
汗が止まらない。単純にドラゴンそのものの体温のせいかと思えたが、それを上回る熱さとなってライツを襲っている。
それは、ドラゴンの近くで戦い続けているレイリアにはもっとだろう。彼女の体力が心配になってくるが、それ以上の不安がライツを襲って来た。
(ドラゴンの腹が……赤い?)
ドラゴンの蛇腹が赤く染まっている。いや、鈍く光っていると言った方が良いか。色も純粋な赤では無く、熱を持った金属の様な―――
「ドラゴンは……火を吐くって話が……!」
腹の光が徐々に喉の方へと向かっている。広いとは言え、ドラゴンの巨体からすれば手狭なこの部屋で、火など吐かれればどうなるのか。想像すらしたくない。
だが、もっと驚きなのが、そんな光景の中で、レイリアが笑った事だった。
(先生……?)
疲労が限界に達し、体力が欠片たりとも残って無さそうな顔色の悪さにも関わらず、レイリアは笑っていた。
その壮絶さにライツは震える。この時を待っていたとばかりに、レイリアはライツに聞こえる程の声で叫んだ。
「焦ったわね、フォリオ・ハプーン!」
叫びと同時にレイリアは駆けていた。これまでのどの動きよりも素早く、ライツが見て来た動きよりもさらに速い。
これがレイリアのすべてを賭けた動きなのだろう。全身全霊を賭け、その後の事は考えない動き。ドラゴンが仕掛けようとしたその瞬間に、レイリアもまたこれを最後にするつもりなのだ。
狙う先はドラゴンの頭部。まるで自ら口に飛び込む様な動きの先には、ドラゴンが大きく口を開いていた。
レイリアを飲み込むつもり……なのでは無いだろう。その逆。吐き出すつもりだ。炎の息吹を。
既にその口の奥には火の粉が見え隠れしていた。そんな口元に向けてレイリアは飛び込んだ……いや。
(違うっ……狙った先は……鼻先!?)
酷い光景だった。レイリアはドラゴンの鼻先へぶつかる様に辿り着くと、その穴に足を引っ掛けて足場とした。
バランスが悪く、今にも転げ落ちそうであったが、たった数瞬。その場に居られれば良いのだろう。レイリアは剣を振り上げた。
「……ッ」
ドラゴンの目が驚愕に染まる。レイリアのその行動にか、それとも、その行動の意味にかは分からない。
だが、ドラゴンは尚も止まらず炎を吐き出そうとしていた。いや、喉の奥まで来ている炎を止められないのだ。
そうしてそんなドラゴンの上顎目掛け、レイリアは力の剣を突き立てた。結果、強化された力は、ドラゴンの口を強制的に閉じる事に成功する。
(爬虫類は……口を開く力は弱いらしいって話だけどさぁ!?)
本当にそれをやるのかと思った。
ドラゴンの顎を剣で閉じさせる。その後に起こる事は何だ? ライツはこれから起こる事について、良く分かっていなかったが、この状況がとんでもない結果になるであろう事は予想できた。
(炎を吐き出そうとした竜の口が閉じれば……吐き出されようとしていた炎はどうなる!?)
発生したものは、何かの結果が出るまでは消え去らない。その結果は、ドラゴンの喉から腹を染める赤い光であるのだろう。
先ほどよりもさらに光を放ち、その体内で炎が激しく渦巻いているのが見えた。
「―――ッゴアァアアアアア!」
突き立てた剣ごと、レイリアがドラゴンに弾かれるのと同時に、漸く開かれた口元より出たのは、炎では無くドラゴンの悲鳴だった。
逆流した炎により体内を焼かれ、それでも火に耐性があるからか、容易くは倒れない。
口や鼻、先ほどの剣により開けられた上顎の穴からも火が漏れ出て、さらに全身が炎の色に輝き始めながらも、ドラゴンは部屋中をのたうち回っていた。
(自分の体から出た物だろう? それが逆流したからって、それほど苦しむものなのか?)
ドラゴンの様子を見ながら、ライツは疑問符を浮かべた。そんなライツの問い掛けに答えるが如く、何時の間にか、すぐ隣へとやってきたレイリアが話し掛けて来る。
「ドラゴンと戦う時……勝利するには……相手の力を利用するのが得策なの。ドラゴンの炎は……とても特殊で……何もかもを燃やす程に……強力な物になるわ……適切に吐き出さなければ、自分の体だって……ね?」
「先生……ちょっと、大丈夫ですか!?」
近寄ったレイリアを見て、ドラゴンよりも彼女の事が気になった。既に息も絶えそうな姿で、だと言うのに、ライツには優しく微笑もうとしているのだ。
そんな無理を、今はしないで欲しい。
「大丈夫じゃ……ないけれど……最後くらい……復讐者としてじゃなく……あなたの先生として………振る舞いたいじゃない?」
「え?」
「実を言えば……話をしている時間は……そんなに無いの。一旦火が点けば……あとは燃え盛るばかりよ……ここが石室で助かった……後は……逃げるだけっ」
燃えるドラゴンは、その炎を辺りにもまき散らし始めた。このままの勢いでは、石室中に火が広がっていくだろう勢いであるから、レイリアが逃げようとしているのは正しい。
「けど先生……もう、限界なんじゃあ……」
「言った……でしょう? 先生らしい事くらい……させてちょうだい」
最後くらい……そんな言葉も聞こえた気がした。
それは不吉な響きだ。何の、どういう最後だと言うのか。震えそうなライツの体をレイリアは担ぎ上げて、石室の出入口へと向かう。
「先生……先生は何のために……戦っているんですか……?」
炎から逃げる途中。ライツは場違いな事を聞いた。今、この瞬間に聞いて置かなければ、二度と聞けない気がしたから。
「……ずっと、ずっと復讐のためだと思っていたわ」
レイリアの荒れた息遣いと共に、漏れ出た様な答えが聞こえる。微かな声だったが、ライツは一言一句聞き逃すまいとする。
「けれど……それじゃあ戦えなかった……何時の間にか……戦う意味なんて無くなっていた……から」
それは、レイリアがきっと復讐を果たしたからだ。それ以上、その事で心を苛まれる必要なんて無い。
だと言うのに、それでもこの人は戦い続けて来たのだ。それは何故か。
「あなたが……あそこに現れた時にね……心配で、無茶をしてって……思ったけれど……実は……少しだけ嬉しかった……」
レイリアは笑っていた。こんな、必死になって逃げ回るこの瞬間に、彼女は確かに笑っていたのだ。
「あなたが……私の想像を超えて成長してくれていた……だから嬉しかったのよ。短い間だったかもしれないけれど……あなたの先生として……あなたを立派に出来たんじゃないかって……思えたの」
だからなのか。だから彼女は追い詰められたライツの前に立ち、ドラゴンとの戦いに挑んだのか。自分があの場に現れたから、それに心を動かされたと言うのか。
「あなたに……無様な姿を見せられない……だって、今の私は……あなたの先生だもの」
「そんな……それだけのために……命だって賭けて」
「剣士は……何のために戦うか……難しい事かもしれないけれど……本当は……それで良いのよ。それだけで……十分」
この人は、自分の先生だ。この瞬間だけは間違いなくそうだった。そんな答えを聞けただけでライツは満足に思う。
(いや……けど………まだ伝えたい………こと……が……)
ここに来て、気が遠くなっていく。戦いが終わり、限界を認識し、さらには炎の煙を吸い込んでしまったらしく、抗い難い意識の消耗が襲って来た。
(言いたい事が………まだまだ……あるんだ………だから……俺は………先生に………死んで欲しく……無―――
―――何時だって、終わりはある。どんなものにもだ。どれほど終わって欲しくない事だって、何時かはどこかへと去って行く。それこそ、あなたが最後に教えてくれた事だった。
満天の星空が、その夜の光景だった。街から出て暫くの場所。そこにテントを張り、ライツはそんな空を見上げていた。
「夜の星空が、そんなに興味深い?」
ふと、優しい声が聞こえた。テントの近く、そこの地面に直接座るレイリアの声だ。
「ええ、その……街で見るより綺麗に見えるなって。あ、先生。起きても大丈夫なんですか?」
あのフォリオとの戦いから数週間が既に経った夜。
あの日、石室を脱したレイリアとライツは、すぐに宿も出た……と聞いている。ライツはその時、気を失っていたから、その後の動向について良く知らないのだ。
曰く、レイリアの知り合いの街医者に診て貰い、応急処置をしてから、療養を開始した。ライツが目覚めたのはその療養開始のすぐ後だ。
目が覚めた時、全身が包帯まみれと言うのは、中々に衝撃的な体験だった。
「怪我……思ったより早く治りました。力の剣のおかげ……ですかね?」
ドラゴンとの戦いと言うか、ライツはそれを始める前から、既にボロボロの姿であった。それが今は、痛みもあまり無い状態になっており、十分に体を動かせるまで完治していた。
いや、実を言えば、ちょっと体が突っ張った様な感覚が残っているものの、そこはやせ我慢だ。
「定期的に剣を握らせた甲斐があったわねぇ。この剣の一番便利なところって、そこなの」
レイリアが持つ剣を示す。療養中、何度かその剣を持つ様に言われた。それがどういう意味を持つのか、ライツは勿論分かっていた。
傷を癒す力を持つ剣……でもあるそうだ。身体能力についてもそうだが、純粋に、人の力を伸ばしてくれる。凄い剣だなとライツは感心させられた。
「だからこそ……先生は戦い続ける事が出来たん……ですよね?」
「そう、無理をし続けたわ。この子も、良く付き合ってくれたと思う。何かしらお返しが出来れば良いんだけど……近くにお饅頭とか置いたら喜ぶかしら?」
「どうでしょう。パンとかの方が良いかもしれませんよ」
笑い話であるが、礼くらいなら本気でしても良いかなと思う。こうやって、今、レイリアと話をする事が出来ているのも、この剣が二人の傷を癒してくれたおかげだ。
もっとも、街を出る事になったから、すべてが平穏無事とは行かないが。
「あー……街を出るにしても、もうちょっと、名残惜しんでからにしたかったですね」
ライツとレイリアは、街を出て旅を始めようとしていた。今日の夜は、そんな立ち去る街を見納めするために、街の付近でテントを張ったのである。
「そこはごめんなさいねぇ。ほら、泊まっていたホテル、なんやかんや小火騒ぎになっちゃったじゃない? そこで調べが入って、地下室が見つかり、そこにドラゴンの骨がーなんて事になってしまって……取り調べとかされればとっても面倒」
冗談みたいに言っているが、面倒どころの騒ぎではあるまい。
街の地下にドラゴンが居たと言う事は、それだけで街を左右する大事件であり、ライツとレイリアはそのドラゴンに関わる当事者なのだ。
さらに調べる者が優秀なら、DS団関係の話にも辿り着くだろう。街の宿の従業員全員が、そんな集団の残党とそれに雇われた者達だったと言うのは、街の存亡にすら関わって来るのでは無かろうか。
「逃げるみたいに街を出るって言うのは……理由、分からなくは無いですけどね」
「時々、こういう事もあるのよ。ちょーっと色々とやらかして、厄介事に巻き込まれる前に、逃げ出すの」
悪い事はしていない。そういう風には話すものの、情けない姿だなと思わないでも無い。もっとも、そんな姿も、剣士としての在り方なのかもしれないが。
「ん……けど、何時かは街を出るんだろうなとは思ってました」
「あら、意外と淡泊なのね?」
「勿論、名残惜しくはあるんですけど……それ以上に、ちょっとだけわくわくしてます。不謹慎ですかね?」
「いいえ。そういう感情で良いのよ。私が旅を始めた頃に比べれば、とても良い感情だと思う」
「……はい」
こんな風に、レイリアは自身の過去について、何気なくライツに語ってくれる様になっていた。
彼女の中で、何かが変わったのだろう。おかげと言えば良いのか、レイリアについて、ライツはそれなりに知る立場になったと言える。
(それが……剣士として近づいたって事でも無いんだろうけど……別に構わないんだ。本当に。今のままで居られるなら、それで本当に構わない)
ライツはまた空を見上げた。本当に星が綺麗な夜で、くもりだったりしなくて良かったと思う。
(いや、雨だったら、それはそれで良かったのかもしれないけど……)
ライツは何かを我慢する様に、拳を握りしめる。そんなライツの姿を見てか、少しだけ沈黙していたレイリアが、また声を発した。
「ライツ、良いかしら?」
「ええ、何時だって、何だって構いませんよ」
「なら、大事な事を言うけれど……」
もう一度の沈黙。大事な事を言う前に、心の準備をしろと言う事なのかもしれない。出来れば、そのままずっと沈黙が続いて欲しいと思う。
けれど、何時だって、その時はやってきてしまう。
「私の剣は、あなたが使いなさい」
「……」
何と返せば良いのか。それが分からない。ただ、空を見上げる事しか自分には出来なかった。
ああ、本当に、雨が降っていたのなら、目に溜まり始めたそれを誤魔化せるのに。
「あなたなら、この剣も答えてくれる。一度はちゃんと使えたのだもの。次からもきっと大丈夫。使いこなせるかどうかは、それもあなた次第だけれど」
そんな事は聞きたくないと、叫びたい思いに胸がいっぱいになる。けれど、一度口を開けば、何もかもが零れ出しそうだから、やはり黙っているしか無かった。
「そうね、剣だけと言うのも寂しいし。あなた、姓が無いでしょう? 私の姓……古い方は捨ててしまったから、ナスキートの姓を上げる。名乗る時にでも、使ってくれれば嬉しいわ」
そんな、何もかもを渡すみたいな事をしないでくれ。
まだ、そんな時では無いはずだ。そのはずだ。言いたい事だって沢山残っているし、一番大事な事を、まだ言えていない。
「後は……どうしようかしら。私、渡せる物って、あまり残っていなかったみたい。ほんと、どうしよう……」
「そんな事……ありません。これまでだって、色んな物をあなたはくれた」
「これからだって……そうありたかったのだけれど…………本当、夜空が綺麗ね。今日は」
一緒に空を見上げる。こんなにも綺麗だから、ライツとレイリアは空を見上げるしかなくなるのかもしれない。
けれどレイリアの方は、再び前を向いたらしい。
「空だけじゃなく、あの街を見なさい、ライツ」
霞む視界。だと言うのに、レイリアはライツにも前を向けと言う。そんな彼女の無茶を、ライツは断れなかった。
「はい……街も……とても綺麗です」
街もまた霞んで見える。星空程では無いが、夜の闇をぼんやりと照らすその街並は、人がそこに暮らしている証だった。
「そう。あなたが守った街。あなたが行動しなければ、もしかしたらあのフォリオと言う男に潰されていたかもしれない街よ」
復讐を誓ったフォリオの事を思い出す。彼が、レイリア以外を狙うのだろうかと思えたが、そういう事もあり得たかもしれない。今はそう思えとレイリアは伝えて来る。
「剣士と言うのは、ああいう街を守る者なの。分かり難いかもしれないけれど……何時かは分かって欲しい。人と人の営みを守る。少なくとも、そういう人間で無ければ駄目」
まるで、自身の生き方を否定する様なレイリアの言葉。それはもしかしたら、彼女の後悔から来ているのかもしれない。
「先生……先生は……」
「私は……駄目だった。最後くらいは、らしい事が出来たのかもしれないけど……今さらね。本当に今さら……剣の力のおかげで、こうやって話せているけれど……それももう……そろそろだわ」
レイリアの声が、少しずつ小さくなって行く。
彼女が持つ力の剣は、持ち手に力を与える。けれど、体力までは与えてくれない。衰えたそれは、少しずつ消耗していくのだ。
それでも、それを持つ限りにおいて、体は十分に動かせた。会話だって普通に出来る。命が尽きるその時までは。
「先生は……先生は立派な人です。俺はずっと、そう思い続けますから」
後ろを振り向けない。振り向いたら、そこで何もかもが終わってしまいそうだから。
自分は何時もそうだ。肝心な時に何も出来ない。ただ立ち止まるばかり。こんな時ですら、最後の一歩も踏み出せていない。
「そう……とても、嬉しいものね。誰かに……尊敬されるって…………気恥ずかしいけれど……………とても……」
「先生……?」
レイリアの声が途切れる。そうなってから、漸くライツは振り返る事が出来た。
勿論、そこにはレイリアが居た。座っていたはずが、何時の間にかそこで倒れ、眠る様に目を閉じたレイリアがそこに居るのだ。
ライツはそんなレイリアに走り寄り、彼女を抱えた。自分より大きな女性であったが、驚く程に軽く感じる。
「先生……先生っ。先生はずっと……頑張って来て……大変な生き方をして……それでも……俺なんかに色んな事を教えてくれて……これからだって言うのに」
言葉が零れると同時に、ライツの目から涙も落ちた。涙は力の無いレイリアの手の甲に落ち、伝い、地面へと落ちて行った。
「もっと……もっと話したい事があった。けど、最後まで俺は……何にも言えなかった。こんな俺が……剣士に何てなれるでしょうか? なっても良いんでしょうか? もし……あなたが認めてくれるのなら……俺は……」
―――あなたと出会った時の事を良く憶えている。あれはそう、今日みたいに星空が輝く夜。それでも薄暗い街の、裏路地での事だ。
あれから、色んな事があった。それまでの人生をすべて覆す様な、大きな出来事が沢山あった。
そんな中で、思う様になったものがある。自分の中に出来た一つの夢。
それは、憧れていた剣士になると言うもの。
物語の中で、剣士は何時だってヒーローだった。
巨大な化け物を退治して、驚きの冒険を繰り返し、皆から認められるヒーローが剣士なのだ。
自分が知る剣士の中で、あなたは正にそんな存在だった。
けれど一つだけ、足りない物があったと思う。それは、もしかしたらあなたにとって、もっとも必要だった物なのではと思う。あなたに必要な、あなたに足りなかった何か。
自分は、そんな存在になれるだろうか? 本当に、ヒーローみたいなあなたに対して、そんな事を思うのもおこがましいが、それでも、許されるのなら。あなたが認めてくれるのなら、言わせて欲しい。
どうか、どうか俺を―――
『あなたの剣士に』了