前編
―――あなたと出会った時の事を良く憶えている。あれはそう、星空が輝く夜。それでも薄暗い街の、裏路地での事だ。
少年は走り続けていた。手には硬貨が数枚入った小さな袋。走る場所は、月の光が届かない街の裏路地。
たった一人で走り続けているわけではない。後ろからは怒声と共に、少年を追いかけてくる大人の男が数人。
「くそっ……くそっ!」
息も絶え絶えながら、少年は悪態を吐く。自分の立場を良く理解しているからだ。
あの大人たちは、自分が手に持った袋を狙っており、それを持った少年をひたすらに狙っている。
そうして、どうやら大人の方が走りは速く、そう時間も経たない内に、自分を捕まえるであろう事を予想できてしまっていた。
「しまっ……」
足が縺れる。誰だ、こんな場所に木箱を置きっ放しにしたのは。
そう叫びたかったが、その前に少年は地面へと転がり、石畳に体を打ち付ける事になったので、その機会は失われる。
後に残るのは体中の痛みと、また、これからやってくるであろう暴力による痛みへの恐怖。
少年が転がった姿勢のまま顔を上げれば、そこには追って来ていた大人たちの姿がすぐそばに。
「この餓鬼、苦労させやがって!」
「覚悟はできてんだろうな? あ?」
自分が吐いた悪態以上のものが大人たちから向けられるが、それそのものは別に怖く無かった。
こういう言葉は慣れているし、本当に、言葉だけなら怖くないことを経験で知っているからだ。
怖いのはこの後だ。この大人たちは手加減なんてことが出来る程に賢そうには見えない。
彼らは少年がもう逃げられない事を知ると、ヘラヘラ笑いながら、それでも先ほどまであった怒りをぶつけて来ようとしていた。
その大人……男の一人は、転がったままの少年へ近寄ると、その足を振り上げ―――
「やめておきなさい」
言葉が聞こえた。老婆の声だ。こういう場所には似つかわしくない凛とした声でもある。そうして、おかしな光景もまたそこにあった。
足を上げた男が、横にすっ転んだのである。バランスを崩したのだろうその男の近くには、何時の間にか老婆が立っている。
月明りに照らされて、銀色にも見える長い白髪。皺を湛えた顔は、老婆らしく穏やかなものであるが、だからこそ、猶更に、こんな場所には不釣合いに見えた。
「え? 何……?」
少年は、ありきたりなものであるが、困惑を言葉にする。
こんな場所に対して、存在自体が不釣合いであるはずの老婆の姿が、何故かとても立派に見えたからだ。
顔を見ただけで相当の年齢である事が分かるというのに、スッと伸びた背中は、どこも曲がっておらず、女性としては十分に高い背丈を際立たせていた。
身なりだって、こんな路地裏にいる人間が、どれほど働けば手に入れられるのか想像も出来ないくらいの高価そうな服装を着こんでいる。
だが、もっと異質な部分がある。その老婆は、剣を一本持っているのだ。
長く、白い刀身。この路地裏の薄暗さもあるのだろう。その余りにもな白さと老婆の白髪が合わさり、少年には老婆が輝いて見えた気がした。
「とりあえず、坊やはそこでじっとしていなさい。それとあなた達。注意したところで、立ち去ってはくれないでしょうから、暫く立ち上がれない様にしておくわね」
「な、なんだババア! てめえ何がっ―――
また一人、大人が転んだ。だが、足が縺れたわけで無いことを少年はしっかりと見る。
老婆が持った抜き身の剣。刃のついていない腹の部分で、まるで埃でも払うかの様に、大の男を転がしたのである。
老婆の腕は細く、そんな膂力など無いだろうと言うのに、何事も無く剣ごと腕を振るって、その勢いは衰えることなく、男達を叩き、倒していく。
気が付けば一人を除いて、大人たちは少年と同様に地面へと倒れ、呻き声を上げていた。
「なんだよ……なんだあんた、いったい!?」
最後に残る一人が叫ぶ。怯えを含んだその声であったが、老婆は涼しい顔をして受け止めていた。
「そうね、そういう言葉、人生で何度も向けられた事があったけれど、この歳になって漸くわかる事があるのよ」
老婆は最後の一人に向かい、一歩足を踏み込むと……その一歩だけで、相手の男の懐にまで接近していた。
「う……がっ―――
老婆の振るう白い刀身の腹が、男の腹へと食い込む。かなりの衝撃だったのか、男は腹を抑えながら腰を曲げ、他の男達と同様に転がり呻く事になった。
「話すより、手を出した方が早いの。ごめんなさいね。多分、1時間もすれば、全員立てる様になっているはずだから」
転がっている男達へそう告げてから、次に少年へと近づいてくる。
「ひっ……」
少年は既に、この老婆が常人からまったく離れた存在である事に気が付いており、大人たちに追われていた時よりも、さらに大きな恐怖と混乱を抱いていた。
「そんなに怯えないでちょうだい。少しばかりショックよ? とりあえずの確認をするだけなのよ。あなた、大丈夫だったかしら?」
「え、えっと……俺……いや、大丈夫……だけど。あんた、誰?」
少年は立ち上がりつつ、老婆をじろじろと見つめる。
どうやら敵意らしきものは無いらしい。その事が分かった以上、抱いていた恐怖はとりあえず消える。
残るのは、相手がいったい何者かという疑問だけ。
「さあ、誰なのかしらね? 私も私が良く分からない。けれど、それはそれとして……ほら、返しておきなさい」
と、何時の間にか、少年が手に持っていた硬貨入りの袋が無くなっていた。
老婆の手により触れられた感触は一応あったものの、それは一瞬の感覚だ。その一瞬の内に、老婆は少年が手に持った物を奪ったのである。
「何時の間に!? っていうかそれ!」
「スリで盗んだものでしょう? この人たちもやりすぎだけれど、バレれば追われて怪我する事くらい分からなきゃだめよ?」
老婆はそう言うと、倒れている男の内の一人に、少年から奪った袋を投げた。
もっとも、相手は受け止める余裕など無さそうなので、近くに袋だけが転がる事になる。
どうにもその光景に少年は腹が立ったため、謎の多いこの老婆に対して、怒声を上げる。
「何ぶってるんだよ! ここじゃあ、食うか食われるかだ。スリくらいしたって、損するのは本人以外誰も―――
「ということは無いわよね? どうせこういう事を何度もしていたのでしょう? でなければ、多勢で追われたりはしない。どうかしら?」
「ぐっ……」
老婆の言い草には苛立ったが、まさに老婆に言われた通りの状況ではあったので、黙る他無い。
自分には、少なくとも一日の食費が必要で、かと言って自分の様な小僧を雇ってくれる相手なんていない。
だからスリで他人様の財布を盗む事で生計を維持していたが、今回はその筋の人間に対して目を付けられたらしく、まんまと罠に嵌り、追われる側になってしまったのだ。
もし老婆がいなければ、今頃、落とし前とやらを付けられていたに違いない。
「子どもが大人に袋叩きになっているのは見るに堪えないから助け船を出したけれど、文句を言われるのなら、これ以上、何かをする理由なんてないわ。そっちの都合があるのだったら、深くは踏み入らない」
それだけ言って、老婆は手に持った剣を腰に下げた鞘へと納め、背を向けた。
「ま、待てって!」
「何かしら?」
こうやって、呼び止めるのも想定済みと言った様子で、老婆はすぐに振り返った。本当に、老人らしからぬ素早い動きだ。
「そ、その……助けたなら……最後まで助けてよ。スった財布を返せって言うなら、今日、俺はどうやって食事をすれば良いんだ」
「なんとも子どもらしいわがままね。けど、子どもなのだから仕方ない。良いわ、付いてきなさい。こんな老人だけれど、食事くらいなら用意できる」
そう言うと、再度、老婆は背中を向ける。先ほどと違うのは、付いて来いという意思表示がされていた点だった。
少年は急いで老婆の背中を追った。
食事云々については本音ではあるが、それ以上に、何だか、とても追いかけたくなる背中でたったのだ。
―――こんな禄でもない出会いではあったけれど、今だって細部を思い出せる。どんな出会いだって、あなたとの出会いなのだから。ただ、ちょっと言わせて貰うなら、その後の事については、別の記憶の方が鮮明ではあった。あの宿を選ぶセンスは無いだろうって。
「そういえば、あなた、名前は何だったかしら?」
老婆に案内された宿を見て、少年はやや呆けていた。そんなところで、老婆から話しかけられてビクリと肩を揺らした。
話しかけられるまで、少年の意識はこの老婆とは別の方を向いていたのだ。
「名前……名前はライツだけど……って、そうじゃなく、ここは!?」
「ライツ。良い名前じゃないの。自分で付けたのかしら? それとも、親御さんが?」
「親なんていない。ただ、何時の間にか他からはライツって……そうじゃない。なんだよここ……ここが、宿?」
「ええ、良い雰囲気でしょう? 賑やかでとっても素敵」
天井がひたすら高い。何やらシャンデリアらしきものがぶら下がっている。端の方では弦楽器で音楽を奏でてい男や女。客らしき人間はきらきらとした服を着て、従業員らしき人間もきらきらした服を着ている。総じて言えばだいたいが無駄に輝いていた。
いや、きっと、そういう雰囲気があるだけで、実際に光ってはいないのだろうけど……。
「お婆さん、もしかしてお金持ち?」
「今さら気付いたのかしら? それなりに身なりは良くしているつもりなのだけれど」
「いやだって……なんでそんなお金持ちが剣なんて腰に下げて……あんな物騒な場所を」
「それは勿論、この方が剣士でいらっしゃるからですよ」
「うわっ!?」
突然、近くにスーツ姿の男が現れた。
黒く短い髪をポマードで固め、張り付いた様な笑みを浮かべながらも彫りの深いその表情が、どこか厳めしい印象を与えてくる。そんな男だ。
「ミス・レイリア。今宵はあなたに似つかわしくない方と連れ添っていましたので、つい声を掛けてしまいました。ご無礼を許していただけますかな?」
「ええ、勿論よくってよ。確かにこの子は身なりが悪い。そうね、ちょっと臭くもあるから、まずはそこからなんとかしたいのだけれど……いえ、まずは、やはりお腹を満たしてからかしら」
どうにも自分の意思を無視して、話が勝手に進んでいる。いや、話だけでは無く、何もかもが勝手だ。
そんな事を、少年ことライツは思い知らされていた。
せめて今日一日の食事くらいなどと考えて、この老婆に付いて来たわけであるが、襲い掛かって来る様な怒涛の展開に、目を丸くする他ない。
「その、身なりは悪いし、こういう場所に似つかわしくないし、おまけに体なんてここ最近洗った事無いから、明らかに場違いである事は分かってるんだけどさ……何? お婆さんが剣士? それで、あなたは誰?」
「ハッハッハ! 物を知らぬ事を知っている少年とは、中々に好印象ですぞ! 私はこの宿の支配人、フォリオ・ハプーン。そうしてミス・レイリアは我が宿にやってきた上客と言ったところでしょうなぁ!」
兎角、このフォリオという男はテンションが高い男らしい。この豪奢な宿の支配人と言うからには、相応に上流階級と言う事になるのだろうが……。
それはそれとして、もっと気になる事がある。
「お婆さんが上客って、剣士だからって事? このお婆さんが……剣士……」
剣士。その言葉の特別さは、路地裏を走り回る根無し草なライツと言えども、良く知っていた。
それは力を持つ剣の所有者の事である。魔法や魔物が溢れるこの世界。そんな中で、とびっきりの存在が幾つか存在するが、力の剣と呼ばれるそれはその一つだ。
その剣は持ち手を選ぶ。そして、剣に選ばれた者は、剣の使い手として大きな力を得られるのだ……という話。そんな持ち手を、世の中の人間は剣士と呼ぶ。
「そういう事になるかしらね。ええ、これは力の剣。だからこそ、街や、こんな宿での帯刀も許されている」
人々にとって、剣士は憧れの存在だ。
物語の中では、囚われの王女様を颯爽とやってきた旅の剣士が救い出すなんてものは有り触れていて、碌に文字も読めないライツですら、そういう話を幾つも知っていた。
だからこそかは知らないが、剣士が力の剣を帯刀する事を、特例的に許す風潮みたいなものすらあった。
「剣士……剣士って……すごい! え!? 本当にお婆さんが剣士なの!?」
漸く事態を飲み込めて来て、ライツは純粋に感動していた。
本当に、ライツにとってすら、剣士は特別で、憧れの存在なのだ。
路地裏で他人様の財布を狙うコソ泥小僧が一生出会う事の無い相手。それが目の前にいる。その事に、興奮しない男子などいない。
「おやおや、これは……まさに子どもらしい在り方で、微笑ましくありますな」
「まったくその通り。こそばゆいところはあれど、悪く無い気持ちにはなれる。良い事? ライツ。そういう気持ち、大事にしなさい」
「……?」
言われた意味が分からず、首を傾げた。憧れられて嬉しいというのは、どことなく分かる部分はあれど、それ以外はさっぱり分からない。
だからだろう。もうちょっと、ライツにとって分かり易い話をする事にした。
「じゃ、じゃあさ、俺に、剣とか教えてくれたりとかしない? ほら、俺、強くなりたいんだよ! 剣士様に剣術とか教えてくれれば、すっごく強くなれるんだろ? さっき、チンピラどもをのしたみたいにさ!」
「まあ……」
初めて、困ったという表情をされた。
何か、不味い事でも言ったかと思う。そうであったら大変だ。気分を害されては、剣術を教えてはくれないだろう。
「ハッハッハ! これまた、子どもらしい話になりましたな、ミス・レイリア! しかしお坊ちゃん。その夢は、今のところ閉まっておく方が良いでしょう」
「な、なんでだよ」
高らかに笑うフォリオを睨むも、相手はまったく動揺していない。たかが子どもと心の底から思われているのだろう。
「そう簡単に、剣士がその剣術を教える事は無いからです。剣士は何故剣士か。それは、誰しもがその偉業を認めるからこそ! 誰かれ構わずその剣術を教えれば、それこそ、坊ちゃんが憧れる様な存在では無くなってしまうでしょうとも。分かりますかな?」
「それは……そうかもしれないけど……」
「私などは、それはもう、人生の中で300回ほど剣士になりたい剣士になりたいと思い続けていたものの、ほら見た事か、今は宿の支配人。そう簡単に、夢とは叶うものでは無いのですよ」
当たり前過ぎて、言われれば納得せざるを得ない。
いや、さすがに300回も願った事なんて無いが、自分の様な奴に、剣術なんてものを教える相手がどこにいるのかという部分は分かるのだ。
そんな事を、剣士が目の前に現れたという衝撃のせいで忘れていた。
第一、剣術を教えて貰ったところで、力の剣なんてものをライツは持っていない。つまり、どれほど努力したところで、剣士になど成れるはずも無いのだ。
「ああちょっと、そんな悲しそうな顔をしないでちょうだい。参ったわねぇ……うーん。夢を見るなら、長く見れた方が幸せかしら?」
「え?」
「おやおや、ミス・レイリア。本気ですかな? 今日のあなたはどうにも素っ頓狂だ」
希望が出て来たかもしれない。そういう思いで顔を上げてみるものの、老婆は困り顔を浮かべたままだった。
「素っ頓狂。確かにそうかもしれないけれど、とりあえず明日まで。考えてみる事にするわね。あなたもそれで良い?」
「そ、そりゃあ勿論!」
老婆の表情は変わらないものであったが、それでも、ライツにとっては嬉しい問い掛けだった。
もしかしたら、自分も剣士に近づけるかもしれない。少なくとも、今の惨めな生活よりかは真っ当な、そんな道を歩めるかもしれない。
そんな夢を見る事が出来るのだ。嬉しくないはずが無い。
「ふぅむ。何か考えがある様ですな。であれば、わたくしめが口を出すのは失礼極まるというもの。出来る事と言えば、食堂に2名様分の食事の準備をする様に伝える事くらい……ですかな?」
辞儀をしながら、気を使った発言をするフォリオ。そのおかげか、老婆は表情を笑みへと変える。
「ええ、そうしてくださるかしら? 一人分は多めにお願いね。随分とお腹を空かしていると思うの」
「そ、そんなに減らしてないって……」
またしても子ども扱いをされて、少しムキになる。本当は、今にも飢えてしまいそうな状況ではある。
「ハッハッハ! ではその様に。楽しみにしていてください」
再度の辞儀の後、フォリオは颯爽と去っていた。
走ってこそいないものの、もの凄まじくキビキビした素早い動き。先ほど、突如として現れた様に思えたのは、その動きのせいか。
「あの人、変わった人だね。すっごく」
「あら? とても良さげな方だと思うのだけれど。この宿のデザインなんかも、とってもゴテゴテしていて素敵じゃない?」
「……趣味なの?」
少し、ほんの少しだけ、目の前の憧れの人物に対して、妙な疑念が浮かび始めた。いや、別に剣士としての疑いを掛けているわけでは無いのだが。
「ええ、趣味よ。あなたも良く憶えておきなさい。店というのはね、値段で選ぶのではなく、自分の趣向で選ぶの」
「ええっと……人生の助言みたいな感じで憶えておくよ」
見習うとは言わないでおく。趣味なんて人それぞれだ。豪華ではあれど、やや悪趣味に片足を突っ込んでいる感じが本当に好きなのかとは返さない。
それくらいの気使いは、ライツとて出来るのである。
―――その時は、ただ喜びだけがあった気がする。ただ、あなたに教えを乞うたと言っても、本当に、くだらない憧れから来た言葉でしか無かった。そんな自分に、あなたはすぐ、剣士としての現実というものを教えてくれた。
ライツのその日の朝は、夢の続きを見ているかの様な気分から始まった。
実際、自分の人生において、一度たりとも経験したことの無い柔らかいベッドの上での目覚めは、頬を抓って、夢かどうか確認したくなるくらいの物である。
「ほんと、なんであそこまで柔らかくなるんだろうって思ったんだ。きっと、中に魔法が掛けられてるんじゃないかな?」
「ええ、そうね。羽毛は魔法と言えるかもしれないわねぇ」
夢では無かった朝から暫く。ライツは老婆に連れられ、街の大通りを歩いていた。
見知った街並。それこそ、裏通りの、さらにその奥にある細い道すらも良く知った場所だが、今日は何故だか違って見えた。多分、羽毛と言う魔法のせいだろう。
「上機嫌になっているところ申し訳ないのだけれど、これから、危ない場所に行くわよ。守ってはあげられる。けれど、もしかしたらショックな場面を見るかもしれない」
「血が出たりとか? そういうの、むしろ見慣れてるよ。この街、そんなに治安が良い方じゃないって知ってる? ええっと……剣士様?」
「剣士様は……この歳になっても恥ずかしいわねぇ。お婆さんとか、レイリアさんで良いわよ」
「じゃあ、とりあえずレイリアさんで」
その呼び方もしっくり来ないが、今はそれで良いかと思えた。そう、呼び方を変える様な、そんな先がまだまだあるはずだ。そう思いたい。
「そう、レイリアさん。ちなみに、姓はナスキート。レイリア・ナスキート。憶えてくれると嬉しいわ」
忘れるはずも無い。自分の人生で初めて出会った剣士の名前だ。きっと、これからも忘れられない名前になるはず。
「それで、結局どこへ向かうつもりなのさ。その……つまりショックな場面がありそうな場所ってことでしょ?」
「そうねぇ。ほら、昨日、あなたと会った場所。あの近くなのよ。実はあそこであなたと出会わなければ、そこへ向かうつもりだったの」
なるほどと思う。剣士の老婆、レイリアがなぜ、わざわざあんな場所に居たのかと疑問だったが、目的地があったらしい。
「あれ? でもあそこの近くにある物って……」
頭の中で、幾つかのそれらしい場所が浮かぶ内に、嫌な予感というものがし始めた。あんな場所で、剣士が訪れる予定がありそうな物と言えば……。
「あら、知っているのかしら? 確か、この街のヤクザな部分を牛耳ってる一家の、事務所があるのよね?」
「そうだよ! ラブローラ・ファミリーの奴らの事務所だよ! え!? あそこに行くつもりなの!? 本当に!?」
昨夜、ライツを追っていたチンピラ連中も、ラブローラ・ファミリーの下っ端だったはずだ。というか、街のチンピラの大半が、何かしら関係している。
ライツとて、スリの仕事をした際、幾らかみかじめ料を支払わされた。
もっとも、その対価は、ファミリーの人間から命を狙われないと言った程度のものでしかないが……。
(まあでも、そのチンピラにリンチに遭いかけたんだから、金だけ取られてるって話なんだろうけど……そいつらに、このレイリアさんが会うだって?)
兎角、真っ当な集団ではない。その癖に力はあるのだ。街の治安を、ひたすらに悪化させている一因である。
「危ないところではあるでしょう? だから、あなたは大丈夫かと聞いているの」
「み、身を守るのは不安って言うか、その……俺、見た通り、子どもだし」
「ああ、違うの。身の安産なら保障するからそこは安心して? 大丈夫かって言うのは血生臭い事で……ああ、そっちも大丈夫そうなのよね? なら良いわ。さっそく始めましょうか」
「え?」
困惑の声をライツは上げる。そして、それはライツだけでは無い。何時の間にか近くに居たチンピラも、突如として吹っ飛んだ際に、同じ様な声を上げていた。
そもそも何故、チンピラはいきなり吹っ飛んでいるのか。その事についても、ライツはしっかりと目にしている。
チンピラの顔に、レイリアが拳を叩き付けたのである。
腕だけを振るっただけの、予備動作の無い一撃。チンピラは殴られるまで、殴られるなどと思ってもみなかっただろう。
「できればすぐ近くに居てちょうだい。あんまり離れていると、守り辛くなってしまうわ」
どうやら話をしている内に、ラブローラ・ファミリーの事務所へとやってきていたらしい。今のチンピラは、事務所の前に立つ警備役みたいな男だったのだろう。
そんな相手を、レイリアは腕の一振りで吹き飛ばしたわけだが。
「な、何やってんの!? 喧嘩……いきなりとんでもない相手に喧嘩売ったってわかってる!?」
「ええまあ、これで喧嘩を売りに来たと思われなければ、どうしたものかと迷うところだもの……ああ、良かった。ちゃんと怒ってくれてる」
外の様子に気付いたらしき事務所内の男達が、怒声を上げながら飛び出して来ようとしていた。
そんな様子を見て、レイリアは安心した様に胸を撫でおろしている。
こんな桁外れに非日常な光景を、ライツはどう受け止めれば良いのか。
「なんだてめぇ! このばば―――がぁっ!?」
警棒の様な物を振り上げ、突進してくる男を、足を引っ掛けて転がし、踏みつけるレイリア。その奥ではさらに数人、事務所から出て来ようとしている。
悪い組織と言えども、大きな組織の玄関口だ。それなりの広さがあり、そのまま立ち回れるであろうくらいの広さがあった。
故に、レイリアはすぐに囲まれた。ライツもついでにだ。
強面の男共が老婆と子どもを取り囲んでいる。そんな光景自体が尋常なものでは無いものの、もっと酷い光景が、これから広がる事になった。
「じっとしていれば、それほど痛くは無いから……覚悟を決めたのならそうしていただけるかしら」
「あ? 何言って―――
話し合いなど最初からするつもりが無い。少なくとも、レイリアの方はそんな動きをしていた。
腰に下げていた力の剣を抜き放つと、その勢いのままに消えたのだ。
(え? いや、いるけど……え!?)
一瞬でその場にいなくなった。そんな気がしたが、そんなはずも無く、レイリアはそこにいる。ただ、少しだけ前に移動しただけだ。
消えた様に思えたのは、そのための動作の一切が、ライツに認識できなかったからである。
予備動作も無く、まるで瞬間移動したかの如く、レイリアは場所から場所へ移動する。
それはまず正面側にいたチンピラの近くからであり、抜いた剣の柄をチンピラの腹へ食い込ませられる距離にでもあった。
「うごぉっ!?」
何が起こったか分からない。それはこの場にいる、レイリア以外の誰しもの感想だろう。
腹を殴られた痛みから、呻き声を上げ、蹲ろうとしているチンピラにしてもそうだ。
だが、これからもっと訳が分からなくなる。またもや、レイリアが別のチンピラの近くへと瞬時に移動していたのだから。
(こ、今度は……見えた!?)
レイリアにひたすら注目していたからか、ライツは今度こそ、その動きを捉える事ができた。
何の事は無い、足を動かして移動しているのだ。そこは常人と変わり無い。
何か、違う部分があるとすれば、普通の人間は足を上げて歩いたり走ったりするのに対して、レイリアは爪先あたりをピクリとさせるだけで、それと同様かそれ以上の速度での移動している点くらい。
(いや、それがとんでもない事だろ!)
考えている間にも、一人、また一人とチンピラ達が倒れていく。じっとしていればとレイリアは言っていたが、これではそもそも動く暇さえ無いだろう。
瞬きを4、5回。体感的にはそれくらいの時間で、現れたチンピラ達は、そのまま倒れ伏した状態となる。
「こんなものかしら? じゃあ、次に行くわよ、ライツ」
「ちょっとちょっと……ちょっと待ってって! え? 剣士って、誰でもこんな事できるの!? それも力の剣の力!?」
ライツの視線は、事務所の奥へと進もうとするレイリアと、彼女が再び鞘へと納めた剣に向かう。
何か……超常的な物を見せつけられた気がするのだ。そこに興味が湧かないはずも無い。
「剣の力ではあるのだけれど、単純に体の機能と言えば良いのかしら? そういうのが一般人より強力になるのよねぇ。後はその体で、どうにかすれば、ああいう動きが出来る様になる」
「…………そ、そうなんだ!」
自分が例えば、今の3倍くらいの身体能力になったとして、レイリアの様な動きが出来るだろうか。
そんな事を想像してみたものの、深く考えない方が良いという結論に達した。
「分かってくれて何より。それじゃあ、次に行きましょうか」
「次って?」
「玄関に入ったのだから、次は奥間ねぇ。そこに居れば良いのだけれど……」
何がなどとは今さら聞かない。こうまで分かり易く喧嘩を売ったのだから、その目的だって、とても分かり易いはずなのだ。
(というか……うん。だろうさ。正面から喧嘩を売ったのなら、その後は真っ直ぐ一番トップを狙うわけだよ……)
率直過ぎるその狙いに、頭が痛くなって来た。剣士レイリアは、ラブローラ・ファミリーそのものを潰すつもりなのだ。
そうして、潰すとなれば最短を選んだ。つまり、ラブローラ・ファミリーのボスを狙っているのである。
「あらやだ、大当たり」
見つからなければ、事務所内の全部屋へと突撃するつもりだったのであろうが、当たりを付けたのだろうもっとも奥の部屋に、その男はいた。
ちなみにその部屋へ辿り着く間、さらに数人の男共を倒していたが、些細な事である。
「おい、誰だてめぇらは」
奥の部屋にある大きな机。それに向かいながら、黒の皮椅子に深く腰を埋めている男。
肥満気味であるが眼光は鋭く、禿頭の下にある太く黒い眉毛がこちらを睨みつける形をしていた。
ラブローラ・ファミリーのボス、ケジスン・ラブローラがそこにいるのだ。
「剣士、レイリア・ナスキーと申しますわ、ミスターラブローラ」
睨み付けるケジスンに、まったく物怖じした様子の無いレイリア。彼女にはその力があるのだろうし、今、この状況においては、レイリアの方が圧倒的に優位だ。
ケジスンも、事務所内の雰囲気を感じ取って、分かって来る頃だと思うのだが……。
「剣士? 剣士だと? 剣士様とやらが、うちの事務所にカチコミをかけに来たってわけかよ? 部下の連中はどうした」
「まっすぐこの部屋まで来たのだから、他の部屋や廊下にはまだいるのじゃないかしら。ああ、別に、誰かの命を奪ったとかでは無いから安心してちょうだい。怪我はしているだろうけれど……こういう組織って、労災とか出たりするの?」
レイリアは正直に答えているのだろうが、どうにも的を外した様な、そんな印象を受ける。わざとか天然なのか。どちらかが分からないのが、この老婆の怖いところだと思う。
一方で、ケジスンはそれを挑発と取ったらしい。
「舐めるなよ? ババアの剣士が何の真似か知らねえが、簡単にやられる程、俺は修羅場をくぐってきちゃいねえ」
「ババアとしては、修羅場の数はこちらの方が多いと言いたいけれど……それで? どうするのかしら?」
レイリアは既に引き抜いてある白刃の剣をケジスンに向ける。話し合いより先に、その態度を改めろと言った具合に脅しを掛けていた。
ただ、ライツはその光景を、レイリアの迂闊ではないかと思ってしまう。
(剣を、そんな風に使うなんて、初めてのことじゃあないか?)
挑発とは言え、不要な行為。そうライツが考えた瞬間、レイリアの手から剣が跳ねた。
床を転がるその剣であるが、何故そうなったかをライツは見ていた。
「言ったろ? 舐めるなってなぁ!」
ケジスンは机の下に隠していたらしい小型のクロスボウを手に取り、レイリアの剣を狙ったのだ。
もしかしたら、手か、それともレイリア自身を狙ったのかもしれないそれは、結果、レイリアの持っていた力の剣を弾く事になった。
状況は一気に、ライツを含むレイリア側が不利となったのである。
「まあ、これは……」
さすがのレイリアも、この状況には驚いているらしかった。
彼女は力の剣により、あそこまで超人的な能力を発揮していたのだ。では、それが無くなれば? ライツの方も驚いた。
しかし、ライツにとってはそれだけでは終われない。
(ヤバいヤバいヤバい。守って貰っているだけで安全だなんて思って無かったけど、この状況はとにかく危険だ!)
親無しの裏路地育ちの頭が、なんとかしろ。でないとお前は死ぬか、もっと酷い目に遭うぞと叫び続けている。
「はっ……ははは! どうしたよ、婆さんよぉ。修羅場ってのはこういう状況だろ?」
「まあ……そうね、こういう事は良くあるわ。こういう危険に散々遭って、本当に、死ぬかもしれないと思う事もある。分かるかしら、ライツ。ライツ?」
声が聞こえて来たが、今は気にしてはいられない。ライツはすぐさま、その場を飛び出した。
向かう先は逃げるための部屋の扉……では無く、レイリアの正面だ。
(身体が小さいから、全部庇えるわけじゃない……だから少しでも前へ!)
相手のクロスボウは複数事前に番えておけるタイプのものだ。先ほどの一本の後に、もう一本、レイリアを狙ってくるだろう。
その一本で、レイリアがやられてしまえばそれで終わり。続いて、戦闘能力なんて無いライツが、逃げ道も碌に無いこの部屋で捕えられてしまう。
それを避けるためには、ライツがレイリアを庇う事が一番適切な行動のはずだ。少なくとも、ライツはそう判断した。
「大した度胸だな! 餓鬼が!」
「別に死ぬ気ってわけじゃあ―――
言葉を返す前に引き金が引かれた。そのはずだ。一瞬だけだが、クロスボウより飛び出した短い矢も見えた。
だが、それはライツの体に突き刺さる事は無い。外れたわけでは無かった。外されたのだ。
何時の間にか、目の前には剣を握ったレイリアが立っている。その表情は、背中を向けられていたので分からない。
(庇ったつもりが……庇われた? けど……)
庇った側であるレイリアも怪我をした様子は無かった。床に刺さっているクロスボウの矢を見て、漸くレイリアがそれを弾いた事に気が付く。
「あんた……いったい何を……」
ケジスンもまた、ライツと似た様な混乱の中にいるらしい。先ほどの鋭い目線から一転、困惑そのものの表情を浮かべていた。
「見ていたでしょう? ちょっと、剣でぱしんと弾かせて貰ったの。ごめんなさいね?」
何時の間に落とした剣を拾ったのか。どんな速度で移動したと言うのか。そもそも、剣で矢を弾けるものなのか。
様々な疑問が合わさり、そうして、レイリアの発言が、全然答えになっていない事を理解する。
「いや、いやいやいや! だからさ! 人間離れし過ぎてるって! っていうか、剣をどうやって拾って、移動して……ああもう! 全部あり得ないだろ!?」
「困ったわねぇ。剣はほら、細い糸で結んであるから、ああやって落としても、ちょちょいで引っ張って来れるし、剣さえあれば、素早い移動だって出来る。勿論、矢だって弾けるし……でしょう?」
そんなことを言われたって、こっちが困る。普通は出来ないと返せば良いのか。
だが、やはりレイリアは剣士であったという納得は出来た。彼女は、やはり尋常ではない技量を持っているのだ。
「あれ? だったらなんで、剣を弾かれた時、大変、みたいな事を……」
「それについては後で話をしましょう? 今、一番、私と会話をこの場で交わしたい殿方って、こちらの方でしょうから」
こちらの殿方こと、ケジスンがびくりと反応した。この状況において、完全に力関係が決まってしまったのだと思う。
レイリアが圧倒的な存在感を持ってして、すべてを支配しているのだ。その事を、ケジスンも理解してしまったのだろう。
例えば今、この事務所にある人員と武器を総動員したところで、この剣士は勝てない存在だと。
「な、何を要求するつもりだ。言っとくが、あんたみたいな剣士が満足できるものなんて、金くらいしかねえぞ」
「あら残念。お金にも、それほど興味は無いの。あるのは情報よ。DS団という名前、聞いた事無いかしら?」
「D……S? いや……ひぃっ!」
レイリアは首を傾げるケジスンへ近づき、すぐさまに剣の切っ先を向けた。
人を叩いたり、矢に弾かれたり弾いたりしたばかりとは思えない、どこまでも白く鋭い切っ先。それがケジスンのすぐ傍で輝いていた。
「嘘を吐いていたら……そうね、例えば酷い事になるのだけれど?」
「し、知らねえ! 知らねえって! どういう団体だってんだ!」
ライツから見ても、ケジスンの様子は嘘を吐いている様に見えない。レイリアにしてもそうだったのだろう。ケジスンへと向けた剣を引き、そのまま鞘へと納めた。
「参ったわねぇ。つまり無駄足ということ……じゃあ仕方ないわ。行きましょう? ライツ」
「行くって……どこへ?」
「それは勿論、宿の方。この事務所にもう用は無いもの。他に向かうアテも無い事だし、帰るのよ? それじゃあ、ごめんあそばせ、ええっと、ケジスンさんだったかしら?」
本当に、ちょっとした用を済ませただけと言った態度で、部屋を出て行くレイリア。
一人、いや、茫然としているケジスンと二人残されるのはごめん被るので、ライツもレイリアへ着いて行く事にした。
頭にはケジスンと同様、疑問符を浮かべたままであったが。
―――現実を思い知らされた。そんな存在には成れるわけが無いという現実。恐らく、それを思い知らせるために、あなたは自分を同行させたのだろう。けれど、未だに良く分かっていないのだけど、どうしてあなたは、結局、俺を受け入れてくれたのでしょうか?
「俺を脅すため!?」
「そう。矢を弾くくらいはわけないのよ。けど、それを見て、なんだ、剣士なんてちょろい存在だなんて思われると困るもの」
ラブローラ・ファミリーの事務所からの帰り道、ライツはレイリアと並び歩き、混乱を続ける頭の整理を行っていた。主に、レイリアから説明を受けていたのである。
「なるほど……そうやって脅して、剣士になりたいっていう思いを挫くつもりだったと」
「まあ、そうなるわねぇ」
レイリアの困った声が聞こえるものの、それ以上にライツは悔しい思いだった。
(最初から、剣を教えて貰う可能性なんて無かったんだ)
騙された……とは思わない。実際に剣士の戦いを見て、自分には無理だと思い知ったからだ。
自分には、剣士なんて逆立ちしたところでなれやしない。そう理解してしまったのが、何より悔しかった。
「分かった……分かったけどさ。酷いじゃないか。それで俺、死ぬかもって思った」
ケジスンにクロスボウを向けられたあの時、勿論、生き残る一番可能性の高い方法を取ったつもりだが、それでも、命を賭けたのだと思う。
それが、単なるレイリアの脅しでしか無いと知れば、酷いことをするなと思ってしまう。
「ごめんなさい。ああ、ごめんなさいね。まさか、ああ来るとは思っていなかったのよねぇ」
「ああって……何の事?」
「それに答える前に、聞いておきたい事があるのだけれど」
ふと、レイリアが立ち止まった。彼女に合わせて歩いていたライツも同様に止まる。
「何? やっぱり、剣は教えられないって?」
「……あの経験をして、それでも、剣を教えて欲しいって、思う?」
「……」
どうだろうか。一応、断る前のワンクッションを置かれているのだろう。なればこそ、言ってやりたい事だって生まれるものだ。
「教えてくれるのなら、教えて欲しいって言い続けるさ。だって、俺はあの時、あなたを庇うって手段しか取れなかった。自分の命すら、自分で守れないなんて情けないじゃないか」
自分の身くらい自分で守れる。せめて、そんな事を言える人間になりたい。
親も無く、力も無く、路地裏を逃げ回るだけの人生なんかより、自分の命を自分で張れる生き方をしたいと、今だって憧れているのだ。
「参ったわねぇ。本当は、どうやっても断るつもりだったのだけれど……もう少し、見てみたい気もしてる」
「え?」
「つまりね、幾らか、剣を教えても良いと思っているのよ。あなたがその気ならね? それで聞いてみたのだけれど……やっぱり乗り気よねぇ?」
「そ、そりゃあそうだって! うん!」
思わず何度も頷いてしまう。まさかここに来て、剣を教えても良いという許可が来るなんて、思ってもみなかったのだ。
それがどういう意味を持つのかはまったく知らないけれど、それでも、道が拓けた気がした。
「そう、なら、明日からでも時間はあるかしら? 少し手ほどきしてあげるわ」
「やった! って、急にまた何で? だって、脅して止めさせるつもりだったんじゃあ……」
「ええ、勿論、途中まではそのつもりだったけれど……ねえ、ライツ。あなた、剣士にとって一番大切なものって、何だか分かるかしら?」
何かのテストだろうか。だが、答えがすぐに出て来ず、首を傾げる。
さらには幾らか考えてみたところで、これぞと言う答えが浮かんで来ない。なので、思い浮かぶものを上げてみる事にした。
「剣の使い方とか、腕っぷしの良さとか、度胸とか?」
「最後が近いわ」
「度胸が? 確かに、必要と言えば必要かぁ」
剣を振り回すなんて、それこそ度胸が無ければ無理だ。基本という奴か。
「近いから、度胸そのものってわけじゃあ無いのだけれど……どちらかと言えば、あの時の、あなたの判断が重要なの」
「判断って言っても、レイリアさん……あ、剣を教えてくれるのなら、先生って呼んでも良いかな? いや、ですか?」
「ええっと……そうね、構わないわよ」
「じゃあ先生。その先生を守るためにはですね、ああするしか無いじゃないですか。だって、俺、あそこでああしなきゃ死ぬところでしたよ」
クロスボウで2、3本撃たれたとしても、まあ、当たり所が悪かったら死ぬかもしれないが、レイリアがあそこでやられてしまえば、確実な死が待っている。
どっちを優先すべきかと言う話だ。特別な事をしたつもりは無い。
「自分のやった事が、一般的じゃあないと思えないのは問題かしらねぇ。けれど、それも才能と言えば才能なのかも……」
「何の事です?」
「あなたがあの瞬間、あなたが出来る限りの事をしたと言う事よ。当たり前の様でいて、誰でも出来る事じゃあないの。それって」
別に、善意からレイリアを庇ったわけではない。むしろ自分のためだけに行動したつもりだが、その行動だとしても、レイリアはそれを才能と呼ぶらしい。
「良く……分からないというか」
「剣士にとって、とても重要な事。今はしっくり来なくても、それを大切にしていれば、何時かはそうだと気付く。だから、忘れないでちょうだいね」
「は、はい」
理由は良く分からない。けれど、恐らく、初めてこの人が教えてくれたことなのではと思えたので、ライツは忘れない様にして置く事にした。
(そもそも、俺にとっては自然な考え方だし……)
生き抜くための思考。それを大切だから捨てるなと言われれば、勿論そのつもりだとしか言えないと思う。少なくとも、ライツはそうだった。
「出来る限りの事をする……かぁ。あ、そう言えばあの時、先生がDS団とか言ってたけど、あれ、何? 結局、ラブローラの事務所へ行ったのもそれが目的だったんですか?」
ライツは自分にとって良く分からない話になってきたので、分かりそうな話について進める事にした。
具体的には、結局、今日の事は何だったのかの理由についてだ。
「そっちについては半分ねぇ。もう半分は、本当に、事務所を叩く事が目的だったと言うか」
「ラブローラの事務所なんかを剣士が叩いて何になるって言うんですか」
「街の治安、少しは良くなるでしょう?」
「………え、それだけ?」
驚いた事に、レイリアの表情を見れば、本当に、街の治安のためにこそ動いたらしい事が分かる。彼女からは一切、嘘の雰囲気が無いのだ。
彼女がとびっきりの嘘吐きで無ければ、やはり彼女は善意で動いたと言う事になる。
「剣士はね、街中だろうと剣を持つ事を許可されている。それはその事への責任を、剣士と呼ばれる人たちが背負って来たからだと思うのよね」
例えば、その剣を良いと思う事のために使うなどだろうか。やはり、ライツにはピンと来ない。
わざわざ何の見返りも無く、危険を受け入れる事など、これまでの常識から外れているのである。
「剣士って、変な人たちだったりする?」
「それは……否定できないわねぇ」
何かしら言い訳はして欲しかったなと思ってしまう。これまで抱いていた剣士への憧れが、どうにも妙な形になってしまいそうなので、やはりライツは話を変える事にした。
「これまで良く分かんなかったから、こっちの話も分かんないかもしれないですけど、DS団の方はどうなんです?」
「そうねぇ……やっぱりあなたには分からない話になるのかしら。昔から、ずっと続いていた腐れ縁。いえ、その残骸探しと言ったところかしらね」
「ううーん」
結局、何から何まで分からない事ばかりであった。これは自分の無知から来るものか、それとも、話を聞く相手がレイリアだからか。
どちらにせよ、これから、こんな分からない事を分かって行く必要があるかもしれない。なにせ、ライツは剣をレイリアより習う事になったのだから。
―――剣を習い始める事は、自分にとって楽しい事だった。あなたにとってはどうだったろうか? お荷物か、面倒くさい相手か、それとも……何にせよ、やはり自分にとっては楽しい思い出だった。少なくとも、厳しいと思った事は無いのだから。
木剣と言う程も無い木の棒を、ライツは振るう。振るう相手はレイリアに対してだ。
場所は無駄に豪奢な宿の中庭。宿の構造から、あまり人目に付かない庭の一つ(つまり、この宿、信じられない事に中庭が複数ある構造をしている)だ。
「ああ、もう。何で! 当たらない!」
木剣を引き、どう考えても当たるはずの横殴りの軌道で振るう。だが、レイリアが持つ木剣がカツンと軽く当たるや否や、その軌道をズラされ、レイリアの体に触れる事は無くなってしまう。
「無暗やたらと力を込めたところで、武器が従ってくれるわけじゃあない。そろそろ分かって来たかしら?」
既に剣を教え貰い始めてから3日程経っていた。
その間、朝と昼は剣を習い、夕方から夜に掛けて、レイリアの良く分からない行動に付き合う事を繰り返している。
同じ様な日々であるが、だからこそ、自分の剣の適性について分かって来るものがあった。
「くっそぅ……やっぱり才能とか無いんだ、俺」
この様に、レイリアと木剣を持って振り合っているものの、一度たりともレイリアに剣を触れさせる事が出来なかった。
それを思うに、やはり、自分には剣を習う程の才能は無いのではと―――
「あいたっ!」
「まだ訓練中。悩むのは後にして、体と頭を兎に角動かしなさいな」
レイリアが持っている木剣で頭を叩いて来た。
彼女が持っている木剣は、主にライツの頭を叩くか、ライツの木剣を逸らす事にのみ使われている。
向こうから打ち込んで来た事は一度も無い。
「けどさぁ。少しくらいは上達して欲しいって思うんだけど、さっぱり何ですよねぇ」
「それはそうよ。まだ初めて3日だし、何より、技術を上げるための訓練じゃあない」
「え? じゃ、じゃあどういう訓練?」
ずっと、こうやって木剣を振っていれば、何がしか上達するかもと思えていた分、結構ショックな発言だった。
これで理由なんて無い。お前をいたぶるだけだと言われれば、心が折れてしまうかもしれない。
「自分に何が足りないかを知る訓練……かしらねぇ。ほら、何が必要かを知れれば、後はそれを手に入れるためにはどうするか、考えるだけで済むじゃない?」
安心できる事として、無駄な事では無かった事がレイリアの言葉で分かる。もっとも、だからと言って、それなら大丈夫と自信を持てるわけでも無かった。
「こう、なんで剣が当たらないのかについては、何が足りないのかもさっぱり何ですけど……」
「それについては……追々分かって来る……はずよ」
「断言してくださいよ!」
と、叫んだところで、時間が来た。訓練を初めて30分ほど。それくらいの時間が経つと、レイリアは何時も木剣を下ろすのだ。
「私も、年だけは一人前なのだけれど、人を訓練した事はあまり経験が無いのよねぇ。だから、もう息が上がって来る」
レイリアは平然とした様子だが、良く見れば汗が頬をつたっている。
剣士としての腕は超人的な彼女であるが、それでも老婆なのだ。その体力は、本来、常人より劣っているものであるはず。
(力の剣のおかげで、身体能力は何とかなってるけど、やっぱり、お婆ちゃんってことなのかな?)
はっきり言って、振り回されてばかりの訓練であるが、まだライツの方が余裕はあるだろう。この調子の訓練なら、量を倍に増やしたところで動き回れる余裕もあった。
だが、レイリアの方が限界だから、この訓練は一旦中止なのである。
「ごめんなさいねぇ。出来れば、もう少し直接教えてあげたいのだけれど」
「別の良いよ。この後も、見ていてはくれるんでしょう?」
「ええ。座って、口を出すくらいなら幾らでも」
中庭に配置された手頃な岩に座りながら、レイリアはじっとライツを見つめて来る。
見られるライツがやれる事と言えば、木剣の素振りだ。基礎中の基礎と言う事で、こちらの訓練に関しても、ライツに不満は無い。
「そう言えば……走り込みとかも……基礎だと思うけど……そっちはしないんです?」
剣を出来る限り規則的に振りながら、少しでも疑問に思った事をレイリアに尋ねてみる。レイリアから、そうしろと言われているのだ。自分で考える事もまた訓練だと。
「そうねぇ。普通ならそうするのだけれど、ほら、あなた、走り回るのは、もう大分慣れているでしょう? 体力に関しては、問題ないレベルだと思うのよ」
物心付く頃から、走り回っていただけあって、それなりの物ではあるらしかった。
で、あるならば、やはり別の訓練を優先すべしと言う事なのだろう。
「まあ……走るくらいは………ちゃんとできます……って」
「けど、剣を振る事はまだまだよ? ほら、また、タイミングがズレた」
「うっ……」
剣を規則正しく振るう。それだけの事なのであるが、それが出来ない。
レイリア曰く、話しながらでもブレずに剣を振る事が出来る様になれば、剣の扱いは上達するらしいが……。
「どうにも、体の動かし方に癖みたいなものがあるみたい。本来なら、矯正すべきところなのでしょうけど」
「癖って……そりゃあ……体の動かし方なんて……習ったこと無い………しっ……」
「はい、またズレたわね。意識せずに、規則正しくできる様になるまでは、意識して修正する様にしなさいね」
手をパンと叩きながら、レイリアはまた注意してくる。だが、厳しいとは思わない。むしろ、声色に優しさが感じられて、ライツは妙な気分になってしまう。
(なんだこの……なんだろう?)
生まれて初めて感じたかもしれないそれ。一体どういう類のものであるかが分からなかったが、これもまた、訓練を繰り返して行くうちに分かるのだろうか。
―――こんな訓練の日々が幾らか続いた。それは、きっと自分にとって幸せな事だったのだろう。では、あなたにとってはどうだったのだろうか。平和な日々はほんの短い間で、すぐに事件が起こってしまった、数少ない時間であったけれど。
それなりにライツが剣の振り方くらいは分かって来た頃。昼の訓練を始めようかと言った時間帯に、宿へ尋ねてくる人間がいた。
「失礼。あなたがレイリア・ナスキート氏でよろしいですかな?」
丁度、ライツがレイリアと共に、宿の玄関から中庭の方へ向かおうとしていたタイミングで、一人の男がライツ達の方へとやってきたのだ。
もっとも、ライツの事など眼中に無く、目当てはレイリアのみである様だが。
「あらあら、今日はたくさんね。どうしようかしら……荒っぽくなるなら、外へ移動した方が良い?」
「なんか、俺も慣れてきましたよ。そういうの」
レイリアの言い草は、つまり、喧嘩をするなら誰にも迷惑が掛からない様にしようという言葉である。
宿に荒っぽい連中(主にヤクザだったり、ヤクザだったり、ヤクザみたいな連中だ)が、レイリア目当てに現れる事が、結構な頻度で起こっているという事でもある。
彼女、レイリアは、街に来たから、そういう連中へ悉く喧嘩を売っているわけであった。
だが、どうにも今回は違うらしい。
「……あの、何かと勘違いしていらっしゃいませんか?」
レイリアに返された言葉に、もっとも困惑しているのは男の方である。これはいつもと違う反応だ。
男の姿についても、良く見れば何時もよりもしっかりとしたものだ。
正装と言えば良いのか、礼儀を気にした格式ばったものであり、ライツにとっては、あまり見慣れないタイプの服装であった。
「おや? おやおやおや! これはこれは、代理官殿の秘書様ではありませんか。当宿にいったいどの様なご用事で?」
今日は珍しく、宿の主人であるフォリオ・ハプーンまでもが出て来た。
何時もならば、やってきた物騒な客に対して、気配を殺して隠れ潜むという支配人にあるまじき行動を取っているのだが、相手も違えば、やはり対応も違うらしい。
「うん? 代理官? 代理官って言うと……」
「おお! 少年もまた、ご存知ですかな? 路地裏を駆けまわっている様な子どもは、そういう物を知らないなどと思っていた私を許して欲しい!」
「うん、馬鹿にされてる感じがすっげえするから、許さない」
訓練用の木剣で殴りつけてやろうかとも思ったが、まだまだ未熟の身。訓練以外で人へ剣を向けるなとレイリアから言われているので、口だけ出しておく。
一方で、そのレイリアは代理官の秘書へと視線を向けていた。
そもそも、代理官とは何なのかについてだが、この街で、その言葉のみで呼ばれる人間は一人しかいなかった。
国より街の管理を任されている代官。名前をティジャール・マッドソンと言う男。つまり、この街でもっとも偉い立場の人間。目の前にいる男は、その秘書と言う事らしかった。
どちらかと言えば、私兵の一人と言った方が正しい気もするが。
「し、失礼? 誤解も解けたところで、レイリア氏ということで間違いありませんか?」
「ええ、こちらこそごめんなさい。一般的な客人だと分かっていれば、もう少しマシな応対をしていたところだったのだけれど……いえ、まだ、一般的な用かは分からないわね?」
ライツとフォリオを無視して、レイリアが街の代理官であるティジャールの秘書との話を進めていく。
「確かに、一般的な話とは言えません。と言うのも、我々の主人。勿論、マッドソン国任代理官が、剣士が街へとやってきたと聞き及び、さらには街の悪漢達を退治しているとの話ではありませんか。光栄の極みという事で、是非ともお会いしたいとの話なのですよ」
「まあ、つまり呼び出しと言う事なのね。むしろ、何時もと同じね、ライツ?」
「何時ものは、面を貸せってとか言って来てましたけど?」
「彼も、似た様なものでしょう?」
相手を選ばずと言うか、結構、ずけずけと言っている。
相手を選べ。挑発する事を言って、もし相手の反感を買えばどうなる。などと言う気使いを、ライツはもう何度もしていた。そうして杞憂に終わる日々も続いている。
(今回にしたって、見ているだけで済むんだろうけど……どうなるかは分からないか)
何時もなら、呼び出した側をレイリアが剣で脅すが倒すかで終わるが、今回ばかりは意味が違うのだ。
「もしや……何がしか不満があるのでしょうか?」
この場でもっとも心配しているのは、むしろ呼び出した側の、この秘書であるらしい。
普通、代理官からの呼び出しを断るなんて人間、この街にはいないというのに、このレイリアという剣士はそれをするかもしれない。
そういう雰囲気を、秘書の方も感じ取ったのだろう。
「うん? いえ、大丈夫よ。そうねぇ。呼び出されて顔を出さないのは失礼よねぇ? ライツ、どうかしら。あなたも来る?」
「え? そこの少年も同行されるのですか?」
「何? 同行しちゃ悪い話なの?」
ライツはじと目で秘書を見る。別に、積極的に行きたいと思っているわけではない。
むしろ堅苦しそうだなと思うのであるが、存在そのものを無視されるのは、やや頭にくるところだ。
「そういうわけでは……その、ナスキート殿と君は……どの様な関係なのですか?」
「教え子よ。私の事を先生と呼んでくれている。彼の同行をしない理由も無いと思うのだけれど? 良い経験にもなりそうだし」
「そういう事でしたら……構いません。人が一人多くなったところで、困る話題でもありませんから」
どうやら話は纏まったらしい。レイリアはライツと共に、代理官と面談する事になったのである。
その事について、ライツがどう思ったかについてだが、既に、どうでも良いと考え始めている。
そんな事よりも、教え子と、レイリアが認めてくれた事が嬉しかったからだ。
―――つくづく思うのは、あなたは権力者が顔を伺いたくなる程の立場だと言う事だ。そんな存在が、自分の様な奴に剣術を教えてくれているというのはどういう奇跡か。その事に感謝してもしきれない。それはそれとして、突拍子無いと思える行動はどうにかして欲しかったけれども。
「いやはや。これはこれは。名前を聞いてもしやと思っていたのだが、かの有名な剣士、ナスキート殿が我が街へいらっしゃるとは……光栄の極みですよ」
ライツが聞いた事の無い声が部屋に響く。その部屋にしたところで、やはりライツは一度たりとも来た事が無い。
裏路地育ちのライツだから……ではなく、大半の人間にしたところで、街の代理官の応接室なぞ、来た事が無い場所であろう。
そんな部屋の主人と言えるのであろう代理官、ティジャール・マッドソンの響く声は、思いの外若い。
外見にしたところで、40代そこそこの優男と言ったところか。
そういえば代理官の年齢というものを、ライツは生まれてこの方、気にした事が無かった。この後にしても、特に気にするでも無いが。
「有名ねぇ……それほど、栄誉ある立場だとは思ってはいないのだけれど?」
ソファーに座りながら、出されたティーカップを片手に、レイリアはティジャールと向かい合っている。
ライツの方は、そのレイリアの隣で、同じく柔らかいソファーに埋もれていた。
(どうにも……柔らかすぎじゃないか?)
みっともない姿だと思うが、子ども用の椅子とか無いのか尋ねるのは、さらに格好悪い気がするので、暫くはこの柔らかすぎるソファーに溺れておく事にする。
どうせ、自分は会話に参加できやしないのだから。
「ご謙遜を。あなたの名。下賤の者に知らない者は多いでしょうが、我々の様な人間にとっては、あまりにも有名だ」
さり気なく、自分は高貴な人間だとのアピールをティジャールは欠かしていない様子。
(そりゃあね、俺は下賤だけども)
だから、レイリアはどう有名なのかを知らない。剣士なのだから、誰からも尊敬されているのだろうと思うばかりだ。
「知られていたところで、あまり良い名として通っていない。そう考えているわ」
「そうでしょうか? 復讐姫……確かに恐ろしい名だ。けれど、その物語はあまりにも健気で、儚い」
レイリアのそんな名前は知らないな。
ライツがそう思った時、隣ではティーカップがカチンとなる音がした。
どうやら、レイリアがわざと鳴らした様子。
「悪いけれど、肝心の本人が悪い名前だと思っているの。あまり人から聞かせて欲しくは無いわね」
(俺は聞きたかった)
まだ、それこそひと月にも満たない関係かもしれないが、本当に、レイリアについて何も知らないと思い知らされる。それがどうしてだか、ライツには悔しい気がした。
(兎に角強くて……強くて……礼儀は正しいんだけど、それ以上に強い。そういう人だ。この人は)
誰にも屈さない強さ。だからこそ感じる、清潔さすら覚える気風の良さ。それに憧れながら、ひたすらに訓練を受けている。
だが、そんな彼女の存在感がどこから来ているのかを、ライツはまったくもって知らなかったのだ。
「おやおや。確かに、あなたにとっては良い思い出では無さそうだ。しかし、確かその物語は終わらせた……と聞いていますが?」
「決着は付けた。けれど、今でもその残党は―――
「失礼を重ねますが、それは未練ですよ。見る限り、私の人生より長い間、あなたは戦い続けている様に見える。そろそろ、休んでも良い頃では?」
「なるほど、そういう類の話だったわけねぇ」
レイリアが、持っていたティーカップを置く。その動作や今の空気は、いったいどんな意味があるのだろうとライツは考える。
あまり……良いものとは思えないのであるが。
「そうですとも! 私ならば、そんな、あなたが休める場所を用意できる。どうです? この街へと辿り着いたのも何かの縁です。あなたの終生の場所としてみては?」
「……自意識過剰。礼儀を持っている様でいて、その実、その意味について深く考えられない。私を誘うところを見るに、自己顕示欲も高そう」
「は?」
やはり当たったかと、ライツはソファーに埋もれた体を起き上がらせようとする。
少なくとも、すぐにでも立ち上がれる姿勢を維持しなければならない。でないと出遅れてしまう。
「気にはなっていたのよ。この街、治安が悪いでしょう? ちょっと大通りを外れれば、そこかしこで事件が起こっているし、公的機関に承認されていない非合法組織も多い。それも、街の一部を牛耳っているほどの規模で」
「悲しい話です。世には不幸と不合理が多すぎる。確かな理性を誰もが用いる事が出来たならば……そう思わずには居れません」
「今の発言で、都合の悪い事は他人事と考える。という特徴を加える事になったわ」
ライツはソファーから腰を浮かす。後はまあ、タイミングを見計らうだけだろう。
そのタイミングを探るために、ライツはレイリアとティジャールから目を外さない事にした。
「どうにもその……もしや、不機嫌になっていらっしゃいますかな?」
「この街に来て、その風景を見てからずっとよ? そこの子も、怒りを覚えた理由の一つ」
「ええっと。俺に話を振る?」
腰を浮かせたままの姿勢だと言うのに、二人の視線がライツに向いてきた。
不格好な姿勢のまま、どう返せば良いのか迷ったものの、レイリアの視線が、好きな事を言いなさいと伝えて来ていたので、言いたい事を言う事にした。
「そういえば……この子どもはどなたですかな?」
「先生の教え子です。ライツって言います。姓は無いんですよね、親がいないもので」
「それは……お気の毒に」
「そうそうお気の毒。けど、気付きません? さっきから先生、それも全部あんたのせいだって言ってるんですよ。治安が悪いのも、ヤクザに活気があるのも、親を無くした子どもが、そのまんま碌な家も無く浮浪しなきゃならないのも、あんたの怠慢が原因だって。碌な代理官じゃないな、あんた。実を言えば、ずっと殴りたいとか思ってた!」
「な―――
「逃げるわよ。ライツ?」
「はいはい。権力者相手は殴って黙らせるわけにも行きませんものね!」
勢い良く立ち上がり、レイリアと二人して、走って部屋を出る。隙はティジャールが唖然としている間にこそあった。
「自分で言っといてなんですけど、本当に代理官を剣で殴ったりはしないんですね?」
「恥をかかす事になるもの。さすがにねぇ」
応接室を出て、代理官邸の廊下を走り抜ける。
使用人やら衛兵やらが驚いた表情でこちらを見つめて来るが、そんなものを無視してさらに走る。
彼らが何かしらの反応をするより早く邸宅から逃げ出さなければ、面倒な事になるくらい、ライツにも分かっていた。
「けど、これで代理官を敵に回す事になったんじゃないです? 街にも長く居れなくなったかも」
こんな街、ライツにはそれほど愛着は無いが、レイリアには何か用があるはずだろう。
街の支配者とも言える相手に、こうも堂々と喧嘩を売って、大丈夫だったのだろうか。
「それについては、これからの問題よ? どう立ち回るか。それが重要なの」
どう立ち回るも何も、逃げるしかないだろうと思う。
今だって、こうやって邸宅の玄関口まで至り、中庭へと入り、邸宅を取り囲む壁際まで……。
「え!? な、なんでそのまま逃げないのさ!?」
レイリアにひたすら付いて行ったわけだが、何故か、邸宅から逃げ出す事はせず、むしろ追い詰められている様な場所にまでやってきてしまった。
「言ったでしょう? 立ち回りが大切だって。ライツ、何か大層な事をする場合は、その後の事まで考えなきゃ駄目なのよ。ああやって、代理官を罵った後、どうなるかを……ねっ!」
話の途中で、何か、閃光の様なものが弾けた気がした。
実際のそれは、閃光と言うより金属を擦り合わせた時の火花と、剣と剣がぶつかり合う金属音であったが。
「ほう? さすがはさすが。というより、気付かれていたか?」
男が一人、剣を構えながら、すぐ傍に立っている。
ただの男では無い。本人の手足より少しばかり長いローブを羽織り、右腕の袖口からは、手では無く一本の曲刀が出ている異装。
頭から伸ばしたぼさぼさの髪の毛が、その姿の異様さを際立たせていた。
「壁の上でずっと待っていたのかしら? 何にせよ、ちょっと間抜けね」
つまり、壁の上から降って来て、そのまま剣を振り下ろして来たらしい。
自分達は壁際にいると言っても、真近くにいると言うわけでは無いので、それなり……というか、常人離れした跳躍力が無ければ、そのまま襲い掛かる事は出来ないはずだ。
(つまり……真っ当な人間じゃあない?)
もっとも、真っ当さで言えば、その男による剣の振り下ろしを、涼しい顔をしながら素早く剣を抜き、そのまま受け流したレイリアも、かなり常人離れしている。
(えっと、先生は剣士だからそういう事もできる……よね? だったら、もしかしてこの男も……)
「奇襲を防がれた以上、未熟を問われても致し方あるまい。この剣士、トーベン・バック。高名なるレイリア・ナスキート殿との手合わせに、些か興奮していてな」
男、トーベンが不気味に笑う。やはりと言うべきか、この男も剣士であるらしい。
剣士と言えば、レイリアしか知らないライツにとって、こういう異様な剣士もいるのかと驚きだった。
「なるほど。自分の腕を試したがるタイプみたいね? あの代理官に従っているのも、働く機会が多そうだからかしら?」
「え? この人、代理官の部下か何かなんです?」
剣士と言えば、もっとこう、誰にも従わない存在と思っていたのであるし、目の前のトーベンは、人に大人しく従いそうな姿には見えないので驚く。
「こういう場合、用心棒と言った方が正しいかも。もしくは飼犬」
「ふんっ。どうとでも呼ぶが良い。ああいう男ではあるが、その男の下にいると、今の様な機会がそれなりにあるのでな。いや、今回はとびっきりか!」
トーベンは言葉の最後に、剣を振るう動作を付け加えて来た。
その剣速は素早く、ライツでは視線で追い切れなかったが、レイリアにとってはそうでも無いらしい。
「二回目の不意打ちかしら? なら、もう少し上手くやりなさいな」
今度はそのまま、トーベンの剣を流さず受け止めるレイリア。そちらの動きに関しても、ライツは捉える事が出来なかったが。
(けど……見えないなりに、先生の方が強い……と思う)
単なる願望というわけでも無い。二人の表情を見ての感想だ。
二人は剣をぶつけ合ったままであるが、変わらず冷静そのもののレイリアに対して、剣を振るった側であるはずのトーベンは、頬より冷や汗を流していた。
他ならぬトーベン自身が、どうにも緊張しているらしい。
「さすがに、正面からは俺が劣るか! なるほど、名は売れているとはいえ老境などと侮っていた様だ」
鍔迫り合いの中、それでも喋られはするらしいトーベン。レイリアの方も、勿論、言葉を返す余裕はあるらしい。
「代理官が私を呼び出した理由。剣士の私を後見したいとの事だったけれど、あなたという前例がいたから、そういう発想が出たのねぇ」
「ああ、その通りよ。あの男は愚かだが、おかげで、好きにさせて貰っている。剣の腕を磨く時間もたんまりとな!」
剣と剣が押し合っている様に見えるその光景であったが、突如、トーベンの曲刀が歪んだ様に見えた。
それは錯覚か、それとも実際の質量を持っているのか。
ただ、ぶつかり合っているはずの剣だと言うのに、トーベンの曲刀だけが、レイリアの皮膚を切り裂いたのは事実だ。
「あら、まあ」
咄嗟にレイリアは引き下がった。ぶつかり合った状態からの逃避は、相当に難しいと聞いたが、それでも何の気無しにやってしまえる技能がレイリアにはある様子。
しかし、それでも怪我をしたのは彼女の方。手からは血が流れている。
「剣士である以上、力の剣を俺も持っている。少々、癖の悪い奴だが……使いこなせているよ」
「邪剣と言ったところかしらね。それなりの修練は積んでいるみたい」
「腕を磨く時間はあると言った!」
引いたレイリアに向けて、さらに接近するトーベン。曲刀を振るのではなく突き出しながらの接近だ。しかし突き出されたその曲刀は直線を描かず、蛇の様に曲がりくねった。
再度、相手の剣を剣で受け止めようとしたレイリアであったが、それを避ける様にうねる曲刀が、レイリアを少しずつ傷つけて行く。
(先生が……押されている?)
接近するのは危険だと判断してか、レイリアはさらに後方へと逃げていた。
傷つき、下がるレイリアの姿を見たのは、ライツにとって初めての事である。
「ははっ。どうして通用するではないか。俺の腕も捨てたものでもあるまい? それとも、そちらが名ばかりだったか?」
「腕は落ちているわねぇ。見ての通り、ただの婆なの。期待通りには応えられないかもしれないけれど……」
レイリアは追い詰められている。ライツにはそう見えたし、実際、トーベンは攻撃を仕掛けながら、レイリアを壁際まで誘導していた。
そこからレイリアがどう動こうと、トーベンへ近づく事しか出来ないだろうし、その瞬間をトーベンは狙っているはずだ。
となれば、この状況、蚊帳の外に置かれたライツがどう動くかで―――
「ライツ。止めておきなさい。あなたは、こういう場面でも動ける子だって知っているけれど、剣士の力をあなたはまだ良く知らない」
ライツがどうやってかトーベンに隙を作ろうと意思を固めた瞬間に、レイリアの声によって動きを止められた。
「けど、先生……」
「あなたの先生を信じなさい。婆ではあるけれど、目の前の若造一人、なんとかできるくらいの歳は食ってるわ」
「言うではないか。そうでなくては……なっ!?」
トーベンの表情が驚愕に染まるのを見た。
レイリアが手に持った剣を投げたのだ。トーベンへと一直線へ向かうその剣は、慣れていなければできない程に鋭く飛ぶ。
「そのよう……な!?」
先ほどから、トーベンは驚いてばかりいる。
だが、投げられた剣を弾いたと思えば、その剣が軌道を変えて、今度は横振りに襲い掛かって来たとなればそうもなるだろう。
そのタネを知っているライツにしても、しっかり驚いているのだから仕方ない。
(剣は……細い紐で繋いでいるとか言っていたけど……こんな使い方できるものなのか!?)
良く見れば、確かに日の光に照らされた細糸が見えた。レイリアはそれを手探り、手元の動きだけで剣を振り回していたのだ。
「くっ……誇り高き力の剣を! その様に使うとは……何事か!」
「これも邪剣? まあ、長く生きているから、そんな技術も身に付くわ。けど、これはそれほど制圧力のある使い方では無いから―――
レイリアの手を離れて動き回る剣に、翻弄されながらも憤るトーベン。
しかしそんな感情ですら、レイリアは受け流し、そうして剣をすぐさま手元に戻すと、一気にトーベンへと近づいた。
「駄目よ? 想定外の事が起こったとしても、ちゃんと相手を見つめていなければ、紳士ではない」
レイリアの手元に戻った剣は、そのまま、刃の部分がトーベンの首筋へと触れていた。
糸で振り回される力の剣に驚いて、気を散らしたのが運の尽き……と言う事なのだろう。
「一本取られた……ということか」
「婆の腕も、捨てたものではないでしょう? ねえ、ライツ」
「ええっと……訓練とか続けたところで、そういうのって出来る様になるんですか?」
「そこはあなたの頑張り次第ね」
頑張り次第でどうにかなるらしい。剣士の道と言うのは、想像以上に入り組んでいる様に思えた。
そうしてトーベンの方もまた、彼なりの剣士としての矜持が存在しているらしい。
彼は誰に言われるまでも無く、手に持っていた自らの剣を捨てたのだ。
「挑み、敗れた以上、どうとでもするが良い。無様に命乞いなぞせん。高名なるレイリア・ナスキートの戦い、しかと見せて貰った」
潔い。そういう部分は剣士らしいと思える。だが、どこか拍子抜けした思いをライツは抱いた。そこはもっとこう……まだまだやり様があるのではと思うのだ。
「いやあねぇ。若い癖に、生き汚く無いだなんて。悪いけれど、他人様の命をどうこうして責任取れるほど、老い先が長いわけじゃあないの。ごめんなさいね」
「っ……なんのつもりだ……慈悲心でも示したつもりか」
レイリアは既に、トーベンの首筋から剣を離し、鞘へと納めている。さらにはトーベンから視線を外しているが、そんな彼女にトーベンは食って掛かっていた。
「甘ったれない事ね。命を拾ったと思っているのなら、その命であの代理官に報告して来なさい。恨みで剣士を送り込んでくるくらいに恥をかかされたと思っているのなら、今回の事は秘密にしておいてあげるってね」
レイリアはトーベンに背を向けたまま、ライツの方までやってくる。このまま帰るつもりなのだろう。
「良いの? また襲って来たりは……」
「そうなった時はそうなった時。襲われる度に退ければ良い。けど、一度勝ったのは事実だから、今は宿へと帰るのよ。この場面、文字通り逃げる方が勝ちってところかしら」
どんな事をされたとしても、逃げる事にしたらしい。
(あれ? つまり、ここに来たのは、わざわざ相手の襲撃を狙ってたってことなのかな?)
トーベンが再度、襲ってくる事は無く、そのまま代理官の邸宅を後にするライツ達。
考える暇が出来たので、ライツはレイリアが何をしたくてここまで来たのを考え始めていた。
「代理官に会ったのは、その代理官に文句を言うためだったって事で良いんですよね?」
「まあ、それくらいしかしていないものねぇ」
「じゃあ、あのトーベンって人をわざわざ相手にしたのも、似た様な目的のため?」
だから、一度の勝利だけで目的を達成した様に逃げ出したのではないか。そう思えた。
「多分、彼が代理官の奥の手だと思うのよねぇ。出来ればその奥の手を、出来るだけ面目の方だけを潰さずに潰したかった」
「なんでまた、そんな面倒で回りくどいことを……意趣返しをする人じゃないですよね、先生は」
戦い方こそ邪道だって使う人だが、その本質は正の人であると、ライツはこれまでの事で十分に理解していた。
例えば今、邸宅を出た先にある道を歩いている際、ライツの様に家も碌に無くうろついている子どもを見ると、ほんの少しばかりであるが、顔をしかめる事が出来る人なのだ。
「だって、これで反省するかもしれないでしょう? あの代理官さん」
「反省するかもって……え? もしかしてそれだけのために来たの!?」
「言ってみればそうよねぇ。本人の悪い点を指摘して、尚且つ、本人にしか把握できない恥をかかす。そうする事で、反省し、行政をこれからはちゃんと省みてくれるかも」
頭が痛くなってきた。正道の人だと思ってはいたものの、言っている事は、夢物語みたいな物なのだ。
これが世間知らずの子どもならばともかく、人生経験豊富なレイリアの発言なのだから驚きだ。
「あのさ、そんな事で、あの代理官がちゃんと街を管理してくれるだなんて思えないんですけど?」
そんな殊勝な心掛けが出来る人間ならば、街の治安は現状よりもっと良いものであるはずだ……と、ライツは勝手に考えていた。
「そうね、その可能性の方が高いかもしれない」
「じゃあなんで―――
「けど、それで何かをしない理由にはならないし、もっと大それた事をする理由にもならない」
レイリアは足を止め、ライツを見つめて来る。何時も、大事な話をする時、彼女はこうやって目を合わせて来るのだ。
「ねえ、ライツ。私は剣士よ。世間で剣士がどう見られているかなんて事は関係無く、剣士と言うのは、剣を持って戦う者の意味。それ以上でもそれ以下でも無いの」
レイリアが腰に下げた剣の柄に触れる。ごく自然な、慣れ親しんだ動き。
その剣こそ、レイリアにとっては魂とか本質とか言えるものなのだろう。それを扱うから、彼女は剣士なのだとライツは思う。
「剣士だから……剣を使うしかしない?」
「そう」
「けど、文句も言っていた」
「そこは……人間だもの。口くらい出すわよ。目を瞑ってちょうだい。けど、それ以上はしない。できない。私は権力者でも無ければ、為政者でも無い。だから……口を出した後、剣を振って、それで終わり。その中でだけ最善を尽くすの」
例えば代理官に、大衆の面前で恥をかかせれば、それだけで代理官の威厳は失墜し、街は荒れる。剣で命を奪えばもっとだ。
一方、政治に口を出せる事なんて無いから、ただ文句だけ言い、本人の恥だけを促して、多少なりとも反省してくれればと考える。
彼女はそのためだけに剣を振るったのだ。
「なんだかその……すっげぇ回りくどくて面倒くさくて、見返りも少ない話ですよね、それ」
「そう。世の中、尊敬されているらしいけれど、剣士なんてそんなもの。だからこそ、才能がいるの」
「それが……僕にはあった?」
「ええ。出来る事を、出来る時に、出来る限りをする事。確かな才能よ。自分の命のために、自分の命を張る事が出来たあなた。それは剣の腕や経験より、余程大切なもの」
けれど、ライツは今の自分に、レイリアと同じような行動はできないと思えた。レイリアのやっている事が、どこか無為に感じられるからだ。
「けど……そうね。あなたにはまだ、足りないものがあるから……剣士にはまだ成れないわねぇ」
「確かに、足りないものはあるって思うんですよ。けど、それがさっぱりで」
レイリアの在り方を今回も見た。それを無為だと思う自分がライツにはある。だけれど、それ以上に、変わらず、レイリアに憧れてもいた。
「それはね、あなたが何をしたいかが、まだ定まっていないから」
「何って、そりゃあ……その、生きて……剣術を習って……」
「そう、そこからの話。そこが定まらなければ、次には進めない。それだけの事だから……多分、何時かは見つかると思うわ。願わくば、それが剣士らしいもので……いえ、あなたらしければ、別にそれで構わない。きっとね」
―――なら、あなたは何を求めて進み続けているのか。あの頃は、それを正面から聞く事が出来なかった。今にして思えば、後悔もしている。もっと話を聞いていれば、少なくとも、もう少し長く、あなたの後ろを歩き続ける事が出来ていただろうから。
訓練と厄介事と、それと偶にの成長。それらがライツの日常となりつつある日々。
何時もと変わらず、ライツは剣を振るっていた。相手も変わらずレイリアであり、幾度かの空振りが、これまた何時も通り続いていた。
(当たらない……事は分かってる。何で当たらないのかは考え続けているけど、それが分からないのも分かっている)
経験か、身体能力か。それとも、単なるライツの才無しか。
(どれもに理由がありそうだから、あえて当たらない理由は考えない事にしよう。なら……次はどうやって当てるかだ)
何時も通りでは駄目だ。それは分かる。何時も空振っているのだから当たり前の話である。
「どうしたの? 動きが鈍ってきているわよ?」
思考をすれば体が鈍る。しかし、考え無しでは何も出来ない。
「なら……こういうのはどうですか?」
ライツは姿勢を低くした。出来るだけ低く、這い蹲る程では無いが、左手を地面に付けなければ転びそうな程に低く。
その姿勢のまま、一気にレイリアへと接近した。転びそうになるから、さらに前へ前へと、焦る気持ちをそのまま動力源に。
「そのまま、まっすぐ?」
それでは駄目だと、レイリアからも言葉にされる。勿論、だからこそ次にどうするべきかを考えていた。
(いや、ちょっと違うな。そうすべきなんだ……)
何時もよりさらにまっすぐ。何時もよりさらに速く。
レイリアに接近するも、彼女の間合いに入れば、それでもそのまま叩かれるか受け流される。それが分かったから、ライツは地面を強く蹴り、自分の体を浮かせた。
「あら」
そう来るとは予想していなかったか。それとも、予想していた内の中では、意外なものだったか。
レイリアの反応の意図については分からないものの、こちらの考えだけは決まっている。
速度を足して、自分の体重も加えて、全力の一撃を加えようとしたのだ。
自分はまだ子どもであるが、速度も加味して全体重をぶつければ、おいそれと受け流す事はできまい。
ただ、真正直に突っ込んでいる事は変わらないため、簡単に避けられる。
(そんな事は承知してるからっ)
ライツの跳躍は、レイリアが半身をズラした程度で避けられた。そうするだけで避けられる。その程度の浅知恵であったのだ。
だが、浅知恵だからこそ、相手の行動はその程度で終わってくれる。ここまでもまた予想通りだったから、ライツは次の手を既に打っていた。
「そう、考えたのね」
跳躍が終わり、地面に足がついたその瞬間に、ライツは全力でその場で踏みとどまり、剣と腕のみを、レイリアがいるであろう後方へ、再度振ったのだ。
体全体や顔は動かさない。それを動かしている間にレイリアは避ける。だから最小限の動きだけを努めた。
結果、彼女の手の甲に、木剣を掠らせる事が出来たらしい。
「一歩前進、かしら?」
本当に、レイリアが反応していなければ、空振りだと思っていたであろうそれであったが、それでも、ライツにとっては成長を感じられた一振りであった。
レイリアがどうやって一撃目のフェイントを避けるのかは、予想と言うより勘に近い予測であったものの、運良く当たってくれた。
今はただ、それが嬉しい。思わず、強く手を握っていた。
「やった……やったぞ! 漸く、当てる事が出来た! うん、上手くやれたと思ったんだ。なんとなーく、バランスが崩れるって言うのか……隙? そういうのが見えて来た気がする。多分」
実際は、そんな隙を突いたところで、怪我すらさせられていないのであるが、それでも、ライツにはとても喜ばしかった。
一方で、ほんの少し、疲労の色が見えているレイリアであるが、彼女も嬉しそうな顔を浮かべてくれた。
「確かに、何かを掴んで来た動きではあったわねぇ。さっきまでの動きも、何時もより違っていたけれど、自分で考えたのかしら?」
「あれ? 駄目でした?」
訓練を続けている中で、自分にとって動き易い動きと、そうで無いものがあると気付いたので、今回はひたすら動き易いものばかりを選んで挑んでみたのだ。
結果は良いものと思えたのであるが、レイリアの意見はどうなのだろうか。
「いいえ、良いと思うわよ? そういう風に考えられるのも成長のうち。というか……向いているやり方というのは人それぞれだと実感させられる」
レイリアはそう呟くと、こちらへと近づき、ライツの二の腕に触れて来た。
「何です?」
「ちょっとねぇ……やっぱり、少しばかり独特な筋肉の付き方をしているわ、あなた。物心つく頃から走り回ってたと言っていたけれど、そのせいかしら」
「それって……駄目な事なんですか?」
「正しいそれでは無いわねぇ。けど、おいそれと矯正できるものではないし、さっきの動きも、こういう部分から来るものでしょうから……短所としてみるより、長所を伸ばす事で何とかしましょうかしら」
どうにも、ライツの今後について考えてくれている様子。こういう話にしても、自分が一歩前に進めた気がして嬉しかった。
「よし。じゃあ、今日の訓練はここまでにしときましょう」
「あれ? 何時もよりさらに短い」
「ちょっと考えたいところなのよねぇ。ああ、それと、お祝いでもしましょうか? 初めて、剣を私に触れさせた記念日」
「微妙な記念日ですよね。それって」
「良いじゃない。なんにだって記念すべき日というものはあるはずよ。あなたにだってあるでしょう? 誕生日とか」
「ええっと……」
どう答えたものか。確かに、そういう記念日ならライツとてあるのだろう。だが、何時かは分からない。
物心付く頃からの家無し暮らし。お前は何時、どういう場所で生まれたと教えてくれる相手はいなかった。
「あらまあ……不躾な事を聞いてしまったみたいね」
「ううん。良いんだ。昔はどうであれ、今は恵まれてるって思ってますし」
そこについては率直な意見だった。
屋根のある場所で寝泊りできる生活も、レイリアとの訓練の日々も、ライツにとっては素晴らしいと思えるものなのだから。
だが、レイリアの方は気にしてしまったらしい。
「そうねぇ……ああ、そうだ。今日の記念日、どうせなら、あなたの誕生日という事にしておかない? そうすれば、もっと嬉しい日になる」
名案だとばかりに、手と手を合わせるレイリア。かなり強引な話だなとライツは思ったものの、何より彼女が喜んでいる提案だったため、受け入れる事にした。
「じゃあ、今日は俺の誕生日って事で。何時もより早めの休憩ですけど、何します? また、どこかに喧嘩を売りに行きますか?」
「何時も誰かに喧嘩を売ってるみたいに言わないの。言ったでしょう? 今日はあなたの誕生日。なら、ケーキでも作ってお祝いしないと」
「ケーキ?」
「ケーキ、知らない? スポンジの上にクリームの乗った」
「店に飾られてるのなら見た事があります」
さすがに食べ物である事も知っている。
まあ、ちょっと前まで、パン屋や菓子屋の店頭に飾られている事が多かったから、そういうイミテーションだと思っていたものの。
「そう、じゃあ、とびっきりのを作ってあげる」
そう言うと、レイリアは宿のキッチンへと向かって行く。ライツはと言えば、彼女の勢いに、相変わらず振り回されるばかりであった。
―――あなたの事を知るにつれ、どうにも思うところが多くなって行った気がする。あなたのおかげで、記念すべき日になったその日は、その事に気が付く始まりだった様に思えた。もっとも、その時は、平穏な日常の一つでしか無かったのだけれど。
目の前には焦げたそれ。何が焦げているのかについて、ライツは分からない。多分、砂糖とかスポンジとか、卵とか、そういう類のものだと思われる。
それ以外のものである可能性も多いにあるものの、恐らく、きっと、キッチンでケーキを作ろうとした結果であるのだから、そのはずなのだ。
(もしかしたら火薬とか……そういうのが混じっている可能性はある)
宿のキッチンに誕生したその黒く怪しげな香りがするそれ。どうにも真っ当なものではあるまいとライツは評価していた。
が、それはレイリアがケーキを作ろうとして出来上がった結果だと思うと、世界の不条理というものを感じずにはいられない。
「参ったわねぇ。どうしてこうなるのかしら」
頬に手を当て、困り顔を浮かべるレイリア。その疑問は、ライツこそ言葉にしたいものであろう。
「振り返ってみましょうよ。何を……どうしたんです? あなたが作ったものですよ、これ?」
「そうなのよね。けど、体が勝手に動くから、まあ、それで良いかなと思って、流されるままに作ってみたのだけれど」
「お菓子作りを直感だけでするのはやめましょう?」
「だって、剣の扱い方は基本、そうしているんですもの……ああ、考えてみれば、ケーキなんて作ろうとした事自体が初めてかも」
「うわあ、知りたくなかったなぁ。なんでそれで、誕生日のケーキを作りましょうなんて話出来たんだろう?」
剣士とやらは、こういう理解不可能な部分を持ち合わせているものなのだろうか。
いや、きっと、レイリア特有のものであろうが、ここで剣士だからとかそういうもののせいにしなければ、ちょっと遣る瀬無いではないか。
「ほら、あそこで、誕生日を祝いたいけれど、ケーキとかクッキーとか、そういうの作れないから、干し肉を炙りましょう? なんて言えないじゃない」
「ここで黒焦げの何かを見るくらいなら、渇いた肉炙ってた方が良かった気もしますけどね」
それもそれだろうが、さっきまでの嬉しい気分とやらが吹き飛んでしまった気がする。ここから、どうやって立ち直れば良いのか。
「ほう、これは……まさか伝説の……!」
「伝説の、なんですか? フォリオさん」
キッチンの惨状を察してか、支配人のフォリオがやってくる。というか、彼は何かにつけて、レイリアやライツの会話に入って来たがるのだ。
支配人の仕事というのは暇なのだろうか?
「ふむ。まあ聞いて欲しいライツ少年。これは、剣士が過酷な環境で栄養を得るために、味と外観を犠牲にしてまで作り出そうとする剣士丸という―――
「そういうものは無いわねぇ」
「ええ、勿論ですとも。そんなものはない」
じゃあ、何で会話に入って来たとは言わない。
彼の管理下にあるキッチンに、料理と呼んではその概念を冒涜するであろう何がしかを生み出したのはレイリア側だ。
「はあ、分かりました。なんかそれっぽいもの、僕が作ります」
「おやおや、ライツ少年は料理がお得意なのですかな?」
「得意ってほどじゃあないけど、とりあえず、ある物で何がしか作れるくらいはできる。そういうの、すごく大切な事なんだ」
食べる物を得る事も、食べられる物を増やす事も、どちらも生きる上で必要な技能だったから、必死になって覚えた。
例えばここに、ケーキを作るために用意されたミルクがある。キッチンである以上は野菜類などの食材と調味料があるし、ケーキを作る予定だったと言うのに、何故か兎の肉もあった。それだけあれば十分だろう。
「あら、私も、トウモロコシを炙るくらいならできるわ」
「先生は炙る事以外も覚えてください」
鍋を選び、バターと油を適量。熱している間に野菜を切り始める等、シチューを作る用意をしていく。
凝ったものは作れないが、食材の屑などを利用する料理ならば、幾らでも作れる。実際に作った事が何度もあった。
そうしなければ飢えていたかもしれない。そういう事もある。
「確かに、シチューって誕生日の料理だと言えるかもしれないわ。できればケーキが作りたかったのだけれど……」
「さすがに僕もケーキなんて作れませんよ。だからケーキはお預けです。フォリオさんが作れるなら兎も角」
「はっはっは! 何を隠そうと私、刃物とか怖くて触れないのですよ!」
それでも宿の支配人が出来ているのだから、不思議なものである。何かこう……世の中の不可思議を見ている気分になってくる。
「それにしても……本当に手慣れているわねぇ」
野菜を鍋に投入して炒めていると、レイリアが羨ましそうに呟いて来る。
「料理が出来るのが、そんなに良さそうに見えます?」
「ええ、恥ずかしい話、料理を出来るというのが、とても羨ましく思えてしまうの」
「あー、確かに先生って、料理出来ませんもんねぇ。さっき知りました」
嫌と言う程。まあ、彼女の場合は代わりに、超人的な剣術の技能と、力の剣を操る立場があるのだから、そこまで人として駄目なわけではあるまい。
(そう言えば、何で先生は剣士なんかやってるんだろうね)
剣士と言えば、ライツが想像する限りにおいては男性がやっているそれという印象がある。
女性……それも老婆の剣士というのは、もしかしたらとても珍しいのでは無いだろうか。
「まあ、こんな歳で、まだ剣をぶら下げてふらふら旅をしている身だもの。あんまり、料理の練習とかした事が無いの。決して、嫌いなわけではないし、是非にしたいとも思うのだけれど」
「……」
ライツの偏見かもしれないが、女性なんて、だいたいは料理の練習とやらをする人生を送るのではないだろうか?
家事なんかもそうだろう。レイリアの物腰は上流階級のそれに思えるから、むしろ、一般人よりも多くの、女性的なそれを習っていそうにも思える。
だが、彼女はそうではない。ただ剣を振るい、さらに鬼の様な強さで剣を振るい、ただ剣士としてそこにある。まともな料理も作れないそんな身で……。
「人にはそれぞれ、得手不得手があるということでございますなぁ。かくいう私も、歌とか踊りとかはド下手でして」
「じゃあフォリオさんには特技なんてあるのかな?」
「いやはや、これは辛らつな。私とて、得意なものがございますとも」
何だろうか。彼の場合、タコの真似が得意とか言われれば、納得できそうな気もする。
「ふふふ、聞いて驚いてください。なんとわたくしめ、ドラゴンの真似が得意なのですよ! 腕を翼の様にばっさばっささせつつ、尻尾をどう表現するか、それが―――
「だいたい予想通りだったから、それ以上は良いよ」
別に見たくも無い。恐ろしく詰まらない絵面になるだけが分かっているのだから。それより今はシチュー作りであろう。
「本当、人には得手不得手があるわねぇ。あなたの得手は……案外、こういうものなのかも」
「だから料理人を目指せばどうかーなんて言わないでくださいよ。今は剣士に……なんて大それた事は考えてませんけど、先生に剣を習っていたいです。少なくとも……何か結果が出るまでは」
何かが終わるまで、何かを始められないのが人間というものだ。
少なくとも、始まったばかりの事を、潔く終わらせるなんて事、ライツには出来ない。
「結果が出るまで、何も変えられないって、辛いことよ、ライツ?」
「実感……ですか?」
「そんなところ」
それだけ答えてから、レイリアはライツが煮込んでいるシチューの方へと視線を向けた。話すのはそれまでだとでも言う様に。
「何かにつけて、深刻な話をしていますな、お二人とも。しかし、今大事なのは、その良い匂いのし始めたシチューが、これからどう美味しくなるか。そうでしょう?」
「もしかして、あなたも食べるつもりですか?」
「そのシチュー。二人分では多くなりませんかな?」
まあ、誕生日は大勢に祝ってもらった方が嬉しいかもしれない。今はそう思う事にした。
これから、レイリアの過去について知る機会は幾らでもあるだろうし。
―――その時はそう思い込んでいた。楽しい時間はこれからも続く。夢みたいな時間は夢なんかでは無いはずだと。けれど、その終わりの符丁は、もうその頃からあったのかもしれない。夢みたいな時間なんて無い。夢は何時か醒める。
「あなたの動き方……正道よりも邪道が合っている気がするのよねぇ」
何時ものと言えるまでになった中庭で、ライツがレイリアと木剣を叩き合わせていた頃。唐突に、レイリアがそう呟いて来た。
その頃には、十振りに一度くらいは、惜しいところを打てるまでになっていたと思う。まあ、そのうち、掠らせる事ができるのはさらに十回中一回程度ではあるのだが……。
「正面から剣を振っても、百回に一回、当てれるかどうかですもん。確かに、真っ当なやり方は向いてないのかな」
「その百回に一回が、バランスを崩した時とか、初手を間違えた時に出るから、やっぱり邪道向きねぇ」
つまり、まともな動きではまだまだと言う事だろうか。そんな事は十分に分かってはいるが、成長が無いと言われた様な気持ちにはなる。
「ああ待って。勘違いしないで。駄目と言う訳では無いのよ。そも、正道とは何か。それがあなたに分かるかしら?」
「ええっと……単純に強いこと?」
「ほぼ正解。もっと細かく言うなら、身体能力、技能、経験等、戦いに直結する部分。それらが優秀であろうとする事が正道と言ったところね」
想像し易い強さと言う事でもあるのだろう。残酷なそれでもある。例えば、用いる力が相手より劣っていたとすれば、それ即ち、完全な敗北を意味しているのだ。
丁度、ライツとレイリアの関係に近い。正道を進む限りにおいて、ライツは逆立ちしたところでレイリアには勝てないし、剣だって空振る。
「じゃあ、邪道はどう考えるかしら。もう分かっていると思うけど」
「そりゃあ、相手が隙を突いたり、そのために隙を作ったりっていう……狡い感じのやつです」
「それも邪道の一つ。もっと言うなら、邪道っていうのは、正道以外の方法の事を言うの。悪い事の様に言われるけれど、鍛えれば、戦い方の幅が広がる」
レイリアも、そういう技術を持っていると言う事。確かにライツ自身、レイリアがそういう、真っ当からは遠い剣術を使う姿を見ていた。
「そういう方向性が、俺には向いてるって事ですか?」
「勿論、正道を鍛える事も重要よ。けど、貫くよりも、邪道に走った方が向いていそうと言うか……自分では気づいていないだろうけれど、あなた、時々、とてもアクロバティックな動きをするの」
「アクロ……」
「独創的な動きと言うことね。予想し辛い。一見、失敗した動きと思いきや、そこから、そう繋げて来るかと驚く行動をしてくる。あなたがこれまでどう生きて来たかの縮図みたいな動きをするのよ」
「自分でも、追い詰められた時は、無茶してるなって思う時はありますけど……」
危険な状況から、どんな手を使ってでも脱しようとする。そういう経験ばかりを積んで来たからかもしれない。
向いていると言うのであれば、確かに向いているのであろう。
「今は咄嗟の、追い詰められたりした時にだけ、そんな動きをしているけれど、これからは意識してする様にしなさい。一歩、前に進めるかもしれないわよ」
「先生が言うのなら……はい」
剣士としての在り方なんて事を考える以前の立場であるライツにとって、特に拘りは無い。レイリアがそう言うのならばそうなのだろうとただ受け入れた。
むしろ、自分の在り方みたいな物が、こういうところから見えて来るかもしれないという期待が大きくなっていく。
「人に言われたからと言うより、自分での理解が大事な部分だから、素直に受け入れるのもどうかと……まあ、それもこれからの課題ね」
「そう言われても、自分の戦い方がどうとか、まだ、あんまり実感が湧かないです」
「そこなのよねぇ。まさか実戦に参加しろとも言えないし、あ、でも、色々と事件には巻き込んでしまっているかしら」
巻き込まれてしまっているし、逃げ回る事を実戦に含めるのならば、参加してもいる。
レイリアが守ってくれているとは言え、命の危険については良く経験している方だ。
「思うに、今のこういう状況がずっと続けば、多分、言われる通りにアクロバティックな感じになってしまいそうな気がしますね」
「そう? そうかしら? 何故だか恨みが籠っていそうな発言だけれど、そんなはずも無いわよね?」
そう思ってくれるならそう思ってくれて構わない。憧れと、この人、実は大分困った部分があるのでは無いかという新たな視点は両立するのである。
「でも、実戦で剣を振ったらどうなるかって気にがる部分はあります。それなりに出来るのか……それとも、さっぱりなのは変わらないのか」
前よりずっと強くなっている……と、自惚れるつもりは無い。
というより、培った慎重さのせいか、出来れば危ない事はしたくないという思いは今でもあった。
「こればっかりは切っ掛けが無いとねぇ……そうだ、また、どこぞのヤクザや街の代理官からの呼び出しがあったら、あなた一人で行ってみたりしない?」
「お断りします」
「こっそり隠れて見守るとか、してみたかったのだけれど……」
肯定すれば、本当にやりかねない人である。それくらい分かるくらいには、親しくもなって来ていた。
「ハッハッハ! 定期的にヤクザやお偉い様方が、ホテルへ喧嘩腰でやってくる事への、支配人に対する労りなども、考慮に入れて欲しい会話をしていらっしゃいますな!」
これも相変わらず、会話へ唐突に参加してくるフォリオ。この光景も、ライツにとって日常となりつつあった。
だが、近づいて来るフォリオはふと、怪訝な表情を浮かべた。
「おや? ミス・レイリア……何かその、何時もとは違っておられる?」
何時もなら、思いっきり近づいてきて喋り続けるところのこの男であるが、今日は何か、レイリアに対して違和感を覚えている様子。
「まあ、気付かれたのかしら。案外鋭いのねぇ。もしかして、支配人さんは武芸に多少の心得があったりするのかしら?」
「いえいえ、どちらかと言えば物を見る目の方が鋭いと自負しています。これでも商売人ですので」
レイリアとフォリオは、共通の認識を持って話をしているらしいが、ライツにはさっぱりである。
レイリアをじっくり見たところで、フォリオが気づいた違和感とやらがまったく分からない。
実はそれがかなり悔しかったりする。
「何かあったんですか? 先生」
「ええ、何かあってねぇ。どうしようかと思っていたところ。多分、代理官の邸宅で、曲りなりにも剣士と戦った結果だと思うのだけれど」
レイリアはライツへ示す様に、手に持った木剣をとりあえず地面へ置き、次に、腰に下げた自らの白剣を鞘から抜き放った。
何時もながら、美しいと思える白。太陽の光に輝き、その光りは刀身と共にまっすぐ……と、ここに来て、ライツも漸く気が付いた。
「ちょっと……刀身が歪んでる?」
微かであったが、芸術品とも言える美しさを持った剣が、その魅力を減じている様に見えた。
輝きを放つ刀身だからこそ、その僅かな歪みは、逆に目立っている様にも思える。
「ハッハッハ! まだまだ未熟ですな、ライツ少年! 私なぞ、鞘の上からでも判断できましたぞ!」
「ぐぐ……鞘の上からどう分かるんだって叫びたいけど、そう言われると自分が未熟な気がしてきた」
「まあ、気付けたとしても、直せなければどうしようも無いのだけれどね」
レイリアでも直せないのか。と思ったものの、当たり前の事である。剣士は剣士だ。鍛冶師では無いのだから、剣の不調を指摘されたところで、確かにどうしようも無い。
「まさか力の剣って、一度駄目になると、そのままなんですか?」
「それこそまさかね。そりゃあ特別な力はあるけれど、剣は剣。ちゃんと直せる技能を持った人間はいるの。ただし、この街にはいないのが問題」
つまり、剣を直そうとするのであれば、多少なりとも旅を覚悟しなければならないと、そういう事らしい。
「行ってらっしゃったらどうですかな? どれほどの期間が掛かるか分かりませんが、剣士の剣が万全ではないというのは、格好が付きませんでしょう」
「それはその通りかも……しれないわねぇ」
「えっ!? じゃあ、先生、この街を去ってしまうんですか!?」
だとしたら、自分はどうなるのだとライツは叫びたかった。ここまで来て、また、元の浮浪児に戻れと言うのか。そんな事、今では想像もしたくは無い。
まったくもって現金な話ではあるのだが、ライツはレイリアの存在を、既に家族に近しい相手として認識し始めていたのだ。
それを失うのは……とても恐ろしい事に思えた。
「まって、勘違いしないで。そのままどこかへ行くつもりなんて無いのよ。まだこの街で……やり残した事もあるわけだし」
それはライツの事か。それとも、別の何かか。
(どっちもだと……嬉しいんだけどな)
少なくとも、何か、ライツの訓練とは違った理由で、彼女がこの街へ来たであろう事は理解していた。彼女がヤクザ連中をいちいち叩き潰しているのも、それが理由であるとも。
「けれど、剣の調子が悪いというのも居心地が良く無いから、近くの鍛冶師がいる場所まで、ちょっとした旅をしようと思うの。ライツ、あなたも一緒にどうかしら。実を言えば、丁度良いと思うのよね」
「旅って……もしかして一緒に街を出るって事?」